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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第89話. 音のない歩み



「顔色も随分と良くなりましたわね......本当に、よかったですわ」


ミメットは応急手当を終えたあとも、しばらくのあいだセシルの額にそっと手を当てたまま、ゆっくりと落ち着いていく彼の呼吸を見守っていた。


その声は優しく穏やかで、ようやく安堵を取り戻した心が滲んでいたが、彼女の顔を覗き込む瞳の奥には、ほんの少しの警戒心が揺らめいており、その複雑な感情を感じ取ったセシルは、思わず苦笑を浮かべてしまった。


「はい、大分落ち着きました。ありがとうございました――」


「何をそんな呑気なことをおっしゃっているのです!! 幸いにもお顔に傷や痕は残っていませんでしたけれど、それ以外の場所には、放置された怪我が山ほどあったのですわ! 自分自身を大切にするべきご本人が、一番粗末に扱ってどうするのです! そんなこと、決して許されませんのよ!」


ミメットの声がセシルの言葉を遮るように勢いよく叱りつけながらも、彼女の手はいつの間にかセシルの頬へと滑るようにセシルの顔を両手で包み込み、心配する母親のようにムニムニと頬を揺らしていた。


「えっへへ......」


その迫力に押されながらも、セシルはどこか照れくさそうに笑みを零し、叱られながらも、彼女の真っすぐで誠実な思いが胸の奥に静かに沁みこんでいくのを感じていた。


やがて、少しだけ和らいだ空気が部屋を満たし始めたそのとき――コンコン、と扉を叩く音が静寂を裂くように響き渡り、ミメットとセシルの肩が同時にびくりと跳ね、二人とも息を呑んだまま動きを止めた。


「ミミー! どうしたの、大声で? 何かトラブルでもあった?」


「ひゃっ......っ、少々お待ちくださいまし!! いま開けますわ! セシル様は、どうかお静かにしていてくださいましっ」


外から聞こえてきたのは、冷たい刃のように澄み切った声――落ち着きの中に確かな芯の強さを宿し、年若い少女のものとは思えないほど凛とした響きを持つ声であり、セシルにとってはまったく聞き覚えのないものだった。


その声を耳にした瞬間、セシルの胸の奥を一筋の緊張が駆け抜け、まるでその声の主に自分の存在を悟られてはならないかのように、反射的に両手で口元を覆い、息を潜めた。


「今開けますので、待ってくださいましっ!!」


一方で、ミメットの方はというと、その声を聞いた途端、表情をこわばらせ、頬を引きつらせながらも焦りと動揺をどうにか押し殺し、もはや言葉を選ぶ余裕もないまま、勢いだけで応じていた。


そして彼女は、ほとんど反射のような動きで扉の傍に駆け寄ると、そこに横たわっていた犬をまるで米俵でも担ぐかのように軽々と肩へと持ち上げ、欠伸をしていたその犬を小脇に抱えたまま、ためらうことなく扉を勢いよく開け放った。


「あ、ミミ。あんたにしては珍しく仕事が遅いじゃない。いったいどうしたの――って、なにそれ? 犬? まさか、野良が迷い込んだの?」


扉の向こうに立っていたのは、ミメットを親しげに「ミミ」と呼ぶ少女だった。ミメットと同じ制服を身に纏い、腰に片手を当てながら、呆れと好奇心が半々に混ざったような表情を浮かべていた。


「ご、ごきげんようですわ~......」


その突然の来訪に、ミメットは反射的に息を詰め、ほんの一瞬だけ視線をリネンカートの陰へとすべらせたが、すぐに無理やり作った笑みを浮かべ、担いでいた犬をぐっと持ち上げてみせた。


