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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第88話. 失踪による決意



「ぎゃあっ、セシル様! まさか、その顔色の悪さって......! なんてことですの、いけませんわ!」


叫び声に近い悲鳴を上げたミメットは、セシルがどこか気まずそうに視線を逸らしたのもまるで気にかける様子を見せず、勢いそのままに彼へと駆け寄ると、その華奢な腕に似つかわしくないほどの力で彼の上着を掴み、躊躇いなく剥ぎ取った。


「やはり出血が。いえ、これはただ事ではない量ですわ! ほら、急いで、そのシャツまで脱いでくださいまし!」


彼女の視線の先にあったのは、肩から背にかけて鮮烈な紅を滲ませ、まるで体中の血液を吸い取ってしまったかのように赤黒く変色したワイシャツだった。


その布はもはや布と呼ぶにはあまりに脆く、濡れた紙のように形を保つのもやっとで、先程脱がされたばかりの上着にも僅かに血が広がり、赤い花のような染みをいくつも咲かせていた。


「その、これは......」


「はい、言い訳は要らないですわ! 早く、脱いでくださいましッ!」


セシルはその惨状を前にして尚、どこか気まずそうに顔を背け、逡巡の色を浮かべながらも渋々とシャツに手をかけた。


だが、ミメットの瞳に宿る焦燥と真剣さ、そして彼女の震える声に込められた必死の思いに抗う術などあるはずもなく、言い訳も反論もすべて飲み込み、ただ黙ってその指先に従った。


やがてシャツが脱がされ、あらわになったのは、包帯によってかろうじて覆われたセシルの体だった。その包帯は、染みた血によって紅と黒のまだら模様を描き、見ているだけで胸が締め付けられるような痛ましさを放っていた。


「......っ......」


その光景を目にした瞬間、ミメットは息を呑み、喉の奥で言葉を失った。しかし、それでも彼女は、震える唇を噛み締めて息を整え、細い指先で慎重に、固く結ばれた包帯の結び目へと手を伸ばした。


「......そこまでして貰わなくても、手当ては後でもしますし――」


「何をおっしゃっているんですの! これほどまでにひどい怪我を抱えながら、ただ黙って平然を装うだなんて、そんな無茶を見過ごせるはずがございませんわ! ほら、この打撲も、この鬱血も。放置したからこそ、こんなにも痕が残ってしまっているのですわよ?!」


「......」


ミメットはセシルの沈黙に小さく息をつくと、包帯を解く手を一度止め、解きかけた端を押さえたまま眉を寄せて考え込んだ。


やがて、何かを決意したようにパッと顔を上げると、勢いよく立ち上がり、スカートの裾を翻しながら部屋の隅へ駆けていった。


そして、扉の傍に置かれたリネンカートの前で彼女はしゃがみ込み、清潔そうな白いシーツを数枚引き抜くと、それらを胸に抱えて戻ってきた。


「生憎ながら今は包帯の替えがございませんわ。ですから、せめて応急処置として、このシーツを使って傷口を圧迫し、強く縛って止血を試みるしかありません! ですので、まずこちらで体を覆ってくださいまし!」


そう言ってミメットは、抱えていたシーツ内の一枚を大きく広げると、軽やかで無駄のない所作でそれをセシルの上半身にかぶせ、柔らかな布が静かに彼女の体を包み込むまで手際よく整えた。


そして、腰のあたりまで覆い終えるやいなや、ミメットは躊躇う素振りも見せずにポーチの中へと指先を滑り込ませ、そこから鋭く光を反射する裁ちばさみを取り出した。


その刃が空気を切り裂くように布へと食い込み、「シャッ」と乾いた音が規則正しく室内に響き渡る度、彼女の全身の動作と調和していた。


その手際の良さに思わず見入っていたセシルは、はっと我に返るように上体を僅かに起こし、驚きと感嘆の入り混じった声音で静かに言葉を漏らした。


「......手慣れているんですね」


「はいぃ! 実は、我がドックリー家というのは、この名の通り、古くから船に関わる仕事を生業としてきた家系なのですわ。だからこそ、あにぃと同じように、わたくしも幼いころから、身近なもので応急処置を行う方法や、海上で天気や方角を読み取る術などを叩き込まれてきたのですの!」


そう言って笑みを浮かべたミメットは、切り揃えた布を手際よく畳み直し、どこか嬉しそうに口元を綻ばせながら「実は魚も一から捌けるんですよっ」と子どものように誇らしげに付け加えた。


