もったいない、その後――紗央里の夫でしょ?ならウチの夫じゃん
朝飯を食べている時だった。
紗央里がトーストを齧りながら、何でもないことのように言った。
「今日、向こう行ってくるね」
「また?」
「うん」
それ自体は珍しくない。
紗央里は時々、「向こう」へ行く。
数時間で戻ることもあれば、一日いないこともある。
他の人間から見えなくなっている時とは違う。
紗央里は誰にも見えなくても、俺には見えるし触れる。
いない時は、本当にいない。
「何時くらいに帰る?」
「今回はちょっと長いよ」
「長いって?」
「何日か」
「そんなに?」
「うん。ちょっとたくさん溜まったから」
俺は箸を止めた。
「……何が」
「いろいろ」
「その『いろいろ』、最近ものすごく嫌なんだけど」
「大丈夫だよ」
「何が」
「ちゃんとしてくるから」
「何を?」
答えない。
隣を見る。
李菜が牛乳を飲んでいた。
俺と目が合う。
逸らした。
「おい」
「なあに?」
「今、目逸らしただろ」
「逸らしてないよ」
「逸らした」
「牛乳飲んでただけ」
紗央里を見る。笑っている。
李菜を見る。こっちも笑っている。
本当に親子だな、こいつら。
「李菜も行くのか?」
「うん」
「何しに?」
「向こうに帰るだけだよ?」
「帰るって言い方も若干引っかかるんだよな」
李菜は首を傾げた。
「お父さんも来る?」
「行けるのか?」
「まだ無理」
「じゃあ聞くな」
紗央里が笑った。
「そのうちね」
「行けるようになる予定なのかよ」
聞かなかったことにした。
その日の夕方。
仕事から帰る。
今日からしばらく一人だ。
少し前まで、それが普通だった。
好きな時間に飯を食って、風呂に入って、寝る。
誰にも邪魔されない。
そんな部屋を想像しながら玄関を開けた。
テレビの音がした。
「……ん?」
朝、消して出た。
リビングを覗く。
女がいた。
俺のソファでテレビを見ながら、俺のポテトチップスを食べている。
小柄だった。
よく焼けた肌。
明るい金髪は肩より少し長く、毛先が軽く巻かれている。
濃いめの目元。長い爪。黒ギャル寄り。
そして、小柄な身体に対して、胸だけは妙に大きい。
というか。
紗央里より明らかに大きい。
女が俺に気づいた。
ぱっと笑う。
「お、帰ってきた。おかえりー」
「……誰だ、お前」
「あ、ウチ亜矢。妻で、紗央里のダチな」
「…………」
今。
妻って言ったか?
「待て」
「ん?」
「誰の妻だ」
亜矢がきょとんとして、それから俺を指さした。
「夫の」
「帰れ」
「あはは。なんでだよ」
「初対面の女に妻を名乗られる覚えがねえ」
「初対面ではあるけどさー」
亜矢はもう一枚食べる。
「紗央里の夫っしょ?」
「ああ」
「ならウチの夫じゃん」
「ならねえよ」
「なんで?」
「なんでって、お前と結婚した覚えがない」
「紗央里とは?」
「……まあ」
指輪は渡した。夫とも言った。
法的には何一つ成立していないが、そこを突っ込むと話がややこしくなる。
「あいつとは、そういうことになってる」
「じゃ、一緒じゃん」
「何が一緒なんだよ」
「紗央里の夫なら、ウチの夫っしょ?」
「その理屈を説明しろ」
「理屈?」
「そこからかよ」
頭が痛くなってきた。
俺は菓子の袋を指さした。
「ていうか、なんで勝手に食ってんだ」
「いいじゃん。夫ん家だし」
「だから夫じゃねえ」
「細かーい」
「細かくない」
亜矢はけらけら笑った。
紗央里とは全然違う。
紗央里は静かで、短い言葉で当然みたいに意味不明なことを言う。
亜矢は軽い。よく喋るし、よく笑う。見た目も正反対。
