第8話. 温もりの中で芽生えるもの
クロノスは手のひらからわずかに鎖を召喚しつつ、木の影に着々と近づいてくるセシルを警戒していた。
(...さて、どう仕留めるか。...となれば、残りの人間も始末しなければならないな。面倒だが、仕方がない)
心の中で冷徹な計算を繰り返しながら、攻撃のタイミングを見計らっていた。
そして、遂に動き出そうとしたその瞬間――
「セシル!どこ行こうとしてるの!」
鋭い声が響き、クロノスの視線が音の方に向けられる。
セシルの背後から駆けてきたエルナが、セシルに飛びつくようにしてその腕を掴んでいた。
セシルは驚きの表情を浮かべながら、剣から手を手放した。
「いつまでもここにいると危ないでしょ!ほら、帰ってあの子を送り届けるよ」
エルナはどこか諭すような調子でセシルを引きずり、ズルズルとその場を離れていく。
セシルが何か言い返そうとする気配もあったが、結局彼女たちは森の奥へと消えていった。
(...一体なんだったんだ、あれは)
その場に残されたクロノスは、慌てて去って行った少女たちに呆れを覚えた後、静寂の中でふと自分の行動を振り返っていた。
(なぜだ。あの人間に気づかれた瞬間、すぐに仕留めるべきだっただろうに...)
不快感とも違う、どこか胸にわだかまる感情が湧き上がる。自分でも腑に落ちない行動に、クロノスは顔をしかめていた。
しばらく立ち尽くして考え込んでいると、ふとエルナとセシルのやり取りが頭をよぎる。
(...あの人間たちはなぜ、他人のためにあそこまでできる?治癒魔法を他人に使用したり、魔獣を倒した手柄を隠して嘘をついたり...それに何の意味がある?)
彼が今まで関わってきた人間たちは、常に自分の欲望や利益のために行動していた。他人を助けるために何かを尽くす行動など、あり得ない為、真意をわからずにいた。
クロノスは、自分でも気づかぬうちに胸に芽生えた何かを確かめたくなっていた。
それは実感するには至らない弱い感情でありながら、これまでの自分にはなかったものだった。
「......人間として暮らしてみたら、何かがわかるだろうか」
そう、つぶやきながらクロノスは木の陰から一歩踏み出し、すっかり静寂に包まれた森を歩き始めた。
答えの見えない疑問に突き動かされるように、彼は一つの決断を下した。
――自分の尖った耳を人間の耳の形へと素早く変え、人間の姿を装い、その衝動的な思いが揺らぐことなくエルナとセシルの住む村へ向かい始めた。
◇◇◇
村へ足を踏み入れた瞬間、クロノスは周囲の視線を鋭く感じた。
(予想以上に警戒されているな...)
僅かな緊張感の中、クロノスは視線を向けてきていた一人の村人にゆっくりと近づき、ためらいなく口を開いた。
「すまない。この村に住まわせてもらえないか?」
不意打ちの言葉に、村人は目を見開き、驚愕と警戒が入り混じった顔を浮かべた。
「はぁ?何言ってるんだ、あんた。旅の者じゃろ?突然ここに住むだなんて――」
村人の声に気づいた周囲の人々が、何事かと次々に集まり始める。
まるで得体の知れない何かを遠巻きに見つめるような、不穏な空気が広場を覆っていった。
(......言い方がまずかったか?穏やかに話すつもりだったんだが)
クロノスは眉をわずかにひそめ、周囲の視線を受け流しながら首を軽く傾けていた。
どうやら、彼の態度も含めて不審さを助長しているらしい。
「訳があるなら話してくれんだろうか?」
目の前の村人が、疑いを隠そうともせず問いかける。
契約悪魔であるという事実を悟られるわけにはいかない。その言葉に、クロノスは一瞬口ごもった。
しかし、説明を躊躇う彼の静かな佇まいが、逆に村人たちの不安をかき立てていく。
――その時。
「みんなー!何してるのー? ちょっと失礼しますー。....あっ! あなたは!」
聞き覚えのある軽やかで明るい声が、広場の緊張を一瞬で打ち砕いた。
声の主――エルナが人混みをかき分け、勢いよくこちらへ向かってくる。
「おぉ、エルナか。この旅の者が突然、村に住みたいと言い出してな...」
村人の声には困惑が滲んでいたが、エルナは微笑を浮かべながらクロノスを見つめた。
「ふふ、突然ですね。あなたのお名前は?」
「...クロノスだ」
つい、名前を答えてしまった。
そして、エルナの純粋な瞳を見て胸の奥がざわつく感覚に、クロノスは違和感を覚えていた。
(......まただ。この感覚は...なんだ?)
