第80話. 示唆と沈黙
――それからセシルとノエルは、先程まで過ごしていた部屋を後にし、心を新たに切り替えるように足を進めていた。二人は着替えを済ませたことをカミュロに報告するために向かっており、道すがらノエルが「この時間ならきっと!」と自信満々に言い切ったその言葉に導かれるように、ゆるやかに続く廊下を抜けて歩いていくと、やがて一枚の扉の前へと辿り着いた。
「じゃんじゃかじゃーん! ここだよ、セシル!」
勢いよく声を張り上げたノエルは、そのまま弾けるような動きで扉を押し開けると、その瞬間、ぱあっと新鮮な空気が部屋へと流れ込み、まるで長く閉ざされていた窓を一気に開け放ったかのように外の風が勢いよく吹き込み、室内に舞い込んだ。
「っ!」
思わず突風に顔を顰めたセシルは腕で顔を庇い、身を竦ませたが、ノエルはそんなことなど気にも留めず、先に三段ほどの小さな階段を軽快な足取りで駆け下り、靴音をパタパタと響かせながら芝生へと飛び出していった。
その足音が草に吸い込まれるように遠ざかっていくのを耳にしながら、セシルは風に目を細め、ゆっくりと顔を上げて正面を見渡した瞬間、目の前に広がった光景に思わず息を呑んだ。
「わぁ!......綺麗~」
そこには、どこまでも鮮やかな緑が一面に広がっており、まるで壮麗な庭園そのもののような光景が果てしなく続いていた。芝生の先には、やわらかな曲線を描くように並んだ茂みが自然の壁となってその先の景色を隠しており、庭全体の広さは一目で測ることができないほど雄大で、見る者の心を圧倒するほどの存在感を放っていた。
セシルはその美しさにすっかり心を奪われ、珍しそうに辺りをきょろきょろと見回すと、肩にちょこんと座っている小鳥に「ねえ、すごいね~」と小声で囁きかけながら、階段を一段ずつ慎重に踏みしめて芝生へと降りていった。
やがて視線の先に映ったのは、すでにノエルの前に立っていたカミュロの姿だった。彼はキッチンにいたときとは異なり、ベストも上着も身につけておらず、白いシャツの袖を肘まで折り上げ、両手には革の軍手をはめており、どうやら剣の素振りか何か鍛錬の途中だったらしい。
その腰には細身のレイピアが収められ、さらにすぐ傍らには彼が先程まで使っていたであろう真紅の大剣が地面に半ば突き刺さるように立ち、ずしりとした存在感を放ちながら静かに佇んでいた。
セシルはそんな二人のやり取りを邪魔しないようにと、小鳥に人差し指を立てて「しー」と合図を送りながら、足音を潜めるように静かに歩み寄っていった。
だが、その気配にいち早く気づいたノエルは、ぱっと表情を輝かせて振り返り、待ち構えていたかのように弾む声を上げた。
「ほら、カミュロ! 見て見て! セシルの新しいお洋服だよ!」
ノエルは嬉しそうに目をきらきらと輝かせながら、「ぱんぱかぱーん!」と自分で効果音を添えて声を弾ませ、両手を勢いよく広げてセシルを大げさに指し示した。
突然の仕草に視線を向けられたカミュロは、言われたとおりにセシルへと視線を移したが、その瞳には感情が浮かんでいるようで浮かんでいないようで、結局のところ何も言葉を発することもなく、表情を崩さぬまま静かに立ち尽くしていた。
「......」
沈黙の視線に見つめられたセシルは、ふいに気まずさを覚え、束ねた髪から肩に垂れた横髪を指先でくるくると巻き取りながら、所在なげに視線を逸らしていた。
「むぅ」
ノエルはそんな二人の反応にあからさまな不満を滲ませ、頬をぷうっと膨らませてふてくされたように顔を尖らせると、カミュロのお腹をぺしぺしと叩きながら、子どものように拗ねた仕草で得意げに言葉を放った。
「はぁ、いやだねぇ~。髪型が違うから別人に見えちゃったのかなー、うんうん。でも安心して!ちゃんとセシル本人だから、決して怪しい侵入者なんかじゃないからねー、うんうん!」
「......」
