第86話. お転婆な力持ち
セシルはただひたすらに、目の前を駆けていく犬の背中を追い続けていた。必死に腕を振り、足を前へと投げ出し、無理をすればするほど体の隅々にまで痛みが広がり、焼けつくような苦しさが胸の奥で膨らみ、肺の奥深くから酸素という酸素が奪い去られていくような感覚に苛まれていた。
やがて、視界の端にはじんわりと白い靄が滲み広がり、世界の輪郭を曖昧にしていき、足取りはまるで鉛の塊を絡みつけられたかのように重くなっていた。
最初こそ焦燥と気力だけで無理やり維持していた速度も、刻一刻と削ぎ落とされていき、気がつけばすでに走りの勢いを保つことすら困難になっていた。
「はぁ......っ、はぁ......っ......ま、待って......っ、ぁ......」
掠れた声が、途切れ途切れの呼吸の狭間から零れ落ち、人気のない広大な廊下に虚しく反響する。
だがそれは誰の耳に届くこともなく、響きが掻き消えるよりも早く、セシルの視界は大きく揺らぎ、全身の力が音を立てて崩れ落ちるように抜けていく感覚が彼女を襲った。
思わず膝から床に崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、片膝を沈める形で辛うじて体を支えていた。
肩に走る鋭い痛みに耐えるかのように片腕で強く押さえ込み、震える指先を喉元から鎖骨のあたりへと這わせ、そこにかすかに残る熱を探り当て、その温もりを頼りに意識が途切れないよう歯を食いしばった。
「はぁ......はぁ......」
だが、そんな必死の姿を嘲笑うかのように、霞みかけた視界の奥には、走り去ったはずの犬がなぜか立ち止まり、逃げ出す気配を見せることなく、ただじっとこちらを振り返っている影が浮かび上がっていた。
(......もうっ、どうしてよ。あんなに必死に逃げていたのに......なんでこっちの様子なんて見てるのよ......)
苛立ちと困惑がないまぜになった感情が胸の奥で燻るように渦巻き、それに呼応するかのように犬は口に咥えていた耳飾りを床へとぽとりと落としていた。
そして、むしろ挑むように距離を一定に保ちながら首をかしげ、「追ってこい」とでも言いたげに挑発する仕草を見せていた。
「......っ」
霞む視界の中でその姿を捉えたセシルは、潤む瞳の奥に残されたわずかな光を無理やり引き絞るようにして犬を睨みつけ、全身を圧し潰すようにのしかかる重みに抗うかのように必死で体を叩き起こそうとした。
だがその気配を敏感に察した犬は、耳をぴくりと震わせたかと思うと、慌てて床に置いた耳飾りを再び咥え直し、今にも飛び出す準備を整えるかのように身を低く伏せ、後ろ足に力を込めていた。
(はぁっ.........うぅ。苦、しい......もう.......これ以上は――)
無理やり鞭打つように立ち上がったものの、全身に力が漲ることはなく、腰にぶら下がる剣の重みすら足枷のように感じられ、体を再び床へと引きずり落とそうとしており、セシルの身体はその重みに抗えず、今にも再び崩れ落ちそうに傾いていた。
だが、その時――ガチャリ、と重い金属が噛み合う音が突如として廊下に響き渡り、ほぼ同時にカラカラと小さな車輪が石床を転がる乾いた音が、規則的に一定の間隔で近づいてくるのが聞こえた。
(......ッ今の、扉の音)
セシルは、心臓を鷲づかみにされたかのような張り詰めた緊張に全身を縛り付けられ、思うように身じろぎすることさえ許されぬまま、ただ必死に視線をねじるようにして音のした方角へと向けるしかなかった。
犬を見失ってはならないという焦燥と、正体もわからぬ何者かが迫ってくるという恐怖とが胸の奥でせめぎ合い、どうにもならない圧迫感が息を奪い、石のように体を固めていくのを、ただ必死に耐えるしかなかった。
そして、痛みを堪えるように顔を上げて向けた視線の先――開きかけた扉の隙間から差し込む外光に輪郭を切り取られるように、ひとつの人影がゆらりと浮かび上がった。
「まっ! あなた様、お顔がそんなに青ざめて! 大丈夫でいらっしゃいますの?!」
慌てた声と共に姿を現したのは、シーツや掃除道具を山のように積み上げたリネンカートを押しながら廊下に出てきた、小柄な少女であった。
セシルと年の頃はさほど変わらぬように見えるその少女は、頭に白い小さな帽子をちょこんと載せ、膝下までをすっぽりと覆うロングスカートの制服を身につけており、その服装が一目で彼女の立場を語っていた。
リスのような小動物を思わせる愛らしさを宿しながらも、その驚愕に大きく見開かれた瞳は、場違いなほど鋭く、正面からセシルを射抜く力を秘めていた。
「あなた様、 そんなふらついて! どうか倒れないでくださいまし~!」
少女はリネンカートから両手を放すと、スカートの裾を高く持ち上げて翻し、細い足をせわしなく動かしてセシルのもとへと駆け寄ってきた。
(......知らない人? と、いうことは......ここは......まさか、城の中央......。わたし、いつの間にか......どうしよう......)
