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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第84話. 静かなる狼狽



――やがて沈黙が訪れ、戦場を包み込んでいた張りつめた緊張の幕がほんの僅かに揺らいだ。その静けさがどこか不自然に感じられるほどの一瞬の緩みに、カミュロはそれまで強く握りしめていた大剣をまるで己の肉体に吸い込ませるように一瞬で一瞬でかき消した。残された鋭い眼差しをぎらりと光らせながら、荒れ果てた戦場をぐるりと一望して視線を走らせた。


そして、血と土に塗れたその光景の中に、生き残っている魔獣の影が一体たりとも残っていないことを、息を詰めるような念入りさで確認したその瞬間、冷静沈着を信条としてきた彼には似つかわしくない激情が一瞬で姿を現した。


「ノエル様――!!」


声を張り上げると同時に、今までの自分からは到底想像もできぬほど切迫し、そして渇望に満ちた叫びを轟かせた彼は、躊躇いを一切挟むことなく、ただ真っ直ぐに、己が守るべき者の名を胸に刻むようにその方角へと駆け出していった。


「っ......」


視界に飛び込んできたのは、戦いの終わりと同時に張りつめていた心の糸がぷつりと切れてしまったかのように、セシルへとしがみついて顔を胸に埋め、抑えきれぬ嗚咽をあげながら子どものように泣きじゃくるノエルの姿だった。


「もう、大丈夫だよ。怪我がなさそうで良かった......よく頑張ったね」


セシルは小さな体をしっかりと抱きとめるために腰を落とし、その腕を優しく背中に回してあやすように支えながら、まるで母親が子を安心させるかのように静かに背をとんとんと叩き、怯えに揺れる心を少しでも落ち着けようとしていた。


そして、その足元では、泥と魔獣の血に全身を黒く染めながらも必死に戦い抜いた証を刻む小鳥が、突き立てられたレイピアの周囲を落ち着かぬ様子でせわしなく歩き回り、場の緊張の余韻と安堵の入り混じる光景にさらに実感を与えていた。


「......無事。よかった」


全員が生きている――その当たり前でいて決して失いたくなかった光景を目の当たりにした瞬間、カミュロの胸の奥に絡みついていた重苦しい緊張がふっとほどけ、押さえつけられていた呼吸がようやく解き放たれるように深い息が零れた。


だが、安堵に浸る暇もなくセシルが顔を上げて彼の姿に気づいた途端、その表情は安らぎどころか一瞬で蒼白に変わり、凍りつくような声を震わせて叫んだ。


「カミュロさん!――って、それ、大怪我してるじゃないですか!」


セシルの視線に気づいたカミュロは反射的に肩口へと手を伸ばし、魔獣の攻撃が掠めた傷跡から血が滲み広がり真っ赤に染まった布地を押さえ込みながら、バツの悪さを隠すかのように目を逸らし、強がるように短く言い放った。


「っ......ただの返り血だ。大げさに騒ぐな」


「で、ですが......」


だが、その声音に含まれた焦りや張りつめた強気は、セシルの耳には「平気を装う言葉」ではなく、むしろ必死に負傷を悟らせまいとする無理な気遣いや、自らの痛みを押し殺す苛烈な意志として響き、納得しきれない様子だった。


セシルは眉を寄せて小さく曇った表情を浮かべたが、カミュロはそれに気づいたのか、あえて不自然なほど大きく視線を逸らすと、強引に話題を切り替えるようにしてノエルへと手を差し伸べ、柔らかな声音で言葉を投げかけた。


