沈黙の海月
これ↓ の短編です。
https://ncode.syosetu.com/n4584jl/
本編を読まなくとも、大体雰囲気でわかると思います。
もしよろしければ、お時間がある際にお読みくださいますと、私が大変喜びます。
八月某日、とある水族館にて。
青いライトに照らされた館内を、僕らは歩んでいた。
巨大な水槽を泳ぐ魚の大群を眺めながら、流れを崩さないよう前に進む。
照明は暗く、空調が効いているからか寒く、まるで海の底のよう。
けれど、手には僅かに温かみがあった。
ふと、僕は隣を見下ろす。
そこに居たのは、黒髪の小柄な少女。
腕も足も魚の小骨のように細い彼女は、上下左右前後、つまり、全方向に広がる展示に、思わず駆け出しそうなほど興奮していた。
『よくそこまで元気だな』と尊敬半分、呆れ半分で呟き、手に力を込める。
そうすれば、離れてしまうことはない。
僕の右手には、彼女の左手。
彼女の左手には、僕の右手。
目を背けたくなるような現実だが、僕らは確かに手を繋いでいた。
高校生である僕らは立派な思春期であり、ところ構わず手を繋ぐわけでも、手を繋いで恥ずかしがらないわけでもない。
相手が異性ならば尚更だ。
だというのに、現在このようなことになってしまっているのには、やむ終えない事情があった。
親子連れや友人連れでごった返す展示室。
平日だが、夏休み真っ只中ということもあり、どこもかしこも盛況である。
人混みで進みにくく、かと言って抜けようにも抜ける隙間がない。
すし詰め状態だ。
魚を見ておいて、自分が寿司になるのか。
そんな馬鹿げた思考は早々に放り投げた。
考えているうちに、人の波に流されそうだったからである。
水族館というのは基本順路があり、それに従って観覧するのがセオリーだ。
始まりから最後まで、個々によって時間は変わるだろうが、行く向きが変わることはあまりないと思う。
日本人の性質上、一度流れが出来れば、それに逆らうことはない。
作られてしまった波は、時間とともに強力になり、抵抗することも出来なくなる。
波に飲み込まれてしまえば最後、僕ら二人の合流は絶望的だ。
彼女の体調を踏まえると、それは絶対に避けなければいけない最悪のルートだった。
僕の連れである少女は、少々体が弱い。
立ち眩みや貧血はしょっちゅうで、頭痛や発熱だってかなりの頻度で起こる。
そんな彼女だが、何故か今日の調子はすこぶる良かった。
普段は汁物だけしか食べない朝食を、パンもサラダも平らげ、おまけにヨーグルトも食べ。
麦わらのキャペリンに、涼し気な白のワンピース、サンダルといった装い──彼女にとって最大限のおしゃれらしい──は、夏でも露出ゼロの制服と違い、前腕や首元を曝け出している。
いつもの『ザ・病人』の雰囲気はどこへ行ったのか。
現在の彼女は、言うなれば深窓の令嬢。
向日葵畑をはんなりと歩くような、儚げな少女であった。
しかし、それがいつまで続くかは不明だ。
もしかしたら、どこぞの配管工が囚われのお姫様を救うゲームの如く、一定時間だけの無敵状態なのかもしれない。
つぶらな瞳の星を食べたわけではないらしいが、それはそれで無敵の原因がわからないから困ってしまう。
何せ、原因不明は未来予測と対応準備を不可能にさせる。
結果がわかっているならばともかく、現在進行系のこの状態では、予測や対応をするための情報が不足し過ぎていた。
万が一に備え、道具自体は用意しているが、この人だかりだ。
倒れた際、適切な処置がすぐに出来るかは五分五分だろう。
それに加え、逸れたともなれば──その後は想像に容易い。
だからこそ、非常に不服ではあるが、僕は少女と手を繋ぎ、ともに歩む必要があったのだ。
病弱な少女の不測の事態に、即座に対応するために。
こんなことを言うと、僕らの関係を邪推する者が偶に居る。
男女であるし、相手は僕らのことをそれほど知らないだろうし、そう思うのも不思議ではない。
しかし、それは全くの嘘である。
僕も彼女も、主張はただ一言に尽きる。
「恋愛感情なんて一ミリもない。強いて言うなら、隣人だ」
と。