なのに。
何となく、同じものを感じた。
「でさ」
亜矢が立ち上がった。
近づいてくる。
やっぱり小さい。
その分、さっきから嫌でも目に入るものがさらに目立った。
「……何だよ」
「紗央里、しばらく帰ってこないっしょ?」
「そう聞いてる」
「李菜もいないし」
「知ってんのか」
「そりゃ知ってるよ」
亜矢がにっと笑った。
そして、何のためらいもなく服の裾を持ち上げる。
「する?」
「…………」
「なに固まってんの」
「下ろせ」
「なんで?」
「なんでじゃねえ」
思わず目が行く。
亜矢が笑った。
「あ、見た」
「見せたんだろうが」
「好きっしょ?」
「目の前で出されたら見るだろ」
「紗央里よりデカいよ?」
「それは見れば分かる」
言ってから気づいた。
「分かってんじゃん」
「比較させたのお前だろ」
「でも好きなんしょ?」
「その話はいい」
「したくない?」
「……それとこれとは別だ」
「したいんじゃん」
「したいかどうかと、するかどうかは別なんだよ」
「なんで?」
「人間にはいろいろあるんだよ」
亜矢は全然分かっていない顔をした。
「てかさ。ひとりでされても、もったいないじゃんか」
俺は黙った。
その言葉だけは、聞き覚えがありすぎた。
最初。
逢魔が時。
耳元で聞いた。
――勿体ない。
あれが全部の始まりだった。
「……お前もそれ言うのかよ」
「何が?」
「いや」
亜矢は首を傾げた。
「だって、あれあると長生きできるしー」
「…………」
「なに?」
「もう死んでないか? お前」
「え?」
「怪異だろ」
「あー」
少し考える。
「まあ、そうとも言う?」
「言うんだよ」
「あはは。細かーい」
「細かくねえ」
「でも長生きは長生きじゃん?」
「死んでからの長生きって何だよ」
「知らん」
「お前が言い出したんだろ」
亜矢は笑った。
それから、ふと思い出したように言う。
「でもさー。最近、格がちげぇのよ。紗央里」
「……格?」
「そ。向こうで」
「前から?」
「いや。前はウチとそんな変わんなかったんだけどさ。最近マジで別格」
「どう違う」
「紗央里が通ると、みんな退く感じ?」
俺は想像した。
家ではソファに寝転がって菓子を食い、俺のポテトを勝手に取り、たまに天井で寝ている女だ。
「……想像できねえ」
「あっちじゃ結構すごいよ?」
「何したんだ、あいつ」
「知らん」
「ダチなんだろ」
「ダチでも全部は知らんって」
そこだけ妙に普通だった。
「でも、たぶん夫できてからじゃね?」
「……俺?」
「ほかに誰いんのよ」
「俺と一緒にいると格が上がるのか?」
「知らんって。ただ紗央里、めっちゃもらってんじゃん」
「何をとは聞かねえぞ」
「あはは」
亜矢は、にっと笑う。
「だから、ひとりで出してんのもったいなくね?」
「……ほんとにお前ら、それ好きだな」
「何が?」
「もったいないって言葉」
「だって、もったいないじゃん」
当然らしい。
亜矢はまだ楽しそうに俺を見ていた。
「じゃ、最初は胸だけでいーじゃん」
「何が『だけ』なんだよ」
「ま、お試しで! 胸でしてやっから」
「お試しって何だよ」
「飲むけどな」
「そこをさらっと付け足すな」
「あはは。いーじゃん」
「よくねえよ」
結局。
胸に負けた。
しばらくして。
亜矢は妙に静かだった。
「……何だよ」
少し考えるような顔をしている。
それから。
「あー、なるほどね」
「……何が」
「あー、なるほど」
「二回言うな」
俺をじっと見る。
何かを確かめて、納得した。
そんな顔だった。
「おい。何がなるほどなんだよ」
「紗央里が最近すげーの、ちょっと分かったかも」
