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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第90話. 無言を埋める薄ら笑い



それから、そう時間が経たないうちに――「誰かと鉢合わせませんように」と心の中で必死に願っていたセシルの視線の先に、廊下の正面を遮るようにして、無機質な灰色の壁が静かに立ちはだかっているのが見えた。


「......っ」


一瞬、行き止まりかと息を詰めかけたが、目を凝らしてみると、その壁の右端――廊下の続きと思しき部分が、鋭い角度でL字に折れ曲がりながら、奥の闇の中へと細く延びているのが、僅かに見て取れた。


その僅かな空間の奥に、何かが潜んでいるかもしれないという考えが脳裏をよぎった瞬間、セシルは喉の奥で小さく息を呑み、背筋を這い上がるような緊張が体を強張らせた。


彼女は壁に背を預け、冷たく無機質なその感触をまるで唯一の拠り所のように頼りながら、息を潜め、音を立てぬよう慎重に、まるで蟹が砂の上を這うように身を滑らせていた。


指先が壁の凹凸を確かめる度、そこにあるはずの温度のない冷たさが、かえって現実感を際立たせながらも、廊下の死角へと身体を寄せ、彼女は角の隙間から曲がりくねった先を覗き込んだ。


(......うん、大丈夫。誰も......いない)


そう自分に言い聞かせるその声は、頭の中で震えるように響いたが、安心が胸の奥に届くより早く、不安の波がじわりとそれを呑み込んでいく。それでも彼女は、確かめなければという思いに背を押されるように、静かに息を整えた。


(......よし、とりあえず。一旦自分の目で確認して――)


セシルは壁の角にそっと手を滑らせ、指先で冷えた表面をなぞりながら、ほんの数センチだけ身体を乗り出した。曲がった廊下の先の安全を確認しようと、息を詰めて慎重に、それでも確かに一歩を踏み出そうとした――その瞬間。


「大丈夫ですよ。この先に人はいませんから。」


「ッ――!!!」


耳元に落ちてきたかのように響いたその声は、あまりにも唐突でありながら、奇妙なほど落ち着き払っていた。


その一言に、セシルは喉の奥で悲鳴になりきれない息を詰まらせ、見つかったという恐怖よりも、それ以上に背筋を撫でるような“得体の知れない危険”に反応するように、張りついていた壁から勢いよく身を離した。


反射的に振り向いたその先には――耳元に落ちたはずの声とは裏腹に、僅かに距離を置いた廊下の中央に、一人の人影が静かに立っていた。純白を纏ったその姿は、薄闇に溶けることもなく、むしろ光そのもののように浮かび上がって見えた。


「ふふっ、またお会いしましたね。やはり、どうも嫌われてしまっているように感じますが。」


「っ......あなた、は。庭園にいた――」


セシルの視線の先にいた、柔らかく微笑をたたえた人物は、ノエルたちと出会う前――まだセシルが孤独に街を歩いていた頃、あの立派な庭園の門の前で声をかけてきた、まさにあの男だった。


中性的で整った顔立ちをした彼は、光を受けて淡く輝く長い髪を肩へ流し、純白のマントを纏い、その腕には分厚く古びた書物を抱えていた。糸のように細く閉じられたその目は、笑っているようにも見えるのに、不思議とその奥には確かな意識が潜み、まるで全てを見透かすかのようにセシルを射抜いていた。


「......っ、なんで。ここに......?」


「はて、何故と言われましてもね。ここで過ごしているから、としか言いようがありませんので......。」


セシルはどうにか声を絞り出したものの、胸の奥に燃え上がった警戒の炎は少しも鎮まらず、むしろ、内側からじりじりと焦げつくように熱を帯び、喉の奥がひくりと鳴った。


同時に、あの庭園で初めて出会った時の、あの“決して関わってはいけない”という直感的な恐怖の記憶が、まざまざと蘇り、皮膚の下を冷たい針が這うような感覚が背筋を伝い、全身を締めつけた。


「グルル.........ッ」


だが、一方でセシルの足元にいた犬は、男の姿を目にした瞬間、喉の奥で低く鋭い唸り声を漏らした。その音には警戒というよりも、むしろ本能の奥深くに刻まれた拒絶の響きが宿っており、逆立つ毛と床を掻く爪の音が張り詰めた空気を鋭く裂いた次の瞬間、床板を蹴り飛ぶようにして一気に飛びかかっていた。


――ガァァァオォォォン……ッ!


