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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第85話. 違和感と焦燥



「ただいま〜っ! わぁ、ごめんね~、ひとりにしちゃって〜!」


芝居がかったように声を弾ませたセシルは、まるで長い旅路を終えた旅人がようやく安らぎの地へと帰り着いたかのような軽快な足取りで小さな扉を押し開け、その姿は瞬く間に部屋全体の空気を華やぎと温かさで包み込まれていた。


与えられた部屋は広くも豪奢でもなく、むしろ簡素そのものだったが、不思議と外の喧噪や戦いの残滓から切り離された静謐さが漂い、踏み入れた瞬間に胸の奥へと温もりが灯り、心に柔らかな安らぎが広がっていくのをセシルは確かに感じ取った。


「あっ、いたいたっ!」


部屋へ足を踏み入れるや否や、セシルの視線は迷うことなく寝具の脇に据えられた小さな木製のテーブルへと吸い寄せられた。


そこには一本の武器――幾度となく戦場を駆け抜け、彼女の命を支え続け、もはや単なる道具を超えて“相棒”と呼ぶにふさわしいウィップソードが静かに立てかけられていた。


胸の奥底から抑えきれない衝動に突き動かされるまま、セシルは小走りで駆け寄り、懐かしさと安堵をたっぷり込めながら鞘に指先をそっと滑らせた。


精緻に刻まれた模様を慈しむように撫でるその仕草は、長いあいだ離れ離れになっていた親しい友との再会を喜ぶものに似ていたが、やがてセシルの表情はすっと引き締まり、熟練の兵士さながらの迷いのない動作で鞘紐を腰へ巻きつけ、まるで当然のように戦いの場へ再び立ち戻る覚悟を整えていた。


(......そういえば――)


その結び目を整える指先の裏で、セシルの脳裏には戦いの直前に感じ取った異様な気配が不意に蘇っていた。まるで鋭利な針先で肌を突き刺されるかのように冷たく痛い視線――単なる「見られている」という感覚を超えて、存在そのものを射抜かれたかのような圧迫感を伴っているあの不気味な瞬間を思い出した途端にセシルは小さく息を吐き、眉根を寄せてしまった。


(あの視線。確かにわたしを見ていたね。偶然でも気のせいでもない、わたしという存在を明確に捉えていたのは間違いない。きっと歪みの力を使って誘き寄せてきた人によるもの、よね......)


確信に変わったその認識と同時に、セシルの胸の奥には新たな疑問が膨らんでいった。今の時点では、王が「歪みの力」を利用して魔獣を操り、この襲撃を仕組んでいると断定できる証拠は何ひとつ存在しない。


だが、政権交代の不自然さや、これまで耳にしてきた数々の噂を思えば、疑念が芽生えるのは当然であり、その違和感はどうしても拭いきれなかった。


(仮に――あくまで仮に。あの視線が本当に王のものだったとして、魔獣の襲撃もすべて計画の一部で、わたしを狙ったものだったとするならば、一応の説明はつく。でも、実際にはノエルちゃんもカミュロさんも同じように襲撃を受けていた......)


セシルは鮮烈に焼き付いた戦場の光景を思い返した。最初の数体の魔獣は確かに自分を狙うかのように動いていたが、その後は流れが変わり、カミュロは肩を負傷するほどの攻撃を受け、ノエルに至っては魔獣を生み出す親玉のような存在に執拗に追われ続けていた。


(あの二人は、わたしがここへ来るよりもずっと前からこの場にいた。なのに数年前の政権交代のときには、カミュロさん以外の人々は皆解雇され、二人だけが残されていた。もし本当に二人を消すつもりだったなら、その時点でいくらでも機会はあったはず。

 それなのに、なんで今になって? しかも、わたしが加わって戦力が増えたこのタイミングで、わざわざ奇襲を仕掛けるなんて、どう考えても理屈に合わないじゃない。もし二人を本気で狙うつもりなら、もっと早く動くのが自然なはず――やっぱり、この襲撃にはわたしを狙う以外の、別の狙いが隠されている、とか......)