「これで?」
「たぶんね」
「説明しろ」
「やだ」
「即答すんな」
亜矢はにやにやしている。
「てかさ」
「何だよ」
「夫になる前も、紗央里にこんな感じであげてた?」
「……まあ」
「どんくらい?」
「知らねえよ。最初は勝手に持ってかれてたし」
「え」
亜矢の笑顔が止まった。
「何だよ」
「いや、それ結構危なくね?」
「は?」
「よく生きてたね」
俺は固まった。
「……そんな危なかったのか?」
「だって、その頃まだ夫じゃなかったんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ一方的じゃん」
「何が」
「いろいろ」
「またそれかよ」
亜矢は少し考える。
「七回くらい?」
「最初はそのくらいだな」
「それ以上続いてたら結構ヤバかったかもね」
「死ぬのか?」
「ずーっとそのままなら?」
「疑問形やめろ」
軽く言うな。
「紗央里、加減してたんじゃね?」
「なら最初からそう言え」
「知らんって。ウチ見てないし」
亜矢は俺を見る。
「でも今は元気じゃん」
「妙にな」
「夫だからじゃね?」
「それで何が変わる」
「夫になった相手、弱らせっぱなしにしたらもったいなくね?」
「……またそれか」
「長く元気な方がいっぱいもらえるじゃん」
「お前ら本当にそれしか考えてねえな」
悪意はない。
たぶん。
そこが一番怖い。
「じゃ、ゴチ」
「は?」
「明日また来るわー」
「来るな」
「えー」
「今の話のあとでよくそんな軽く帰れるな」
「だって夫、もう大丈夫っしょ?」
「俺はお前の夫じゃねえ」
「紗央里の夫じゃん」
「だから何でそこから――」
「また明日なー、夫」
「帰れ!」
次の瞬間、消えた。
静かになった部屋で、俺はしばらく立っていた。
――それ結構危なくね?
――よく生きてたね。
あの頃。
紗央里はまだ、顔さえ見えない怪異だった。
俺が、
「もう、ここにいろ」
と言うまでは。
あのまま追い払おうとし続けていたら、どうなっていたのか。
考えても分からない。
本人に聞いても、たぶん答えない。
俺は風呂に入って、ベッドへ入った。
紗央里がいないせいで妙に広い。
目を閉じる。
少しして、今日の亜矢を思い出した。
小さい身体。焼けた肌。金髪。
そして。
「……あの乳、やべぇな」
誰に言うでもなく呟いた。
紗央里には絶対言わない。
いや。
あいつなら、
「でしょ?」
とか言いそうだ。
余計に嫌だ。
寝た。
翌日の夜。
玄関を開ける。
「おかえりー」
やっぱりいた。
俺のソファ。
俺のテレビ。
俺の菓子。
昨日よりさらにくつろいでいる。
「……本当に来たのかよ」
「来るって言ったじゃん」
「帰れ」
「えー」
亜矢は立ち上がる。
俺を見る。
笑う。
「もう一回、胸でしてやっから」
「何で決定事項なんだよ」
「昨日よかったっしょ?」
「……」
「あ、否定しない」
「うるせえ」
結局。
また負けた。
それで終わるのかと思ったら、亜矢がにやっと笑った。
「じゃ、下もお試しでよくない?」
「何が『じゃ』なんだよ」
「せっかくだし」
「何のせっかくだ」
「夫なんだし?」
「まだ認めてねえ」
「でも昨日もらったし」
「それと夫婦は別だ」
「人間めんどくさー」
聞く耳はなかった。
その夜は、二回だった。
しばらくして。
俺は隣に寝転がった亜矢を見る。
「……お前」
「んー?」
「胸だけかと思ったら、すげえキツいのな」
「んー? そうなの?」
「自分じゃ分かんねえのかよ」
「分かんないし」
亜矢は少し考えて、にやっと笑った。