そんなクロノスをよそに、エルナは手を打ち合わせ、嬉しそうに声を弾ませた。
「クロノスさんね! じゃあ私が村長さんにお願いしてみます!」
その無邪気な提案に、村人たちが一斉にざわめく。
「エルナ! そいつがどこの誰かも分からないんだぞ!」
怒号にも似た声が飛び交うが、エルナは屈託のない笑顔で答えた。
「大丈夫! クロノスさんは悪い人じゃありません!少し前に私を魔獣から助けてくれたんです!」
その言葉に、村人たちは一瞬言葉を失い、重苦しい沈黙が広がる。
「さ、行こう! 村長さんに直接話してみましょう!」
エルナはクロノスの手を引き、人々の視線をものともせず歩き出した。呆然と見送る村人たちをよそに、彼女の歩みは止まらなかった。
「待て、エルナ! 話は終わっていないぞ!」
後ろから怒声が響くが、エルナはまるで耳に入っていないかのようにクロノスの手を引き続ける。
「いいのか? 怒っているようだが...」
クロノスが困惑しながら尋ねると、エルナはくすっと笑い、無邪気に振り向いた。
「いいのいいの! とりあえず捕まらないように走りますよ!」
彼女の笑顔には一切の迷いがなかった。
(...何なんだ、この温かさは)
クロノスは驚きながらも、引かれる手の温もりを感じていた。村人たちの視線が背中に突き刺さる中、なぜかその感覚が心地よくさえ感じられる。
(たった一度言葉を交わしただけだというのに......)
違和感と共に湧き上がる不思議な感覚。クロノスは歩調を合わせ、村長の家へと向かっていった。
◇◇◇
やがて二人は村長の家にたどり着くと、エルナは元気よく扉をノックした。
「村長さん、私です! エルナです! ちょっと――いえ、かなり大事なお願いがあります! 少しお時間をいただけますか?」
数秒後、重厚な扉がきしむ音とともに開き、村長が姿を現した。彼の穏やかな表情が、クロノスに目を向けた瞬間、厳しいものへと変わった。
「エルナか......そちらの男性はどちら様かな?」
エルナは一歩前に出ると、明るい笑みを浮かべて答えた。
「村長さん! こちらのクロノスさんを村に住まわせてほしいんです!」
その言葉に、村長は明らかに驚いた顔を見せ、しばし絶句していた。
次に厳しい目をクロノスへと向ける。だが、クロノスはその眼光にひるまず、静かな声で言った。
「突然の申し出で驚かせたのは承知している。この村でしばらく落ち着きたいだけだ。村の掟には従う。害を成すつもりはない」
村長は腕を組み、クロノスを観察するようにじっと見つめた。その横でエルナが焦れたように口を挟む。
「村長さん! この人は悪い人じゃありません! 私が保証します!この前も魔物に襲われた時には助けてもらったんです! 」
村長はその言葉に耳を傾けながらも、慎重な態度を崩さない。
「確かにエルナがそう言うなら信じたいが...村の安全を守るのが私の役目だ。この村にとって外部の者を受け入れるのは大きな決断だ」
その瞬間――
「待って!」
突如響いた声に、全員がその声の方に振り向いた。すると、息を切らしながら立っていたのは、少し乱れた髪のセシルが立っていた・
「セシル!?」
エルナが驚きの声を上げる中、セシルはクロノスを鋭い目で睨みつけた。
「...お姉ちゃんが、知らない男を村に住まわせるって聞いて慌てて追いかけてきたの。......あなた、まさかあの時の?」
その視線に、クロノスの瞳が一瞬だけ揺れる。だがすぐに冷静さを取り戻し、彼女を真っ直ぐ見返した。
(やはり、気が付かれていたか...)
クロノスがそんなことを考えている一方、エルナは慌ててセシルの前に駆け寄り、必死に説明していた。
「セシル、聞いて! この人は前に行った魔物から助けてくれた人なんんだよ!」
セシルは数秒間じっと考え込むように俯いた後、ゆっくりと口を開いた。
「......お姉ちゃんがそう言うなら、信じるよ」
「セシル...!」
その言葉にエルナが嬉しそうにセシルを抱きしめる。その様子を見ていた村長は、深いため息をついた。
「全く、セシルまで...。よろしい、では、しばらく様子を見させてもらう。それで問題がないと判断したら、正式に村で暮らすことを認めようではないか」
「...っ!本当ですか!村長さん、ありがとうございます!」
エルナは勢いよく頭を下げ、その姿を見たクロノスは、わずかな戸惑いとともに、口を開いた。
「感謝する」
自分の口から出たその言葉に、クロノス自身が僅かに驚いた。
何を感じているのか、自分でも分からない。ただ、無意識のうちに“人間らしい”行動を取ろうとしていたのだ。
――まさか、自分の口からこんな言葉が自然に出るとは。
理屈ではない、説明のつかない感覚。どこか他人事のように、その言葉を思い返しながらも、心の奥深くでは確かな「何か」が揺れ動いていた。
(これが......他人を思う気持ち、というものなのか?)
己の内側に生まれた違和感に戸惑いながらも、それはどこか心地よい温かさを帯びていた。
こんな感情は、今まで感じたことがなかった――。
「よかったですね、クロノスさん!」
ふと耳元で柔らかな声が響いた。
気づけばエルナが隣に立ち、穏やかな笑みを浮かべていた。まるで春の陽だまりのように優しく、無垢なその表情が、クロノスの心を静かに揺らす。
(...なぜだ、なぜこの人間を見るたびに違和感を感じる――)
無意識に手を握りしめ、クロノスは表情を引き締めた。だが、心の奥で感じるこの温かさだけは、どうしても無視できなかった。
彼女の笑顔が、自分の中にある「何か」が、静かに芽生え始めている気がして――
❀❀❀
「――ロス!クロノス!」
「何をボーっとしている!」
突然、自分の名前を呼ぶ怒声に、クロノスは現実へと引き戻される。




