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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第76.34話. 裏路地に誘う



──セシルがノエルにキッチンから半ば強引に連れ出されていたのと、ほぼ同時刻。彼女のいるオルフィエラ大陸から南、広大な海を越えた別の大陸では、彼女の知らぬ間に、しばらく止まったままだった歯車がほんの僅かに回り始めていた。


「ねぇねぇ、クロっち! このあとさ、いっしょにパン屋さん行かない? あそこの、ほらっ! なんだっけ、もっふもふのふにふにしたやつ!」


陽だまりが穏やかに街の石畳を照らす午後のひととき、人通りもまばらで、どこかのんびりとした時間が流れる広場では、無邪気に弾むような声を上げながら、ひとりの男の子──ルカが軽やかな足取りで歩く隣で、彼の視線に合わせるように膝を軽く折り、しゃがみ込むような姿勢で応じるクロノスの姿があった。


「わかった、わかった。行くから、だから頼む。せめてこの体勢のまま引っ張ろうとするのはやめてくれ」


苦笑混じりにそう呟くクロノスの手を、ルカは遠慮も何もない力加減でぐいぐいと引っ張っていたが、「行く」と受け取れる返事を聞いた瞬間、ぱぁっと満面に咲いたような笑顔を浮かべると、彼の手をぱっと離してそのままぴょんぴょんと跳ねるように先頭を歩き始めた。


「わーい! ぼく、あのふにふにしたの、ぜっ対食べるんだー!」


「......まったく、元気なやつだ」


ようやく手の自由を取り戻したクロノスは、ふぅと小さく息を吐きながら背筋を伸ばし、着ていた上着の襟元を軽く直すように羽織り直していたが、その様子をすぐ背後で見ていたルカの姉──ブリギッタが、口元に僅かに笑みを浮かべたまま歩み寄り、軽やかな声でからかうように囁いた。


「翻弄されてるクロノスさんを見るの、何度見ても飽きませんね。いつも冷静な方が振り回されてるの、なんだか癖になっちゃいそうです」


「眺めながらニヤニヤしてるだけのやつに言われたくないな」


言い返す口調には、諦めの感情以上にどこか深く根付いた優しさが滲んでおり、クロノスは自然な動作で隣に立つブリギッタの頭に手を伸ばし、くしゃりと優しく髪を撫でた。


そして、くすぐったそうに肩をすくめる彼女の小さな反応に、目の端でわずかに微笑みながらも、クロノスの意識はすでに別の方向へと向けられていた。


ふと目線を背後に流した彼の瞳には、ほんの一瞬だけ鋭さが宿り、そこに至るまでの穏やかさとは明らかに異なり、往来を歩く人々の影、建物の死角に至るまで、あらゆる情報を無意識のうちに拾い集め、静かに分析するように動いていた。


(......やはり。先程からつけられているな。殺気は感じない。だが明らかに、こちらの動きに歩調を合わせているような)


周囲の空気の中に潜む微細な違和感を、彼はまるで風の流れを見るように察知し、そのまま何も言わず、撫でていたブリギッタの背に手を添えると、さりげなく促すように歩を進めさせた。


(あちらも動きを再開させたな。間違いない......)


そして、自身の全身の感覚を、穏やかだった日常から戦闘の最中に匹敵する張り詰めた緊張状態へと切り替えいる最中、不意に彼の横で背中を軽く押されたまま歩くブリギッタが、静かに問いかけた。


「クロノスさん。なんだか、すごく怖い顔されてますけど......何か、あったんですか?」


つい先程までとは打って変わって、押し黙ったまま何かに意識を奪われたような彼の様子に、ブリギッタもただならぬ気配を感じ取ったのか、歩幅を緩めつつ心配そうに見上げていた。


その言葉に、はっと我に返ったクロノスは、押し出していた彼女の背から手を離すと、思案を断ち切るように静かに首筋へと指を当てて立ち止まり、後に続くようにしてブリギッタも自然と足を止めた。