その言葉には軽やかで場の緊張を和らげるような明るさがあったが、その裏には確かな誇りと誠実さが滲んでおり、それを受け継ぐ者としての自負が静かに感じられた。


セシルはその一連の動作を黙って見つめながら、「もしかすると彼女の驚くほどの力持ちぶりも、こうした幼い頃からの鍛錬の賜物なのかもしれない」と、妙に腑に落ちる思いを抱きつつ、抑えきれない好奇心に背を押されるようにして、そっと問いを投げかけていた。


「なら、ミメットさんはどうして船の道ではなく、このお城に?」


問いかけを受けた瞬間、ミメットは小さく肩を震わせ、まるで心の奥底に長いあいだ閉じ込めていた秘密を突然暴かれたかのように、びくりと身を固くした。


そして、すぐに視線を逸らし、扉の方をちらちらと見やり、誰かが聞いていないか確かめるように息を潜めると、切り終えたシーツを手に取ってセシルのもとへ戻りながら、深く息を吐いて重い口を開いた。


「......そのことですが。実は、先ほどお話しした、王を信用できないという件に、深く繋がっているのですわ」


「そう、なんですか?」


セシルの声音には戸惑いが滲んでいたが、ミメットはそれに答えるように静かに頷き、細心の注意を払うような指先で血に濡れた包帯を完全に解き

いていた。


そして、もう片方の手には切り裂いたシーツの端を素早く構え、滲み出る血を押しとどめながら、一気に傷口へと押し当てた。


「ぃ.......っ......」


傷に布が触れた瞬間、セシルは顔を顰め、小さな息を漏らしながらも痛みに耐えて手当を受け入れていた。


ミメットは処置を続けながらも、何かを言い出すことを躊躇うような影が表情に差しており、言葉を探して彷徨っていた。


だが、すぐに決意を宿したように静かに息を吸い込み、唇を微かに震わせながらも、重たげに口を開いた。


「......実は、わたくしの母も、このお城で働いていたのです。けれど、前王の弟君とされる方が即位された“あの頃”を境に――姿を消してしまわれたのです」


「っ、......!」


セシルは目を大きく見開き、信じられないものを前にしたように、言葉を失ってただミメットを見つめていた。


その視線を受け止めきれないように、ミメットは困ったように小さく肩をすくめ、顔を僅かに背けながら、どこか淡々とした声音で続けた。


「正式な知らせも、儀式もございませんでした。ただある日を境に、城の中の顔ぶれが一変していて。母も、その中に含まれておりました」


ミメットはそこで小さく息を詰まらせ、震える指先をそっと押さえるようにして続けた。


「理由も、確証も、何ひとつございません。ですが――わたくしはずっと思っているのです。母は今も尚、王のもとで......秘密裏に仕えさせられているのではないかと。もっとも、これまで一度たりともお会いできてはおりませんが」


その告白は、静かな響きの奥に、胸を締めつけるような痛みを宿しており、セシルは返す言葉を見つけられず、唇を引き結ぶしかなかった。


一方でミメットは視線を落としたまま、手元の処置を続けていだが、その声には抑えきれない震えが滲み、包帯を巻く手先もほんの僅かに揺れていた。


「それに、この城で働いていた方々の多くは、もともとこの国の生まれではなく、遠い大陸から呼ばれてきた人々だったそうです。 だからこそ、もし本当に行方不明になったとしても、親族を辿って事情を聞くことすら叶わず......真実は闇の中に沈んでしまうのです」


「......では。お母さまの失踪の真相を探すために、ここで働いているののですね?」


その問いかけに、ミメットは力なく頷くと、それ以上の言葉を口にすることなく、ただ沈黙の中で手を動かし続けた。


血で滲んだ包帯を一枚、また一枚と慎重に剥がしながら、その動作にはどこか彼女自身の感情を押し殺すように、固く結んだ唇の隙間から浅い息が漏れていた。


(家に帰るはずが、行方不明......そんなはず。だって、その時に“やめさせられた”って聞いてたのに。だって、ミレイアさんも――あれ......?)


セシルは心の中で呟きながら、以前ミレイアから聞いた“城の中に漂っていた異様な空気”の話を思い出していたが、思い返せば返すほど、胸の奥にざらついた違和感が広がっていた。


いつの間にか当然のように信じ込んでいた「前提」が、もしかしたらほんの些細な言葉の取り違えから生じた誤解にすぎなかったのではないか――そう気づいた瞬間、心臓が激しく脈を打ち、熱の塊が体の奥底から突き上がるように込み上げてきた。