「あらあら......躾が、なってない子ですね。」


迫りくる魔獣に匹敵するような犬の影を前にしても、男はまるでいたずらをした子供を宥めるかのように片手を軽く口元へ添え、穏やかな笑みを微塵も崩さぬまま、迫りくる殺気に一切の動揺を見せなかった。


しかしその刹那、男の指先が抱えていた書物の間に挟まれていた一枚の栞へとゆるやかに伸び、まるで長い沈黙を破って何かを解き放つ前触れのように、それを静かに引き抜こうとしていた。


「ッ――ダメ......ッ!!」


セシルの声が喉の奥からほとばしった、その瞬間とほぼ同時に、廊下の空気がざらりと逆立ち、乾いた砂粒が風に舞うように肌を擦り、見えない何かが空間の奥底から這い出してくるような不穏な気配が一瞬にして辺りを満たした。


止めなければ――そう思考が形になるよりも先に、身体の方がその意志を追い越し、思考も言葉も追いつかないまま、ただ「危険だ」という直感だけが灼けつくように脳裏に刻まれ、気づけば彼女の足は迷いなく床を蹴っていた。


「――止まって!」


声を張り上げるよりも早く、視界が流れ、風が頬を裂くように走り抜ける。跳躍の感覚すら霞のように曖昧で、次にセシルがはっきりと世界を認識したときには、そして、次にセシルがはっきりと世界を認識したときには、すでに彼女は犬と男の間に身を投げ出すように割り込んでいた。


その勢いのまま突進してきた犬を正面から受け止め、両腕は反射的に犬の身体を抱きとめ、その暴れ狂う力を殺すようにして地面へと叩き伏せ、全力で押さえ込んでいた。


「ッ......やめて......! 噛むなら、わたしに......っ、!」


「グルルルッ......ガウッ!!」


荒々しい唸りを響かせながら暴れ狂う犬は、なおも剥き出しの牙を光らせ、理性の枷を失ったかのように咬みつこうとする衝動に突き動かされていた。


その体は力の限りに暴れ、押さえ込むセシルの腕の中で激しく蠢いていたが、セシルは必死の思いで押さえ込みながら、なおも開け放たれた口に自らの手を差し入れるように突っ込み、鋭い牙の矛先をほんの僅かでも自分の方へと逸らそうと、無我夢中で抗い続けていた。


「......なるほど、その力まで――。」


その異様な光景を前にしても、純白のマントを纏った男は一歩たりとも動じることなく、抜きかけていた栞を指先でそっと押し戻し、細く瞳を開いたその表情には、底の見えない好奇と不気味な余裕が交錯していた。


その間にも、凶暴なまでに暴れていた犬は、セシルの手を噛みついたことで、歯が確かに彼女の肌を裂いた感触を覚えるのと同時に舌の奥に広がった鉄のような味が、僅かな理性を呼び戻したかのように、その瞳孔が一瞬だけ丸く開き、動きが次第に鈍っていった。


やがて荒れ狂っていた呼吸が落ち着き、肩から力が抜けるように静まり返ると、困惑と戸惑いを入り混ぜたような表情で、咥えたままのセシルの手にそっと舌を伸ばし、傷口を小さくなめる仕草を見せた。


「大丈夫だよ。......ねっ?」


犬が牙を収め、荒ぶる心を抑え込んだのを確かめたセシルは、安堵を込めて目を細めながら優しく声をかけ、血に濡れた自らの手を犬の口からゆっくりと引き抜くと、その毛並みを軽く撫でて安心させるように宥めた。


