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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第94話. 娯楽の消費



——しばらくの時が流れたのち、セシルの処置を終えたらしいカミュロが、僅かに疲労の色を滲ませた表情で静まり返った廊下に姿を現した。


足音は決して重くはなかったが、歩みのひとつひとつに何か思い詰めたような静かな重みが宿っており、その背中には言葉にならない沈黙の影が纏わりついていた。


(......中央の城へ行ったあと、あいつは手当てを受けたと言っていた。けれど、本当にそれだけだったのか? 何か、俺の知らないことがあるんじゃないか......)


胸の奥に生まれたその思考は、疑念というよりも、むしろセシルを気遣うような温度を帯びていた。疑うためではなく、ただ心配ゆえに立ち止まる——そんな柔らかな痛みが、静かに彼の中で脈打っていた。


それでも、浮かんでは重なっていく思考を放っておくことはできず、カミュロはやがて顎に手を添え、考えを整理しようとするように小さく息を吐いた。


(それよりも今は......あの花模様のこと、そしてあの断片的な記憶。あれをこのままにしておくわけにはいかない。まずはノエル様に報告をしなければ......)


そう思い直した彼は、意識的に気持ちを切り替えるように顔を上げ、廊下を見回してノエルの姿を探し始めた。


焦燥とまではいかないが、内側には落ち着かない焦りのようなものが微かに揺れており、その表情には、自分自身を責めるような翳りが一瞬だけ差していた。


(やはり............記憶がない。何も、思い出せない。 俺は......どうやってここへ来た? ここで、何をして。どんな時間を過ごしてきた?)


胸の奥から零れ落ちるようなその呟きとともに、カミュロはようやくノエルがいるであろうとキッチンへと続く扉の前に辿り着いた。


長く伸びた廊下の静寂を背に受けながら、その取っ手にそっと指をかけた瞬間、まるで閉ざされた心の奥底から何かが逆流するように、強烈な衝撃が頭の奥を貫き、重く鈍い響きが脳内で怒鳴り声となって反響した。


(っ、余計な記憶を......違う、違う。......俺は、こんな価値のない記憶しか思い出せないのか)


自分自身を否定するように、深く傷ついた魂の奥底から漏れ出た呻きと共に彼が扉を押し開けるその動作は、ただ空間を移動するための行為ではなく、自らの心の奥深くに封じ込めてきた何かを解き放つような、重たく息苦しい決意を孕んでいた。


静まり返った空気がその瞬間僅かに揺れ、何か目に見えぬ境界が音もなく崩れていくような錯覚の中で、カミュロの胸の奥では、忘れ去ろうとしたはずの記憶の影が、静かに形を取り戻しつつあった。



◇◇◇



——十年程前。オルフィエラ王国から遥か遠く離れ、その名が届くことも滅多にない地にて。重厚な装飾が隅々にまで施された、まるで絵画の中のように豪奢な屋敷の一室は、薄暗く沈んだ光に包まれていた。


壁には古びた肖像画がいくつも掛けられ、香り立つ酒の気配と共に、部屋全体にはどこか優雅で気怠い空気が漂っている。


だがその静けさを破るように、鈍く重たい殴りつける音と、女性の叱りつけるような鋭い声が響いた。


「ちょっと、そんなに強く叩いたら可哀そうでしょ。顔に傷でもつけたら、あんたの方を殴るからね」


叱責の言葉は怒りよりも芝居がかった響きを帯びていたが、その声音の裏には微塵の感情も感じられず、優雅に片手でブラッシュ色の液体が入っているグラスを傾けていた。


そして、爪先に塗られたギラつくネイルが妖しく煌めいていたる指先をゆっくりと前へ伸ばし、気怠げな笑みを浮かべながら指を動かした。


その指の向かう先では、一人の男が拳を手の甲で拭いながら、冷ややかな眼差しを彼女へと向けていた。


「......この出来損ないは、我がイングレアム家の汚点だ。親として当然の矯正をしているだけだ。姉上こそ、余計な口出しは慎まれた方がいい」


「えー、そんな怖い顔しないでよ。その説教、もう聞き飽きたしィ」


低く抑えたその声には、噛み殺した怒りと吐き捨てるような侮蔑とがないまぜになり、熱を孕んだ重苦しい響きが漂っていた。


だが女は、その威圧的な声音にも微塵も怯む様子を見せず、むしろ愉快そうに艶めいた唇の端を僅かに歪めながら、手の中のグラスを軽く傾けては氷が触れ合う澄んだ音を楽しむように耳を澄ませた。