その言葉は、昨日の出来事――セシルが髪を下ろしていたせいで見知らぬ者と勘違いし、カミュロが咄嗟に切りかかってしまったあの一件を皮肉めかしく持ち出してからかうものだった。
わざとらしく首を大きく縦に振りながら挑発するノエルに、カミュロは一切言葉を返さなかったが、明らかに不満を隠そうともしない眼差しで彼女を見下ろし、微かに怒りを帯びた視線を突きつけていた。
ところが、ノエルは逆にそれを楽しむかのように得意げに小さく笑みを浮かべ、ぴょんぴょんとその場で跳ねるようにして無邪気にからかい続けた。
「にゃはっ!気にしてる、気にしてる~」
カミュロの視線をまともに受けてしまったノエルは、その反応を面白がるようにさらに挑発的に声を弾ませると、再び悪戯めいた調子で言葉を続けた。
「あっ、わかっちゃったぞ~!カミュロったら、もしかしてセシルの――うぺっ!」
ノエルが何かを言い出そうと唇を開いたその瞬間、不意に水鉄砲のような勢いをもった水滴が彼女の口元めがけて飛びかかり、びしゃりと頬から顎にかけて冷たい感触が広がっていった。
ノエルの視線の先ではカミュロが片手を僅かに掲げ、指先をほんの少し動かしただけで、まるで「余計なことを口にするな」と無言の警告を突きつけるかのように、空気の中に淡くきらめく水を生み出して放っていた。
その思いがけない態度にノエルは一瞬ぽかんとした表情を見せながらも、次の瞬間には顔にかかった水を手のひらでごしごしと拭い取り、やがてその口元には抑えきれない笑みが浮かび、にやにやと楽しげに笑いながらも、ゆっくりと後ずさりを始めた。
「きゃはっは、カミュロが怒ったぞ~! きゃーこわぃー!」
半ばわざとらしく棒読みを交えた大声で叫びながら、子どもじみた調子で歓声をあげると、ノエルはその場で軽やかにくるりと身を翻し、背に負った弓を揺らし直しつつ、緑の芝生の奥に据えられた弓の的を目指して無邪気な勢いのまま全力で駆け出していった。
そしてその後ろ姿を追うように、セシルの肩に止まっていた小鳥が小さな羽をばさりと広げ、ひとつ軽やかに空へと跳ねるように舞い上がると、風を切る羽音を残しながらノエルの背を追って青空の下へ飛び立っていったのである。
◇◇◇
そうしてノエルは芝生の奥へと駆け抜けていき、弓を手に小鳥と無邪気な笑い声を弾ませながら構えの姿勢をとろうとしていた。
その姿はまるで光そのものを纏ったかのように朗らかで、見ている者に自然と楽しげな空気を広げていくのに対し、同じ場所に取り残されたカミュロは腕を組んだまま微動だにせず、僅かに肩を落として深いため息を吐き、呆れを隠そうともしない表情を浮かべていた。
その一部始終を間近から静かに見守っていたセシルは、先程までの子どもじみた掛け合いの余韻を思い返すうちに、胸の奥に温かなものが広がり、気づけば抑えきれずに唇の端を緩めて小さく笑みを漏らしてしまった。
「ふふっ。ノエルちゃんとカミュロさんって......兄妹みたいな、本当の家族のようで、すごく良い関係ですね」
「......家族?」
低く落ちたその声は、驚きとも戸惑いともつかぬ響きを帯びており、ノエルに向けていた視線を外してセシルへと向け直すと、眉間にうっすらと皺を寄せて小さく呟いた。
その瞬間、ハっとして我に返ったセシルは慌てて口元を押さえ、しまったという後悔が頬の赤みに滲み出て、必死に弁解の言葉を探しながら早口で弁解し始めた。
「あっ、ご、ごめんなさい! カミュロさんが仕える者として不適切な態度をとっているとか、そういう意味じゃなくて! ただ、見ているとすごく温かい気持ちになるなって、それだけのことで......」
必死の弁明に対してカミュロはしばし言葉を返さず、一瞬だけノエルへと視線を戻した。その眼差しの奥には、遠い過去の記憶を呼び起こすかのように淡い陰が差しており、セシルはその横顔を心配そうに見つめながら、無意識のうちに指先を横髪へ伸ばしてくるくると弄び始めていた。
