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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第一部. 契約悪魔と精霊の交差点:忘却の契約と廻る歯車
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第9話. 消えゆく温もり



現実に引き戻されたクロノスの目の前には不機嫌そうな声を漏らすアキラが立っており、鋭い眼光でこちらを睨みつけていた。


「おい、クロノス。何をぼんやりしている」


「ア...アキラ様...」


クロノスは、胸に湧き上がる過去の記憶を振り払うように首を軽く振りながら答えた。


ふと、クロノスの視線がアキラの腕に移る。


その片手が不自然に腫れ上がっていることに気づいた瞬間、彼は眉をひそめる。ほんの短時間で何があったのか。そんな疑問が頭をよぎり、恐る恐る尋ねた。


「......その手は?」


その問いに、アキラはまるで待ち構えていたかのようにニヤリと笑みを浮かべ、腫れ上がった手をわざとらしくクロノスに突き出して見せつけた。


「これか?面白いだろう?セシルにやられたんだよ...。あいつ、精霊様の器と完璧な逸材だと思わないか?」


アキラの言葉にセシルが攻撃したのかという驚きと、その背後に潜む事情を考えて思わず眉をひそめながら口をつむいでしまう。


「おっと、ついでにこの剣だ。新しいのを作れ。少し欠けてしまってな」


そう言いながら、アキラは袖の中から、あの深紅の短剣を取り出すと、向かって無造作に放り投げた。


その剣は綺麗にひとつの軌道を描きながら、クロノスの眼前がんぜんへ飛んだ。


クロノスは瞬時に鎖を空中に召喚し、容易に絡め取った。その瞬間、鎖を伝うように数滴の液体が地面に落ちてくるのが見えた。


(血、だと......?)


その瞬間、クロノスの瞳が僅かに揺らいだ。よく見ると、短剣には新鮮な血が付着し、異様な光を放っている。


すると、その視線を察したアキラは、ゆっくりと口角を上げ、話し始めた。


「ああ、それ...?それは、セシルの血だ」


その一言で、クロノスの心臓が鷲掴わしづかみにされる感覚に陥った。背筋に冷たい戦慄せんりつが走り、喉の奥で言葉が詰まってしまう。


「何が...あったんですか?」


クロノスの声は冷たく冷え切り、底知れない怒りが滲み出ていた。


その怒りを押し出さないように、無意識に拳を握り締め、爪が肌に食い込むほどで、わずかな痛みを頼りに感情を抑え込んでいた。


しかし、アキラはそれを意に介さず、気楽な口調で続ける。


「いやぁ、あまりにも精霊様としての態度がなってなくてね。少しばかり教えてあげたんだよ。まあ、これでも怒りは随分と抑えたつもりだ。致命傷は追わせてないし、顔周りだって傷つけていない。それに包帯くらいは巻いてやったからな」


その「いかにも自分は慈悲深い」という態度が、クロノスの怒りにさらに火を注いでいた。


「......この短剣に、俺の力が込められていることで、普通の傷ではあり得ないほど、治りにくいことも知っているはずだ。それにも関わらずこれで...」


クロノスは低く抑えた声で告げた。


その声音には震えが混じるものの、それを悟られまいと必死に平静を装っている。


「あぁ、確かにそうだったな。でもさ、そんなこと、心のない契約悪魔なら、目を瞑って鼻で笑って流せばいいじゃないか?」


アキラの言葉には、挑発と嘲笑が絡み合い、その軽薄な態度がクロノスの神経をさらに逆撫でする。


「......以前とは違うその態度、俺との契約の代償が、そんなにもあなたを狂わせているのか?」


クロノスは冷ややかな声で投げかけたが、アキラはその問いをむしろ面白がるように笑った。


「代償...?あぁ、“魂の損失”だっけな?確かにね。精霊様の話になると、どうにもこう...抑えが効かなくなって来ている。自分でも驚くくらいだ。ほら、陽気な僕が少しずつ消えつつあるだろ?」


アキラはわざとらしく肩をすくめ、皮肉っぽく笑みを浮かべる。


その目には理性の光が薄れ、どこか狂気を宿した輝きが見えていた。


「でもさ、精霊様の力に触れられるなら、そんなものは些細な代償だよ。それだけの価値がある――」


その言葉がクロノスの耳に届いた瞬間、胸の奥に押し込めていた怒りが一気に膨れ上がっていた。


(それ以上彼女たちを苦しめるな...!)