自分を標的にしていることをあえて悟らせまいとする意図が背後に潜んでいるのかもしれない――そんな推測が脳裏をよぎったが、それだけでは納得できない靄がなおも残り、考えれば考えるほど答えは遠のき、迷いと焦燥ばかりが心を占めていった。


そして思考が袋小路に突き当たり、出口の見えない混乱に苛立ちのような余韻が渦を巻き始めたそのとき、ふと意識の奥に柔らかな光を差し込ませるように浮かんできたのは、鞄の奥深くに大切にしまい込まれている幾つもの贈り物の記憶だった。


クロノスから贈られた繊細なレースの手袋、そしてルカから託された短剣――それらは決して単なる品物ではなく、セシルにとってはこれまでの歩みを繋ぐ確かな証であり、数々の記憶と共に彼女の存在を形づくるかけがえのない絆の象徴であり、今もなお心を支え続ける揺るぎない拠り所であった。


「そうだ、よし......考え込んでも仕方ないし、切り替え! せっかく貰ったものだし、身につけて気分転換しちゃえばいいのよ!」


声に出した瞬間、胸の奥底に小さな灯火がふわりと芽生えたかのように温もりが広がり、冷えかけていた心を優しく包み込んで満たしていくのを感じたセシルは、そのまま自然に表情を明るく緩めながら、鞄の置かれた方角へと軽やかに足を運ぼうとした。


しかし、その一歩を踏み出そうとしたまさにその瞬間、突如として影が彼女の傍らを掠めるように駆け抜け、まるで鋭い突風が部屋の空気を断ち割ったかのように周囲がびりりと震え、張り詰めた気配が一瞬にして辺りを覆った。


「きゃっ!」


思わず短い悲鳴を上げ、セシルは反射的に両腕を顔の前に掲げて身を庇い、次に何が襲いかかってくるのかと全身を強ばらせたが、不思議なことにその緊張は刹那のうちにすっと消え去り、耳に残るのはただ自分の荒い呼吸だけであった。


恐る恐る腕を下ろし、慎重に目を細めて辺りを窺ったとき、その視線の先に姿を現したものは――。


「ちょ、ちょちょ......あなた! どこから入ってきたの?!」


そこにいたのは、薄茶色と黒がまだらに混じり合った毛並みを持つ一匹の犬であり、その存在を認識した瞬間、驚きと困惑が入り交じった声がセシルの唇から自然と零れ落ちた。


「グルルゥゥぅ」


犬はセシルの声に反応したかのようにぴくりと耳を動かしたが、甘えるように近づいてくるでもなく、じゃれつくように声をあげることもなく、ただ低く重たい唸りを喉の奥で響かせながら身を低く伏せ、その鋭い眼差しを一切逸らすことなく真っ直ぐに彼女へと注ぎ続けていた。


その視線には敵意というよりもむしろ試すような冷ややかさが潜み、セシルは思わず肩をすくめるような居心地の悪さを覚えた。


「うっ。そんなに警戒されても。窓もドアも閉めてたはずなのに、どうやって入ってきたのよ?」


苦笑に近い言葉を吐きながらも胸の奥には困惑が募っていくばかりで、あの小鳥のときもそうだったが、どうしてこうも当然のように閉ざされたはずの場所に現れるのかという不可解さが重なり、セシルは考えを巡らせながら思わず首を傾げてしまった。


「えーと......迷子、だよね? なら、いい子について来てくれれば外に出してあげられるんだけど......」


できるだけ犬を刺激しないようにとセシルは身を低くして膝を折り、高めの声色で優しさを含ませながら言葉をかけたが、それが合図であったかのように犬はぴくりと体を揺らしていた。


だが、次の瞬間には伏せたままの頭を床へと向け、口を大きく開けてそこに咥えていたものをためらうことなく吐き出すように落とした。


「えっ、それ......っ! どうして......!」


床に転がったのは、留め具に微かな傷の入った小さな耳飾りであり、その形を認めた瞬間、セシルの血の気は一気に引いた。


クロノスとお揃いで、忘れ去られた記憶の扉へ繋がる唯一の鍵であり、彼女にとってただの装飾品ではなく大切な絆の証そのものであるそれを目にした途端、心臓は激しく跳ね上がり、胸を突き上げる衝撃に息が詰まり、声は自然と震えていた。


