第96話. 再来の精霊
――ノエルとカミュロが二人で会話を交わしていたその同時刻。庭の奥では茂みが死角をつくる静かな陰の中で、セシルが茂みに軽くもたれかかるように座らされ、目の前で行われていることを抵抗もせず、ただ静かに受け入れるような眼差しを向けていた。
「はいはい。じゃ、ちょっと診させてもらうぞ。変な誤解だけはしないでくれよなぁ?。」
軽口を叩きながらそう告げた男は、セシルの着ていたシャツの胸元に手を伸ばし、上の数個のボタンを器用に外すと、整えられた布の隙間から覗く、綺麗に手当てされた包帯の巻かれた肩へと視線を落とした。
「......あぁ、この状態なら。包帯は解かずに、このまま上から処置したほうがよさそうだな。」
ほんの数秒前まで軽薄に聞こえるほどの口調だったのに、男は一転して表情を引き締め、落ち着いた声で状況を判断しながらそう告げた。
そして、次の瞬間、自身の袂へ、スッと手を滑り込ませ、慣れた動作で小さな小瓶を取り出し、その中身を確かめるように光に翳した。
「ぇ......そ、それ......何の薬ですか......?」
セシルは、突然目の前に差し出された小瓶に本能的な警戒心を覚え、ほんの僅かに身を引きながら問いかけた。
「俺が調合したやつ。少し......いや、かなり染みるけど、市販の薬より効き目はずっといい。傷も綺麗に消えるから、ちょっとだけ我慢しててくれよ。」
男は、セシルが怯えや戸惑いを見せていることに気づいたのか、軽さを抑えて静かな声音に切り替え、安心させるように言葉をかけた。
その真剣な視線と言葉の調子が、先程までの怪しげな態度とは裏腹に、どこか本物の“手慣れた治療者”のように思えて、セシルの胸の奥にほんの少しだけ安堵の息を芽生えさせていた。
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――そんな絶妙な空気が満ちた会話が交わされる、ほんの数十分前のこと。カミュロからの手当ても着替えもすっかり済ませていたセシルは、魔獣との激しい戦いによって大きく地面が割れ、芝生には今もなお白い霜が降りたまま荒れ果てている庭へと、ゆっくりと足を踏み入れていた。
王国へ来る前にクロノスたちから贈られたレースの手袋や短剣を身につけながら、どこか心の区切りをつけるようにして、新たな気持ちへと静かに切り替えていくような面持ちでいた。
「ヒチチ!!」
すると肩に寄り添っていた小鳥が、小さな体を震わせながら甲高い声をあげた。その丸い瞳は、荒れ果てた庭を警戒するようにあちらこちらへと忙しなく動き続けているのに、セシルの事を気遣うように彼女の頬へ体をモフモフと優しく押しあてていた。
「ん〜、どうしたの? もしかして、心配してくれているのかな?」
セシルは少し目線を落とし、寄り添う小鳥を安心させるかのように穏やかに声をかけた。小鳥は彼女の頬に体をすり寄せるたび、微かな体温が伝わり、僅かに日が傾いた事で吹き始めた風の中でもその温もりだけがやけに鮮明だった。
「ふふっ......大丈夫だよ。万が一、また魔獣が現れたとしても今度は自分の剣があるから安心してね」
「ヒチっ♪」
セシルは柔らかく笑いながら、腰に下げている剣へとそっと手を伸ばし、その心強い存在を確かめるかのように鞘を優しく撫でた。
そしてそのまま指先を小鳥の胸元へ移し、羽毛を撫で返すようにそっと触れると、小鳥は気持ちよさそうに細めた瞳をさらに柔らかくし、その小さな体をセシルの指先へ預けるように寄り添ってきた。
セシルもその愛らしい反応につられて思わず笑みを零したが、すぐに表情を引き締め直すと、ゆっくりと視線を巡らせて再び庭全体を見回し、静かな空気の中に潜むわずかな異変すら見逃すまいと慎重に耳を澄ませていた。
(......ここに来れば何か手掛かりがつかめると思ってたんだけどな。そんな都合よく答えが転がってるわけないよね......)