その仕草にはどこか誇張された勢いがあり、まるで「これこそがすべての理由なのですわ」と言わんばかりに、証拠品を突き出すような調子で犬を少女の目の前へと差し出した。


「......」


抱え上げられたその犬はといえば、あからさまに不服そうに鼻を鳴らし、半眼のままじっとミメットを見上げながらも、渋々というような態度でその腕の中に収まっていた。


しかしその瞳だけは鋭く細められ、まるで自分が晒し者にされたことを怒っているかのように、突き刺すような眼差しで突然の訪問者である少女をじろりと睨みつけていた。


「そ、そうなのですわ。この子がお部屋の中で逃げ回るものですから、捕まえるのにひと苦労いたしましたの」


ミメットは慌てて取り繕うように声を上げたが、その口調はどこか上ずり、笑顔の端が不自然に引きつっていた。


だが、その瞬間、彼女の腕の中で突き出されていた犬が、喉の奥で低く「グルルゥ...」と唸り声を漏らし、今にも飛びかかりそうな気配を纏って牙を覗かせた。


「まっ、ダメですわよ!」


ミメットは思わず悲鳴のような声を上げ、咄嗟に片手で犬の口元を押さえつけるように手を伸ばすと、もう片方の腕では暴れ出しそうなその体を逃すまいとしっかりと押さえつけていた。


「えぇと......そういうことですわ~」


そして、どうにか場を取り繕おうと、ミメットは乾いた声を絞り出すように笑い、僅かに顔をそらして唇の端を引き上げ、必死に作り笑いを張り付けてみせた。


「?......よくわからないけど。とりあえず、それ。あとで追い出しておきなよ」


少女は半ば呆れたように眉を顰め、片腕を組んだまま短く溜息を吐いていた。だが、その仕草の途中で何かを思い出したように「あっ、そうだ」と小さく声を上げ、人差し指を軽く立てながら視線をミメットの方に戻しながら言葉を続けた。


「そうそう。さっき、護衛の人から耳にしたんだけどね。魔獣が近くに現れたから、万が一に備えて、あたしらみたいに戦う術を持たない者は、今日は不用意に外出しないようにとのお達しが出たのよ」


「......わかりましたわ」


ミメットの返事は落ち着いているように聞こえたが、その声音には僅かに緊張の色が混じっていた。少女はその反応をどう受け取ったのか、小さく頷きながら再び腕を組み、声の調子を少し落として続けた。


「そんなに心配しなくても、どうせいつものことでしょ。どうせ同じ場所で、同じように発生してるんだから」


その口調は、恐れよりもむしろ長年積み重なった諦めに近く、繰り返される異常を前に、もはや驚くことすら意味を失ったかのようだった。


「じゃ、その野良犬のことはあたしが報告しておくから。さっさと追い出して、次の担当エリアに移動しなさい」


そう言い残すと、少女は軽く片手を振りながら背を向けると、足音は規則正しく遠ざかり、やがて廊下の向こうに溶けて行こうとしていた。


そんな少女の背に、ミメットは静かに見送りながら、抱えていた犬の前足をそっと掴み上げると、まるで犬自身が別れを惜しむかのように、小さくひらひらと手を振らせた。


だが、その穏やかな仕草が終わるか終わらないかのうちに、ミメットはぱっと顔を引き締め、素早く身を翻すと、背中で扉を押し閉めながら、その勢いのまま滑り込むような軽やかさで部屋の中へと戻っていった。


「はぁー......どうやら怪しむ素振りも見せなかったようですわね。それに、訪ねて来たのがあの子で本当に助かりましたわ」


深く長い安堵の息が、彼女の唇から静かに溢れ落ち、張り詰めていた緊張が解けると同時に、腕の中に抱えていた犬をそっと床へと降ろした。


当の犬は一声も発さず、しかしどこか拗ねたような目つきで彼女を見上げ、前足で床を軽く掻くように動かしていたが、ミメットはそれに気づく余裕もなく、落ち着かぬ足取りのままスカートの裾を軽く摘み上げ、ほとんど駆けるようにリネンカートの陰へと向かっていった。


「セシル様、ご無事ですか?!」


「......はい......なんとか......」


その声に応えるように、椅子の脚元に身を潜めていたセシルが、恐る恐るといった様子でゆっくりと姿を現した。


そして、震えの残る膝をそっと叩いて気持ちを立て直し、微かに微笑みながらも、まだ怯えの影を残したまま静かに立ち上がった。


「......今は何とかやり過ごせましたが、このままでは長居はできませんね。そろそろお暇しなければ――」


「たしかに、この時間帯なら護衛ではなく、わたくしのような身分の者が動いている可能性もありますけれど......いいえ!だからこそ、わたくしが必ずお送りいたしますわッ!」


