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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第91話. 水面下の歪み



――セシルが犬を伴い、あの柔らかな気配を残したまま静かに廊下の奥へと姿を消していった一方。


反対の方向へとゆるやかに歩を進めていた男は、先程まで交わされた言葉の一つひとつが胸の内でまだ温度を保ったまま揺蕩っているのを感じ、それを大切に舌の上で溶かすように思い返しながら、そっと唇に触れた指先へ微笑を落としていた。


その歩みは穏やかでありながらも一定の律動を失わず、その足音は廊下に静かに響き、まるで彼の内側に沈む深い思索が形を成して、空間に淡く反射しているかのようであった。


「......おや――」


だが彼は不意に、誰かの視線がそっと帷を揺らしたような気配を感じ取ったのか、ぴたりと歩を止め、心の奥でまだ温もりを宿していた穏やかな微笑を、すっと引き、代わりにその瞳に冷ややかな光と、どこか愉悦を孕んだ影を宿しながら、低く静かに口を開いた。


「ゼリィナ。わざわざ待っていてくださったのですね。」


その声が静まり返った廊下の空気を僅かに震わせ、静まり返った廊下の空気を微かに震わせ、響いた波紋は壁面を撫でるように広がっては淡く消えていった。


そこに佇んでいたのは、無駄のない動作で指先を眼鏡の縁へ添え、僅かに位置を直しながら、糸のように伸びた背筋を完璧なまでに保って立つ女性――ゼリィナであった。


「はい。人払いも兼ねてお待ちしておりました――オルフィエラ陛下」


その呼び名を耳にした瞬間、男――シスレムは腕に抱えた分厚い本の表紙へと自然と指を滑らせ、まるでその触感に自らの思考を結びつけるように優しく撫でながら、僅かに困惑を含んだ微笑を浮かべたものの、ため息にも似た緩やかな吐息とともに言葉を落とした。


「ふふっ......その呼び方も、できることなら当分は控えてほしいですね。特に、あの子の前では。」


「......そうですか。失礼いたしました。では、今後はシスレム様とお呼びいたします」


ゼリィナは胸元へそっと手を添えたまま、均整の取れた動きで優雅に身を傾けると、深く頭を垂れて恭しく礼を尽くした。その一連の所作は、その仕草は一分の狂いもなく計算された美しさを持ち、まるで儀礼そのものが呼吸をしているかのようであった。


シスレムはその姿を視界の端に収めながら、口の端にどこか含みのある薄い笑みを湛え、再びゆるやかに歩を進め始めた。


その背後、一定の距離を保ちながら影の如く静かに付き従うゼリィナは、指先で眼鏡のレンズを弄び、その冷たい光がちらりと廊下の薄闇に反射する中、押し殺された声音で問いを投げかけた。


「お言葉ですが、シスレム様。食事の支給の件――何故、あの少女が受け入れることがないとわかっていながら、あの場で話題に出されたのですか?」


その冷静な問いに、シスレムは一瞬だけ口角を緩め、抱えていた本の間からのぞく細い栞へと指を滑らせながら、まるで真実を遠くから眺めている者のような、達観にも似た穏やかさの中に愉悦を潜ませ、静かに応じた。


「......ただの確認ですよ。どこまで話が“読まれて”いるのか――それを確かめたくなっただけです。つい数刻前、あの仕え手の“栞”が、ほんの僅かに抜かれる気配を感じましてね。」


ゼリィナはその言葉の意図を測りかねるように僅かに眉を寄せ、納得とは程遠い思惑を伏せた瞳の奥に沈めながら、カチ、カチ、と眼鏡の縁を指先で規則正しく弾き、その小さな音だけが静まり返った廊下に淡く反響し、彼女の抑えきれずに滲み出る苛立ちを確かに告げていた。


そんな彼女の内面の揺らぎさえも容易く読み解いたシスレムは、その場でふと足を止めたものの、決して振り返ることなく肩越しに向けた冷たく澄んだ光を宿した瞳で、感情の波を一切感じさせない淡々とした声音を落とした。


