第3話 変化の理由
蒼の変化は、思っていたよりも静かに、そして速やかに始まった。
ドラマの撮影現場で、台本を読む蒼の目が変わった――と、助監督が言っていた。
芝居の入りが深く、役に自然と“なっている”ように見えた、とも。
「今日の蒼くん、すごかったよ。あの怒鳴り声、まるで本当に怒ってるみたいだった」
メイク室で共演者が笑いながらそう言ったとき、蒼は曖昧に笑って頷いた。
だけど――本当は、笑えなかった。
あれは“演じた”んじゃない。
あの時、自分の中に本当にあった怒りを“使った”のだ。
親への怒り、業界への苛立ち、自分自身への無力感……
遥に言われた通り、抑え込んでいた感情を引きずり出して、台詞にぶつけた。
「うまくやろうとしないで。うまくなるほど、嘘になるから」
遥の言葉が脳裏をよぎる。
それは毒にも似た甘さを帯びて、蒼を内側から溶かしていった。
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遥との会話は毎日のように続いた。
深夜のメッセージ、演技論の交換、時には短い通話。
「今日はどんな感情があった?」
「なにか“抑え込んだ”気持ちはなかった?」
「演技中じゃなくていい。日常の中に、本当の“役”の欠片がある」
その問いに答えるたび、蒼は少しずつ自分の輪郭を失っていった。
どこまでが“自分”で、どこからが“役”なのか、境界が曖昧になっていく。
でも、周囲はそれを「進化」だと呼んだ。
「蒼、最近演技変わったよね。まるで別人みたい」
「いや、むしろ“本物”になったって感じかな」
スタッフの言葉、共演者の賛辞、SNSの称賛。
誰もが蒼の変化を“正解”として受け止めた。
ただ一人だけ、それに違和感を覚えた人間がいた。
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「……なんか最近の蒼、怖いんだけど」
そう言ったのは、幼なじみの千夏だった。
「怖いって?」
「なんか……蒼じゃないみたい。
前みたいに自然に笑わないし、たまに“今、誰かになってる”みたいな目してる」
蒼は曖昧に笑ってごまかした。
「たぶん、役に入り込みすぎてるんだよ。
遥が言ってた。“役になるためには、自分を捨てる勇気がいる”って」
「はるか……?」
「この前、電車で出会った人。演技のこと、色々教えてくれてる」
千夏はぴくりと眉を動かした。
「ふーん。……その人、“演技の先生”なの?」
「大学生で、心理学とかやってるらしい。すごく頭良くて……俺のこと、見抜いてくる」
「見抜く?」
「“演技してるとき、苦しそうだった”って。……実際そうだったし」
千夏はしばらく黙っていた。
そして、いつになく真剣な目で蒼を見た。
「蒼さ……前から思ってたんだけど。
褒められると、安心しすぎるところあるじゃん」
「……なに、それ」
「だから、誰かに“これが正しい”って言われると、すぐそれに飛びつく。
でもさ、それってさ――“自分の演技”じゃなくなるってことじゃないの?」
蒼は返せなかった。
千夏の言葉は痛かった。だけど、耳が拒絶しきれなかった。
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その夜、遥との通話中。
蒼は、千夏の言葉をなんとなく伝えてみた。
「……千夏っていう幼なじみがいて。最近、俺の変化を心配しててさ……。なんか、“誰かの言う通りにしてるだけじゃない?”って言われた」
電話の向こうで、遥はしばらく黙っていた。
そして、静かに――まるで深い海の底から響くような声で言った。
「それは、“今までの蒼くん”が好きだったから、そう言うのよ。演技が上手くなることを、怖がってるの」
「……怖がってる?」
「あなたが“自分のまま”でなくなることが怖い。
だけどね――本物の役者は、“自分”を脱ぎ捨てて、何にでもなれる人。その先にしか、“本物の表現”はないのよ」
(本物の、表現……)
遥の声は不思議と優しく、説得力があった。
まるで、蒼が欲しかった“正解”を差し出してくれるような響き。
「もしその子が、あなたのことを大切に思ってるなら――本当にあなたのことを思ってるなら、演技の進化を応援するはず」
そう言われた瞬間、蒼は深く頷いていた。
(千夏は……俺の進化を止めたいだけ……なのか?)
遥が少しだけ笑ったような気がした。
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そして数日後、撮影現場の控室。
蒼がシーンを終えて戻ってくると、千夏が差し入れを持って来ていた。
「お疲れ。なんか差し入れあった方が元気出るかなと思って」
蒼は思わず口元がほころぶ。
「ありがと、千夏」
「……今日の演技、見てた。すごかったよ。
……ほんとに“役そのもの”って感じだった」
千夏は笑った。でも、その笑顔の奥に、かすかな悲しみがあった。
「でもさ、蒼。……それって、“すごいこと”なんだよね?」
「うん。……たぶん」
「そっか。じゃあ――“戻ってこれる場所”だけは、なくさないで」
その言葉の意味を、蒼はうまく理解できなかった。
けれど、どこか心にひっかかって残った。