「......」


驚愕に目を見開くセシルを前にして、犬は小さく首を振り彼女の反応を確かめるように僅かに身じろぎすると、床に落ちていた耳飾りを素早く咥え直し、そのまま躊躇いを見せることなく部屋の扉へと駆け出した。


閉ざされていたはずの扉は犬の体当たりのような力で押し開けられ、木材が軋む音とともに勢いよく開かれた隙間をすり抜けると、振り返ることもなく廊下の奥へと姿を消していった。


「ま、待って!それだけは――!」


反射的に体を起こし、切羽詰まった声を張り上げながらセシルもまた即座に動き出した。


瞳は必死に犬の姿を捉え続け、考えるよりも先に体が反応し、心が叫ぶままに部屋を飛び出して急なカーブを描く廊下へと駆け込んでいた。


「それは、大切な物なの!! 持って行かないで!! 待ちなさい!!」


必死の叫びが廊下に木霊し、セシルの胸を灼くように焦燥が満たしていた。頭の中を占めるのはただ「取り戻さなければ」という切実な思いだけであり、それ以外の感情はすべて押し流されていた。


犬が駆け抜けていったのはキッチンや庭へ繋がる馴染みの道ではなく、反対側の暗がりに沈む廊下であり、セシルは歯を食いしばり、視線を鋭く前へ釘付けにしながら、一瞬たりとも見失うまいとする強い決意を燃やし、全速力でその影を追い続けていった。



◇◇◇



――セシルが犬を追って慌ただしく部屋を飛び出してから、ほんの数分後のことであった。静けさをまとっていた廊下を切り裂くように、一人の青年の影が足音を荒く響かせながら駆け抜けていた。


そして、迷いを見せぬ速さでセシルの部屋の前へとたどり着くと、その勢いのまま壁へ拳を叩きつけ、胸の奥に渦巻く焦燥と苛立ちを吐き出すように怒声を響かせた。


「おい!!!」


そこに立っていたのは、魔獣との戦いで負傷し、血に濡れて真っ赤に染まったシャツをいまだに身につけているカミュロであり、布地は汗でじっとりと濡れて肌に張り付き、額からは戦いの余韻を思わせる玉の汗が滴り落ちていた。


必死に呼吸を整えながらも、その瞳には怒りと焦りが入り混じり、鋭い光を宿したまま開け放たれた部屋の中を食い入るように覗き込んでいた。


「......いない。くそっ、どこに......」


だが、そこには彼が探し求める存在の姿はなく、ただ大きく開け放たれた扉が虚ろに揺れているばかりで、人の気配すら残されていない静まり返った空間が広がっていた。


その現実に、カミュロは胸を荒々しく上下させながらも無理やり息を整え、焦燥を押し殺すように廊下の奥へと視線を巡らせ、大声で呼んだことでセシルが心配して戻ってくるのではないかと一瞬だけ期待を寄せたが、廊下には影ひとつなく、答えはどこからも返ってはこなかった。


言葉を失ったカミュロは、昂ぶる感情を誤魔化すように手の甲で頬を乱暴に拭い、熱を帯びた表情を落ち着けようとしていたが、その沈黙を破ったのは、まるでセシルの代わりを務めるかのように廊下の柱の陰からひょっこりと顔を覗かせたノエルであった。


「じーー」


「っ!......ノエル様。何か問題か」


不意に視線を感じたカミュロが振り返ると、そこには柱の陰からじっと彼を見つめるノエルの姿があり、その瞳には驚きよりもむしろ興味と憂いが入り混じっていた。


声を掛けられたノエルは少し考えるように唇を尖らせ躊躇いがちに、しかし柔らかな声音で答えを返した。


「お着替えが欲しいなって思ったんだけど......んにゃー、カミュロがそんな風になっているの、初めて見たかも」


そう告げながら、ノエルは柱の陰からゆっくりと姿を現し、柔らかな足取りで近づいてきた。


その動作にはからかいの色など一切なく、むしろ彼の内に渦巻く感情を少しでも分かち合おうとするかのように心配の気配が漂い、視線には静かな真剣さが宿っていた。


するとカミュロは、その気配を感じ取りながらも気持ちを切り替えるように視線を再び開け放たれた部屋の奥へと戻し、重苦しい思考を振り払うかのように短く鋭い息を吐き、低い声で言葉を発した。