「そういえば......あの子を庇った人間がいるそうですね。報告はないのでしょうか?。」


「申し訳ございません。すぐに処分するつもりでしたので、特に申し上げる必要もないと判断していました。......情報としては、その者は親族が、かつてこちらで働いておりました」


ゼリィナの口元に僅かに影が落ちるような含みのある言い方に、シスレムは小さく、しかし確かに思い出の底を探るかのような声で呟きを漏らした。


「へぇ。では、あの時の......。」


「シスレム様、貴方様のお力を御教授頂ければ、直ちに栞を刺しに――」


その独り言のような確認を終え、ゼリィナから投げかけられた提案を耳にすると、彼は唇の端へ薄い笑みを引き、横目だけでゼリィナへと意味深な光を投げかけた。


「あぁ、結構です。何もしなくて構いません。それに、たかが人間一匹が偶然に足掻いたところで、この状況の一つたりとも変わることなどありませんからね。――頁外れの余白に、勝手に染みたインク程度の話です。」


ゼリィナの言葉をピシャリと遮るように投げられた声音は、まるで窓辺に迷い込んだ小さな虫を視界の端に捉えたときに「潰すまでもない」と判断する瞬間に似た冷ややかさであり、同時にその判断が絶対に覆らないという圧倒的な余裕を纏っていた。


そのままシスレムは、外の景色へと呑気に視線を向けながら軽やかに歩みを再開する一方で、ゼリィナは納得しきれぬ思いを飲み込むように眉間を小さく歪め、曇りを含んだ瞳をひととき伏せると、深い陰りを帯びた声でなおも問いかけた。


「シスレム様。貴方様の考えが読めません。 あの少女だって、何故あの場で――」


「黙りなさい。」


たった一言、それだけが吐き出された瞬間、廊下に漂い続けていた穏やかな空気は、見えない手によって急激に捻じ曲げられたかのように鋭く歪み、重く圧し掛かるような圧迫感が一息に襲いかかった。


――シュン、バリバリッ


次の鼓動が打つよりも早く、ゼリィナの顔のすぐ横を何かが閃光のように走り抜け、頬を風切る音とともに眼鏡のレンズが粉々に砕け散り、無慈悲な破片が細やかな光の粒となって床へと降り注いだ。


その残響がまだ耳に残る中、舞い落ちたのは鋭利な破片ではなく、淡いピンクの花弁であり、その一枚一枚がゆっくりと空気に溶けながら彼の掌の上にそっと降り重なっていき、まるで血の代わりに花を溢れさせるように漂い続けていた。


「残念。手元が狂ってしまいましたね......。」


シスレムは細めていた瞼を僅かに持ち上げ、その奥から放たれる冷たい光が、目の前の存在がどれほど取るに足らないかを無言のまま突きつけるように鋭く射抜いた。


しかし、その冷酷そのものの光はほんの瞬き程度の僅かな間に霧散し、次の瞬間には理性の仮面を被ったかのように柔らかな曲線を描く笑みだけが口元へ浮かび、先程まで宿していた苛立ちの欠片すら感じさせない穏やかさを装っていた。


「ふふっ、とにかく。気分が変わったんです。食事の件や、庇った人間に対しての件も総合的に言えます......聡明で優秀なあなたであれば、理解できるはずです。 ですから、本に記された文字を勝手に書き換えたりせず、決してそのページを閉じぬように、今後は――手を出さないでくださいね。」


まるで形式的な注意喚起でもするように軽く告げると、シスレムは足元に散り広がった花弁へ視線を滑らせ、掌をひらりと上へ翳し、そして優雅に指先を振るった。


その刹那、花弁はふわりと浮かび上がり、まるで閉じられた本の余白へと吸い込まれるかのような動きで跡形もなく消え去り、そこには何事もなかったかのように元の静謐が戻った。


