第87話. あにぃとの繋がり
それから数分後――緊張をほぐそうとするかのように部屋の中で深く息を整え、不安に揺れる胸をどうにか押し鎮めようとしていたセシルの耳に、やがて「パタパタ」と弾む軽快な足音が近づいてくるのが聞こえてきた。そして、まるでその音だけで部屋の空気が一変するかのように明るさを連れてくると、そのまま勢いよく扉が開かれた。
「セシル様! 廊下で座り込んでいたところを確保いたしましたわッ!」
「っ、その子です!」
視線の先に飛び込んできたのは、必死に追いかけても追いつくことすら叶わなかった犬を、小柄な身体でしっかりと抱き締めている少女の姿であった。
「良かったですわ~。ほらほら、ご主人様のところですよ~」
少女は柔らかな笑みを浮かべ、安堵を滲ませながら犬をセシルへ渡そうと、少女は両腕をそっと前に差し出した。
だが、それまで観念したように大人しく抱かれていた犬は突如として低い唸り声を漏らし、鋭い眼差しをセシルへと突き刺すように向けたていた。
「随分と反抗的ですわね......」
そのあまりに露骨な唸り声を放つ態度に、少女は小さな驚きの声を洩らし、思わず腕を引き戻して渡すのを躊躇っている一方で、セシルは苦々しい表情を向けた。
「ごめんなさい。その子、うちの子という訳ではなくて。ただ、わたしの大切な物を咥えて持って行ってしまったので。 どうしても取り返そうと思って、ここまで追いかけて来たんですよ」
セシルはまるで弁解するかのように、それでいて心の底から申し訳なさそうに肩をすくめながら事情を説明した。
すると、その言葉を受けた少女は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせたが、すぐに表情をきゅっと引き締めると、その視線を犬に向け直し、まるで咎めるように鋭い眼差しを細めて突き刺した。
「そういえば、あなた様。先ほどから口の中でもごもごしていらっしゃいますわね......。さぁっ、吐き出すのですわッ!!」
そう言い放つや否や、少女は先程までまるで壊れ物でも抱くかのように大切に胸に収めていた犬を、今度は両腕の中で小さく揺らし、まるで鞄の底を探るかのように、意外なほど容赦のない手つきで扱い始めた。
「えぇぇ、ちょっと。それは乱暴すぎるんじゃ......」
あまりに唐突で、しかも優雅さとは程遠い乱暴な仕草に、セシルは完全に呆気に取られ、半ば口を開いたまま、ただ事の成り行きを見守るしかなかった。
一方で、激しく揺すられている犬はといえば、まるで「なんだこいつは...」とでも言いたげに耳をピクリと動かし、露骨に不満の色を顔に浮かべながらも、しばらくは必死に抵抗を続けていた。
しかし、いくら足をばたつかせても振り解けないと悟ったのか、やがて観念したかのように小さく口を開いたかと思うと、その奥からキラリと光を反射する小さな耳飾りをぽとりと床へ吐き出した。
「まぁっ、こんな綺麗なものを! 呑みこんでしまったらどうするつもりだったのです?!」
少女は思わず声を上げて叱るように言いながらも、床に落ちた耳飾りを素早く拾い上げ、代わりに犬をそっと床へと下ろした。
「......」
解放された犬は尚もじっと少女を見上げながら小さな身体をブルブルと震わせ、今にも舌打をしそうな程に露骨に不満げな態度を隠そうともしなかった。
「べとべとに汚れてしまっていますね。こちらはわたくしが綺麗に拭かせていただきますね!」
「ありがとうございます。何から何までご迷惑を......」
セシルは耳飾りが無事に戻ってきたことを確かめるように胸を撫で下ろし、安堵の吐息を零していた。
しかしその一方で、少女はどこから取り出したのか真新しい真っ白な布を器用に広げ、耳飾りを壊さぬよう細心の注意を払いながら、丁寧かつ手際よくその表面を拭い清めていった。
「これほどまでにして、この子はいったい何をしたかったのでしょうね?」
少女は磨き上げていく耳飾りに視線を落とし、不思議そうに小首を傾げながら、それでも「とても綺麗なお品ではありますけれど」と小さな誉め言葉を添えて、柔らかな声音で微笑んだ。
セシルは拭かれていく耳飾りを心配そうに見守りつつも、あれ程逃げ回っていた犬が、今も尚決してこちらへは寄ろうとせず、むしろ低く唸り声を洩らして距離を取ろうとする様子に、どうしようもなく苦笑を浮かべるしかなかった。
(やっぱり、どうにも腑に落ちないな。ただ遊んでほしかったというより、意図してわたしを誘導しようとしていた、と考える方がしっくり来るのよね......かなり嫌われちゃってるけど)
ノエル達と共に魔獣に襲われた、あの不可解なタイミングの出来事が脳裏を掠め、理屈では説明のつかない小さな不自然さがいくつもいくつも積み重なって重みを増していった。
そんな中で、セシルは次第に眉間を寄せ、語るべき言葉を失ってひとり沈黙し、ゆっくりと思考の迷路に足を踏み入れていった。
