第81話. それぞれの態勢
ノエルの必死な姿を視界に捉え、反射的に慌てて振り返ったその刹那、セシルの目に映り込んだのは、巨大な蝙蝠を思わせる不気味な翼を大きく広げ、獰猛な獣のように鋭い牙を剥き出しにしながら、今まさに彼女の首筋へと食らいつかんと迫ってくる、ライオンに似て非なる異形の魔獣の影であった。
咄嗟にノエルから放たれた矢は、その開かれた咽喉奥の神経をも貫くかのごとく深々と突き刺さり、魔獣は鈍重な巨体をのけぞらせたかと思うと、矢に宿る力が肉体そのものを内部から穿つようにして煌めく光粒へと変換し、無惨に解体されるように霧散しては儚く空へ溶け消えていった。
「魔獣――っ?!」
しかし、安堵の吐息を漏らす間すら与えられず、消滅した魔獣の背後――黒くひび割れる大地を突き破るように、次から次へと異形の群れが這い出してきた。
無数の一つ目の怪物や、不格好に翼を生やした獣が蠢きながら湧水のように溢れ出し、やがて波濤のごとき群れとなって三人を取り囲むようにじりじりと迫りつつあった。
「う、うそ! こんなに......っ。気配なんて全然なかったのに――どうして!」
驚愕と困惑が混じった声を漏らすセシルは、必死に視線を巡らせて周囲の安否を確かめた。少し離れた場所で弓を引き絞るノエルの勇ましい姿が心強く胸を支える一方で、そこからすぐ傍の位置に立つカミュロは、先程までの心ここにあらずの様子を残したまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。
「カミュロさん! しっかりして!」
「っ!」
思わず声を張り上げながら、セシルは彼の腕を掴んで軽く揺さぶると、まるで意識を深い淵から引き戻されたかのようにカミュロの瞳がハッと見開かれ、ようやく眼前に広がる異形の存在を認識したかのようにその表情を硬く強張らせた。
セシルは彼の反応に一抹の不安を覚えながらも、本能のまま腰へと手を伸ばした――だが、そこにあるはずの剣の柄はなく、指先が掴んだのは虚ろな空気の冷たさだけだった。
その瞬間、血の気が一気に引き、視線を落とした彼女は、自分が武器を置き忘れてきたという最悪の事実に愕然とした。
「っ、そうだ。武器、置いてきて――きゃっ!」
口にしたその言葉と同時、突如として鋭く力強い手が彼女の腕を掴み、驚く間もなく前方へと強引に引き寄せられた。
視界の端に映り込んだのは、セシルを抱え込むように腕を引き寄せながら、もう一方の手には赤黒く禍々しい光を纏った大剣を振りかざし、疾風の如き速さでセシルの背後から忍び寄る気配を狙い澄ましたかのように前方へと斬り込むカミュロの姿であった。
そして、彼の剣閃に呼応するかのように、淡い輝きを放つノエルの光の矢が一直線に飛来し、カミュロの横を裂いて駆け抜けた――轟音とともに地割れのような凄まじい音が響き、重なり合う魔獣の悲鳴が辺りに木霊した。
直後、剣と矢はほんの数秒前までセシルが立っていた地面を割って這い出してきた魔獣の群れへと突き刺さり、凄絶な衝撃音と爆裂の衝波を生み出し、四散した肉片が飛沫のように周囲へ弾け飛び、不気味な臭気があたり一面を満たしていった。
「カミュロ! 一旦こっちに下がって!」
「......了解した」
背後から響いたノエルの鋭い声と、それに即座に応じるカミュロの低い言葉が合図のように交錯し、セシルの腕を掴んでいた彼の手が解かれるや否や、次の瞬間には彼女の体がまるで羽のように軽々と抱き上げられた。
突然の出来事に驚きのあまり思わず小さな悲鳴をあげるセシルを、カミュロは気にかける素振りすら見せず、そのまま片腕でしっかりと支えながら背後に水柱の壁を展開し、うねるように立ち上がるそれを盾として周囲の攻撃を遮断しつつ躊躇うことなく後退を続けていった。
◇◇◇
「セシル! カミュロ!」 「ヒチチチッ!」
ノエルの声と、その頭上で威嚇するように羽を震わせ鳴き立てる小鳥の甲高い声とが重なり響く中、退避に成功したカミュロは、腕に抱えていたセシルを地面へと丁寧に下ろすと、迷いなく魔獣の群れへと鋭い視線を投げかけた。
荒れ狂う気配を全身に浴びながらも、彼の眼差しは一切揺るがず、戦場に立つ者の覚悟をそのままに示していた。
一方で、地面に足をつけたセシルは、なおも宙を舞い、地を這う異形の群れを睨み据えながら、胸の奥に安堵と同時に深い感謝がこみ上げてくるのを覚え、思わず小さく頭を垂れた。
「助かりました......本当に」