「とにかく。顔はあんたに似てなくて、ほんとに綺麗でしょ? 私好みなの。......そのうち、私の子を産ませてあげるんだから、壊さないでね?」


その女の言葉には、軽口のような軽薄さも、気まぐれな挑発の色も一切なく、まるで避けようのない未来を静かに宣告するかのような、歪んだ愛情のようなものが、じわりと滲んでいた。


その声音が男の耳に届いた瞬間、彼の肩がぴくりと僅かに動かすと、次の瞬間には男はゆっくりと視線を落とし、足元に伸びる薄暗い光の帯の中で震えている、小さな影のような存在を見下ろした。


「貴様......何ひとつ成果を上げてもいないくせに。姉上に媚びるような真似をして、恥ずかしくはないのか」


「ははっ。もう、そんな言い方したら萎縮しちゃうじゃない。もっと優しくしてあげなさい」


女が笑いながら氷の入ったグラスを揺らすと、澄んだガラスの中で氷が擦れ合い、カラン、と軽い音が室内に響かせながら、冷ややかに男の沈黙をあざ笑っていた。


一方の男は、まるで女の存在など初めからなかったかのように静かに膝を折り、影のように床に縮こまっていた小さな存在のもとへと近づいていった。


そして、躊躇というものを欠片も知らぬような動きで手を伸ばすと、まるで不要になった人形でも扱うかのように、容赦なくその腕を掴み、乱暴に引き上げた。


「聞いているのか。怯えることしかできんとは......本当に、血を分けた価値もない」


吐き捨てるように放たれた言葉には、軽蔑と諦め、そして見下すような静かな怒りが滲んでいた。


その視線の先で、男に掴み上げられた年端もいかぬ小さな少年が、殴られた腹を片腕で庇うように押さえながら、小さく震えていた。


「ぁ......ち、ちがいっ......も、もうしわけ——」


「許可なく声を発するな。その汚らしい泣き声で、この家の空気を穢すな。出来損ないがッ......貴様のような奴は、感情を表に出すだけで吐き気がする」


怒声が轟き、重く閉ざされた部屋の空気が震えたその瞬間、男は掴んでいた細い腕を容赦なく振り下ろし、少年の小さな体を床へと叩きつけた。


——ドカッ。


乾いた鈍音が再び鋭く響き、空気が震えると同時に、木の床へと衝撃が伝わり、壁に飾られた絵皿や燭台までもがかすかに揺れた。


泣くことも、声を発することすら許されぬその異様な空間では、少年の途切れ途切れの呼吸だけが微かに残り、まるで世界そのものが息を潜めているかのような、ひどく歪な静寂が訪れていた。


「イっタそー。内臓とか破裂させないであげてよね」


女の声は、表面上は咎めるように聞こえながらも、そこには一片の憂慮もなく、むしろ好奇心をくすぐられたような甘やかな愉悦の色が混じっていた。


そして、彼女はそのままゆるやかに手首を傾け、氷の入ったグラスを唇へと運んでいた。グラスの中で氷がゆるやかに回転させ、高く澄んだ音を立てながら、液体を喉の奥へとゆっくり流し込んでいた。


「......そういえばさ」


そして、何かをふと思い出したように彼女はグラスを軽く掲げ、ゆらりとした手の動きで残った氷を転がすと、軽やかで飄々とした口調で言葉を紡いだ。


「前、話に出ていた――あの“契約悪魔を連れた人”ってのは、いつ来るのよ?」


その言葉に、男は掴んでいた少年の腕から静かに手を離し、尚も床に転がったまま小さく呼吸を繰り返すその体を一瞥すると、靴の先で一蹴りを加えた。


ガツッっと鈍く短い衝撃音が再び床を伝って響きとともに少年の体が力なく滑っていく、その小さな体が壁際に止まった。


しかし、男はその光景に一切の関心を示さず、当然の仕草で乱れた服の裾を整え、襟元を指先で滑らかに撫でながら、感情の欠片も見せぬ無表情のままゆっくりと立ち上がった。


「姉上、言葉にはお気をつけ願いたい。 この度来日される御方は、人型の契約悪魔の中でも、忠実で非情な存在として知られている。軽口ひとつが、命を賭してもあがなえぬ過ちとなりかねない」