胸の奥には「軽々しく無責任なことを言ってしまったのではないか」という後悔がじわじわと広がり、いたたまれない気持ちに俯いた視線は整えられた芝生の地面へと落ちていた。
けれども、僅か数秒と経たないうちに頭上から降ってきた声は、彼女が想像していたような責め立てる調子でも冷たい叱責でもなく、意外なほど柔らかく穏やかな響きを帯びていた。
「そう言われるとは思ってもみなかった」
予想外の返答に、セシルは思わず間の抜けた声で「へ?」と呟き、慌てて顔を上げると、そこにいたカミュロは依然として僅かにノエルの方へ視線を流していたが、その声音には過去の歩みをひとつひとつ思い返すかのような重みが宿っていた。
「俺自身、温かい家族というものには恵まれなかった。ノエル様もまた、陛下らを失ってからは同じだ。だから......悪い気はしない」
そう言い締めると、カミュロは両手を僅かに動かして暑さに耐えるような仕草で素早く革の軍手を外し、まとめて片手に収めると、そのまま手の甲で汗ばんだ首筋を拭った。表向きには何でもないように見せていたが、その仕草の裏には確かに抑え込まれた思いが滲んでいた。
一方のセシルは、その言葉に含まれた一節――「陛下らを失ってから同じ」という表現に強い引っかかりを覚え、目を泳がせたあと、胸の前で両手をそっと持ち上げながら、躊躇いがちに口を開いた。
「あ、あの......陛下らが亡くなってから同じ、というのは。一体、どういう......」
その問いかけは小さく震え、勇気を振り絞った声だった。カミュロは脱いだ軍手を器用に腰へかけ直すと、今度はセシルへ真っ直ぐに視線を注ぎ、その眼差しには彼女の無知を見抜くかのような呆れと鋭さが同居していた。
「......本当に何も知らないんだな」
「はい......その、数年前の大ざっぱな政権交代があったことしか、知らなくて......」
彼女は申し訳なさそうに小さく頭を下げ、その姿をじっと見つめながらカミュロは遠くで笑い声を弾ませて弓を構えているノエルへと一度だけ視線を投げた。
その眼差しには僅かな逡巡が宿ったが、すぐに再びセシルへと目を戻すと、今度はノエルに聞こえぬよう声を押し殺し、ひときわ低く抑えた調子で告げた。
「なら、わかるはずだ――前任の王。あの方こそが、ノエル様の実の父親だ」
「っ、! 実の、父っ!」
その衝撃的な告白に、セシルは思わず数歩後ずさりし、口元を両手で覆って声にならない叫びを必死に押し殺した。ノエルが「オルフィエラ」という王国と同じ姓を持っていることから、漠然と王家と深く関わりがあるのだろうとは考えていた。
しかし、まさか、クロノスと語り合っていた“前任の王”――つまり先代の王こそがノエルの実父であったという事実を突きつけられるなど、夢にも思わなかったのである。
驚愕に震えるセシルの姿を前に、カミュロはそれ以上の説明をあえて避けるかのようにただ腕を組み直し、小さく一度だけ頷いており、その態度は「真実は告げた、これ以上は語らない」という静かな意思表示に他ならなかった。
「......あの。陛下らってことは、やはり、母親も?」
セシルは声が風に乗って不用意にノエルへと届いてしまわぬよう、慎重に口元へとそっと手を添え、まるで自らの吐息さえも押し殺すかのように低く抑えた囁きを落として問いかけたのだが、カミュロから返ってきたのは明確な否定の言葉でも肯定の響きでもなく、ただ重く澱んだ沈黙だけであった。
その沈黙がかえって雄弁に真実を告げていることを悟った瞬間、彼女の顔にはゆっくりと影が差し、晴れやかだった表情は次第に曇り、胸の奥深くに冷たい鉛のような重さが沈み込んでいくのをどうすることもできなかった。