セシルはほんの一瞬前まで、春の風のように穏やかで、どこか緩やかにほどけた空気を纏っていたが、視界の端にその男の姿を捉えた瞬間、空気はたちまち凍りつくように変わり、代わりに研ぎ澄まされた刃のような眼差しが男へと真っ直ぐに向けた。


その変化を受けても、男はまるでそれを楽しむかのように目を細め、柔和な笑みを浮かべたまま、軽やかな声で口を開いた。


「おや......自分の身を犠牲にしてまで止めてくださったというのに、そんな敵意の籠もった目を向けられるとは。随分と不思議なお方ですね?。」


その声音は、一見すれば穏やかで親しげにすら響いたが、セシルの耳にはその裏に潜む底知れぬ冷たさが確かに感じ取れた。表面上は柔らかに笑っていても、その表情の奥には何かを計り知れない闇が潜んでいるようで、彼女は無意識に眉を寄せ、毅然とした態度を崩さずに言葉を返した。


「......勘違いしないでください。別に、わたしはあなたを助けるために動いたわけではありませんから」


吐き捨てるように放たれたその言葉は、まるで目の前に分厚く冷たい壁を築き上げるかのように響き渡り、他者を寄せつけることを一切拒むその声音には、微塵の情すら感じられなかった。


男はそんな冷ややかな拒絶を受けても尚、どこか飄々とした笑みを浮かべ、困ったように息を吐きながら肩をすくめてみせていた。


だが、そんな鋭い眼差しに晒されながらも、彼はむしろそれを愉快に思うように口の端を僅かに持ち上げ、低く柔らかい声で次の言葉を続けた。


「さて――たしか、王女殿に仕えている御方、でしたね? 魔獣の騒ぎが起こったというのに、こうしてこんな場所で足を止めていて本当に良いのでしょうか。それとも、もう既に......容易く片づけてしまわれた、ということでしょうか。」


「っ......」


セシルは、まるで心の内を見透かされたかのように不意に突きつけられた男の言葉に息を呑み、思わず数歩後ずさった。胸の奥が僅かにざわめき、指先が冷たくなるのを感じながらも、その瞬間、彼女の脳裏にはふとミメットのあの穏やかな声が蘇っていた。


――「この城に仕える人も、街の人も、直接の被害を受けることは、ほとんどありませんの。魔獣が現れるのは、いつも決まって......王女様のお傍のみ。 だからこそ、自分たちの暮らしに支障が出ない限りは、恐怖も関心も次第に薄れていって、やがて『いつものこと』として受け流してしまう――それが今のこの王国の現実なのですわ」


(この人......ノエルちゃんのそばにいる者が魔獣を抑えるのは当然だと言いたいのね。ミメットさんの言葉が本当なら、この考えがもう王国全体に根づいてしまっているということね)


セシルはそう心の中で呟きながらも、目の前の男に対して、何ひとつ打ち明けようという気にはなれなかった。彼の言葉の裏に何があるのか、僅かに気にはなったものの、だからといって自分の胸の内を晒すほど信頼できる相手ではない――そう思えばこそ、彼女はただ静かに沈黙を貫いていた。


男は、そんな彼女の沈黙を前に「やれやれ。」とでも言いたげに再び小さく肩をすくめ、子どもを宥めるような穏やかな笑みを浮かべていたが、気を取り直すように軽く息を整えると、続けて言葉を投げかけた。


「いずれにせよ。一先ずは魔獣を退けてくださったことには感謝いたしましょうか。そうでなければ、こちら側や街中にまで魔獣が溢れかねませんでしたからね。......ただ、もしそうなっていたならば、非難の矛先は間違いなく王女殿下に向けられたことでしょうね。殿下の傍にいる者というのは、それだけで苦労が絶えませんから。」


「......」


セシルは、その男がペラペラと途切れることなく言葉を並べ立てるのを、冷静を装いながらも耳だけで追っていた。だがその実、彼女の胸の奥では「ここから一刻も早く離れたい」という焦燥がじわじわと滲み出しており、その思いが足取りに現れるように、ほんの数ミリずつ後ずさりしながら、男の話が終わる瞬間をじっと待っていた。


