私、玉の輿を狙ったのよ?
「私、帰るところがございませんの」
こんな馬鹿げた妄言に誰が付き合ってくれるだろう。
少し緊張した面持ちで袖を引っ張った相手は、フィリーネが勝手に見初めた婚約者候補ルーカスである。
しかしそう言えば、彼はこう応えるはずだ。
「え、そうなのか? それは大変だ。今日はうちの屋敷に泊まって行きなよ」
ルーカスはまんまるに目を見開いた。フィリーネより少し年下のルーカスは、あどけなさの抜けない少年のようだった。
事前に仕入れていた情報通り、困っている女性を放っては置けない性質らしく、手を差し伸べてくれる。優しいのか何も考えていないのか、少し心配になるほどだが、ひとまず胸を撫で下ろした。大成功である。
促されるまま公爵家の馬車に乗り込んだ。もしかしたらこんなこともあろうかと仲の良い従者を連れてきていたため、口止めと口裏合わせをお願いして帰らせた。これで三日は猶予ができた。
フィリーネは、ルーカスのこの優しさにつけ込み、どんどんつけ込み、そのまま恋人もしくは婚約者になってしまおうと考えていた。別に特別に愛されなくとも憐れみを感じてもらえれば、今と同等以上の生活ができるのではないかと思ったのだ。
公爵家なのだからきっとおかしな人間もそういないだろうし、財産だって豊富だろう。
まさか第一段階がこんなにも上手くいくとは思わなかった。
「あ、先に言っておくよ。あまり大きい家ではないんだが、それでも良ければ」
「滅相もございません! 本当にありがとうございます……!」
目の前に見える豪邸が公爵家だというのに何を言うのか。
フィリーネがこくこくと頷いたあと、連れて行かれたのは。
「えっと、物置き……?」
良くて山小屋。
板張りの壁と屋根。ドアと窓はあるようだが。鍵もかかるようではあるが。
「ここが僕の家だよ」
にこりと笑うルーカスにこれまでのような淑女の微笑みを向けることは非常に困難だった。
◆
自分の屋敷の花園が好きだ。
ガゼボでのティータイムも、料理長が作ってくれる焼菓子も。
父も母も、兄も。
自分好みに整えられた自室も。書庫や廊下の絵画も、すべて。
部屋のバルコニーから庭の手入れをする庭師に手を振りながら、フィリーネは一人、溜息を零した。
もうすぐ十八歳。もう子供だからとは言っていられない年齢になってしまった。
「私はここが好きなのよ」
ボーンハルーツ伯爵家に生まれたフィリーネは屋敷中から愛されていた。
伯爵である父は娘には甘く、いつも優しい。母は淑女とは何かを時々説きつつも、想ってくれていることが伝わってくる。兄もまた、少し歳が離れているからか、フィリーネを可愛がってくれた。
そんな屋敷だから、使用人たちも皆揃って優しく接してくれる。いい人ばかりなのだ。
「でも、ここはいずれ、お兄様のものになる」
家督を継ぐのは兄サムエルだ。
そうまもなく婚約者と結婚し、この家に義姉がやってくることになる。
面識はあるし交流もあるが、フィリーネだって矜持はある。
「お義姉様がお優しいからって、いつまでも私がここにいてはご迷惑をかけることになるわ」
そもそもフィリーネももう婚約者がいてもおかしくない年齢だ。
何度か釣書を見せられたこともあったが、ここから離れたくない一心で、舞い込む縁談はすべて断ってもらっていた。
しかしそろそろ大人にならなくては、とフィリーネは思い立つ。
「寂しいけれど、この家を出る準備をしましょう。まずは縁談相手を探して……」
探してもらえばいいとは思わなかった。
嫁ぐのなら、やっぱり、自分が良いと思った人で。
ボーンハルーツ家のみんなのように甘やかしてくれて。
この屋敷のように、自分が気に入った人でなくちゃ。
フィリーネは友人たちに手紙を書いた。
自分の髪の色と同じ、お気に入りの薄い桃色のレターセットにペンを走らせる。