その声は控えめでありながらも真摯な響きを宿していたが、ノエルはすぐさま弓を少し下ろし片手に持ち替えると、にこりと笑みを浮かべて「いいのいいの! お互い様だよっ! 今は戦うことだけ考えて!」と明るく言葉を返し、申し訳なさそうに俯くセシルの腕を軽く二度、三度と叩いて励ますように合図を送った。
その仕草に呼応するかのように、これまでノエルの頭上で小さく羽を揺らしていた小鳥がふわりと舞い降りてセシルの肩に止まり、もふっとした頭を頬へ優しく押し付けて温もりを伝えるように寄り添うと、その小さな温もりがじんわりと広がって言葉以上の思いやりがセシルの胸を静かに満たしていった。
「......うん。切り替えるね!」
そのささやかな優しさに胸を打たれたセシルは、心の奥底に沈んでいた迷いがゆるやかに解けていくのを感じ、小さく首を振って気持ちを切り替えると、大きく息を吸い込み、力強く頷いて前方を見据えた。
その時、視線の端に映り込んだのは、微動だにせず魔獣の群れを睨み据えるカミュロの背中で、言葉を交わさずとも伝わるほどの頼もしさがその姿から滲み出し、自然とセシルの視線は彼の背を追った。
そして、その背の先に広がっていたのは、先程セシルを襲った魔獣たちがなおも影の裂け目から溢れ出し、大地を埋め尽くすほどに押し寄せる、まさに圧巻と呼ぶべき光景であった。
「うーん。かなり厄介な状況になっちゃったね」
驚愕に言葉を失ったセシルの耳に届いたのは、隣に立つノエルの軽やかでありながらも少し張り詰めた声であった。
彼女は弓を握り直し、宙に手をかざすと光を塊のように掴み上げ、そこから矢を生み出しており、その仕草は確かに力強さを示していたが、頬や唇には不安の影がかすかに浮かび、完全に隠しきれてはいなかった。
それでも尚、彼女の声色には周りを安心させようとする強い意志が込められており、その響きに触れたセシルは無意識のうちに肩に入っていた力を少し抜き、安堵を求めるように彼女へと視線を向けた。
「......ノエルちゃん。その矢って――」
「ふっふん! 忘れちゃダメだぞー。あたしは天使の血を引くオルフィエラの子だもん! このくらい当然!」
ノエルはそう言って、にかっと屈託のない笑顔を浮かべながら明るく返しており、その声には冗談めいた軽やかさが滲んでいたが、同時に自分の血筋に対する確かな誇りと、場を和ませようとする気遣いが感じ取れた。
彼女は一拍置くようにしてわざと肩をすくめ、からかうように唇を緩めて小さな吐息と共に「まっ、カミュロの水の動きを丸パクリしただけだよ~」とあっけらかんに言い終えると、次の瞬間には表情を引き締めて再び弓を構え直し、指先には淡い粒子が糸を紡ぐように収束して矢の形を象っていた。
その様子は、たった今までの子供っぽい無邪気さを一掃するように、彼女の周囲を大人びた強さで包み込み、笑顔の残滓を跡形もなく消したその横顔は、真剣さと凛々しさを帯び、先程まで同じ人物であったことさえ信じられないほどの変化を見せていた。
「......」
その劇的な変貌の気配がセシルの胸を強く打ち、心を揺さぶったまさにその直後、すぐ傍らから低く落ち着いていながらも鋭さを孕んだ声が、場の空気を切り裂くように割り込んできた。
「おい、これを使え」
気配を察したセシルがゆっくりと目の焦点を結ぶと、そこにはこちらにじわじわと近づいてくる無数の魔獣の群れが広がっており、その視線を逸らさぬまま彼の前に立ちはだかったカミュロは、腰に収めていた細身のレイピアを音もなく引き抜き、迷いのない動作で真っ直ぐセシルへと差し出していた。
「えっ、カミュロさん!......これ、って」
驚きと戸惑いを隠せない声を漏らすセシルの横顔をちらりと一瞥し、カミュロは「はやく受け取れ」と言外に告げるように横目を流しており、その眼差しに込められた強い意志を読み取った瞬間、セシルは不安に震えながらも深く息を飲み込み言葉を絞り出した。
「っ、借ります! 絶対に無駄にはしません!」
胸の前で改めて構え直されたレイピアに一瞬だけ視線を走らせたカミュロは、短くも揺るぎない頷きを返すと同時に、背を翻して大地を力強く踏みしめ、嵐のような気配を纏って群れの只中へと一気に駆け出した。
そして、己の掌に凝縮させた光の奔流は瞬時に形を変え、腕へと馴染む巨大な大剣となってその手に収まり、彼はためらうことなくその重厚な刃を振り抜き、押し寄せる魔獣を次々と斬り裂いては黒い残滓へと還していった。