しかし、男は、セシルが足元の犬を宥めながら、まるで音も立てぬように数ミリずつ後退していく様子を見逃さなかった。むしろ、その慎重な動きと、犬を庇うような仕草の中に滲む警戒をどこか愉しむように、唇の端に薄笑いを浮かべると、まるでその退き際を追いかけるように、静かに言葉を差し挟んだ。


「......もしかして。追加の生活費や設備費の援助に関してのご相談でしたか?。」


「ぇっ、?」


突如として予想外の方向へ話題を転がされたセシルは、驚きに喉を詰まらせ、思わず小さく間の抜けた声を洩らした。だが男は、明らかに“違う”という彼女の反応を理解していながら、それを楽しむかのように軽く無視し、さらに穏やかな口調で言葉を重ねた。


「そうですね......では。食材を現物支給という形では如何でしょうか? なんなら、こちらで用意している食事をお持ち帰りいただいても構いませんが。」


(きゅ、急に......何? 何の話をしてるの、この人は......?)


セシルは男の的外れで思いがけない提案に戸惑い、まるで言葉の意味を咀嚼しきれないかのように、困惑した表情を浮かべていた。


彼の意図がどこにあるのか掴みかねている彼女を前に、男は何を思ったのか、ほんの僅かに口元を緩め、愉快そうでもありどこか寂しげでもある笑みを浮かべながら、静かに言葉を結んだ。


「ふふっ、困らせてしまいましたね。それに......どうやら少し、ページをめくりすぎたようです。では、今日のところはこの辺りで本を閉じるとしましょうか。」


男は僅かに首を傾げると、何かを言いかけて思い直したように、片手に抱えた分厚く古びた本を軽く持ち直し、細めた目を最後にどこか名残惜しげにセシルへと向けた。


だが、その視線もすぐに静かに外れ、やがて男は背を向けると、セシルが先程歩いてきた廊下を辿るように、ゆっくりとした足取りで去っていった。


その背中が廊下の曲がり角に差しかかり、姿が完全に見えなくなるまで、セシルはまるで何かに引き寄せられるように目を離すことができず、同時にその胸の内には言葉にできない緊張と、理解しきれない感情の余韻が複雑に渦巻いていた。


(......何も、されなかった。 それは良いとして......あの人はいったい何が目的でわたしに接触してきたの......? それに、食事の話しなんて的外れな事まで持ち出したりして)


警戒心をまだ完全に解き放つことができず、胸の奥のどこかに細かな砂粒のようなざらついた不安を抱えたまま、セシルはようやく視線を廊下から外した。


薄暗い廊下の先に残る空気の揺らぎを確かめるように、一度だけ深く息を吸い込むと、足元で小さく唸り声を漏らしていた犬の姿が目に入り、思わず声を掛けていた。


「とりあえず......一緒に戻ろっか?」


すると、まるでセシルの言葉の意味を正確に理解したかのように、犬はぴたりと唸るのをやめ、耳をぴんと立てたまま、つぶらな瞳でじっと彼女を見上げていた。


その視線に警戒心よりも僅かな信頼の色が宿っており、静かな空気の中でふたりの間にほのかな温もりが生まれたように感じられた。


やがて犬は控えめに尻尾を左右に揺らし、まるでその気配を確かめるように小さく一歩を踏み出し、セシルが進もうとしていた方向へと導くように前へと歩き出した。


(ふふっ、少しは仲良くなったの、かな......?)


セシルは、そんな小さな存在がほんの少しだけ心を開いてくれたような仕草に胸の奥がふっと柔らかくなるのを感じ、思わず口元に微かな笑みを浮かべた。


「......」


そして犬の後を追う前に、去っていった男の背中が消えた方角へとゆっくりと視線を向け、ほんの数秒だけその残像を記憶に留めるように目を細めたが、すぐに小さく息を吐いて顔を上げると、静かな足取りで犬の後を追い始めた。

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