心の奥で力なく溢れた呟きの背景には、中央の城での潜伏中にミメットから聞かされた、王の即位とほぼ同時期に、もともと仕えていた人々がまとめて姿を消した――という不気味な出来事があった。
ノエルやカミュロの扱いに見え隠れしていた“異常”とは別種の、より直接的な“被害”が実際に起こっていたと知り、クロノスの元へ戻る前に、自分にできることを少しでも探しておきたいという焦燥と責任感がセシルを動かしていた。
「ミメットさんが話してくれたことを手掛かりに、今のわたしができることといえば......精霊や歪みに関係ないからと、これまで見過ごしてきた違和感を一つひとつ拾い上げることくらい。そんな些細な違和感でも、王国に関わる異常へと繋がればいいんだけど」
自分自身に聞かせるように小さく呟くと、霜が薄く降りた芝生のなかで、まるで氷の花が群生しているかのようにひときわ綺麗に白く残っている場所の前で、セシルの足は自然と止まっていた。
(......ここだよね。わたしがカミュロさんの剣を借りて、あの魔獣を倒した場所は。身近な違和感として思い浮かぶことって言ったら、まずこれが一番なんだよね)
それは、魔獣の大群が押し寄せてきたあの混乱の最中、剣を持っていなかったセシルにカミュロが差し出してくれたレイピアを握り、親玉の魔獣へ渾身の力で斬りかかった瞬間に起きた、あの異変の中心地だった。
斬撃と同時にレイピアを起点として氷が爆ぜるように広がり、一帯を白く染め上げた出来事は、今も鮮烈な記憶として胸に刺さっている。
(剣から溢れたあの氷のこと......カミュロさんは、わたしの力が原因だと考えていた。つまり、あの剣自体にはもともとそんな力は備わっていなかった......ってことになる、よね)
セシルは、肩の小鳥に愚痴でも零すように「わたしの力じゃできないのよ〜」と小さく言いながら、そのまま氷の花へ触れようと身を屈めて指先を白く光る地面へとそっと伸ばしていった。
「......よく見ると、すごく綺麗に凍ってるね」 「ヒチッ」
触れた霜は、単に草の上に薄く降りたものではなく、芝生の一本一本を細工のように丁寧に凍らせ、透明な薄氷の膜で覆っているように見えた。
まるで意図して作り上げたかのような精緻さで、凍りついた草は僅かに硬く、しかし触れれば壊れてしまいそうなほど繊細さにセシルは思わず驚きながら、同調するように鳴き声を上げた小鳥へ語りかけていた。
(っ、そういえば......ミレイアさんの氷の力も、こんな感じだったような......すごく綺麗に凍っていたって言えばいいのかな.....?)
思い返されたのは、王国へ来た初めての夜、深夜の静けさの中でアリオナと呼ばれていた大きなカラスのような鳥に案内され、キッチンで出会った人物のことだった。
人間のものとは到底思えないほど大きくふさふさとした獣人の耳と尻尾を持ち、その姿だけでも印象的だったが、何よりも忘れられないのは、彼が口にした王国にまつわる数々の違和感と、それを語り終えた直後に見せた、不意に漏れた痛みの色を帯びた短い言葉だった。
その言葉とヒヤリとした感覚を撒いたのと同時に、彼の耳や尻尾は淡く透き通るような氷の結晶を静かに纏い始め、僅かに光を吸い込んではほのかに輝く姿が、セシルの目にも強く焼きついていた。
(氷の力か......同じ力を扱えるミレイアさんに聞けば、何かわかるのかな。 あ、そういえばミレイアさんと言えば......中央の城で働いているミメットさんは、もうとっくにエリスさんやミレイアさんと対面できてるのかな)
結局、この場所では求めていたような確かな答えに辿り着くことができなかったものの、そこで立ち止まっていても仕方がないと気持ちを切り替えるように、セシルは次に考えるべき行動へと意識を向け始めた。
あるいは、自分の知らない別の場所で抱えている疑念が、思いもよらない形で解決へ向かっているのではないかという淡い期待も胸の奥底で揺れており、視線をそっと伏せながら、やがて静かに立ち上がった。
「......うーん、どうしようかな。次に気になる点と言えば......ノエルちゃんのご両親のことと、あの武器に何か恩恵があるかって聞いたときにカミュロさんが黙り込んだことだね。 でも、隠しているような様子でもなかったし......やっぱり、踏み込むのがまずい話題だったのかな」
腕を組み、その場で思案を巡らせながら低く唸るセシルの肩では、小鳥がまるで相談相手を務めるかのように、うんうんと首を上下させながら同調していた。
しかし次の瞬間、小鳥は何かに反応したかのように急に動きを止め、視線を庭の奥へと素早く走らせると、セシルへ訴えかけるように甲高く鋭い声を立て始めた。