「で、お試しの結果どーよ?」
「……何が」
「合格?」
「採点させんな」
「あはは。じゃ、良かったんだ?」
「その顔やめろ」
「合格じゃん」
「勝手に決めんな」
亜矢は満足そうに笑う。
「じゃ、明日から色々……な?」
「何する気だよ」
「色々?」
「疑問形で返すな」
「あはは」
嫌な予感しかしなかった。
そして、その予感は当たった。
亜矢はその後も毎日来た。
三日目。四日目。五日目。六日目。
「色々」と言った通り、本当に色々だった。
場所も、始める方も毎回違う。
俺から手を伸ばす夜もある。亜矢から来る夜もある。
そして、日が増えるたびに回数まで増えた。
それなのに、身体はむしろ前より調子が良かった。
紗央里と暮らし始めてから、俺は妙なくらい元気になった。
朝はすぐ起きられる。疲れも残らない。風邪も引かない。
だが、亜矢とこうなってから、それがさらに一段上がった。
身体が軽い。
仕事をしていても頭が冴える。
睡眠時間が多少短くても、翌朝には何ともない。
普通なら逆だろ。
初日の、
「あー、なるほどね」
を思い出す。
あの時、何かが変わったのかもしれない。
七日目。
玄関を開ける。
「おかえりー!」
亜矢が手を振った。
すっかり自分の家みたいな顔をしている。
俺は靴を脱ぎながら聞いた。
「今日、七回?」
「お、分かってんじゃん」
「分かりたくなかったよ」
「あはは」
亜矢は少し考えて。
「でもさー、風呂はなかなかキツかったな」
「……何の話だよ」
「この前の。夫、のぼせそうになってたじゃん」
「調子乗って長引かせたのお前だろ」
「夫も乗ってたじゃん」
「風呂で長時間は別問題なんだよ」
「人間、めんどくさー」
「お前が雑なんだよ」
亜矢がけらけら笑う。
三日目から六日目まで。
確かに、色々あった。
「で、今日は七回な」
「本当にやるのかよ」
「できるっしょ?」
「できるかどうかで決めるな」
「でもできるじゃん」
「……」
否定できない自分が嫌だった。
夕食を食べた。
風呂に入った。
今日は一人で。
そして。
七回。
途中から、どちらが始めたのかも分からなくなった。
俺が上になることもあれば、亜矢が上になることもあった。
その途中。
亜矢がふと俺を見る。
「なー、夫?」
「……何だよ」
「最初の時より強いんだけど?」
「知らねえよ」
「いや、絶対。初日と全然ちげーし」
「比較すんな」
「毎日一緒なんだから分かるって」
亜矢は面白そうに笑った。
「夫、どんどん元気になってね?」
「俺が聞きてえよ」
実際、その通りだった。
紗央里と暮らし始めてから、身体の調子は妙なくらい良かった。
だが、亜矢が来るようになってからは、それ以上だ。
これだけ続いているのに疲れが残らない。
むしろ初日より身体が軽い。
普通なら逆だろ。
「やっぱ夫だからかなー」
「まだお前の夫になった覚えねえぞ」
「でも元気じゃん?」
「それを根拠にすんな」
亜矢が笑った。
七回目が終わる頃には、さすがに二人とも静かになった。
「……七」
「七だなー」
「何でこんなことになってんだ」
「一週間記念?」
「何も記念してねえよ」
亜矢が笑う。
俺も、もう言い返す気力がなかった。
そのまま二人とも眠った。
朝。
目を覚ますと、隣に金髪。
「……なんでいるんだよ」
亜矢は布団を半分以上奪って寝ていた。
「んー……」
「帰らなかったのか」
「眠かった」
「怪異も寝るのかよ」
「寝るよー」
「今まで帰ってただろ」
「今日は眠かったし」
七日間。
日数と同じだけ増えていった。
合計を計算しかけて、やめた。
絶対に朝から考える数字ではない。