手紙のやり取りだっていい、パーティーへの招待だっていい。茶会だっていいのだ。目ぼしい令息を見つけるべく、情報と人脈を得る。
そうして浮上してきた最適な人物——公爵家次男ルーカス・フェルリンデンだ。
聞いたところによると、どうやら婚約者はいないらしく、心根も優しいらしい。
跡取りではないが、公爵家だからきっと貴族名はもらえるはずで。だから彼と結婚できればきっと、今とはそう変わらない生活ができるのではないか、と言うのがフィリーネの考えだ。
「みんなの話だと、顔もいいみたいだし。一体どうしてまだ婚約されていないのかしら」
もらった手紙を自室の机上に並べ、ひとりごちた。小さく首を傾げる。
お金持ちで、顔も良くて、優しくて。
となれば、寄りつく女性も多そうなものだ。
「これは……やっぱり変わり者っていう噂は本当、ってことかしら」
伝手で知った情報だが、明日、ルーカスはとあるガーデンパーティーに参加するようだ。
これを聞いたフィリーネも参加することにしている。
ドレスや髪飾りも明日のために揃えてあった。慌てて準備したが、上出来だと思っている。
明日の決戦にそなえて、ごくりと喉を鳴らしたのだった。
◆
まずは人となりを見極めて、もしチャンスがあれば会話もできるといい。
この程度の気概で臨んだガーデンパーティーだったが、ルーカスの人気は思った以上だった。令嬢たちの壁が厚く、口を挟む隙間もない。
変わり者という噂にうっかり騙されて競争率は少ないと考えていたフィリーネは少し焦ってしまった。それがいけなかったのだろう。
パーティーがお開きになる頃、令嬢の壁がすっと引いたことを確認すると、チャンス到来とばかりに思わず突撃してしまったのである。
——その結果。
粗末な小屋で、粗末な茶を頂くことになってしまった。
無理矢理近づいた相手に不満を言うのは間違っていると理解はしている。
けれど、これが公爵家の家だと誰が思うだろうか。
カップに入った茶は斜めになっていて、テーブルさえも傾いていると証明している。
カップもまた欠けてはいないものの、細かいひびが入っていた。
「ええと? ご招待いただきありがとうございます?」
フィリーネは混乱した。
玉の輿を狙ってきた公爵家。訪れたルーカスの元。
こんな平民のような——それも田舎町の外れの——扱いを受けるとは思いもしなかった。
「いいんだ。困っている女性を放ってはおけない。帰るところがないということだったが、今日はゆっくりして、明日また考えよう。何か力になれることも……あまりないかもしれないが、もしかしたらあるかもしれないし」
頼りにならなさそうな言葉に不安を覚えた。
窓の外はもう暗くなっていて、小屋の中の揺れるランプでは心許ない。
「こんな狭い家だけれど、ちゃんと寝具はあるんだ。来客用」
「ほう、来客用」
寝具はある。だが見渡せど部屋はない。
実はこれは貞操の危機とかいうやつではなかろうか。一瞬芽生えた危機感も、すぐに消え失せた。
ガラガラと大きな音を立てて横から引っ張り出してきた衝立は、部屋の端から端まで届き、見事に部屋を真っ二つにしたのである。
「この衝立は動かすと大きな音が鳴るんだ。こっそり君に近づいたりは絶対にしないので安心してほしい」
「な、なるほど?」
安心させるために見せてくれたのだろう衝立をまたガラガラとしまって、ルーカスは椅子に座り直した。
表情はどう見ても善人のそれ。
いや、もしかしたら何か深い陰謀が。そんな思いもルーカスの邪気のない笑顔には毒気を抜かれる。
「あの、ルーカス様」
「なんだい?」
「ええっと、その、あの大きなお屋敷にはどなたが住んでいらっしゃるのでしょう?」
窓の外を指差せば、公爵家の豪邸が見える。
門の外からでも見える立派な屋敷だ。フィリーネもそれを目当てにやってきたくらいだ。間違ってもこんな小屋に用はなかったはずだ。