「......ッ、ピッピピッ!!」
「っ、どうしたの」
小鳥はセシルの肩から勢いよく飛び出し、彼女の目前に迫るようにして体全体をバタバタと使いながら、必死に何かを伝えようとしていた。
その異様な様子に、セシルは落ち着かせるように優しく声を掛けつつも、脳裏では“まさか魔獣が――! ”という危機感が緊張感とともに高まり、自身の剣の柄へ手を添えながら周囲の気配を鋭く探り始めていた。
――バチバチッ
「ぃッ......!」
だが、何かが弾けたような鋭い音が空気を割いた時には、すでにセシルの体中にビリッとした痛みが走り、思わず息を零しながら、その衝撃で一瞬にして後ろへよろめくように倒れかけていた。
(っ、攻撃された――?! やばっ、このまま倒れたら完全に不利になっちゃ――)
視界が揺れ、小鳥と自分の距離がみるみる離れていくなか、セシルは地面へ吸い込まれるような感覚に刹那で身構え、新たな襲撃者へ警戒を向けようとした。しかし――その直後、思いもよらない声が耳に届いた。
「やほ、お嬢ちゃん。癒しが欲しくてねぇ、つい会いに来ちゃったよ〜。」
「ッ、はっ。精霊の――!」
倒れ込む体勢のまま視界の端に映ったのは、王国へ向かう船の上で出会った、サングラスに胡散臭さ全開の佇まいで“本物の精霊の力を持っている”と豪語し、そのまま勝手に立ち去ったあの男だった。
驚きで声を上げたセシルは反射的に剣を構えようとしたが、それより早く、背後から伸びてきた腕が彼女の身体を後ろから抱きつくようにしてがっしりと捕らえ、その勢いのまま口元を塞ぐように手が覆いかぶさった。
「ン''ッ、ンンッ!!」
反射的に身をよじって暴れようとするセシルとは対照的に、剣で反撃されないようセシルの体をしっかり支えつつ、両腕を片手でまとめて掴み、さらに空いた手で口元を抑え込むという器用な動作を一息でこなしていた。
「はいはい。今回も何もしませんから、落ち着いてくださいね〜。それに......こちとら、カミュちゃんに見つかったら面倒なんだわ。」
「......ンムッ?!」
「ん。やだぁ、そんな熱い視線で見つめてきちゃって〜。」
セシルは、男の言葉の中に引っかかる響きを感じた瞬間、驚きに目を見開きながら勢いよく男の顔を見上げたが、彼はその視線を受け止めても微塵も動じる気配を見せず、むしろ口元を緩めてニマニマとしながら、からかうように肩をすくめてみせた。
そんな小さな攻防が続く中、空中をふわふわと漂っていた小鳥が一度まばたきをしてから静かに高度を下げ、羽音すら立てないほどの軽やかさでセシルの頭の上へそっと降り立ち、そのまま男の顔を真っ直ぐ見上げていた。
「えっと、視線が増えたな......なーに、この、かわいい子は?。」
男は小鳥の思いがけない仕草に、サングラスの奥に隠れた瞳を僅かに丸くし、ほんの一瞬だけ意外そうな表情を見せたが、すぐに飄々とした調子へ戻り、興味深げに小鳥をじぃっと見つめ返した。
「......っ」
一方、頭に小鳥が降り立った感覚を受け取ったセシルは、その存在に支えられるようにして僅かに冷静さを取り戻し、反射的に暴れていた身体の力を徐々に抑えていった。
しかし落ち着き始めた途端、体を動かした際、無意識に捻ってしまった肩にズキリとした痛みが走り、その鋭い感触に耐えるように小さく目を細めた。
「わりっ、苦しかったか......!。」
セシルの変化を敏感に察知したのか、男はセシルの身体を支えたまますぐに反応し、掴んでいた腕と抑え込んでいた口元から勢いよく手を離し、そのまま慌てた調子で声を投げかけた。
「......ッ、大丈夫ですので。とにかく、このまま離れてください......」
セシルは頭の上にいた小鳥を優しく片手で包み込んで肩に乗せ直し、痛む肩をかばいながらも男から距離を取ろうと小さく息を殺して離れようとした。
しかしその慎重な動きを見ていた男は、まるでその意図を即座に察したかのように「こりゃダメだな。」とでも言わんばかりの仕草で、そっとセシルの身体を持ち上げた。
「っ、きゃぁ。な、なにするんですか!」
「お嬢ちゃん〜、そういう“無理の積み重ね”がいちばん身体に悪いのよ。ほんとにね。ほらほら、治療してやるから大人しく捕まってな?今日は“お土産”も持ってきたし、そのまま連行しちゃうからね〜。」
子どもを諭すような優しい声色で語りかける男は、抱えられて一瞬おとなしくなったセシルへ軽くウィンクを送ると、そのまま城の中へ連れ戻す気配も見せず、反対方向――茂みが多く先の見えない庭の奥へと、ひょいひょいと慣れた足取りで歩き始めた。