「......あいつの力で俺が負傷した傷が消えた」


「えっ、もしかして、セシルが治してくれたの?! すごい、そんなことまでできるんだ――!」


深刻な響きを帯びた言葉だったが、内容だけを聞けば朗報のようでもあり、ノエルはぱっと顔を明るくして感嘆の声を上げた。


だが次の瞬間、鋭い刃のようなカミュロの視線がノエルを真っ直ぐに射抜き、その表情を凍りつかせた。


「そんな事......? 違う、治したなんて甘い言葉じゃ済まない。あいつは、ただ触れただけで俺の傷を、そっくりそのまま自分に受け持ったんだ」


その言葉の重みは鋼のような圧を帯び、空気そのものを押し潰すかのようにノエルの胸にのしかかり、息苦しさを覚えるほどの重圧となって沈み込んでいった。


彼女は思わず一歩後ろへ退き、微かに揺れる視線をカミュロへと向けたが、頭が理解を拒むように働かず、困惑を隠せないまま震える唇を開いた。


「触っただけで......受け、持った......? 何、それ......何、言ってるの?」


カミュロはその声音に答える代わりに、いない誰かへ吐き捨てるように短い息を洩らし、開け放たれたままの扉にゆっくりと手を伸ばした。


硬く閉ざされる扉の音は、まるで彼自身が感情を封じ込める音のようで、ノエルの耳にはひどく冷たく響いた。


「言っただろ。『様々な痛みをそのまま自分に縫い付けている』と。俺がイングレアム家に居た時に、似た話を吹き込まれたからな」


「......イングレアム家って、カミュロの......。 じゃ、じゃあ、もしかして、それって契約悪魔とか、他の良くない話に繋がるの?」


ノエルの声音は恐る恐るではあったが、そこに浮かんでいたのは単なる好奇心ではなく、理解しきれぬものに触れてしまった不安と怯えであり、どうにか確証を得ようとする必死さだった。


カミュロはなおも彼女の目を見ようとはせず、短く顎を引いて肯定の意を示すにとどめると、それ以上の説明を拒むようにノエルの脇を通り過ぎて歩を進めた。


「ただ、受け持つだけじゃない。あの様子だと、誰にも打ち明けず、手当てもせず、全部なかったことにして放置するはずだ」


低く吐き捨てるように言いながら、カミュロは血と汗で赤黒く染まったシャツの布地を無意識に強く握りしめ、抑え込んだ激情を言葉の代わりに指先へと叩きつけていた。


しかし次の瞬間には自らを律するかのように呼吸を整え、すぐそばにいたノエルへ視線を落とすと、意識的に口調を和らげて静かに告げた。


「着替えは後ほど持っていく。ノエル様は先に、あの鳥と一緒に血を洗い落として来てくれ」


「う、うん」


短く頷いたノエルは、歩き去っていくカミュロの背中をしばらくの間じっと見つめていた。その背にまとわりつく影のような重苦しさや苛立ちは、視線を通してひしひしと伝わってきて、胸の奥にはどうしても拭いきれない不安がじわりと広がっていった。


しかし同時に、その奥底では不謹慎だと分かっていながらも、これまで決して見せたことのなかった彼の激情や脆さを垣間見てしまったことで、なぜか小さな温もりが芽吹くように膨らみ始めていた。


「いやぁ。あんなに怒っちゃってね~......完全にセシルの影響だね。自分じゃ気づいてないんだろうけどさ」


今まで決して見せることのなかった激情を隠さずに晒すことができる存在が現れた――その事実は、ノエルの心に小さな灯火となって息づき、彼女の内側で静かに広がり続けていった。

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