やがて、じっとこちらを見据え続ける犬の視線に遅れて気づいたセシルは、気持ちを紛らわせるように片手を持ち上げ、指を折って小さな爪の形を作ると、そのまま「ガウッ」と息を短く噛むような声を上げ、子どもじみた威嚇の真似事を返してみせた。
「............」
その行動を目ににした途端、犬は一拍だけ驚いたように瞳孔をきゅっと収縮させて大きく目を見開き、ほんの刹那だけ戸惑いの色を宿したが、それもすぐさま霧のように消えた。
「フンッ」
そして、何事もなかったかのように視線をそらしてわざとらしく鼻を鳴らすと、呆れ返ったというふうに踵を返し始めた。
尻尾を高々と一度だけピンと立てて見せびらかしてから、ばさりと勢いよく下ろし、すっかり愛想が尽きたとでも言いたげに、ゆっくりと間合いを広げていった。
子ども扱いされて軽い遊びに付き合わされたあげく笑い飛ばされたようなその態度に、セシルは思わず「ぅなっ!」と小さく声が漏らし、頬の内側からじんわり熱が差してくる気まずさを覚えていた。
やがて、自分の片手がまだ威嚇の形のまま固まっていることに気づくと、彼女ははっとして指をほどき、恥ずかしさを押し隠すようにゆっくりと胸元へ手を戻し、深く小さなため息を一つ吐いて肩を落とした。
すると、ちょうどその気配を見計らったかのように、拭き上げを終えた耳飾りを手にした少女が軽やかな足取りで近づき、両の掌にしっかりとその小さな輝きを握らせるように返してきた。
「しかと、拭かせていただきましたわ。どうぞお受け取りくださいませ!」
「っ、ありがとうございます!! 本当に......よかったぁ......」
セシルは返された耳飾りに視線を落とし、両手で胸元へと大切そうに引き寄せ、抱きしめるかのような大きな安堵の表情を浮かべた。
少女もまた、その姿を見て同じようにほっと目を細め、ふっと柔らかく微笑んだのち、僅かに視線を落として短く思案する素振りを見せた。
「セシル様がここにいらっしゃるのを見つかっては大変ですからね〜。 今の時間帯でしたら、ちょうど護衛の者が廊下を行き来し始める頃合いかと思いますので、どうか少しの間だけでもこちらでお休みになってくださいませ」
「え。でも、それではあなたにご迷惑を......!」
セシルは慌てて椅子から立ち上がりかけ、勢いのまま口をついて出た言葉を放ったが、少女は静かに首を横に振り、落ち着かせるように彼女を座らせながら穏やかな声音で言い切った。
「大丈夫ですわ」
その揺るぎない調子に、セシルは尚も不安を湛えた視線を向けていた。
だが、少女はその表情を受け止めつつも、ふいに小さく両手を合わせ、満面の笑みをぱっと咲かせながら、弾む声で空気を和らげた。
「それに何より、あにぃからのお墨付きがあるのですもの。 ご迷惑などあろうはずがありませんわよ!」
朗らかで、どこか誇らしさすら帯びた少女の声音に、セシルは思わず驚きで目を丸くし、次の瞬間には緊張でこわばっていた肩の力が自然と抜け落ち、僅かに体の強張りを解いた。
「あにぃが言ってた通りの素敵なお方で。わたくしとても感激ですわ〜」
しかし、目の前で再びきらきらと瞳を輝かせ、期待に満ちた真摯な眼差しを惜しげもなく向けてくる少女に晒されると、セシルはどうにも落ち着かず、居心地の悪さを紛らわせるように苦笑を浮かべるしかなかった。
「あにぃって兄、の事ですよね? もしかして。姓はイングレアム、とかそういうお名前ではありませんか? 知っている男性と言えば、ほんの一人しか思い浮かばなくて......」
――イングレアム。その姓は、カミュロが呼ばれていた名であり、この王国に来て以来、セシルが心から信頼し、関わりを持った存在といえば彼以外に到底考えられなかった。
だからこそ確証もないままにその名を口にしてしまったことに、セシルは自分でも軽率さを覚え、言葉の終わりを萎ませるように小さく弱々しく締めざるを得なかった。
「......イングレアム??」
しかし、その名を耳にした少女は、まるでリスのように不思議そうに首を傾げると、すぐにぱっと華やかな笑顔を咲かせ、胸元に手を添えながら堂々とした声音で名乗りを上げた。
「いえいえ、違いますわ。わたくしはミメット・ドックリーと申します! セシル様――昨日こちらへ向かう船に乗っていらっしゃいましたでしょう? あにぃはその船員のひとりなのですわ!」
唐突に突きつけられた名と事実に、セシルは喉の奥で言葉がつかえてしまったように声を失い、ただ曖昧に「えっと...」と漏らすのが精一杯だった。
しかしミメットの口から出た「昨日の船の船員」という言葉が心の奥に引っかかり、その響きを頼りにして、王国へ渡るために乗り込んだあの船の光景を必死に記憶の底から掘り起こそうとした。
(昨日の船員さん......だよね? 確か、あのとき――あっ......!)