「ああ、公爵である父と、母と、兄が住んでいる」
「……ルーカス様は?」
「ここに」
「お一人で?」
「ああ。あ、使用人はいるんだ。掃除はしてくれるし、食事も運んでもらえるよ。不便なことがあれば教えてほしい」
すでに傾いているテーブルを直してほしいほどである。
引き気味のフィリーネに気づいた様子もなく、ただただ身を案じてくれる。これが変わり者のルーカス。数多の女性が近づいても一切興味を示さないくせに、家にだけは招待してくれる男。
人だかりを作っていた令嬢たちはおそらくこの家の状況を知っていて、だからこそパーティーが終わると一斉にいなくなったのだ。変わり者ではあるものの文句なしに美少年であるルーカスは、パーティーの間の観賞用もしくは興味のない男からの風よけ、だったに違いない。
なんと言おうか悩んでいると、コンコンと薄いドアから音がした。
「ルーカス様、お食事をお持ちいたしました」
入ってきた従者の身なりをした男は、食事を運んできたようだった。
しかし入ってくるなり、ぎょっとした。手元には食事が一人分。
「え!? また!?」
「またとは心外だな。それより食事をもう一人分、頼むよ」
その従者は気の毒そうにフィリーネを見た。
「良いところのお嬢様ではございませんか? それをこのような場所に」
「ああ、ボーンハルーツ伯爵家のフィリーネ嬢だ。しかしそうは言っても、僕の家はここで、僕が案内できるのもここだけだからなあ」
「…………かしこまりました。食事をお二人分、でしたね」
「頼むよ」
従者は持ってきた食事を一度下げると、しばらくして二人分の食事を手に、戻ってきた。
「では、ええと、何かございましたらお呼びください。何もない狭いところですし、大したおもてなしもできませんし、屋敷の門もすぐそこですので多少通りの音が響くかもしれませんが、どうぞごゆるりとお過ごしください」
フィリーネに向けて深々とお辞儀をしていった従者は、小屋を閉める際、頭を抱えていた。彼の態度を見るに、やはり人を家に連れてくるのは噂どおりよくあることなのだろう。
「では、いただこうか。大丈夫。こんな小さな家だが、食事だけは本邸と同じものだから」
促されて食べた料理は、本当に美味しかった。
周りの風景と全く合っていない、お洒落で手の込んだ盛り付けも施されている。口に入れた時にほどけるような肉のやわらかさ、鼻を通っていく香りに残る余韻。テーブルが傾いていることさえ忘れてしまうような素敵な食事だった。
食器も下げてもらい、満足げに寛いでいると、ルーカスはガラガラと衝立を引っ張り出した。
ようやく独りになれる時間が来たようである。衝立に隠れてしまえば、どっと力が抜けた。
「フィリーネ嬢、こんな粗末な家で申し訳ないね」
衝立の向こうでルーカスの声がする。
「いいえ。無理を言ったのはこちらですから」
「何か、聞きたいことはあるかい? 面と向かっては言いにくかったことでも」
そう促されて、思い浮かんだのはやはり、この小屋のこと。
「……どうしてルーカス様は、こちらのこや、いえ、別邸にお住まいなのです?」
「別邸ね、そうだね。気になるよね……僕が何と言おうと、本邸は兄のものだからさ、二番目の僕にはこの小さな家で十分。そんなところかな」
もしかしたら父と母、兄にルーカスは嫌われているのかもしれないとフィリーネは思った。ただ、立派な食事を出してもらえていることを考えると、それを外には知られたくないのかもしれない。社交界に顔を出すことは多々あるのだから、栄養が足りなくなっては誰かしら訝しむ。
それとも、早く追い出したいと思われている、とか。
そこまで考えてしまい、自分がルーカスを訪ねた理由を思い出した。胸が痛む。