「っ......そう、だったんですね。ごめんなさい、軽率に聞いてしまって......それに、ノエルちゃんのことをずっと王家の一員だとばかり思い込んでいたのに、まさか先代王の直系の娘だったなんて、そんなこと夢にも想像していなくて......」
途切れ途切れの言葉は震えを帯び、声は頼りなく掠れて、衝撃に追いつこうとする思考がうまく形を結ばぬまま、口元から零れ落ちていくようであり、そんな彼女の姿を横目に見ながらも、カミュロは正面から視線を合わせることを避け、受け止めきれない感情を胸の奥へと押し込めるように目を細めて沈黙を保ち続けていた。
一方、セシルは両手を胸元で小さく組み合わせ、絡めた指に力を込めながらまるで祈りを捧げるかのように俯き、かすかな震えと共に言葉を続けた。
「......ノエルちゃんもまだ幼いというのに、ご両親はきっと若くして亡くなってしまわれたのでしょうね、そのことを思うと本当に残念でならないのです」
その声音には、無神経に踏み込んでしまったことへの悔恨と、すでにこの世を去った人々への痛切な悼みとが絡み合い、抑えきれぬ思いが滲み出ていた。
するとカミュロは、彼女の言葉を受けて小さく顔を伏せ、額近くにかかる髪を乱暴に掻き上げながら、苦笑にも似た影を口元に浮かべ、どこか彼女を慰めようとする柔らかな調子を含ませて声を発しようとした。
「いや、あまり重くならないでくれ。陛下と妃さまは......」
しかし、その言葉は途中で唐突に途切れ、まるで口にしてはならない記憶が脳裏に甦ったかのように、カミュロはぴたりと唇を閉ざして動かなくなり、セシルは慌てて顔を上げ、驚愕に見開いた瞳で彼を凝視した。
「お気遣いなんて必要ありません! むしろ、わたしの方こそ、言いづらいことを言わせてしまって!」
必死に声を繋げ、何とか場の空気を取り繕おうとするセシルの言葉が震えながら空気を満たしても、カミュロは答えを返すことなく、片手で頭を抱え、苦悩に歪む表情を深く俯かせ、ただ心ここにあらずといった影をまといながら、遠い虚空を彷徨うかのように焦点の合わない瞳をさまよわせていた。
「カミュロさん......? どう、したんですか......?」
先程までの、答えを拒むように無言で押し黙っていた時の沈黙とは明らかに質の異なる、重苦しく張り詰めた沈黙の気配を肌で感じ取ったセシルの呼びかけは、不安に揺れる心をそのまま映し出すかのように小さく掠れていた。
頼りなく掠れた呼びかけを口にした瞬間、自分の声の弱々しさにさらに不安を募らせ、セシルは思わず一歩を踏み出して彼へ手を伸ばした――その刹那、背後から突き刺さるような鋭い視線が全身を貫き、見えざる刃で心臓を射抜かれたかのような悪寒が背筋を走り抜けた。
「ッ、誰っ!!」
突如として背後から浴びせかけられる異様な誰かの視線は、ただの気配などではなく肉を裂き骨を抉るような冷たく鋭い圧力を伴い、形を持たぬはずの存在が確かにそこに在るかのように緊張感を全身へと行き渡らせていった。
しかし彼女がその正体を確かめようと振り返るよりも早く、ひゅん、と鋭く空気を切り裂く風鳴りが耳を打ち、その音を合図にしたかのように、眩い光を纏った一本の矢が疾風のごとく彼女のすぐ脇を掠め抜けていった。矢が描く軌跡は流星のように瞬きをする間に視界の端を横切り、残像を残して背後へと消え去った。
「っ、!」
「セシル!! 後ろっ!!」
返事にならぬ声を喉の奥に引っ掛けた直後、背後からぶちりと何かが断ち切れる音に続き、ぐしゃりと柔らかなものが潰れる嫌悪感を伴った音が響いたが、それさえも掻き消してしまうほど切羽詰まったノエルの必死の叫びが、遠くからではなく彼女の命を守ろうとする衝迫そのものとして全身を包み込んだ。
その声に導かれるように反射的に顔を上げたセシルの視線の先にあったのは、弓を強く握りしめ、まるで自身の全身を震わせるほどの力で弦を引き絞った直後のように肩を揺らしながら荒い息を吐き、必死の想いを声に込めて叫ぶノエルの姿であった。