「......へぇ、いいじゃない。顔が良かったら、一晩くらいは使わせてくれないのかしら」


女はそう言って唇の端を上げ、手にしたグラスを軽く傾けながら、溶け始めた氷の欠片がコトリと音を立て、好奇心と退屈を紛らわす遊戯めいた表現を浮かべた。


「......契約悪魔様は既に仕える関係であって、契約者様の命を受けて動く存在だ。勝手な行動は、我が家系の位を貶めることになる」


「うっるさいわねぇ——あれは例の情報交換のための会談でしょう? 相手があっちの貴族だってだけの話じゃない。その間くらい、ちょっと借りたって罰が当たるわけないじゃないの」


男が吐き捨てるように言葉を放ったその瞬間、女の眉がかすかにぴくりと跳ねさせると、彼女は抑えきれぬ感情を爆ぜさせるように腕を振り抜き、手にしていたグラスの中身を勢いよく男に向かってぶちまけた。


溶けかけた氷の欠片が淡い光を散らしながら宙を舞い、小さな雨粒のように男の頬を掠め落ちようとした、その寸前――男の左腕が一瞬、衣擦れの音を伴ってしなやかに動き、身に纏った套を翻すようにして引き寄せた。


その一瞬の動作は、無駄がなく、次の瞬間には、部屋の薄暗い壁際で小さく身を縮めていた少年の体が、まるで見えない糸に引かれるかのように男の手によって強引に前方へと引きずり出された。


——バシャッ。


乾いた水音が空気を裂くように響き、女の腕から放たれたグラスの中身が弧を描いて宙を舞い、標的であった男ではなく、男の正面へと立たされ盾となった少年の頭上へと無情に降り注いだ。


冷たい液体は瞬く間に少年の髪を濡らし、頬を伝って細い首筋を滑り落ち、衣服の襟元へと染み込み、やがて床へと滴り落ちていった。


その一滴一滴が静寂を切り裂くようにぽたり、ぽたりと音を立て、部屋の中で小さな水輪を作りながら、鈍く反射する光がまるで部屋の呼吸のように震えていた。


「いやだ......カーペットが汚れるじゃない! 可愛そうに、べたべたするよね。大丈夫よ。特別に、私がその体を綺麗にしてあげるから」


その声には、優しさよりもどこか狂気じみた艶めきが混じり、その瞳はまるで自らの欲望という名の鏡を覗き込むかのように濡れ、光の粒を宿して揺れていた。


だが、少年はその視線を真正面から受け止めながらも、まるで心というものを奥底に押し殺してしまったかのように、何の感情も浮かべず、ただ静かに立ち尽くしていた。


そして、女が手を伸ばし、白い指先が少年の頬へと触れようとした、まさにその刹那――背後から落ちた影が、その瞬間のすべてを断ち切った。


ドシンッ。


鈍く重たい衝撃音が、床を震わせて空気をひっくり返した次の瞬間、少年の体は力なくうつ伏せに押し倒されており、その背中には黒い靴の底が冷徹に沈み込んでいた。


靴の主――背後の男は、まるで何の感情も伴わぬ動作で少年を踏みつけ、少年の体が床の染みと一体化していくかのように沈み込み、床に伝う液体がじわりと滲み、その中心で少年の指先が僅かに震えていた。


「姉上......ここにぼろ布があるから、これで十分綺麗になるさ」


「ちょっと、ひどいーん。せめて、この子の力でも使わせなよ。ほら、水の力なら、このくらい吸収できそうじゃない?」


軽口を叩きながらも、女はまた優雅に椅子へと腰を下ろし、グラスの中に残ったわずかな液体を揺らしては、残りの数滴を唇に含んだ。


その間も、男は少年の背を無言で踏みつけ続けるように足先に力を込め、ゆっくりと捻じるように押しつぶすたびに、床を這う液体が少年の服に染みながらも、その小さな呼吸の音だが遠ざかっていった。



◇◇◇



そんな過去の断片が、まるで波のように絶え間なく脳裏を掠めていくうちに、カミュロは気が付けばキッチンの扉を開け放ったまま、足を踏み入れることもできずにその場で苦しげに片膝をつき、今にも崩れ落ちそうな体を支えるようにしてしゃがみ込んでいた。


「............く、そ......」


思い出そうとしても蘇るのは、自分にとってとうに意味を失った、どうでもいい記憶の切れ端ばかり。それなのに――最も知りたいはずの、この王国へ辿り着くまでの経緯も、どのように日々を過ごしてきたのかという記憶も、まるで霧のように指の隙間から零れ落ちていた。


闇の中で手探りを続けるようなその感覚に、カミュロの中では次第に焦燥と苛立ちが膨れ上がり、行き場を失った感情が胸の奥で渦を巻いていた。

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