「......」


しばしの沈黙が二人の間に流れ、周囲の街の喧騒に紛れるようにして、ほんの一瞬だけ、言葉が空白となる静かな間が訪れた。


しかし、すぐにクロノスは顔を上げ、真剣な眼差しのまま彼女に向き直ると、低く穏やかながらも決して曖昧ではない口調で告げた。


「悪いが、先に二人で行ってくれないか」


その一言に、ブリギッタは一瞬驚いたように目を見開いたが、クロノスの声音に込められた“何か”を察したのか、すぐに僅かに伏し目がちになりながらも、小さく頷いた。


「っ、わかりました。では、ルカを連れて先に戻っておきますね......」


その返事に、クロノスはふっと気を緩めるように表情をやわらげると、どこかいつも以上の軽さを装うような口調で、優しく語りかけた。


「彼が言ってたパンってのは、たしか前に一緒に行ったあの店だよな。それに、店内で食べた分をまとめて後払いにできるという画期的な制度もあったな」


わざとらしく思い出したような素振りを見せながら、あくまで日常の延長線にある話題のようにそう言うと、クロノスはそっと手を伸ばし、ブリギッタの頭にぽんと優しく触れた。


「そういう訳だ、帰るなんて勿体ないことはしないで、好きなだけ選んで食べてろ。俺もすぐに行くからな」


そう付け加えた彼の言葉に、ブリギッタは今度は僅かに安心したように微笑んで、素直に頷くと、その視線はいつの間にか少し離れた位置でこちらを心配そうに窺っていたルカへと向き、彼女の瞳に宿る不安を少しでも和らげるように、そっと手を振っていた。


クロノスもまた、その二人の姿を優しく見守るように視線を送りながら、どこかに含みを抱えた穏やかな微笑を浮かべ、ゆっくりと踵を返すと、迷いなくその背を向けた。


(さて、と。切り替えるとするか......)


そして次の瞬間、先程までの穏やかな空気は跡形もなく消え、彼の足取りは音もなく鋭さを帯び、背後に忍び寄る“何か”を迎え撃つかのように、静かだが確固たる意思をもって裏路地へと進み始めた。



◇◇◇



──ブリギッタとルカの安全を確保したことで、ようやく一人の行動に移ることができたクロノスは、徐々に人通りが薄れ始める裏路地へと逸れ、まるで囮となるかのように背後の気配を誘き寄せながら、薄暗い通りの奥へと歩を進めていた。


(......やはり狙いは俺か。てっきりあいつらに目をつけた誘拐犯かとも考えたが、そういう類ではなさそうだな)


思考を巡らせつつ、一定の距離を保ちながらも頑なに接近してこようとしない存在を感じ取りながら、クロノスはその目的を計りかねていた。


相手が単なる通りすがりの人間であれば、とっくに足を止めるなり引き返すなりしているはずだが、ここまで不自然なほど執拗に尾行してくるのであれば、ただの通行人ではないことは明白だった。


(契約を望む者か、それとも何か別の狙いか。だが、俺の力を外部に洩らしている覚えはない。俺の正体には気がついている事はないはずだ)


慎重に警戒を続けながら歩を進めていたクロノスだったが、気が付けばいつしか彼の足は街の活気から完全に隔絶された、人気のない裏路地の奥へと踏み込んでいた。


そこには、薄明かりの下で風にあおられて転がる瓶や、どこからか染み出したかのような濁った水たまりが不快なほど生々しい荒廃が広がっていた。


(にしても......随分と辺鄙な道を選んでしまったな)


場違いとも思える静けさと、張り詰めた空気に包まれたその通りを進みながら、クロノスはふと視線を左右の路地に流すと、目に入った路地の一角には、くたびれた服を着た人物が壁にもたれるように座っており、その近くの壁面にはスプレーで描かれた下手な落書きがいくつも重なって、もはや何が描かれていたのか判別できないほどに塗りつぶされていた。


その光景に、クロノスはどこか皮肉めいた笑みを唇の端に浮かべながら、こんな場所にも生があるのだという現実を見せつけられるような気分になっていたが──その瞬間、耳に届いたのは、突如として背後から響いた怒鳴り声だった。


「ってっめぇ! 今、こっちにガン飛ばしてきたな?! あ"ぁっ?!」


その声には酒に酔ったような酷く濁った響きと、言葉の輪郭が曖昧になるほどの呂律の回らなさが混じっており、クロノスは「やはり、そうなるよな...」と言わんばかりに肩をすくめつつ、面倒事を察したような表情で静かにその方向へ視線を向けた。


すると視線の先、僅かに離れた位置では、粗暴そうな男が誰かの胸ぐらを掴んで持ち上げており、相手は全身を漆黒のマントで包んでいるせいで、性別すらも判別できない異様な雰囲気を纏った人物だった。


その構図は、一見したところではただの酔っ払いが通行人に絡んでいるだけの、よくある路地裏の騒動にも見えたが、クロノスは“持ち上げられている側”の人物へと視線を向けた瞬間、僅かに目を細め、静かに思考を巡らせた。


(全身を覆うマント。それにあの色。まさか......)


