第92話. 親身な想いの先
――そうして城の中央まで足を運んでしまったセシルは、先導する犬に導かれ、どこか後ろめたさを拭えないままトボトボと長い廊下を進んでいった。
「......っ、あれっ。あの壁――」
歩を進めるごとに視界へ入ってくる壁の装飾や、通り抜けざまに視線をさらっていく窓越しの景色に、ほんの微かながらも見覚えが蘇りはじめ、帰って来れたという安堵が胸の奥に広がり、ほっと胸を撫でおろした。
「良かったぁ......無事に戻って来られた。思ったよりも時間、経っちゃったけど。ねっ?」
ステンドグラスを透かして届く光はなお鮮やかに床を染めていたものの、その色合いの淡さからはすでに太陽が傾き始めているのが分かった。
ミメットのもとで身を寄せた一時も、数刻前に魔獣の群れと渡り合った記憶さえも、まるで、遠い夢の残滓のように感じられてしまう自分に苦笑しながら、セシルは前を行く犬へ視線を落とし、小さく肩を竦めていた。
「......」
耳飾りを咥えて逃げた張本人であるその犬は、悪びれる様子など微塵もなく彼女の歩幅に合わせて軽やかに進んでいたが、時々だけ顔を振り返っては気まずさを装うように眉を下げていた。
その癖に、肝心の瞳だけはどこか澄ましたまま、妙に誇らしげな光を宿らせていたので、セシルは堪えきれずに口元を和らげた。
「ふふっ、一緒に帰って来れたし良しとしよっか。......とにかく、血を落とさないと、だよね」
視線を自分の服へ移せば、完全に乾いてこびりついた上着の血染みと、その下に広がったさらに酷い汚れが僅かに目に入り、目線を落としながら歩み続けていた。
だが、そんなふうに視線を落としたまま歩いてしまったがために、前方から差し込んでくる大きな影に気づいたのは、ほんの一瞬遅れてのことだった。
「? .........ぁ――」
その影に違和感を覚え、思わず顔を上げた瞬間、セシルは目の前に立ちはだかる人物の姿に小さく声を漏らした。
「か、カミュロ、さん......もしかして、探して......いてくれたんですか?」
そこには、腕を組み、仁王立ちのまま無言の圧力を放ちながら鋭いジト目をセシルへ向けているカミュロが、逃げ道を塞ぐようにそこに立っていた。
戦場で真紅に染めたシャツはすでに整った服装へと改まり、ベストに上着を肩掛けにして大人の余裕を漂わせていたが、その視線の芯はむしろ鋭く、セシルは反射的に背筋を伸ばした。
「......その状態で、一体どこをほっつき歩いていた」
「え、えと............」
低く抑えられているのに胸の奥深くまで響いてくる声の圧に、セシルはびくりと肩を震わせ、視線を泳がせながら指先を落ち着きなく突き合わせ、言い訳を探して言葉を詰まらせていた。
「......」
だが、上から降り注ぐ無言の圧は少しも弱まらず、逃げ場のない檻のように彼女の心を追い詰め続け、ついには耐えきれなくなったセシルが、顔を上げきれないまま、喉奥に貼りついた言葉を無理に押し出した。
「っ、その。......城の中央に行ってしまったのは、本当に......反省してます」
震える声には誠意だけはどうにか伝えたいという必死さが滲んでいた。
「......違う。俺が言いたいのは、そんなことじゃない」
カミュロは呆れに近い言葉を一つ吐くな否や、セシルが反応する隙も与えない動きで手を伸ばし、彼女の上着を躊躇いなく捲り上げた。
「説明を聞かせてもらおうか」
「ッ! ぁの、違います。これは――!」
無造作に捲られた上着の下に露わになったのは、本来なら白であるべきシャツ――だがそこに残っていたのは血が布へ染み込んでしまった生々しい跡がくっきり残っており、セシルは視線を右往左往させるしかなかった。
「......こ......これはっ、魔獣と戦った時の返り血で。 あ、いえ。ごめんなさい、違います......」
「......」
魔獣の襲撃後に、血に染まったカミュロのシャツを彼女が軽口で指摘したとき、彼が取り繕った常套句を真似れば今もごまかせるのでは、とよぎり口にした。
だが、目の前の青年は冗談を受け付ける気配もなく、その視線と上着を掴む力にむしろいっそう鋭さを増した事で、セシルは口から出た言い訳をすぐに撤回させた。
「言わないなら、俺が言う。――他人の傷まで背負う、その“自己犠牲の真似事”はもうやめろ」
「っ......」
言葉は容赦なく胸に突き刺さり、セシルは微かに息を呑んで、僅かな反発の意志を示すように掴まれた手を外そうとした。
だが、「逃がす気はない」というカミュロの意思のこもった指はびくともせず、彼女は視線を落としたまま、掠れる声でなお抗おうとした。