「それよりも――ノエル様。ご無事で何よりです」


その声音には不思議な安心感が漂っており、ノエルは前髪に隠れた瞳を手で拭いながらセシルの胸元から少しずつ体を離し、姿勢を起こして小さな声で誇らしげに告げた。


「あたし、頑張ったんよ。鳥ちゃんと一緒に協力して、敵をちゃんと倒していったんだから」


「あぁ。突然の襲撃の中で的確に判断して指示を飛ばしてくれた。それに最初の一体に気づいたのも、他ならぬノエル様のお陰だ」


カミュロは差し出した手を胸に軽く当て、敬意を込めるようにゆっくりとその功績を称えていると、その足元では小鳥がきゅるんとした大きな瞳でカミュロを見上げていた。


まるで「どうだ!」と言わんばかりに胸を張って誇らしげな仕草を見せているその姿に思わず口元を緩めたカミュロは、微笑を滲ませながら心からの感謝を告げた。


「あんたもだ。身を挺してノエル様を守ってくれたこと、心から感謝する」


「ヒチチッ!」


小鳥の得意げな鳴き声が響くと同時に場の空気は一気に和らぎ、その光景を前にしたセシルの唇にも自然と穏やかな笑みが浮かんでいた。


そして、彼女は膝に置いていた両手を軽く払うようにして立ち上がり、戦いの余韻を漂わせる静寂の中で周囲に目を巡らせると、突き立てられていたレイピアの柄を静かに握り、音を立てぬよう注意深く引き抜いて真剣な眼差しを二人へと向けた。


「カミュロさん、念のためノエルちゃんを城内へ戻した方がいいと思います。まだ、この場が完全に安全だとは言い切れません」


その進言にカミュロは僅かに目を細め、短く「あぁ、そうだな」とだけ答えた。その声音には余計な感情を差し挟まぬ冷静さが宿っていたが、なおも周囲への警戒を解こうとしない鋭さを秘めており、たった一言で彼がセシルの意見を真摯に受け止めていることが伝わってきた。


そのやりとりを耳にしたノエルは何の躊躇いもなくその場にしゃがみ込み、泥と血にまみれ小さな羽を震わせていた小鳥を両手でそっとすくい上げると、愛おしげに胸元へと抱き寄せ、大切に包み込んだ。


その様子を見届けたカミュロは、冷ややかでありながらも優しさを滲ませる声音で静かに声をかけた。


「ノエル様。先に戻ったら湯浴みしてくれ」


その一言にノエルは一瞬きょとんと首を傾げると、胸元の小鳥へ視線を落としてから、短く息を吐きながら子どものように唇を尖らせて言い返した。


「......はぁ、鳥ちゃん。あたしたち、遠回しに汚いって言われちゃったね」 「ピッ」


言葉を理解しているかのように小鳥は小さく鳴き、確かに拗ねたような響きがその声に含まれていたため、ノエルはさらに不満げな顔をして見せていたが、同時にそのやり取りの可笑しさに口元を緩めていた。


「ふふっ」


セシルはそんな微笑ましい光景を前にして、張り詰めていた意識が自然と緩み、固く結んでいた唇から小さな笑い声を零した。


戦いの緊張がほどけ、空気が和らいでいくその瞬間、ノエルがふと何気なくカミュロの腕へと視線を移した時、返されたのは鋭さではなく、突き刺さるような冷たさと共に「しらーっ」とした無言の眼差しであり、そのあまりの無表情さにノエルは思わず肩をすくめていた。


「あっと、出たぞっ~! カミュロの呆れモード!」


突拍子もない宣言にカミュロは眉を顰め、深く長いため息を吐き出した。その息遣いには確かに呆れの色が混じっていたが、それと同時に諦めにも似た柔らかな優しさが滲み出ており、吐き捨てるように見えてどこか温かみのある声音で言葉を返した。


「......いいから行け。その大事な髪が魔獣の血で固まって、切る羽目になりたくないならな」


「うはぁー、それは困っちゃうね。あたしの髪の毛と鳥ちゃんのふわもこが消滅しちゃう」


彼女は肩をすくめたまま苦笑を浮かべ、胸元の小鳥を抱え直しながら、悪戯を見破られた子どものように気まずさを隠しきれず、それでも無理に明るさを取り繕うようにして「にゃっはは~!」と大げさな笑い声を響かせた。


すると、次の瞬間、ノエルは胸に抱いた小鳥へと視線を落とし、笑い声をそのまま引き連れるように駆け出した。


軽やかでありながらもどこか慌ただしいその足取りは、裾にまとわりついた泥や霜をぱちぱちと弾き飛ばし、背後に残る三人の気配を引き離しながら、やがて城内へと吸い込まれるように姿を消していった。



◇◇◇



「......よかった。さっきのでトラウマになってなさそうだね」


残されたセシルは、先程の巨大な魔獣に追いかけられた事によって幼いノエルの心が深く傷ついていないことを確かめることができ、その瞬間に胸の奥に絡みついていた不安がすっとほどけていくのを感じながら、胸を撫で下ろした。