セシルの控えめな言葉を遮るように、ミメットはきっぱりと言い切ると、次の瞬間には僅かな躊躇いも見せずにセシルの手をそっと取った。


その指先には確かな気遣いが感じられ、ミメットはそのまま軽く息を整えると、傍らに置かれていたリネンカートを押し出し始めた。


「さぁ。ご一緒に参りましょう、セシル様!!」


「え? えぇ......お願い、します......」


セシルは戸惑いを隠しきれずにいたが、ミメットの勢いと気迫の前では、もはや一人で帰るなどという言葉を口に挟む余地もなく、ただ頷きながらその手に導かれるままに歩みを進めるしかなかった。


そして、そのすぐ後ろでは、犬が、どこか不満げながらも従順さを滲ませた面持ちを見せ、渋々といった様子で二人の後を追い始めた。


やがて三つの影は、慎重な足取りで僅かに開いた扉へと近づき、ミメットがその取っ手に手をかけると、軋む音を立てぬよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと扉を押し広げ、慎重に一歩を踏み出していった。



◇◇◇



――廊下に出た二人と一匹は、しばしのあいだ言葉を交わすこともなく、ただ息を潜め、靴底が床を擦るわずかな音さえも恐れるように、一歩一歩を慎重に運びながら進んでいた。


人影のない薄暗い回廊は、まるで城そのものが息を止めて彼女たちの通過を見守っているかのように静まり返り、壁にかかる燭台の炎がわずかに揺らぐたび、長く伸びた影が床を這うように動いていた。


(......そういえば、さっきの会話――)


その不気味な静けさと緊張の中、いつ誰かと鉢合わせてもおかしくないという張り詰めた空気を抱えたまま歩を進めながらも、セシルの脳裏に、とある言葉がふと甦り、胸の奥に押し込めていた疑問が堰を切ったように浮かび上がってきた。


「あの......さっき来ていた方が、“魔獣のことなんていつものことだ”って言ってましたけど。それって、どういう意味なんですか? 魔獣が出たなんて、本来なら大騒ぎになるはずなのに。どうして、あんなに平然としてるんですか......?」


声を限界まで潜め、囁きかけられたセシルの声に、ミメットは一瞬だけ視線を床に落とし、まるで言葉の選び方を慎重に見極めるように、ゆっくり口を開いた。


「......おっしゃる通りですわ。魔獣が現れるなんて、本来なら戦う術を持たぬ人々にとって恐怖そのもの。ですが――」


彼女はそこで一度だけ息を整え、ほんの少し寂しげな微笑を浮かべて続けた。


「この城に仕える人も、街の人も、直接の被害を受けることは、ほとんどありませんの。魔獣が現れるのは、いつも決まって......王女様のお傍のみ。 だからこそ、自分たちの暮らしに支障が出ない限りは、恐怖も関心も次第に薄れていって、やがて『いつものこと』として受け流してしまう――それが今のこの王国の現実なのですわ」


「それってっ......!」


セシルはその瞬間、抑えきれぬほどの衝撃と怒りが胸を突き上げ、喉の奥で熱が弾けるような感覚に襲われ、思わず声を荒げそうになった。


けれど瞬間、廊下に声が響く事を恐れるように慌てて唇を押さえ、喉元まで込み上げてきた言葉を必死に飲み込んだ。


(見て見ぬふりをして、まるで関係のないことのように振る舞うなんて――そんなの、まるでノエルちゃんたちの異常な状態を追い詰める手助けをしているようなものじゃない!)