「そ、それは。ただのハイリ......じゃなくて、こちらでは治癒魔法、でしたね。とにかく、そういうことですので、そろそろ離して――」
「治癒魔法? そんなわけあるか。――治癒魔法で背負う代償は精々体力の消耗。 痛みや外傷を施術者が同じ場所に同等の痛みを負う性質なんて、聞いたことがないし、ありえない」
カミュロは、セシルの言葉の途中で苛立ちを隠しきれずに遮ると、無意識のうちに掴んでいたセシルの身体を、本能にも似た衝動でぐっと自分の方へ引き寄せ、胸の奥深くから深く息を吐き出していた。
――治癒魔法。セシルがクロノスやブリギッタたちと出会った大陸では「ハイリゲ」と呼ばれるそれは、ここオルフィエラ王国で使われる公用語では「ヒールゲ」と呼ばれている力だ。
ほんの一握りの特別な人間にのみ許された奇跡の力であり、触れるだけで他者の傷を癒すことができる。
しかし、その代償とはカミュロのいう通り基本的に体力消耗程度であり、癒す相手の傷や苦痛までも背負うような歪んだ性質は、本来いっさい存在しない。
故に――他人の外傷をまるで自分のもののように引き受けてしまうセシルの力は、常識から大きく逸脱している。カミュロは、その異様さを目の当たりにした事ですぐに気づき、強い言葉で否定しようとした。
それなのに、問いただす視線から逃げるように黙り込むセシルの態度に、彼は苛立ちと心配を半分ずつ混ぜたような溜息を落とし、まっすぐ彼女を射抜いた。
「“互いに全てを打ち明けていなくても想いは通じている”。そうノエル様に伝えたんだろ?」
「へっ......何、を......?」
突然放たれたカミュロの言葉の意味を測りかねたセシルは、どこか疑問を抱くように思わず顔を上げていた。
「いいから聞け」
だが、カミュロはその不安げで揺れる瞳をしっかりと視界に収めながらも、迷いなど一切見せず真剣な声音で言葉を落としていった。
「“想いが通じていればそれでいい”――確かに、それは時に救いにもなる。 けど、あんたのそれは違う。言葉にすることから逃げて、自分を犠牲にしてまで隠す。それは、ただの自己満足だ」
言葉を吐き出した瞬間、カミュロは小さく息を吐き、視線を落とし、ここから先を口にすることを僅かに躊躇うように一拍置いたあと、静かに続けた
「元々は、俺自身の傷だ。 そのせいで、いつかあんたが倒れたり、取り返しのつかないことになったら――俺は、自分を許せない。だから......そんな無茶は、もうやめろ」
胸の奥底に押し込めていた本心を絞り出すような声音は、強さだけでなく彼女を案じる痛みを帯びていた。
そして、言い切ると同時にカミュロは上着を掴んだ手をゆっくりと離すと、すぐにセシルの手首へ触れ、その細い手首をしっかりと掴み取った。
「来い。どうせまともな治療なんてしていないんだろう。悪いが、その傷をノエル様に見せるわけにはいかない」
「......」
優しい諭しと同時に感じた力強い引き寄せに、抗うという選択肢は最初からなく、セシルは抵抗する事もなく静かに歩み出した。
最初は言い訳をしようと口を開きかけた彼女だったが、その掴まれた手から伝わる拒絶できないほどの強さと、優しい温度を感じるにつれ、セシルは気まずそうに自身の横髪へそっと指を伸ばした。
「......」
そんな絶妙な空気の中、カミュロは「今のは言いすぎだったか」と小さく反省するように眉尻を下げ、歩みを少しだけ緩めようとした。
だがその時、突如として、か弱く震えるセシルの声が、掴んだ手を伝って彼の耳に届いてきた。
「っ、少し......独り言していいですか?」
その小さな声に、カミュロは思わず足を止めかけ、そのままゆっくりと振り向こうとした。
だが、ようやく彼女が口にしてくれようとした想いを遮らぬよう、ただ一瞬だけ視線をそっと向けると何も言わずに前を向いたまま手を引き続けた。
セシルはそのささやかな配慮を感じ取ったのか、困ったように小さく笑みを浮かべ、けれどすぐに自らの胸の奥を掬い上げるような言葉を続けた。
「......わたしには、特別な戦う力なんてありません。無我夢中で走って、持っている剣を振り回すだけで。 だから“人の役に立てるかもしれない力”だとわかった時、心の底から嬉しかったんです。 でも......すぐにそれが普通じゃない力だと突きつけられて。せっかく使えた力なのに、もしこれすら否定されたら。全部が“無かったこと”になってしまいそうで......怖くなって......」
――その言葉とともに、セシルの脳裏にはアキラたちと初めて訪れた街で、ひったくりに会ったことで、転んで泣いてしまったルカへ駆け寄り、そっと触れた刹那に傷がみるみる消えた光景が鮮やかに甦っていた。