――『それを分かっているなら十分だよ。この城で働いているカミュロ以外の人間は、全員――先代の王が亡くなって今の王が即位したその時に、総入れ替えされたんだ』



「......っ、違う。『総入れ替え』って、“やめさせられた”って意味じゃない......? じゃあ、本当に“いなくなった”って事じゃ――」


「まだ処置は終わっておりません。どうか、大人しくお座りくださいませ!」


自分の口から思わず漏れ出た言葉にハッとした瞬間、セシルは胸の奥を焦燥が焼き付くように駆け抜け、反射的に椅子から立ち上がらずにはいられなかった。


しかし、その動きを見たミメットは、咄嗟に目を見開き、ほとんど反射のように手を伸ばしてセシルの肩を押さえた。


その手には、驚きと戸惑いの奥に、相手を思う真剣な優しさが確かに込められており、セシルは抗おうとしたものの、痛みと疲労が重なって体が言うことを聞かず、結局は椅子に沈み込むように腰を落とすしかなかった。


額に滲む汗が頬を伝い、呼吸が浅く乱れる中で、セシルは唇を噛み締め、痛みに顔を歪めながらも言葉を飲み込んだ。


彼女のそんな姿を見つめるミメットは、唇を固く結んだまま包帯を押さえる手を止め、ほんの一瞬、視線を宙に漂わせた。――今しがた耳にした“総入れ替え”という言葉が、胸の奥深くを抉るように痛み、理性の奥で押し込めていた感情を揺らしていた。


やがて、ミメットは震えそうになる指先を自らの意志で制し、静かに息を整えると、包帯の端を押さえ直してからゆっくりと顔を上げた。


その瞳の奥には、押し殺した感情と、それでも真実を見据えようとする強い意志が宿っており、彼女はまっすぐセシルを見つめながら口を開いた。


「セシル様。今のお言葉......もしかして、何かご存じで?」


その問いかけにセシルは小さく首を振ると、どこか申し訳なさそうに声を落としながらも、胸の奥で煮えたぎる焦りに背を押されるように、早口で言葉を紡ぎ始めた。


「違うんです。ただ、政権が大きく変わったときの話を教えてくれた方がいて。その人が言うには、王が交代した時期に城で働いていた人たちは皆、総入れ替えさせられたって......そう、そう言っていたんです!」


一気に吐き出した言葉は、自分の中で押さえ込んでいた不安と焦燥の塊が弾けたように止まらず、セシルは乱れた呼吸を落ち着かせようと胸に手を当て、短く息をつきながらも、真剣な眼差しでミメットを見据えた。


「――あっ、そうだ! こちらに、氷でできた狼を従えている男性と、わたしの体よりもずっと大きなカラスのような鳥を連れている女性を見かけたことはありませんか?!

 そのお二人は中央で働いている信頼できる方で、わたしにその話をしてくださったんです。もし会うことができたら、きっとこの城で起きていることについて、何か手がかりが得られるかもしれないんです!」


セシルの言葉は、胸の奥に溜め込まれていた熱が堰を切ってあふれ出すように、止まることなく流れ出していた。


その激情の波を受け止めながらも、ミメットは動きを止め、目を伏せ、しばし思考の海に沈んだように黙り込んだが、すぐに静かに首を横に振り、沈痛な面持ちで言葉を選びながら、穏やかに口を開いた。


「......残念ながら、今この場ですぐにお心当たりを示すことはできませんわ。でも、そのように際立った存在を従えている方々であれば、この城にいる誰もが目に留めるでしょうし、そう遠くないうちに姿を見かけるはずですの。

 ですから、もしお会いできたなら、その時こそ――母の件も含め、何かを伺えるかもしれません」


そこまで言い切ったものの、その声音の端には、涙を堪えるようなかすかな震えが混じり、ミメットは唇を噤んで再び包帯の処置に戻った。


セシルはそんな彼女の横顔を静かに見つめ、言葉を差し挟むこともできず、ただその手元の動きを見守るしかなかった。


(......ノエルちゃんやカミュロさんだけが残っているのも不自然。それに、王が代わった頃からノエルちゃんに“歪みの力”が現れた。

 この二つだけなら、クロノスさんに相談してから動こうと思っていた。でも――人が、忽然と姿を消している。

 もうこれは、ただの“歪み”の気まぐれなんかじゃない。クロノスさんを呼んでいる間に、誰かに“具体的で悲惨な被害”が及ぶかもしれない。

 だったら......わたしだけでも、“真相を暴かなきゃ”ダメかも)


その場に流れる沈黙は深く、包帯の擦れる音と、痛みをこらえる浅い呼吸の音だけが静かに部屋を満たしていた。


二人の間に言葉は交わされなかったが、胸の奥で燃え始めた決意と、消え入りそうな祈りだけが確かに同じ空気の中に存在し、触れ合うことなく、しかし確実に互いの心を震わせていた。

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