「そう、なんですね。わかりました。……教えていただき、ありがとうございます」
「もういいの? 随分と控えめなご令嬢だ。……ではおやすみなさい、フィリーネ嬢。良い夢を」
そう言って寝入ってしまった。フィリーネからは衝立の反対側が見えないのでおそらくだが。
フィリーネは「ありがとうございます、おやすみなさい」と建前は零して。
用意してもらった布団の中で、頭を抱えた。
思っていたのとはずいぶんと違った。
公爵家といえば、あの豪邸で。あの豪邸では、もちろんこんなペラペラな布団ではないはずで。
どう考えても思い描いていたものとは違っていた。
見れば外へ出るドアは衝立のこちら側にある。そっと帰ってしまおうかとも思った。しかしその度に、帰ったところでまた目ぼしい婚約者探しをしなければいけないのよと脳内のフィリーネが引き留めた。
それに、思い浮かぶある考えが、よりルーカスへの興味が増す。
もしかすると、ルーカスはフィリーネと少し状況が似ているのかもしれない——屋敷にはすでに立派な跡取りがいる。この小屋を見る限り、自分よりはよほど悪い状況のようだが。
人をすぐに家に招くことも、もしかしたら人恋しいからだったり。
そんな差し出がましいことすら考えてしまった。
両親には友人宅で楽しくお泊りだと言ってあるはず。そんな口裏合わせをお願いした。
こんな機会はそう訪れない。もうしばらく様子見しようとギュッと目を瞑った。
窓の外からは、葉のざわめきと鳥の鳴き声がした。
◆
目を覚ますと見慣れない場所で驚いた。
そうだった。フェルリンデン公爵家にいるんだった。あの国内屈指の公爵家である。
ぐるりと見渡すと、隙間風の入る窓がガタガタと音を立てた。
コンコン。衝立からノックの音がする。
「おはよう。良く眠れただろうか」
「おはようございます。おかげさまで」
「えっ」
驚いた声とともに衝立がガラガラと音を立てた。
「いる……」
「はい? ちょっと淑女の部屋を覗くなんてあんまりではないですか?」
部屋とも言い難いし、無理やり泊めてもらった分際で言う台詞ではないけれど、慌てたルーカスは特に疑問に思わなかったようだった。
「これは申し訳なかった! 身支度ができたら教えてくれ」
「ええ、わかりました」
ささっと簡単に身なりを整えて、フィリーネは衝立を再び開ける。
質素な家に不釣り合いなルーカスが迎えてくれた。
「先ほどはすまなかった。返事があったことに驚いてしまって」
聞けば、泊めた女性たちはことごとく次の日にはいなくなったらしい。
フィリーネは、ああ……と同情めいたことを思った。
彼女たちもきっとフィリーネと同じく、玉の輿狙いだったのだろう。無理やり押し入ってみれば贅沢とは程遠い小屋で暮らしている。我慢ならなかったのだろうと想像がつくが、全員根性が足りなさすぎる。
「帰るところがない、と申しましたでしょう。ここを出てはまた彷徨わなければなりませんもの」
しれっと嘘をつくと、ルーカスは眉を大きく下げた。
「そうか。大変な思いをしていたんだな。今日からここを君の帰る家にしてかまわない」
え、いやだ。
本音が溢れそうになった口を慌てて押さえた。
「いいえ、ご迷惑ばかり掛けられませんから。ですが……もしよろしければ二日、三日ほど置いていただけませんか」
ルーカスは少し驚いたようだが、快く歓迎してくれた。
少しずれているところ——女性を粗野な家に招くというよくわからない変わり者ではあるが、やはり根本は優しい人物のようだった。
帰るところがない、というフィリーネの嘘も真剣に聞いてくれた。想像したとおり、彼に公爵家の力は使えないらしく、人脈も個人的なものしか頼れないとのことで、大した力にはならなかった。が、聞いてもらえるだけで救われることもある。
今のフィリーネは嘘だらけなので、聞かれたくないことも多々あったのだが。