クロノスの心の叫びが体中に響き渡ると同時に、空中で短剣を絡め取っていた鎖がまるで意思を宿したかのように激しく揺れる。


そんなクロノスの様子に気づいたアキラは、ますます愉悦ゆえつに浸り、挑発を加速させた。


「どうした、クロノス?僕を絞め殺したいか?でもできないよな、契約悪魔のお前にとっては、僕はお前の契約者だ。僕に逆らうことは絶対にできない。...そうだろ?」


クロノスは唇を噛み締めながら、何も答えない。


「それとも、あの二人を守りたいとか思ってる?......笑わせるなよ。お前にそんな資格も力もない。あいつらなんて、お前にとってはただの――」


「黙れ!!!」


クロノスの怒声が響いた瞬間、鎖が大きくうねり、掴んでいた短剣ごとアキラの耳をかすめる勢いで地面に叩きつけられた。


その衝撃で短剣は粉々に砕け散り、周囲の空気が一瞬で張り詰めたが、アキラはその空気を無視するように目を細め、わずかに口元を歪めていた。


「いやぁ、直接僕を攻撃しないあたり、律儀なもんだよな、お前」


アキラの冷笑が、クロノスの心に鋭く突き刺さる。


(やはり......俺には、何もできない......)


無力感が、燃え盛る怒りと共にクロノスの胸をむしばんでいく。その様子を眺めながら、アキラは勝ち誇ったように笑みを浮かべながらもどこか、先を見ている真剣な表情で言葉を続けた。


「いいか、クロノス。忘れるな――契約に縛られているのは僕だけじゃない。お前もまた、この僕に縛られている。それにだ、僕の願いは、自分の命を賭けてでも叶えたいもの...。だからこれからやることを止める気はない。絶対に、な」


クロノスは拳を震わせながら、アキラを睨み続けることしかできなかった。


怒りと悔しさを抱えたまま、アキラの背中を見送るほか、何もできなかった――それが、クロノスの現実だった。




❀❀❀



あれから、数年の歳月が過ぎた――


その間に、セシルの様子は大きく変わり果てていた。


セシルの姿は、かつての彼女を知る者が見れば、もはや別人のように思えるほどだった。


初めてここに連れてこられた頃の、相手を守ろうという強い意思を持った少女の面影は、どこにも見当たらない。


日々の「教え」と称した厳しい規律の中で、彼女は少しずつ、自分自身の感情を押し殺す術を学んでいた。笑うことも、反抗することも、自由に振る舞うことも許されない環境。


そして、また今日も――。



「あ...アキラ様...お帰りなさいませ...」


セシルはかすかな声で言いながら、まるで王族に仕える者のように、完璧な口調と姿勢で深々とお辞儀をした。


その動きには一切の無駄がなく、機械的で冷たさすら感じさせる。


アキラに目を合わせることすら恐れているのか、彼女の視線は床に固定されている。その態度は、アキラによる教えの賜物だったのだろう。


セシルがそうして挨拶をした瞬間、アキラの冷たい視線が彼女を射抜いた。


「ちっ、無駄な口を開いて喋りかけようとするな。今は機嫌が悪い...」


低く鋭い声が空気を切り裂く。彼の苛立ちが滲み出たその言葉に、部屋の中の空気が一瞬で張り詰めた。


「はい......申し訳ありません......」


セシルはさらに背筋を伸ばし、怯えるように小さな声で返事をした。その声は、まるで今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。