それなのに、今日も身体は妙なくらい軽い。
俺は起きて朝飯を作り、シャワーを浴びて着替える。
亜矢も途中で起きてきた。
髪はぼさぼさ。化粧も少し落ちている。
見た目だけなら、普通に泊まりに来た女だった。
「コーヒーある?」
「自分で入れろ」
「えー」
「妻ならそれくらいやれ」
言ってから止まった。
亜矢も止まった。
にやっと笑う。
「今、妻って言った?」
「言ってねえ」
「言ったじゃん」
「聞き間違いだ」
「夫ー」
「うるさい」
完全に失敗した。
出勤の時間になった。
俺が玄関で靴を履くと、亜矢もついてくる。
「お前どうすんの」
「向こう戻る」
「消えればいいだろ」
「今日は一緒に出る」
「なんで」
「なんとなく」
怪異のくせに、そういうところだけ妙に気分で動く。
二人で廊下へ出る。
朝から金髪の女と部屋から出てきた。
近所に見られたくない。
そう思った瞬間。
「大丈夫だよ」
「何が」
「今、ウチ見えてないし」
「先に言え!」
「夫には見えるじゃん」
「だから俺だけ一人で喋ってるみたいになるだろ」
「あー、紗央里もそれ言ってた」
「あいつ何を共有してんだよ」
亜矢が笑う。
建物の外へ出た。
「じゃ、ウチこっち」
「向こうに帰るのか?」
「うん」
「紗央里に会う?」
「会うかも」
「だったら――」
言いかけて止まる。
何を言わせればいいのか分からない。
亜矢が笑った。
「じゃ、夫。またなー」
「また来る気か」
「そりゃ来るっしょ」
「来るな」
「無理じゃね?」
「なんで」
「妻だし」
「違う」
「あはは」
手を振り、そのまま亜矢は消えた。
その日の仕事は普通だった。
帰り道、一週間ほど家を空けた紗央里のことを考える。
李菜も一緒だ。
今日帰るとは聞いていない。
それでも、何となく今日はいる気がした。
玄関を開ける。
「おかえり」
紗央里がいた。
いつものソファ。その隣には李菜。
「おかえり、お父さん!」
李菜が走ってくる。
「ただいま」
自然に答えて、頭を撫でる。
もう完全に慣れている。
「向こう、どうだった?」
「楽しかった!」
「何してた?」
李菜が紗央里を見る。
紗央里も李菜を見る。
「いろいろ!」
「お前までそれ使うようになったのか」
嫌な教育だ。
紗央里を見る。
特に変わったところはない。
「おかえり」
「ただいま」
紗央里が笑った。
その顔を見て、何となくほっとする。
少し悔しい。
「長かったな」
「うん」
「たくさん溜まってたやつは?」
「ちゃんとしてきたよ」
「だから何を」
答えない。
いつものことだ。
鞄を置くと、紗央里が俺を見る。
「亜矢、来た?」
「……知ってたのか」
「うん」
「来ること?」
「うん」
「毎日?」
「うん」
「なんで言わなかった」
「聞かなかったから」
またそれだ。
「亜矢が自分を俺の妻だって言ってたぞ」
「うん」
「うんじゃねえ」
「妻だよ?」
「お前も認めるのかよ!」
李菜が俺と紗央里を見る。
「お父さん、妻増えたの?」
「増えてない」
「増えたよ?」
紗央里まで言う。
「お前まで言うな」
「なんで?」
本当に分かっていない。
そうだ。
聞くことがあった。
「それよりお前」
「なあに?」
「亜矢が変なこと言ってた」
「何を?」
「夫になる前、お前に取られてたの結構危なかったって」
「うん」
「うん?」
俺は止まった。
「知ってたのか」
「何を?」
「下手したら俺、死んでたのか?」
紗央里は少し考える。
「ずっとだったら?」
「疑問形やめろ」
李菜が不安そうに見る。
「お父さん死ぬの?」
「今は死なねえ。たぶん」