張り詰めていた空気がすっかり和らぎ、頬には安堵の色が差し始めていたが、その落ち着きもほんのひとときのことであり、ふと何かを思い出したように瞳を大きく見開いたセシルは、慌てて姿勢を正すと両手でレイピアを横に構え直し、小走りでカミュロの横へ駆け寄って差し出した。


「これ、貸してくださって、本当にありがとうございました! 次からは、ちゃんと自分のを持ち歩くように気を付けますので!」


勢い込んで差し出されたその言葉に、カミュロは一瞬だけ驚いたように目を細めたが、すぐに落ち着きを取り戻すと低く穏やかな声で返した。


「いや、構わない。むしろ助けられたのは俺の方だ。あんたがいなければ、切り抜けられなかった......それに、ノエル様のことも迷わずに率先して守ってくれた」


冷静に紡がれたその声の奥には確かな感謝が滲んでおり、彼はセシルからレイピアを受け取ると、刃に薄く残る冷気を確認するかのように一瞬視線を落とし、その輝きを確かめた後で、ゆっくりと鞘へと収める動作を丁寧に行った。


その光景を食い入るように見届けていたセシルは、思わず胸の前で両手をぱんと合わせ、小さく身を傾けながら勢いよく声を弾ませ、抑えきれない興奮をそのまま言葉にした。


「それにしても! まさか斬りつけた瞬間に相手を凍りつかせてしまうなんて、びっくりしましたよ! しかもその冷気が、周囲全体にまで広がって!」


「......は?」


熱を帯びた声が弾むその場に、不意に鋭い響きが落ちたかと思うと、カミュロは動きを止めて怪訝そうにセシルへ視線を向け、抑えを利かせながらも鋭さを帯びた声音で問いかけた。


「あれは、あんたの力じゃないのか?」


「はえっ?」


まるで世界が一瞬止まったかのように、セシルは両手を合わせたまま硬直してしまい、素っ頓狂な声を漏らした。


数秒の沈黙が場を支配し、気まずさが空気を濃くする中、彼女は慌てて首を大きく横に振り、必死に否定の言葉を重ねるように声を張り上げた。


「いやいやいや、違いますって! わたしにはそんな大層なこと、とてもじゃないですけどできません! 氷をあんなふうに広げるなんて、到底無理です! だからてっきり、そのレイピアに何か特別な恩恵でもかかっていたんだろうなって、そう思っただけで......」


必死に否定の言葉を重ねながらも、次第に自分が余計なことを口走っているのではないかという不安が胸の奥をきゅうっと締めつけ、勢いよく飛び出していた声はだんだんと頼りなく細くなっていった。


「いや。これは元々――」


低く呟かれたカミュロの声は、確かに言葉の端を結びかけていたのに、その続きを吐き出す前に唐突に途切れ、彼は無意識に腰へと手を伸ばし、鞘に収められたレイピアの柄に触れかけながらも、そこで動きを止めてしまった。


落とされた視線の先には、つい先程までの戦いの余韻が残っており、割れた地面の上には細やかな霜が芝生を覆い、陽光を受けては儚げな輝きを返していて、その移ろう光を映すように、カミュロは言葉を失ったまま沈黙の中に沈み込んでいた。


「......?」


セシルはその横顔を目にし、戦いの直前にも彼が同じように言いかけては飲み込んでしまったことを思い出し、偶然にしては繰り返しすぎる沈黙に小さな違和感を覚えずにはいられなかった。


「あ、あの。カミュロさん~?」


思わず掠れる声に勇気を込めて呼びかけながら、セシルは戦いの前と同じように彼の腕へ手を伸ばし、軽く揺さぶるようにして反応を促した。


だが当のカミュロは頑なに顔を上げることなく、否定の言葉も肯定の一言も返さず、ただ沈黙を選び続け、その沈黙が何より雄弁に口を閉ざしていた。


答えの返ってこない時間だけが二人の間を支配し、重苦しい静けさに耐えきれなくなったセシルは、やがて掴んでいた手をそっと離し、居心地の悪さに押されるように小さく後ずさりをしてしまった。