そして彼は、いつもの軽やかで愉快そうな足取りへと戻り、廊下を再び前へ進みはじめようとした矢先、まるで思わせぶりに立ち止まり、口元へうっすらと愉悦を含ませた。


「君から会いに来るとは珍しいですね――ヒイラギくん。」


シスレムが純白のマントのフードを指先で摘まみ直しながら視線を向けた先、薄い影と廊下の闇に溶け込むように立っていた細長い影が、どこか胡散臭い笑みを浮かべながら姿を見せた。


「いやねぇ〜、他意はありませんよ。たまにはお二人の姿を拝見したい気分でしてね。」


影は壁にかかる陰の中から一歩、また一歩と静かに体を現し、胡散臭いほどに柔らかい声音で言葉を紡ぎながらシスレムへと歩み寄っていた。


その馴れ馴れしい態度に対し、シスレムは逆にどこか愉しげに口角を小さく上げ、相手の感情を見透かす遊戯のように小さく首を傾げた。


「ヒイラギくんは。どこか嬉しそう......というより、随分と生き生きしているように見えますね?。」


「.........お陰様で。」


ヒイラギと呼ばれた男は、首の付け根まで吸い付くように密着したコンバットスーツを身に纏っており、その上から東方の大陸を思わせる異国の意匠を施した羽織を片肩へ無造作にかけ、光を拒むサングラスの奥で瞳だけを動かしながら周囲の変化を探り続けていた。


そのささやかな警戒心を愉しむかのように、シスレムは僅かに口角を引き上げ、軽やかな足取りで少しずつ距離を詰めていた。


「......どんな風の吹き回しでその一章を開いたのか、詮索しませんよ。ヒイラギくんは本来、()()()()()()。生かしている以上は仕方のないことです。ですが――」


言葉の切れ目と同時に、シスレムの伸ばされた腕がヒイラギの羽織を強引に掴み寄せ、そのまま体勢を強制的に引き寄せた。


距離は一気に縮まり、目と鼻の先に迫ったシスレムの表情には笑みが浮かんでいるというのに、そこに宿る気配は、足元から刃を押し当てられるような冷たさを孕んでいた。


「これ以上、余計なことをあの少女に吹き込むような真似をしたなら......君にとって大切なあの王女殿下と仕え手が綴られたページを――即座に破り捨てますよ(即座に殺しますからね)。」


その声音は穏やかさを装いながらも、ページを裂く音がそのまま耳元で響くかのような確かな殺意と支配を帯びており、ヒイラギはサングラスの奥で瞳を細めつつ、小さく息を吐き出すと短く返した。


「肝に免じておきます。」


笑みの形だけは保たれているシスレムの表情を見ながら、その声に纏わりつく圧を敏感に察知したヒイラギは、それ以上言葉を紡ぐことを避けた。


そんな彼に満足げに細く息を吐きながら、シスレムは掴んでいた手をゆっくりと離し、まるで先程の脅圧も暴力の気配も一切なかったかのような軽やかさで、純白のマントの裾を揺らしながら廊下の奥へと歩みを進めていった。


一方その場に残されたヒイラギは、去りゆく背に一瞬視線を向け、頬へ指先を当ててポリポリと掻きながら、彼特有の飄々とした仕草で肩を竦め、「......あいつ、おっかね〜な。」と心中で呟くように眉を僅かに動かした。


だが、その感情の揺れはほんの刹那で消え、すぐに表情を整えると、ゆっくりと視線を横へと向ける。


「いいのかい。おまえさんのご主人様、行っちまったけど?。」


先程よりも気楽な調子で言葉を投げられた声に応えるように、視線の先にいたゼリィナは唇を強く噛みしめたまま、拳を固く握りしめ、爪が皮膚を突き破り血が滲むほどの怒りを、鋼鉄の枷で押さえ込むかのごとく必死に耐えていた。