家には居場所がない、その一点だけは通じ合えた気がした。
公爵家での時間は、のんびりとしたものだった。
誰かに何を言われるでもなく、何かをしなくてはならないわけでもなく、人に気を遣うわけでもなく。どう繕ってもただの小屋なのが大きかった。
あまり馴染みのない空間だったから、物珍しいものが多く、フィリーネはよく興味深げに辺りを見回した。そのたびに微笑んでこちらを見るルーカスが視界に入る。まるでここにフィリーネがいることが、それだけで嬉しいみたいに。
疑念は確信へと変わりつつあった。やはりルーカスは公爵家での立場は弱く、邪険にされているのだ。
◆
フェルリンデン公爵家にきてもう五日。三日を過ぎた時点でフィリーネはある疑問を持ち始めた。
どうして迎えが来ないのかしらと。
ガーデンパーティーから帰る時、仲の良い従者には三日と伝えてあった。その日数が自分に与えられた自由時間であり、ルーカスに嘘を吐いていられる期間のはずだったのだ。
友人宅でのお泊まりだと伝えた三日間、それを過ぎれば怪しまれる。過保護な父と母と兄は、必ず探しにくるだろう。
従者はフィリーネが誰といたのか知っていて、家族がそれを聞き出すことは造作もないことだ。
必ず、迎えがあるだろうと思っていたのに、未だ何の連絡もない。
「……おかしいわね」
「どうかした? 外が気になる?」
だからフィリーネの嘘は否応なく続行されている。
「いいえ、平和で何もなくて、このままでいいのかしらって思っただけなの」
狙ってきた玉の輿。
現状を見るに、このままここにいても叶えられる気がしなかった。
こんな小屋では、おそらく自分の部屋さえままならない。
ただ不思議と居心地は悪くなかった。だから逃げ出さずにまだここにいる。
傾いたテーブルも、少し苦いお茶も。ガタガタ揺れる窓ガラスと部屋を区切る衝立すら、ちょっと面白くて、ちょっと趣深くて、思った以上に愛着を持ってしまった。
それから、何もせずゆったりと流れる時間も、ふとした拍子に見るルーカスの微笑みも。
今もまたルーカスは穏やかに笑っている。それがなぜか気になった。
嬉しそうに見つめられるその奥で、何かを見定められているそんな気がして。
「……もしかして、何か、されました?」
だってやっぱりおかしい。あの家族が、五日も外泊を許してくれるなんてこと。
彼は一瞬驚いて、すぐにまた微笑んだ。
「——いいね、鋭い」
ルーカスの目は弾かれたように輝いていた。
慌てて詰め寄るフィリーネすら、嬉しくてたまらないといった様子で。
「何をしたんですか!」
「そんなにおかしなことはしていないよ。ボーンハルーツ伯爵家に手紙をね、送っただけだ。ほら僕の世話係の彼に頼んで。初日に彼がどこのご令嬢か聞いたろう? あれが合図。内容は、ただ事実を書いただけだ。フィリーネ嬢は我が家に招待中で、だが指一本触れることはしないから、安心してほしいと伝えておいた。心配するでしょう?」
「そんな勝手なことを!」
「うーん、嘘を吐いているフィリーネ嬢よりはよほど誠実だと思うけど。本当は帰る屋敷はあるんでしょ? ね?」
見抜かれた嘘に言葉が詰まった。
「え……いつから」
「知ってたかって? 次の日には知っていたかな。僕の世話係は優秀でね。さすがに女性をずっと泊めておくなんてできないからね。ちゃんとご家族に了承をもらわないと」
だから迎えがこない。全てに納得した。
怒りたいが、嘘を吐いていた手前怒れず、彼がしたこともまあ常識の範囲内。
「……申し訳ありませんでした。嘘を吐いて」
大きく深呼吸したのち、深々と頭を下げる。下を向いた顔はもちろん怒り心頭だ。
騙していたのね!
いえ、騙していたのはこちらなんだけど!
それにしたって嘘だってバレているならもっと早く教えてくれたっていいじゃない!