その感覚はまさに“既視感”と呼べるものであり、ほんの僅かな違和感にすぎないはずだったが、クロノスにとっては決して見過ごせない警告のように響いていた。


完全に頭まで隠されているその装い、その布地の質感、そして夜の闇にまぎれるような鈍い黒の色調。すべてが、つい最近の出来事の中で接触した、ある人物の姿と重なっていた。


それは、アストラル教団──歪んだ存在である精霊を崇拝していると言われている謎の組織。その中でも、クロノスと契約し共に行動していたアキラが教団の集会に向かう際に身に纏っていた、まさにその“漆黒の装束”と酷似していた。


クロノスの眼差しは警戒をさらに深め、周囲の空気を読むかのように足を止め、場を見極めるように静かに息を潜めていたが、意外にも彼の耳に届いたのは、場の緊張感を一気に削ぎ落とすような、情けない響きを持った男の声だった。


「ひぇん、やめてください~......」


語尾を引きずるようなその弱々しい懇願に、クロノスは僅かに眉を上げながら視線を固定させてしまっていた。


マントの人物は、辛うじて地面に触れているかのようなつま先をパタパタと動かし、空中でもがくように抗っており、その様子はとても“教団の一員”などと呼べるような威圧感や威厳など微塵も感じられず、むしろまるで偶然絡まれてしまった気の弱い旅人にすら見えた。


(......なんだあいつは。てっきり教団の刺客が俺を狙いにきたのかと思ったが、あれではどう見てもただの間抜けじゃないか)


クロノスは思わず目元に呆れたような影を落としつつ、肩を軽くすくめると、そのマントに騙されて自ら警戒を強めていたことに、内心少しばかり苦笑すら覚えていた。


過去、アキラが教団の集会に向かう際、厳粛な面持ちで全身を漆黒のマントと顔を覆うベールで隠し、あらゆる感情を押し殺しているかのような、あの張りつめた気配を纏うあの姿。


それと今、自分の目の前で足をバタつかせて泣き言を言っているこの黒マントの存在とが、同じ系譜のものだとは到底信じがたかった。


(ったく、面倒だな。かと言って、このまま立ち去るわけにもいかないよな)


そうして、少し気が抜けたクロノスは、思わず頭を掻きながら、助け舟を出して仲裁に入るべきか、それともこのまま無視して目的の確認を優先するべきかと、目を閉じて思案に耽ったその直後だった。


ドカッと、肉と肉がぶつかり合うような重く鈍い衝撃音が、湿った空気のこもる路地裏に短く響いたその直後、それに重なるように、どこか怒気を孕みながらも理性を保った、落ち着いた調子の男の声が不意に飛び出した。


「やめてくださって言ってるじゃないですか! 俺は目的を持ってここに来たんです。あの人を見失ったら、どう責任を取ってくれるんです!」


その声音には、つい数秒前までの情けなく弱々しい態度など一切感じさせない、明確な意志と自己主張が込められており、まるで別の人物が口をきいているかのような錯覚すら抱かせるものだった。


その豹変とも言える態度の落差に、クロノスは一瞬だけ虚を突かれたように目を見開き、すぐさま視線を再び現場へと向け直した。


すると、宙に浮かされていたあの漆黒のマントの人物は、いまや何事もなかったかのように自らの肩口を軽く払って服の皺を直しており、その一連の仕草にはまるで、情けない姿など最初から演出だったのではないかとすら思わせる、余裕すら漂っていた。


一方で、彼を持ち上げていたはずの大柄な男は、どういうわけか脇腹とこめかみあたりを押さえながら苦悶の表情を浮かべてうずくまり、そのまま声も上げずに身を低くしたまま動けずにいた。


(掴まれていたあの状態から反撃した、だと。それに、ただ適当に殴っただけではないな......確実に弱点を狙ったのか)


クロノスの脳裏に、先程のまるで一瞬の隙を突いて反撃したかのようなタイミングと音の余韻が鮮明に蘇っており、あの弱々しい言動に反してただの情けないマント姿では済まされない何かを隠している可能性が見え隠れしていた。

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