「たぶん?」
「紗央里、お前ちゃんと説明しろ」
「今は大丈夫だよ」
「なんで」
「夫だから」
亜矢と同じだった。
「じゃあ『ここにいろ』って言う前は?」
「まだここにいなかったよ?」
「そういう意味じゃねえ」
「でも、ここにいていいって言ったでしょ?」
「……言った」
「だからいるよ」
「身体の話だ」
「元気でしょ?」
「そうだけど」
また、答えになっているようでなっていない。
「長く元気でいた方がいいでしょ?」
「誰にとって」
「みんな」
前にも聞いた。
同じ答え。
「……もういい」
「いいの?」
「よくないけど、お前に聞いても進まねえ」
紗央里は嬉しそうに笑った。
今は大丈夫。
それだけは、どうやら本当らしい。
そして紗央里は、いきなり話を変えた。
「亜矢、よかったでしょ?」
「そこ聞くのかよ」
「うん」
「普通、嫁が聞くことじゃねえだろ」
「なんで?」
「なんでって……」
怪異に人間の夫婦観を説明するのは、たぶん一日では終わらない。
「亜矢、身体小さめだけど、すごい締まるし」
「お前それ知ってんのかよ」
「うん」
「なんで」
「ダチだから?」
「その説明で納得できると思うか?」
紗央里が俺を見る。
「胸も大きかったでしょ?」
「…………」
「わたしより」
「……まあ」
「あ」
笑った。
「ちゃんと見たんだ」
「見せられたんだよ」
「よかった?」
「聞くな」
李菜が首を傾げる。
「何の話?」
「李菜は知らなくていい」
「おっぱい?」
「紗央里!」
紗央里が笑う。
李菜も笑う。
俺は頭を抱えた。
一週間ぶりに家がうるさくなった。
なのに、やっぱりこの方が落ち着く。
そう思った、その時だった。
玄関の方から声がした。
「ただいまー」
鍵も開いていない。
扉も動いていない。
廊下の向こうから亜矢が普通に歩いてくる。
「……お前」
言うより先に、紗央里が振り向いた。
「おかえり、亜矢」
「ただいまー、紗央里」
あまりにも普通だった。
「待て」
「なあに?」
紗央里が首を傾げる。
「今、おかえりって言った?」
「うん」
「なんで」
「帰ってきたから」
「どこに」
紗央里が床を指す。
「ここ」
「ここ俺ん家!」
亜矢が笑った。
「夫ん家じゃん」
「だからお前の家ではない」
「妻なんだから一緒じゃね?」
「一緒じゃねえ!」
亜矢は気にせずリビングへ入る。
李菜が顔を上げた。
「あ、亜矢」
「李菜ー。久しぶり」
「久しぶり」
普通に知り合いだった。
「……お前ら知り合い?」
「うん」
「いつから」
「前から」
「前っていつ」
「向こうで」
また向こうか。
亜矢は紗央里の隣へ座る。
「疲れたー」
「何してたの?」
「いろいろ」
「そっか」
会話が成立している。
俺には何一つ分からない。
「ちょっと待て」
三人が俺を見る。
「俺は知らない間に妻が二人になってんのか?」
「知らない間じゃなくね?」
「何が」
「ウチ、最初に言ったじゃん」
――ウチ亜矢。妻で、紗央里のダチな。
確かに言った。
「自己申告で妻になれるか!」
「あはは」
紗央里が俺の袖を引く。
「でも亜矢ならいいよ?」
「何が」
「一緒にいて」
「そこから確認する話なのかよ」
「嫌?」
俺は亜矢を見る。
もう俺の菓子を開けている。
七日間、毎晩来た。
飯を食った。
くだらない話をした。
朝まで一緒に寝た。
今朝には、一緒に家を出た。
そして今、当然みたいに帰ってきた。
「……嫌っていうか」
少し考える。
「勝手に俺の菓子食うのはやめろ」
亜矢の手が止まった。
「これダメ?」
「一個ならいい」
「やった」
「そこじゃねえ」