当時は自分の腕にも古い傷があり包帯で隠していたせいで、同じ場所に新たな痛みが生じていたことに気づけなかった。
だがすぐ後、包帯を替えたクロノスに「なぜここに傷がある」と指摘され、これは選ばれし癒しではなく、相手の痛みをそのまま引き受ける代償の力なのだと、否応なく悟らされた。
そのような経緯を言葉にして自ら吐き出すことは、結局のところセシルにはできなかった。
けれど、言葉にはせずとも、明らかに落ち込んでいた彼女の様子を間近で見ていたカミュロは、掴んでいた手首に指先で優しく撫でるように触れながら、低く鋭い声で問いかけた。
「一体どこの誰と比べて、そんな考えに至った」
「えっと。 “誰”、と言われましても......そんなつもりじゃ......」
本当に心当たりがないと言わんばかりに戸惑い、困惑の色をそのまま表情に浮かべたセシルは、視線を揺らしながら小さな声で答えることしかできず、カミュロはその反応を見逃さなかった。
「言っておくが......俺が止めたいのは“力の扱い方”であって、あんたの“想い”じゃない」
そして、深く静かに息を吐き出した彼は、ほんの一瞬だけ肩を落としたものの、すぐに再びセシルへ向き直り、その瞳に確かで揺るぎない意志の光を宿したまま力強く言い放った。
「それに......俺が積み上げてきたものなんて、ただ過去に振るわれた無力さに必死で抗うための、不格好で泥臭い足掻きだけだ。 それを“凄い”と言ったのは、他でもセシルだ。なら――なら、その言葉を自分にも返せ。誰かのために必死になれる、その想いを否定するな」
力強く、それでいてどこか静けさを含んだカミュロの言葉が場を支配し、その場はいっそう深い静寂に包まれ、耳を澄ませば自分自身の鼓動すら響きそうなほどの静けさとなった。
そんな空気に思わずカミュロは、自分はしっかりと気持ちを伝えたつもりだったのに、もしかして再び言い方を間違えてしまったのではないかと、急に不安が込み上げ、反省するようにそっと目を閉じていた。
だが、不意に掴んでいた手首とは逆の手の袖が、遠慮がちな力でふわりと引っ張られる感覚が伝わってきた。
その小さな動きにハッとして目を開くと、目の前には、ほんの僅かに涙を湛えながらも、安心したように穏やかな笑みを浮かべているセシルの姿があった。
「......っ、なんだか。くすっぐったい、ですね」
彼女のその言葉は、緊張していた空気を柔らかくほぐすように優しく響き、カミュロの心を一瞬置き去りにしてしまうほどの温度を持っていた。
「今の記憶の中では、誰かに想いを否定されたことなんて一度もありません。......でも、忘れてしまった記憶の奥で生きていた“昔のわたし”が、少しだけ救われた気がするんです――ありがとう、ございます」
「......」
自分の記憶が失われていることを示す発言でありながら、説明しがたい彼女の感情がその一言一言に込められていて、カミュロは驚きと戸惑いを隠せず、掴んでいたセシルの手首へ思わず力を込めてしまった。
「っ、ご、ごめんなさい!」
すると、込められた力に意識を引き戻されたかのようにセシルはハッと目を瞬かせ、引っ張っていたカミュロの袖から慌てて手を離した。
その仕草は、つい先程までの静けさを吹き飛ばすようにどこか慌てていて、その顔には、彼女らしい戸惑いが滲んでいた。
「今のは、決して嘘ではないと思いますが......どういう意味かと聞かれましても、自分でも説明がつかないと言いますか。 ぁっ。そういえば、さっきの比較対象の“誰か”っていうお言葉も、もしかしたら自分の過去の記憶に繋がったりなんて......」
自分の発した言葉に自分自身が一番振り回されてしまっているように、セシルはワタワタと両手を宙に泳がせ、ぶつぶつと疑問を呟きながら思考の迷路に入り込んでしまっていた。
「......ふっ」
そのすっかり元の調子へ戻りつつある姿を目にし、カミュロは口元へ静かに手を添え、気づけばほんの僅かに困ったような、しかしどこか安堵した微笑みを浮かべていた。
そして彼は、掴んでいたセシルの手首からそっと手を離し、そのまま何事もなかったかのように体の向きを変えると、先へ進む道を確かめるように一歩、また一歩と歩み始めた。
「考えている所悪いが。行くぞ」
「ぇぁっ! 待ってください!」
取り残されたような感覚に陥ったセシルは小さく肩を揺らすと、慌ててその後を追いかけるように早足になりながら、離れすぎない程度の距離を保ってそっと心地よくリズムを合わせていた。