「……帰ります。ご迷惑を、お掛けいたしました」
行き場のない怒りと恥ずかしさとで目は合わせられなかった。
たった数日過ごしただけの粗末な小屋を、もう見ることはないかと思うと残念でもある。
自分の屋敷の花園が好きだった。
ガゼボでのティータイムも、料理長が作ってくれる焼菓子も。
父も母も、兄も。
自分好みに整えられた自室も。書庫や廊下の絵画も、すべて。
今はそれと似た感情を、この粗末な小屋に思うのだ。
フィリーネは気づくしかない、結局、慣れ親しみ居心地が良いものが好きなのだと。
そこには当然ルーカスも含まれた。
少しの寂しさを覚えつつ別れを切り出したフィリーネだったが、ルーカスの様子を窺うなりぎょっとした。
うるうるとした金の瞳がこちらを見ていて、今にも吸い込まれそうだ。
「僕を置いて行くの? 帰るところなんてないって言ってたのに?」
「え!? だから、それは嘘で」
「うん、だから本当にしたかったんだけど、やっぱりもう伯爵家に帰るのか?」
そういえば、ルーカスの公爵家での立場は悪い。自分がいなくなることで寂しい思いをするのはルーカスも同じなのだ。
少し考えたが、ルーカスのしょんぼりとした顔にはどうも弱いみたいだ。
嘘を吐いていたことも罪悪感を底上げした。
「……今度また、遊びにきてもいいかしら。お父様には謝らないといけないし一度帰ってから、すぐに」
「明日?」
「え!? ええ、明日。お約束いたしますわ」
ほっとしたようにルーカスが頷いてくれたので、フィリーネは屋敷に戻ることになった。
ルーカスの世話係だという従者の男が、気の毒そうにこちらを見るのが少し不思議だったが、父への謝罪を考えなければならないのですぐに忘れてしまった。
◆
久しぶりのボーンハルーツ伯爵家は、やはり居心地が良かった。
公爵家の馬車で帰ってきたフィリーネは、父と母、兄、そして大勢の使用人に出迎えられた。
随分と心配を掛けてしまったらしい。使用人の中で一番に駆け寄ってきたのは、口裏合わせをお願いした従者。彼には悪いことをしてしまった。特別手当をお小遣いから渡すことにして。
出迎えが終わるとすぐに、仕事部屋へ連れてきた父の顔は仏頂面だった。
同じ部屋にいる母もまた、それ以上に怒っていそうな気配がする。
外泊だもんね。淑女の嗜みには少々口うるさい母にとっては、耐えられないことだったろう。
「フェルリンデン卿から早馬がきたときには心臓が飛び出たぞ」
いきなりの父に、ただただ謝罪する。
「ごめんなさい。婚約者探しを、自分でしたかったの」
「その気持ちはわからんでもないが、黙っていなくなるのはやめてくれ、今後一切だ」
「はい……ご心配をお掛けしました。二度とこのようなことはいたしませんわ」
粛々と頭を下げると、娘に甘い父はこれ以上強くは言えなくなったらしい。
「いや、わかっているなら、いい。それで、フェルリンデン卿のところでは快適に過ごせたのか?」
「……ええ。まあ。当初思っていたより質素で、思っていた以上には快適でしたわ」
「…………本当か?」
「やだ、お父様ったら信じてくださいませんの」
「信じたいとは思っているが、嘘つきの前科もあるしな。我が家の快適さに慣れたフィリーネがそんなことを言うとは、と驚いているのもある」
娘の成長を驚く父の顔だった。
「……また、行くのか?」
「? え、はい。明日遊びに行くと、ルーカス様と約束しましたから」
「明日!? そうか」
父は諦めたような、口惜しそうな、愛おしむような、そんな顔を見せる。
「決して家を離れようとしなかったフィリーネが随分と急に大人になったものだ。だがな、いきなりの外泊など、フェルリンデン卿だったからこそたまたま無事だったようなもので」
「何も言わずに出て行ったのは悪いと思うけれど、ちゃんと連絡もしたでしょう」