「その、えっと......わたし、自分の部屋から武器を取ってきてもいい......でしょうか......?」


気まずさを紛らわせるように口にしたその声は微かに震えていたが、その問いかけを耳にしたカミュロは、そこでようやく場が一区切りを迎えたのだと悟ったのか、それ以上追及を避けられた安堵を覚えたのか、ゆるやかに伏せていた視線を上げ、セシルへと静かな眼差しを投げた。


「......あぁ、構わない」


低く抑えられた返答は決して多くを語るものではなかったが、それでも確かに「許し」として受け止められる響きを含んでおり、その一言を受けたセシルは胸に張りついていた不安が少しずつ解けていくのを感じ、喉に絡まっていた緊張をようやく吐き出すように小さく息をついた。


「ありがとうございます。では、また後ほど」


安堵を滲ませた仕草とともに小さく頭を下げた彼女の動作には、礼の意味だけでなく、つい数秒前までの気まずさを少しでも和らげたいという思いが込められていた。


そうして次の瞬間には、重く沈んだ空気にこれ以上長く留まり続けることを避けるかのように身を翻し、軽やかさを装いながらもどこか急くような小走りで、真っ直ぐに城内の入口へと駆けていった。



________________________________________ 



そして、その背中がノエルの時と同じように静かに城内へと吸い込まれていくのを見届けたカミュロは、気がつけば誰もいなくなった庭の静けさの中にただ一人取り残され、荒れ果てた光景と沈み込むような静寂だけが、まるで彼を押し潰すかのように重たくのしかかってきた。


「......」


やがて彼は自然と己の手元へと視線を落とし、腰に佩いたレイピアの鈍く沈んだ輝きを凝視すると、その得体の知れぬ存在へ自らの混乱と苛立ちをぶつけるように額へと手を押し当て、頭蓋を抑え込むように強く押しつけながら、途切れ途切れの言葉をかすれるように吐き零した。


「......っ......陛下と妃様は......どうして。それに、この武器......これは一体......」


まるで記憶の底を必死に探り出そうとするかのように掌に力を込め、思考を掻き乱しながら答えを追い求めたが、どれだけ考えを巡らせても霧のように明確な答えは掴めずにいた。


むしろ自らの無力さばかりが浮き彫りとなっていく現実に突き当たり、ついに苛立ちを抑えきれなくなった彼は荒々しく前髪を掻き揚げ、盛大に自分自身へ怒りを叩きつけるような仕草を見せた。


「......くそ、圧迫するか」


感情を押し殺すように冷え切った声音で無理やり心の内側を締め上げた彼は、魔獣の一撃で掠められたはずの肩口へ視線を落とし、静かにシャツの前立てへ指を掛けて一つひとつのボタンを外し、布地を肩まで滑らせて傷の具合を確認しようとした――その瞬間、カミュロは大きく息を呑み、喉の奥が引き攣るように震えた。


「はぁっ...、?」


目の前に広がっていたのは、鮮血に染まり赤黒く固まったシャツの惨状とは裏腹に、そこにあるはずの裂傷も流血も一切ない肌だった。むしろ衝突の痕跡すら見当たらず、驚くほど滑らかで綺麗で――常識では到底説明のつかぬ光景であった。


喉に硬い塊を押し込まれたかのように呼吸が詰まり、全身の血が逆流するかのごとく一瞬にして冷え込む感覚に襲われた彼は、驚愕と困惑の色をないまぜにした表情で目を大きく見開き、言葉を失ったまま震える息を吐き出した。


「っ!」


だが次の瞬間、稲妻の閃光のように脳裏を駆け抜けたある出来事に思い当たり、まるで確かめるように重たい首をぎこちなくめぐらせ、城内の入口を振り返ってその奥に潜む気配を見定めるかのように目を細めた。


「......まさか......」


動揺を振り切るように無理やり感情を抑え込む決意を胸に刻み込んだ彼は、焦燥を隠しきれぬ仕草で素早く、しかしどこか乱れを孕んだ手つきで血に染まった衣服を整え、震えすら押し殺すようにボタンを掛け直すと、低く掠れた声で唸るように呟いた。


「あいつ......あの時、あの短時間で。余計なことを――」


胸の奥底で確信に近い直感が脈動し、それは焦りと苛立ちをないまぜにした衝動へと変わっていった。カミュロはまるで何かを取り戻すかのように慌ただしく足を踏み出し、その勢いのまま扉の向こうへ駆け込み、城内の中へと姿を消していった。

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