『友人』と言わないのは──いや、それを語るには少し時間が足りない。
あと百倍ほどくらいなければ。
そんなことを考えているうちに、僕は放り出されるように人混みから抜け出した。
力の方向は右側。手を繋いだ少女がいる方向。
よく考えなくても、原因は彼女であった。
「急にどうしたんだ?」
「これを見てくれ。綺麗だと思わないかい?」
僕が行動の真意を尋ねると、少女はある水槽を指差した。
円形の小窓から覗ける、青一色の世界。
それを埋め尽くすように存在するそれ。
扁平な半透明の体と、短い触手。
頂点にある花のような模様が特徴的なその生物の名は、『ミズクラゲ』。
夏の海ではどこでも見られるような、ありふれた海月だった。
「確かに綺麗だけど……そこまで反応するものでもないだろ」
「おっと、きみ。わたしが海に行ったことがほぼ無いことを忘れているな? 実物を見たのなんて、これが初めてなんだ。興奮するのは当然だろう」
まあ、やっと一息付けられる場所を見つけられたのもあるけれど。
一言付け足した彼女から手を離し、僕は周囲を見渡した。
ここは海月や海老、海星などの小型の海洋生物が纏めて飼育されている小広間で、順路からは若干外れている。
その分人も少なく、窮屈さはない。
やっと見つけた安寧の地に、僕は深呼吸をした。
小一時間ほど人波に乗って、疲れないわけがない。
少女も平気そうだが、確実に疲労は蓄積している。
おそらく、アドレナリンが分泌されることで感じにくくなっているだけ。
入り口で貰ったパンフレットを開き、指でなぞる。
もう少し行けば、食堂側に移れる道がある。
丁度良い昼時であるし、ここで休憩をしたら昼食を食べに行こう。
十二と一を指す腕時計から目線を外し、ポケットにパンフレットをしまった時のことだ。
それまで静かに海月を見守っていた少女が、ゆっくりと口を開く。
「ねえ、知ってるかい? 海月はね、中枢神経系──痛覚を得る器官が備わっていないんだって」
──何だか、羨ましいよね。
「……ああ、確かにな」
反射のように、僕は返答した。
海月には、脳は存在しない。
あるのは、散在神経と呼ばれる、体中に張り巡らされた神経のみ。
外界から散在神経へと刺激が与えられると、海月は動く。
そこに、思考というプロセスは存在しない。
つまり、すべて反射で動いているというわけだ。
感情もなく、意志もなく。
ただ碧の世界に揺蕩うだけ。
それはきっと、一種の幸せなのだろう。
不幸を知らず、無理に幸を求めず。
辛いことも悲しいこともない。
現状維持さえ出来ればそれで良い。
欲深い人間には不可能な『形』だ。
けれど、少しだけ。
僕には、わからないことがある。
それは、海月の『死』は、どんな意味を持つのかということ。
純粋無垢なまま過ごす、海月の一生。
その果てにはいったい何が存在するのだろうかということ。
だって、何も成していないのだ。
何も遺していないのだ。
あまりにも透明過ぎるそれは、この世界に存在していたことすら証明できない。
描いたキャンバスの上にジェッソをぶち撒けるように、すべてが無駄になる。
海月は、そんな終わりを認められるのだろうか。
そんな終わりに、納得できるのだろうか。
振り返れば、一体の──否、数十匹の海月と目が合った。
虚ろなその目は、僕に何も伝えてこない。
右手に、そっと細い指が添えられる。
「そういえば、海月の体の大半は水分で、死ぬと海に溶けて消えていくらしいね。……そろそろ動く時間なのだろう。さあ、行こうか」
僕の手を握って、少女は水槽に背を向けた。
絞り出した弱々しい返事は、君の耳に聞こえていただろうか。
視界の端で、一匹の海月が碧に溶けて消えていっていた。
ああ、そうか。
初めから、海月の『死』に意味なんて無かったんだ。
それらには、脳も思考も意志もない。
だから、意味を見い出せない。
海月に『死』を問うのは、間違っていたというわけだ。
けれど、もし。
星が生まれるほどの確率、天文学的な確率でそれらに意味が生まれるなら。
是非とも聞いてみたいものだ。
──『死』とは、何だろうか。
と。