「ああ、嘘のな」
お互いにふっと笑った。
母は眉間に皺を寄せているが、口を挟む気はなさそうだ。
「可愛いフィリーネがどこの馬の骨に連れて行かれるかと思うと胃が痛む」
「馬の骨って。会いに行くのは、ルーカス様よ?」
そんなフィリーネに父は苦虫を噛み潰した顔をした。
「く……! くれぐれも慎重にな。早まる必要はないぞ。ゆっくり大人になってくれればいいんだ」
「? 変なお父様。大丈夫よ、今度はちゃんと挨拶とお茶だけいただいて帰ってくるわ。もう勝手に外泊なんてしない。約束よ」
次の日も、喚く父をなんとか宥めて出立して、フェルリンデン公爵家へと訪れた。
門をくぐると、ルーカスと苦労性従者が出迎えてくれる。
「ほら! ちゃんと戻ってきた! フィリーネ嬢! おかえり!」
「ええ、ただいま戻りました」
満面の笑みで従者の肩を叩くルーカスに、挨拶をする。
突撃訪問ではないので、ちゃんと淑女らしく、美しくだ。
従者はどこか疲れているようで、やはり気の毒そうな目を向けてくるのだが、原因はすぐにわかった。
「フィリーネ嬢! よく戻ってきてくれた! 結婚しよう!」
「はい?」
ぎゅっと握られた手をまじまじと見つめていると、例の苦労性従者が止めてくれる。
「まずは婚約からですね、ルーカス様」
止めてくれている?
動じない従者に視線をやるも目は合わない。これ以上心労を増やしてくれるなということかもしれない。
ルーカスは握る手を離し、自身の胸に手を当てた。
「ああ、そうだったね。どうか僕と婚約してくれないか?」
その様は美しく、洗練されていた。が、突然すぎて頭には入ってこない。
「はい?」
「やった、はい、だって。聞いたかい? これでフィリーネ嬢と婚約できるんでしょう」
詳しく聞くと、ルーカスもまた婚約者探しをしていたようなのだ。
公爵家は関係なく、自分自身を見てほしい。
そんな理由から、屋敷中が引き留めるなか、一人小屋で生活を始めた。食事はどうしても同じものを食べてくれと両親に懇願され泣きつかれたらしい。愛する息子が急にボロい小屋で生活し始めたら泣きたくもなるよね、と同情した。
公爵家の人々に弾かれているわけではなく、自ら進んで入った粗末な小屋。さすが変わり者。
他にも色々思うところもあるが、そんな強い意志の元、選ばれたのが果たして自分でいいのか、フィリーネは首を捻りまくった。
「貴族家のご令嬢があんな粗末な小屋を見ても逃げ出さず、数日も過ごし、立派な家に戻ってもなお、律儀に約束を守り小屋に帰ってきてくれる。そんな貴族女性なんて、今後絶対に現れない。結婚してほしい」
と言うことだから、いいのだろう。(いいの?)
すでにボーンハルーツ伯爵家にも婚約申し込みの連絡はしてあるらしく、家を出てくる時の父の顔にようやく合点がいった。『公爵家での滞在中は、普通の貴族令嬢であれば耐えられないほどの質素なおもてなしだった。自分の屋敷に帰ってもなお、再び公爵家に遊びにくることがあれば、婚約の申し込みをしたい。また、フィリーネ嬢が是といえば、婚約を許可してほしい』といった内容だったそうだ。それを滞在二日目にして連絡してしまうのだから、ルーカスも必死の婚約者探しだったようである。
婚約者探しのための小屋暮らしだったため、もし結婚すれば与えられる別邸——立派な屋敷で、暮らすことになるそうだ。もちろん貴族名も受け継がれる。
狙いどおりの玉の輿。
上手くいきすぎていて少々不安が残るのは、気のせいだと思うことにする。
「大丈夫。何も心配いらない。これから絶対に僕を好きになるし、必ず幸せにするよ」
自信満々なルーカスには——そのそばで額を押さえる従者は気になるものの——やはり心地良さを感じるのだから。
お読みいただきありがとうございました。
こっそり腹黒。いつの間にか囲い込まれています!