セシルは視線を下げ、じっと足元を見つめていた。息をすることすら間違いではないかと思わせるほど、アキラの存在は彼女にとって圧倒的で恐ろしいものだった。


徹底的な礼儀作法の強制がいつ始まったのか、それすら思い出せないほど、セシルはその環境に染まっていた。


かつて笑顔を絶やさなかった少女は、今や感情を押し殺し、ただ命令に従うだけの存在へと変わりつつあった。


食事の席での些細なミスですら、「精霊様を侮辱した」と罰を与えられる日々。アキラの冷たい声が彼女の心に突き刺さる。


その言葉は幾度となくセシルの心に刻まれ、彼女の中にあった反発心や怒りを徐々に削り取っていった。


「さて、今日の『食事会』はなしだ。それを言いに来ただけだ。食事はクロノスに持って行かせる」


「...はい。ありがとうございます...」


セシルは微かな安堵を覚えたが、その感情が表情に出ることはなかった。ただ、アキラが去るのを待つだけだった。


「くそっ、”純粋な器”が...いや、”聖受”が失敗したのも問題がある...」


そう、呟きながら彼の足音が遠ざかり、やがて扉が閉まる音を聞いていたセシルは小さく息を吐いた。


恐怖と緊張がわずかに和らぐが、胸に残る不安は消えることはなかった。


そんな時だった――扉が開く音が響き、セシルはアキラがまた来たと思い慌てて顔を上げた。


すると、扉の向こうには、食事を持ったクロノスが立っていた。


彼と顔を合わせるのは、エルナと引き離されて以来、実に数年ぶりのことだった。


「お、お久しぶりです...クロノス様...」


セシルは慌てて姿勢を正し、深々と頭を下げて挨拶をした。


その仕草にはアキラの厳しい躾が色濃く刻み込まれており、クロノスはその変化に目を見張った。


クロノスの視線には、傷だらけのセシルの姿に向けられていた。


擦り切れた服、手足にはクロノスによって作られた剣で刻まれた傷跡と雑に巻かれていた包帯――

一瞬、クロノスは戸惑いの表情を見せたが、静かに息を吐き、口を開いた。


「......そんなに形式ばる必要はないよ、セシル。以前のように接してくれて構わない」


その言葉は、セシルの心に一瞬だけ温かな光を灯していたが、彼女は深く頭を下げたまま、小さな声で答えるだけだった。


「申し訳ありません。....心遣い感謝します、クロノス様」


その「様」付けには、かつてとは異なる意味合いが含まれているようで、クロノスは一層心の距離を感じていた。


やがて気まずさを破るように、クロノスはポケットに手を入れた。


だが、何かを取り出そうとするが、指先が一瞬止まり、また引っ込める。その動作が二度、三度と繰り返されるたび、セシルは不思議そうに顔を上げ、首を傾げた。


「......クロノス様?」


その呼びかけにようやく決心がついたのか、彼は小さく息を吐きながらポケットから小さな耳飾りを取り出した。光を受けてわずかに輝くそれを、セシルに差し出す。


「......セシル、話したいことがある。まず、これを...渡すよ。」


クロノスの声はかすかに震えていたが、それに気づく間もなく、セシルは彼の手元に目を奪われた。


「これ、お姉ちゃんのですよね!」


セシルは瞳を輝かせながらそれを両手で受け取り、驚きと喜びが入り混じった表情を浮かべた彼女は、耳飾りを大事そうに包み込むように握りしめていた。


その喜びが顔全体に現れ、彼女はまるで子供のように無邪気に笑った。


「お姉ちゃんがわたしのために届けてくれたんだ...!」


嬉しそうに声を弾ませながらセシルは耳飾りを耳に付け、満面の笑みを浮かべた後、ポケットからもう一つの耳飾りを取り出し、それを誇らしげにクロノスに見せた。


「わたしもこれ、持ってるんです! お姉ちゃんとお揃いの! 今は会いに行けないので、代わりにクロノス様が届けてくれますか? きっと喜んでくれますよね?」


無邪気な笑顔を見たクロノスはなぜか、セシルから視線を逸らし、拳を握りしめていた。


「......エルナは」


クロノスは一度深く息を吸い込むと、震える声で続けた。


「エルナは......もう、会いに行けないんだ」


その一言が空気を変えた。部屋の温度が一気に下がったような感覚が広がり、セシルの笑顔が一瞬で凍りついた。


「......え?」


セシルの目が大きく見開かれ、動きが止まった。


理解しようとする眼差しでクロノスに向けるが、彼はそれに答えらないまま、彼の視線はどこか遠くを見つめ、手のひらに力を込めているだけだった。


「どういうこと...?お姉ちゃんがどうしたの?....まさか、大きな怪我をしたの?それとも、重い病気にでもなったの?」


セシルの声が震え始める。言葉を続けることができなくなった。彼女の目には不安と焦りが入り混じり、口元が震えていた。しかし、クロノスは沈黙を守り、小さく唇を噛みしめていた。


「ねえ、クロノス様!どうして黙ってるの?」


セシルは、耳飾りを持つ手とは逆の手でクロノスの服を掴み、必死に揺さぶる。その揺さぶりが、部屋の中に響き渡った。


クロノスはその手を感じながら、すぐに返答をしようとしなかった。ただ、彼の顔には深い苦悩が刻まれていた。


「エルナは.....」


彼が口を開きかけた瞬間、セシルは恐怖に支配されたかのように叫んだ。


「お姉ちゃんはどうしてるの!ねえ、何とか言ってよ!!」


その叫びが空間を震わせ、緊張が最高潮に達したそのとき、クロノスは低く震える声でようやく言葉を絞り出した。



「......彼女は......《《死んだんだ》》」


その瞬間、セシルの目から光が失われ、全身が固まったように動かなくなった。


言葉の意味が頭に入るのに時間がかかり、彼女はその事実を理解しきれないまま、声を振り絞るように呟いた。


「......え、やめてよ。そんな冗談......いくらクロノス様でも、そんなの感じ悪すぎるよ......ねぇ.......」


しかし、クロノスは顔をそらしたまま、小さく首を振るだけだった。頬を伝う一筋の涙が、言葉以上の重みを持っていた。



――嘘ではない。



理解した瞬間、全身の力が抜け、セシルの指から耳飾りが滑り落ちた。硬い音を立てて冷たい床に転がっていた。


空虚な音が部屋の沈黙を切り裂き、セシルの胸の奥で膨れ上がる虚無感を浮き彫りにする。


全身の力が抜け、崩れるように膝をついた彼女は、震える手で耳飾りを拾おうとするが、うまく掴むことができなかった。


「お姉ちゃん.....なんで.....」


心が壊れていく感覚が、彼女の中で膨れ上がり、押し寄せる現実に足をすくわれていた。


彼女の言葉にならない呟きが、空気に消えずに残り、クロノスはその声を聞きながら、無言でただ彼女の側に立っていた。


その間、二人の間に流れる沈黙は、何よりも重く、深かった。

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