胸の奥で渦巻く怒りの熱を必死に押さえ込もうとするものの、息を吐くたびにその端々から、抑えきれない激情の余韻が滲み出ていた。


だが、ちょうどその時、T字の廊下に差しかかり、薄暗い照明の下、空気はひんやりと静まり返っていた。


その一角で、リネンカートを押していたミメットが、車輪の軋みを殺すように慎重に力を加減しながら、角を大きく回り込むようにして進み出ようとしていた。


「あちらですわ。先に行ってくださいませ」


ミメットの囁きは、ほとんど空気の揺らぎと区別がつかないほど微かだったが、けれども確かに届いたその声に促され、セシルは犬とともに先に前へと出て、一歩、また一歩と進み出た――その直後だった。


「ミメット・ドッグリーさん。少しお時間をいただけます?」


「っ、!!!」


突如声を掛けられた事で、ミメットが押していたリネンカートが、跳ね上がるかのように揺れ動き、その衝撃に押されるようにして車輪が不意にがこん、と重い音が廊下に響いた。


「ぁっ、......あ!!ゼリィナ様?! ご、ごきげんようでございますわ!!」


(えっ! ゼリィナって、あの――?!)


角を曲がりきっていたセシルは、その姿を直接目にすることはできなかった。けれど、背後から聞こえた呼びかけと共に耳に飛び込んできたその名を聞いた瞬間、セシルは即座に壁際へと身を寄せ、息を殺し、気配を最小限に抑え込んだ。


ゼリィナ――その名は、忘れもしない。初めて城に足を踏み入れたあの日、カミュロと鋭く対立するような空気を漂わせていた、あの冷徹な眼鏡の女性。言葉少なにして周囲を圧するような威圧感を放っていた人物だった。


「こんにちは、ドッグリーさん。つい先ほど、貴方が野良犬を確保されたという報告を受けましてね。それがただの犬ではなく、魔獣に扮した存在かもしれぬと考え、直接確認に参ったのですが......どうやら既に逃がしてしまったようですね」


「ハッ、はぃぃぃ......」


「それよりも。貴方はこのエリアの担当ではなかったはずですよね? それなのに――」


ゼリィナが落ち着いた声音でありながらも、張り詰めた叱責の調子を含ませて言葉を重ねる間、セシルはその場に漂う緊迫した空気の中で、二人のやり取りを耳で追いながら冷静に状況を測っていた。


(気づいて......ない......?)


どうやらミメットに先に行くよう促してくれたあの犬と、自分自身の存在には、まだゼリィナの目は届いていない。


そう判断した瞬間、安堵する間もなく、セシルは全身の神経を研ぎ澄ませ、息を詰めながら足音を極限まで抑え、一気に廊下を抜けるべく慎重かつ素早く歩みを進め始めた。


(ごめんなさい、ミメットさん!! でも、カミュロさんとあんなふうに衝突して、契約悪魔の存在まで知っている人なんかに姿を見られたら......!)


ゼリィナが万が一こちらに目を向けてしまえば、その瞬間――自分だけでなく、ミメットまでも巻き込んで事態が面倒な方向へ転がっていく。


そう直感したセシルは、喉の奥に冷たいものを感じながら、ただ壁を伝いながら前へと進むことだけに全神経を集中させていた。


(ふぅぅぅ......存在が気づかれているなら、さっきのように突然話しかけてくるはずよ。焦っちゃダメよ、わたし)


背後のことを振り返る余裕などなく、息を殺して一歩ずつ、慎重に、それでいて迷いのない動きで廊下の先へと身を滑らせていく。


「ヴッ、ヴゥゥゥ......」


だがその横では、犬が低く喉を鳴らし、まるでセシルのの視界の届かない廊下の奥に潜む“何か”を睨み据えるかのように、地を這うような姿勢で音もなくついてきていた。


その唸り声は断続的でありながら、どこか抑えきれぬ焦燥と警告を含んでおり、セシルの背中をじりじりと確実に刺し続けていた。


(ちょ、ちょっと! そんな殺気まじりの声出さないでよっ! 感づかれたらどうする気なの〜!)


壁に背を預けながら、一歩一歩、足音を殺すように進みつつ、心の中で必死にそう訴えかけ、「しー」と指を口元に当てていた。


(この子......わたしに向けていた唸り声とは明らかに違う。やっぱり誰かが――)


ここまでゼリィナ以外の人物と出会していないという奇跡と、犬が喉の奥で低く唸り続けているという事実。その二つが重なるたびに、セシルの心は警戒と不安に強く締めつけられ、離してはくれなかった。

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