三人が笑った。
俺だけが笑えない。
いや。
たぶん、少し笑っていた。
その日の夕飯は四人だった。
俺。紗央里。李菜。亜矢。
いつの間にか食卓が一人分増えている。
「お前、今日帰るんだよな?」
「今日は泊まるー」
「誰が決めた」
「ウチ」
「帰れ」
「えー」
「いいじゃん」
「お前まで援護するな」
「四人の方が楽しいよ?」
「楽しいよ?」
三対一。
「……分かった。一晩だけな」
「やったー」
「夫やさしー」
「夫って呼ぶな」
「じゃあ旦那?」
「もっとやめろ」
紗央里が笑う。
「夫でいいじゃん」
「お前が言うと意味が変わるんだよ」
「同じだよ?」
「同じじゃねえ」
食後。
ソファに三人で並んでいる。
紗央里。亜矢。李菜。
ついこの間まで、家にいた怪異は一人だった。
それが娘になって、今度は妻を名乗る怪異まで増えた。
「……増えてるな」
紗央里が振り向く。
「まだ増えるよ?」
「お前は黙ってろ」
亜矢が笑った。
「なにそれ。ウケる」
俺はため息をつく。
その時、紗央里の左手が目に入った。
薬指。
俺が渡した指輪。
その隣。
亜矢の左手には、何もない。
亜矢は最初から俺を夫と呼んでいる。
でも、俺は一度も亜矢を妻だと認めていない。
そこだけは。
まだ一方通行だった。
「……しゃあねぇ」
「ん?」
亜矢がこっちを見る。
「亜矢」
「なに?」
「明日、指輪買いに行くからな」
亜矢が固まった。
完全に。
紗央里が笑う。
李菜が首を傾げた。
「亜矢も妻?」
俺は少し黙った。
これは亜矢に勝手に決められることじゃない。
紗央里に決めてもらうことでもない。
俺が決める。
「……もう、それでいいよ」
数秒。
亜矢は動かなかった。
それから。
「マジ!?」
「うるせえ」
「え、マジで!? ウチの!? 指輪!?」
「そうだよ」
次の瞬間、飛びついてきた。
「夫! 好き! 大好き! 愛してる!」
「分かったから離れろ!」
「マジ好き! やば! 愛してる!」
首に腕を回して、何度も言う。
いつもの勢い。
いつもの軽い声。
なのに、少しして。
「……愛してるとか」
急に声が小さくなった。
「ん?」
俺の胸元に顔を押しつける。
「生まれて初めてかも……」
少し黙る。
「生まれて初めて?」
「……うん」
「死んでるけどな?」
勢いよく顔を上げた。
「うっさい!」
「怪異だろ」
「こういう時に言う!?」
「事実だろ」
「マジ最悪!」
そう言いながら離れない。
むしろ腕に力が入った。
「夫! 好き! 大好き! 愛してる! ……ほんとに」
最後だけ、また小さくなる。
俺は金髪を軽く撫でた。
「明日、買いに行くんだろ」
「……うん」
「じゃあ、それでいいだろ」
「……うん」
紗央里が笑っている。
李菜も笑っている。
亜矢はしばらくくっついたままだった。
俺も今度は振りほどかなかった。
翌日。
本当に亜矢の指輪を買いに行った。
紗央里の時と同じ店ではない。
亜矢が駅前の店を見て、
「こっち見たい!」
と勝手に入っただけだ。
「これ!」
「早い」
「かわいくね?」
「もうちょい見ろよ」
「じゃ、これも!」
「増やすな」
紗央里とは全然違った。
紗央里は悩んで、何度も見て、最後は俺が選んだ。
亜矢は自分で次々試して、
「あ、これ好き」
で決めた。
細い金色のリング。
少しだけ装飾が入っている。
会計を済ませて店を出る。
「貸せ」
「ん?」
左手を取る。
薬指に通す。
ぴったりだった。
亜矢は自分の手を見たまま、珍しく静かになった。
「……どうした」
「いや」
指輪を見る。
俺を見る。
また指輪を見る。
