第2話 静かな出会い
あの日、電車の中で言葉を交わしただけの女性。
なのに、その声、その言葉、その目線だけが、日を追うごとに蒼の中で色濃く残っていく。
「演技してるとき、辛そうだね」
「“自分を壊して、役になる”――そういう演技も、あるよ」
そんな言葉、誰からも言われたことがなかった。
「うまい」「天才」「才能がある」
――口をそろえてそう言われる中で、遥のそれは異質だった。
(……あれは、否定じゃなかった)
そう思った。
責めるでも、見下すでもない。
ただ“事実”として、心の内側を突かれたようだった。
蒼は、あの時のメモを未だに財布に入れたままだった。
『役になるんじゃない。自分を壊して、役になるの』
(……自分を、壊す?)
それは、正反対だった。
いま自分がしている演技は、「壊さないように」保つ演技だった。
間違えないように。失敗しないように。過剰にならないように。
安全で、うまく、傷つかないように。
けれど、遥の言葉の先には、もっと深く沈みこむ何かがある気がした。
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そんなモヤモヤした日々を過ごす中。
ドラマの撮影現場からの帰り。
夜の街を歩いていると、不意に聞き覚えのある声がした。
「やっぱり……あなたよね」
振り返ると、そこにいたのは――あの女だった。
長めの黒髪、整った輪郭の静かな顔。
相変わらず、感情をはっきりとは見せない。
「真木……遥。私の名前」
「……え?」
「前に、電車の中で。言いそびれたから」
彼女は、すっと近づいてきて、並んで歩くように蒼の隣に立った。
蒼は戸惑いながらも、彼女の歩調に合わせる。
「……今日、現場にいたの?」
「ううん。たまたま近く通ってたの。……というのは、少し嘘。本当は、あなたの演技を見てから、なんとなく気になって追ってた。ごめんね。怖かった?」
「……いや、怖いっていうか……なんだろう。驚いた」
「じゃあ、よかった」
彼女は、うっすらと笑った。けれどその笑みは、どこか無機質だった。
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二人は近くのカフェに入った。
深夜帯のせいか、店内は空いていて静かだった。
「……ねえ、蒼くん。今、どんな演技してる?」
「どんな……って言われても……」
「感情を“見せる”演技? それとも“なぞる”演技?」
「……多分、なぞってる……かな。監督が求める表情、セリフ、呼吸の間――全部指示通りにやってる。それが、正解だと思ってきたし……実際、それで評価されてきたし」
「でも、今の自分を“本当の役者”だって思える?」
沈黙。
蒼は答えられなかった。
遥はカップを置き、穏やかな口調で続けた。
「私はね、“上手い演技”って、全部嘘だと思ってるの。“本当の演技”って、自分の境界が壊れるような感覚のこと。自分と役が区別できなくなって、苦しくて、怖くて、それでも突き進んじゃう。……そういう演技はね、観る側の心も壊すの」
蒼はその言葉に、心がざわついた。
理解できるような、理解したくないような――でも、心の奥に触れてくる。
「……そんなの、怖すぎるよ」
「怖くて当然。でも、あなたはもう“そこ”に片足を突っ込んでる。だって、演技が楽しくないって感じてる時点で、もう……表面的なやり方じゃ満たされてない」
遥は静かにカバンから何かを取り出した。
それは、何冊かの古びた演技論の書籍と、1枚のノートだった。
「これ、貸す。私がずっと読んできた“演技の基礎破壊”のノート。読むかどうかは、あなたに任せる。でも……もしこれを読んで“怖い”と感じたら、それはあなたが“真実”に近づいた証拠だと思って」
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その夜、帰宅した蒼はベッドの上でノートを開いた。
そこには、遥の筆跡でびっしりと演技への哲学が書かれていた。
“他人の感情を真似るのではなく、自分の奥底から引きずり出す”
“共感ではなく、侵食――感情は憑依されるもの”
“自分の心を殺すことで、役の心が生まれる”
読み進めるごとに、蒼の呼吸が浅くなっていく。
(こんなの……普通じゃない)
でも、ページを閉じることができなかった。
なぜなら、そこには“自分がずっと感じていた違和感”への答えがあるように思えたからだ。
(もっと、深く演じたい)
(でも、それは“壊れる”ってことなのか……?)
遥の言葉が、またよみがえる。
「あなた、本当は“演じることが好きだった”でしょう?」
好きだった。
でも、それがいつからか“楽しくない”になっていた。
遥は、その原因を見抜いていた。
そして今、解決の“処方箋”を差し出している――
それが、毒かもしれないとわかっていても。
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数日後、蒼は遥にメッセージを送った。
「ノート、読みました。話、もっと聞きたいです」
送信ボタンを押した瞬間、
胸の奥に得体のしれない“期待と不安”が広がっていった。