「カミュロ!突っこんじゃだめだからねっ!」
振り返ることなく突進していく背を見つめながら、ノエルもまた戦場に似つかわしくないほど澄み切った輝きを帯びた矢を掌から生み出し、光そのものをつがえたかのように弓を構えると、荒い呼吸を抑え込むように唇を噛みしめ、迫り来る魔獣の動きを鋭く見極めながら次々と矢を放ち始めた。
放たれた光矢は寸分の狂いもなく影を射抜き、魔獣は崩れ落ちて細かな粒子となり、散華のように虚空へ舞い散った。
「地面から這い上がるって。本当、一体何が起こってるのよッ!」
勇気を振り絞るような叫び声をあげたセシルは、普段とは違う武器にまだ不慣れであることを自覚しながらも、レイピアを握りしめ、必死さだけを支えに突き進むように応戦していた。
そのすぐ後方では、ノエルが彼女の奮闘を視界の端に収めつつ、細い指で弦を強く引き絞り、矢を途切れることなく放ち続けており、その一射一射が彼女の決意を物語るかのように、轟音と咆哮にかき消されぬ鋭さで戦場に響いていた。
しかし、どれだけ矢を浴びせても群れの流れは止まることを知らず、むしろ次から次へと押し寄せる暗黒の奔流は勢いを増して荒れ狂い、魔獣が大地そのものを覆い尽くすように広がっていき、影の圧力は周囲の空気さえ軋ませ、呼吸すら困難になるほどの重苦しい威圧感を撒き散らしていた。
「......あたしじゃない。一体、誰を狙ってるの?」
混沌のただ中で、矢を放ちながら冷静に状況を見極めようとするノエルは、小さくも鋭い呟きを零したかと思うと、すぐさまセシルの足元に伸びかかった魔獣の体の一部を正確に射抜くように矢を放ち、その勢いのまま、轟音や咆哮さえ切り裂くほど鋭く張り詰めた声をあげた。
「セシル! あたしは大丈夫! ここは一人でも耐えられる! だから――カミュロのところへ行って! 大剣だけだと小回りが利かなくて、囲まれると隙を突かれやすいの!」
「ッ。でもっ、それはっ!」
セシルは矢に貫かれて崩れ落ちる魔獣の姿を目にしながら、耳に響いたノエルの声に大きく目を見開いた。
不安と勇気という相反する感情が瞳の奥で同時に煌めき、隠すことも取り繕うこともできぬまま、ただ鼓舞するように深く息を吸い込み、振り絞るように声を返した。
「はいっ! 行ってきます!」
その返答と同時に、迫り来る魔獣を薙ぎ払うように切り裂きながら進み始めたセシルは、肩に止まっていた小鳥へと素早く顔を傾け、短くも真剣な声音で呼び掛けた。
「ノエルちゃんの傍にいて!」 「ギャゥッ!」
すると、小鳥は甲高い鳴き声を上げながら小さな翼をはためかせ、ノエルのもとへと一直線に飛び去っていった。
そして、その途中、芝生の裂け目から這い出そうとする魔獣に対して、躊躇いなく身体ごとぶつかるように突撃し、その小さな体で粉砕するという驚くべき勇敢さを見せつけた。
「......っ。うん、大丈夫」
その心強い姿を目にしたセシルは、一瞬だけ胸の奥を熱くさせながら、迷いを断ち切るように地を強く蹴り出した。
「もうっ! どうして......こんなに噛み合わないのよ!」
手に握るレイピアは、片手剣の延長に過ぎず、重さや形状は扱えないほどではないのに、振りかぶれば力が抜け、踏み込めば重心がずれてぎこちなく途切れてしまう。
そのたびに、ウィップソードを握ったときのしなやかさとの落差が意識に鮮烈に浮かび上がり、この武器では満足に戦えないという現実を突きつけられる――けれど今は立ち止まっている暇はないのだと、セシルは全身の力を込めて振り払った。
――ギャアァァアアアッ!!
鈍い衝撃音と共に、ぎこちない一撃ながらも刃は魔獣の肩口から胴を裂き、残滓を盛大に散らして巨体を軋ませるほどに弾き飛ばした。
その瞬間、腕を通して伝わる爆ぜる影の飛沫と、鈍重な肉の抵抗にセシルの胸は大きく跳ね上がり、武器に馴染まぬ違和感すら一瞬で吹き飛ばされたかのように意識が鮮烈に研ぎ澄まされた。
「......行ける、大丈夫!」
その刹那に訪れた小さな勝機を逃すまいと、セシルは肩越しに振り返り、矢を放ち続けるノエルの姿を確認した。その必死な姿が確かに無事であると目にした瞬間、胸の中に漂っていた迷いは霧散したかのように消え、すぐさま視線を前方へ戻した。
そこに広がっていたのは、荒れ狂う魔獣の群れが渦を巻き、刃と爪が絶え間なくぶつかり合う轟音の渦巻く戦場の中心――孤軍奮闘を続けるカミュロの姿だった。