「マジなんだなーって」
「昨日から何回確認すんだよ」
「あはは」
それから腕に抱きつく。
「ありがと、夫」
「おう」
「好き」
「知ってる」
「大好き」
「それも聞いた」
「愛してる」
「それも」
「何回でも言うし」
「好きにしろ」
亜矢は嬉しそうに笑った。
その日は四人で飯を食った。
亜矢は何度も左手を見ていた。
紗央里も時々その指輪を見て、笑っている。
俺にはただの指輪だ。
でも、この二人にとってはどうもそれだけではないらしい。
翌朝、亜矢はいなかった。
別に珍しくはない。
そのうちまた、
「おかえりー」
とか言いながら、勝手に菓子を食っているだろう。
そう思った。
三日。
来なかった。
五日。
来ない。
夕食の時、何となく口にした。
「亜矢、来ないな」
「うん」
「向こうにいるのか?」
「たぶん」
「友達なのに連絡取らないの?」
「会えば話すよ」
「そういうもんなのか」
「うん」
李菜も普通に飯を食べている。
二人とも気にしていない。
なら、俺が気にするほどでもないのだろう。
一週間後。
仕事から帰り、郵便受けを開けた。
白い封筒。
宛名はない。
差出人もない。
俺の手が止まった。
知っている。
これと同じものを、以前にも受け取ったことがある。
「……まさかな」
部屋へ戻る。
紗央里と李菜はテレビを見ていた。
何も言わず、封筒を開ける。
写真が一枚。
赤ん坊。
そして、その赤ん坊を抱いている女。
小柄な身体。
焼けた肌。
明るい金髪。
左手には、一週間前に俺が買ったばかりの指輪。
「…………亜矢」
写真の中で、満面の笑みを浮かべている。
その腕の中。
赤ん坊の顔を見る。
嫌になるくらい。
見覚えがあった。
無言で写真を裏返す。
鉛筆の文字。
な 前 かんがエテ
亜矢
しばらく、何も言えなかった。
見たことがある。
この文字を、ではない。
筆跡も違う。
でも。
この状況を。
俺は知っている。
あの日、紗央里から届いた写真。
赤ん坊。
写真の裏。
名前を考えてほしいという、あの文字。
「……またかよ」
背後から紗央里が覗き込んだ。
「あ」
「『あ』じゃねえ」
紗央里が写真を見る。
そして普通に言った。
「できたんだ」
俺はゆっくり振り向く。
「知ってた?」
「何を?」
「こうなること」
「うん」
「なんで先に言わねえんだよ!」
「聞かなかったから」
「何でもそれで済むと思うな!」
李菜がこっちを見る。
「赤ちゃん?」
「……そうらしい」
「亜矢の?」
「ああ」
李菜が嬉しそうに笑った。
「じゃあ、きょうだい増えたね」
俺は止まった。
写真を見る。
紗央里を見る。
李菜を見る。
そして、もう一度裏の文字を見る。
な 前 かんがエテ
亜矢
あの日、紗央里から届いたものとほとんど同じだった。
赤ん坊も。
名前を求める文字も。
女だけが。
違っていた。
亜矢、来ました。
最初から「妻」と名乗っていましたが、主人公も一週間かけて結局そこへ追いつきました。指輪まで買ったので、これで正式に二人目の妻です。
そして、めでたしめでたし……で終わるはずもなく。
また白い封筒が届きました。
中身は、またも赤ん坊の写真と「な 前 かんがエテ」。
ちなみに一週間で何回だったのかは、主人公と同じく計算しないことをおすすめします。
以前、紗央里は「全部が子どもじゃないよ?」と言っていました。
そして今回、写真に写っていた赤ん坊も一人だけ。
では、残りは何になっているんでしょうね。
たぶん紗央里も亜矢も知っているんでしょうけど、聞いたところで素直に教えてくれる気はしません。