犬を追うことに夢中で気づかぬうちに踏み込んでしまったこの場所が、かつてカミュロから決して近づいてはならぬと厳しく言い含められていた領域――すなわち城の中央部分であると悟った瞬間、セシルの胸は氷で覆われたかのような焦燥に締め付けられ、駆け寄ってくる少女の存在を正面から受け止めることができず、慌てて視線を逸らしてしまった。
「あら? あなた様......その髪の色、それに見慣れぬお召し物......」
少女は軽く膝を折り、セシルの顔を覗き込むように身をかがめると、沈黙を守る彼女の表情を一瞥し、次いで黒く艶やかな髪を凝視し、腰に吊るされた剣や衣装へと素早く視線を走らせると、やがて何かに思い至ったように口元へ手を添え、不思議そうに小さく首を傾げていた。
「も、もしかしまして......あなた様! あにぃが仰っていたお方ですの?! しかも噂のお方ですわ!!」
「......ぁ、あにぃ?」
セシルの揺らぐ視界には、両手で口を覆いながらも驚愕を抑えきれず叫ぶ少女の姿が映り、その言葉の真意を測りかねて思わず首を傾げたものの、結局は問いただす言葉を呑み込むしかなかった。
「ハッ! こんな場所ではいけませんわ!」
すると、少女ははっと息を呑んで肩を震わせ、次の瞬間には警戒するように周囲へ鋭く視線を走らせると、迷うことなくセシルの肩へ両腕を回し、小柄な体躯からは想像できぬ力で彼女をひょいと抱え上げた。
突然訪れた浮遊感にセシルは思わず「きゃ」と小さな悲鳴を上げ、反射的に身をよじって抵抗しようとしたが、少女は慌てて声を張り上げた。
「暴れないでくださいましッ! あなた様が見つかったら、本当に大変なことになりますの!だから、今は隠れますわよ!」
「っ、待ってください!あの子が、わたしの――!」
必死に抗議の声をあげるセシルをよそに、少女は一切耳を貸すことなく歩みを速め、リネンカートの横を抜けて扉の内側へと飛び込んで行った。
肩でカートを押しのけながらストッパーを外して音を立てて閉ざすと、そのまま彼女を抱えたまま部屋の中へ踏み込んだ。
そして少女は、セシルの体を慎重に抱きとめ、柔らかな枕に触れるかのような仕草で「パフッ」と小さな音を立てて椅子へ座らせると、自らの額に腕を押し当てて大粒の汗を拭い去り、長く息を吐き出しながらようやく安堵のにじむ声を漏らした。
「ふぅー......ひとまず、ここなら大丈夫ですわ。他の者たちはちょうど別の部屋の掃除に出ておりますから、誰にも気づかれずに済みましたわ!」
少女が胸をなで下ろすように吐き出した安堵の声は、その場の空気を僅かに和らげたが、セシル自身にはそれを受け止める余裕などなく、椅子に腰かける気力さえ失った彼女は結局床を選ぶしかなく、重たげに身体を沈めるようにして座り込んでいた。
やがて小さく肩を上下させながら、狭い部屋の隅々へと視線を一度だけ巡らせてみせたものの、すぐにその眼差しは宙へと彷徨い、今この瞬間に意識の大半がここではないどこかへ置き去りにされているかのように、深い沈黙の中でただじっと身を留めていた。
(......ど、どうしよう)
彼女の胸を覆っていたのは他でもなく、犬が咥えて走り去った耳飾りの行方であり、どれほど気を逸らそうと試みても決して抜け落ちることはなく、忘れようとすればするほど逆に鮮やかに思い起こされ、息苦しいほどの焦燥をかき立てていた。
(完全に持って行かれちゃった。それに、あの子。毛並みを見れば飼い犬というより野良に近い子に違いないし、このまま放っておけば、きっと見つかって追い出されてしまう......)