その瞬間、脳裏に鮮やかに蘇ったのは、王国へ渡る前に乗ったあの船での出来事と落ち着いた低い声――まさにあの人の声であった。
――『お声をおかけして申し訳ありません。実はお客様が向かわれていた方向は、宿泊客用の個室が並んでいる区域でして。ご案内いたしますので、こちらへどうぞ』
――『お客様。もしあの空間があまり得意でないようでしたら、中に入って右手奥にある階段を上がると、甲板へと出られますよ。貴族の方々はまず行きませんし、風も心地よくて海もよく見えます。少し気持ちを落ち着けるには、ちょうど良いかと思います』
――『言い訳がましく聞こえてしまうかもしれませんが、どうにも、妹に重ねてしまいまして。お互い、職業柄、長年会えておらず、ずっと手紙でしかやり取りできていなくて......』
思い出の断片が繋がり合い、胸の奥でひとつの輪郭を形作ったとき、セシルははっと息を飲み、思わず声を張り上げていた。
「あっ! もしかして、あの人が......! たしかに、妹さんがいるって.....!」
「はいぃ! ずばり、そちらのお方があにぃでございます!」
少女が弾む声で答えた瞬間、セシルの記憶には、船に乗った直後、右も左もわからずに戸惑う自分を穏やかに導いてくれたあの人物の姿が、白を基調とした制服の清廉さと引き締まった体つきの輪郭ごと鮮明に蘇っていた。
彼はただ道案内をしてくれただけではなく、王国でどう振る舞うべきかも丁寧に教えてくれた。外を歩く際には必ずマントを身につけるべきだと諭し、人目を避けるなら甲板が良いとあえて静かな場所を勧めてくれたのも彼であり、そのひとつひとつの言葉には他者を思いやる温かさと、旅の不安を支える頼もしさが宿っていた。
その姿を胸に思い出していたセシルに向かい、ミメットは嬉しそうに再び瞳を輝かせ、誇らしげに声を弾ませて告げた。
「あにぃが手紙で書いてくださったのです。綺麗な黒髪を持つ、わたくしと同じくらいの子が、わざわざ丁寧にお礼をしてくださったって!」
「......」
セシルはその言葉に一瞬、返すべき声を失い、ただ小さく息を呑むしかなかった。しかしミメットは、彼女の沈黙を読み取ったかのようにぱっと表情を明るくし、先回りするようにさらに言葉を重ねた。
「まっ! もしかしまして、『その程度で』などとお考えになられて? あにぃは普段、貴族様方にお仕えするばかりで、お礼どころかまともにお言葉をいただくことすら滅多にないらしいのですわ。だからこそ、あなた様の些細なお心遣いがどれほど嬉しかったか、わたくしには手紙の文字からでもはっきりと伝わってきたのですのよ!」
ミメットは、まるでその場に自分も居合わせていたかのように身振り手振りを交えて生き生きと語り続け、誇らしげに兄を讃える言葉を並べていたが、セシルはなおも戸惑いを拭えず、どこか納得しきれないような表情を浮かべて口を開いた。
「その...... 感謝しているのは、むしろわたしの方です。 それより、それだけでわたしを匿う理由になるのでしょうか?王女様のことは城の方なら皆ご存じのはずですし、噂が広まっている以上、黒髪を持つわたしの事も......」
静かながらも真剣な問いを投げかけるセシルの声音に、ミメットはぱちんと両手を愛らしく合わせ、首をかしげながらもにこやかに微笑むと、柔らかくしかし迷いのない調子で口を開いた。
「たしかに、噂では黒髪の少女が王女様の側仕えを務めていると囁かれておりますわ。でも、わたくしはあにぃからお話を伺っておりますから、あなた様がそのような立場でないことは存じておりますの。それに――」
そこで一度言葉を切ったミメットは、ふいに視線を落ち着きなく部屋の隅や扉の方へと走らせ、誰かに聞かれていないか確認するようにそわそわと周囲を見回した。
そして次の瞬間、小柄な身体で軽やかにセシルへと歩み寄り、すぐそばまで近づくと両手のひらを口元に添え、吐息がかかるほどの距離で声をひそめて囁いた。
「それに......実を申せば、わたくしも、そしてあにぃも、今の陛下を心の底から信じてなどおりませんのよ。 だからこそ、噂がどうであれ、あにぃが認めたあなた様を匿うことに、わたくしには迷いも躊躇も一切ございませんの」
「えっ、信じられない?」
セシルは反射的にそう返しかけたものの、脳裏に浮かんだのはこれまで抱いてきた疑念だった。確かに今の王には、歪みの力や精霊との不穏な関わりがあるのではないかと感じていたし、その真偽はわからぬままでも、どこか怪しいのは間違いない。
だが、それらの存在とは無縁に見えるミメットまでもが、どうしてその王に対して不信を抱いているのか――その理由は見えず、疑問は募るばかりだった。
「でも、あなたのような立場の人が、どうして――」
けれどもセシルがその問いを口にしようとするより早く、ミメットはふと彼女の肩に視線を落とすと、次の瞬間にはまるで怪異を目撃したかのように小さく跳ね上がり、甲高い悲鳴を上げた。