彼女の足元には、床に散らばったかつて眼鏡だった砕けた無数の破片がきらつき、それをただ俯いたまま見つめる彼女の横顔に、深い屈辱が静かに積もっており、ヒイラギはふぅっと小さくため息を落とした。


「あとさ~。やめてくれないかな?――その、嫉妬に塗れたような殺意をさぁ。」


「......はっ、? 貴方に言われる筋合いなどありませんが?」


瞬間、ゼリィナはまるで上品な仮面を剝ぎ捨てたかのように、刺々しい声の棘を剥き出しにしながら顔を上げ、その目に宿る怒りの色を隠しもせずにヒイラギを射抜いており、逆に苦笑して肩を竦めるしかなかった。


「おまえさん......随分な執着心だな。そこまで、あの子が気に食わないのかい?。」


「......っ」


返答を拒むようにぎゅっと眉根を寄せ、再び影に顔を沈めたゼリィナは、その指先を小刻みに震わせ、血を滲ませた拳を決して緩めようとはせず、それだけでその胸の中に渦巻く激情が尋常ではないことを雄弁に物語っていた。


「たっはぁ......わっかりやすいね〜。 まっ、俺としては歳の離れた妹みたいに可愛がりたい所だけどねぇ。」


その態度で十分に答えを読み取ったヒイラギは、呆れを隠すことなく軽いため息を吐くと、サングラスの縁を指先で少し持ち上げ、セシルと犬が消えた方向へ気ままに歩を移そうとした。


「んじゃ、俺はこれにて失礼しますよ~っと。」


だが――ゼリィナの肩をすり抜けようとしたその瞬間、彼女の指先からヒュ、と鋭い音が走り、瞬きよりも速く、空間を割くようにして薙刀に似た長柄の刃が生み出され、一気にヒイラギの胴へ薙ぎ払われた。


――ギィンッ!


「あっ、ぶなぃー。......そういえば、おまえさんも好戦的だったっけ?。」


ヒイラギはまるでこの一撃を事前に察知していたかのように、一切振り返ることなく右腕を軽く掲げただけで受け止めていた。


その腕に絡みつくトゲを帯びた濃い緑色の葉が幾重にも絡みつき、その葉の陰からは微かに歪む空気が震え、まるで空間そのものが植物に蝕まれているかのような異様な気配が漂っていた。


「ヒイラギ......貴方。この先に何の用なんですか?! この先はあの王女と少女が――ぐッ!!」


ゼリィナの怒気を孕んだ毅然とした声音とは裏腹に、構えた武器ごとその勢いに押し返されるように、彼女の身体は小さくふわりと浮き、数歩分の後退を余儀なくされた。


金属質な足音が硬い床に短く響き、ようやく踏みとどまると同時に彼女は再度、殺意を秘めた眼差しを向けた。


だがヒイラギは、そんな彼女の動揺にも一片の情を見せず、心配する素振りも「やっちまった。」という後悔の色すら浮かべないまま、先程までの胡散臭さをそのまま裏返したような、冷えた静謐を帯びた視線だけをサングラスの奥からひりつくほど鋭く投げかけた。


「あの通り、警告を受けた以上。俺も下手な行動はできないさ。ただな――あいつらを苦しめる原因を作ったおまえにも、シスレムからも過剰な要求を飲む義理は、これっぽっちもないって話だよ。」


吐き捨てるというより淡々と切り捨てるような声音で言葉を放つと、ヒイラギは腕に巻き付いていた歪みを孕む植物を、一瞬で霧散させるように体の奥へ呑み込ませ、再び迷いなく歩を前へと進め始めた。


「......ちっ、」


その背に影が伸びていく中、ゼリィナもまた、手にしていた長柄の刃を静かに分解させるようにして空気へ溶かし消し、深い憤りを喉の奥に押し込みながら、誰にも聞こえぬほどの小さな声で、鋭い舌打ちと共に悪態を床へと落としていた。

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