焦燥に似た思考の渦に囚われ、床の一点を凝視したまま孤独に沈んでいたその時、再び耳に届いたのは少女の明るく弾むような声であった。
「あなた様、もしかして――いえ、もはや“もしかして”などという遠慮は不要ですわね。 街中で王女様をお守りになったと噂されている、そのまさにお方でいらっしゃるのでしょう! その艶やかな黒髪の色合いは、この辺りでは滅多にお目にかかれませんもの! ぜひとも、お名前をお聞かせ願えますか?!」
「あ。えっ......っと、セシル......です」
反射のように顔を上げてしまったセシルは、無意識のまま答えを口にしていた。
視線の先に立つ少女は、両手を胸の前でぎゅっと組み合わせ、宝石のように輝く瞳を真っ直ぐに向けて、期待と好奇心を惜しげもなく表情に浮かべながら食い入るようにセシルの顔を覗き込んでいた。
その真っ直ぐすぎる眼差しは刃物のように鋭さを秘めていながらも、裏打ちされているのは純粋さゆえの圧力であり、セシルはその勢いに気圧されて戸惑いを覚え、名前を答えた瞬間にはもう思わず視線を逸らしてしまっていた。
(王女様って......もしかして、ノエルちゃんのことを指しているのよね? どうしよう、下手にごまかそうとすれば、きっとすぐに見抜かれてしまうだろうし......)
胸の奥で必死に答えを探しながらも言葉にできず、沈黙のまま固く唇を閉ざすセシルの様子を、少女はしばし黙して見つめていたが、やがてその顔をすっと引き、先程までの弾むような笑みを少しだけ落ち着かせると、両手でスカートの端を丁寧に摘み上げ、洗練された所作を伴って優雅に一礼してみせた。
「どうかご安心くださいませ、セシル様。わたくしは、あなた様に敵意を抱く者ではございません。ですが――なぜあなた様がこの場におられるのでしょう?」
少女の穏やかな言葉は柔らかな響きを帯びていたが、その問いかけの意味は重く、セシルの胸の奥深くに突き刺さるように沈み込み、彼女はどう答えるべきかを見失い、迷いを抱えたまま唇を固く結んで沈黙を守るしかなかった。
けれどもその瞬間、不意に「うぅぅ、わんっ」と甲高く、しかし必死さを孕んだ犬の鳴き声が、扉の向こうの廊下から響き渡り、その鋭い声にセシルの全身は反射的にびくりと震え、堪えきれず顔を勢いよく上げてしまった。
「今の声?! わたし、あの子を追いかけてここまで来たんです!!」
「まぁっ! 犬でございますの?! そんな大事なこと、どうして早く仰ってくださらなかったんですの! 少々お待ちを、わたくしが確かめて参りますわ!」
少女はそのただ事ではない気迫を敏感に察したのか、驚愕に大きく目を見開き、思わず口元を片手で覆ったが、それも束の間であった。
すぐに気持ちを切り替えると、スカートの裾を軽やかに摘み上げ、躊躇いなく廊下へと続く扉を押し開け、そのまま風のような速さで駆け出して行った。
「......すっごいパワフルな子だな」
呆気に取られたまま立ち尽くしていたセシルは、あっという間に姿を消してしまった少女の残像を思い返しながら、苦笑に近い小さな声を零した。
けれどもその声さえすぐに静寂へと飲み込まれ、部屋の中に残されたのは耳が痛いほどの静けさだけであった。
広がる沈黙に包まれるうちに、先程まで胸を圧していた犬への焦燥やざわめきが、波が引くように少しずつ収まり、落ち着きを取り戻していくのを彼女ははっきりと感じ取っていた。
「どうしよう......ここ、城の中央部分っていうことは例の王もいるだろうし。魔獣の一件もあったし。これ以上誰かに会えば、ノエルちゃんたちにだって迷惑をかけかねない......」
少女の明るさに翻弄されていた興奮が薄れ、ひとりきりになったことでようやく頭の熱が冷えはじめたセシルは、現実の重さを改めて直視するかのように深く息を吐き出し、心の中で整理した思考を確かめるように、落ち着いた声音で静かに独り言を漏らしていた。




