第75話. 純粋な否定
セシルがノエルとカミュロのやり取りを微笑ましそうに見つめながら、小さく笑みをこぼしていたそのとき、不意に「ヒチチチ!」と甲高くも愛らしい鳴き声が彼女のすぐ傍で響いた。
思わず目を丸くしたセシルは、驚きと共に音の主を探すように顔を上げ、視線を空中へと向けた。
「わっ、いつの間に?!」
視線の先には、つい先程までノエルの手元でおとなしくしていたはずの小鳥が、いつの間にかふわりと宙に舞い上がり、小さな羽を一心に羽ばたかせながら、まるでそこにとどまり続けるかのように器用にホバリングしていた。
そのあまりに軽やかで可愛らしい姿にセシルは思わず笑みを深め、「ん、どうしたの~?」と、どこか嬉しさの滲んだ優しい声で小鳥に話しかけた。
「ヒチチ~」
すると、小鳥はくるくると輝くような瞳で彼女の表情を見つめながら、セシルの手元にあるマドレーヌにぴたりと視線を向け、そのまま空中でふわりと身体を前に揺らし、小さな体全体で“それが欲しい”と訴えるような、なんとも食いしん坊な動きを見せてきた。
「......もしかして、これが食べたいのかな?」
セシルはその仕草に思わずくすりと笑いながら、手にしていたマドレーヌに視線を落とすと、ふわふわとした柔らかな質感を崩さないよう細心の注意を払いながら、小鳥でもつまめるように小さな一欠片をそっとちぎり取った。
その欠片をそっと手のひらに乗せ、まだ僅かに残る温もりに軽く息を吹きかけて確かめた後、「はいっ」と優しく声をかけながら、小鳥の方へと指先を差し出した。
すると小鳥は、小さく弧を描くように宙を舞い、セシルの指先に軽やかに舞い降りてそのまま器用なくちばしでマドレーヌのかけらをついばみ、小さく「ピッ」と鳴いてお礼を伝えるように一声上げると、ひょいとセシルの肩に飛び乗ってちょこんと落ち着き、満足げな表情で静かにマドレーヌを食べ始めていた。
その様子にセシルは思わず目尻を下げ、肩の小鳥の様子をちらりと横目に見守りながら、ふと自分の手に残るマドレーヌを思い出したように見つめ直し、そっと持ち直すと、ゆっくりとその一口目を口元へと運び、そっと齧った。
「......ん。なにこれ、美味しっ!」
その瞬間、セシルの表情は驚きと喜びが混じり合うようにぱっと明るくなり、大きく瞳を見開きながらも、口の中いっぱいに広がる味わいに頬を緩ませていた。
マドレーヌの表面は香ばしく、ほんのりカリッとした食感が最初の一口に楽しいアクセントを添えていたかと思えば、そのすぐ内側からは、まるでスポンジのようにしっとりとして、どこかもっちりとした柔らかさが舌の上を包み込んだ。
芳醇なバターの香りがふわりと鼻を抜けたかと思えば、じゅわっと広がるまろやかな甘みが優しく口いっぱいに広がり、五感をまるごと包み込むような幸福感が、セシルの胸の奥にまでじんわりと染み渡っていくのだった。
「おいひぃ~、これは何個でも食べちゃえそう」
その幸福感に浸るようにしながら、セシルは思わずうっとりと目を細め、小さな幸せをひとつずつ噛みしめるように、そっと口元へと運んでいた。
「気に入ったようだな」
そんな風にセシルが夢中になって味わっていると、いつの間にかカミュロが彼女のすぐ傍まで歩み寄ってきており、片手にはノエルが使っていた空のグラスを持ちながら、無表情ではあるものの、その声の調子には僅かながらも柔らかい色が混じっていた。
彼は静かにセシルの様子を横目で見ながら、ワークトップの上へと持っていたグラスを置き、その動作もまた、どこか穏やかさを帯びていた。
セシルはその声にぱっと顔を上げると、マドレーヌを両手で抱えるように持ちながら、心の底から湧き出る感動を隠すことなく、ぱあっと明るい笑顔を浮かべた。
「はいっ! 焼きたてっていうのもあると思いますけど、それ以上に、お店で売ってるような焼き菓子よりも、ずっと美味しくて!」
そう言って笑ったあと、ふっとマドレーヌをそっと持ち直し、どこかしみじみとした目つきになったセシルは、やや声のトーンを落としながら続けた。
「はぁ......カミュロさんって、お菓子作りも上手で、剣術も強くて、わたしからしたらもう......なんでもできる最強の人ですね」
その言葉には、嘘偽りない、憧れにも似た真っ直ぐな尊敬と、どこか自分とは異なる次元に存在するような人物への、静かな畏敬の念が込められており、セシルは言葉を言い終えると、ふっと長く息を吐くようにして目を閉じ、ほんの一瞬その余韻に浸っていた。
しかし──その穏やかな余韻を打ち消すように、空気が一瞬で変わった。
まるで張り詰めた糸が突然引き絞られたかのように、透明で見えない緊張感が空間の隅々まで走り抜け、さっきまで柔らかく流れていた時間のリズムが唐突に止まった。
その変化に、セシルはすぐに異変を察知し、はっとしたように目を開けると、ノエルもカミュロは同時に身動きを止め、だがそれは敵意というより、むしろ何か触れてはならない記憶や言葉に足を踏み入れてしまったときに生じる、繊細な緊張だった。
そして、その静寂を最初に破ったのは、他でもないカミュロだった。彼はいつになく低く深い息を吐き出すと、その声は微かに、彼自身の心の底に沈んだ重たいものを引きずりながら、皮肉めいた響きを含んで零れ出た。
「......料理に関してはともかく、剣術は──ただ体内にいる“力”の影響だ。ただ、それだけの話だ」
その言葉はまるで、自分の歩んできた軌跡や、それに費やしてきた歳月を切り捨てるかのような、冷たい諦めと自己否定が混じっていた。
伏せた視線の奥に潜んでいるものは、誇りでも優越でもなく、むしろそれに伴う“呪い”のような、自らすら遠ざけようとする感情だった。
「......っ、カミュロ......」
ノエルの唇から漏れた声には、明らかに動揺と痛みが滲んでおり、気まずそうに視線を泳がせながらも、何かを言おうとしたものの、喉元まで出かけた言葉を飲み込んでしまい、ただ小さく名前を呼ぶにとどまり、結局そのまま口を閉ざしてしまった。
「......」
そんな中、セシルは二人の間に流れる空気の変化を敏感に感じ取りながら、ほんの一瞬だけ沈黙し、何かを確かめるように視線を宙に泳がせた。
そしてすぐに、心を決めたように顔を上げ、その瞳に迷いの色は一切なく、まっすぐにカミュロを見つめながら、はっきりとした声で静かに語り始めた。
「──それは、違いますよ」
その言葉は決して感情的に否定するものではなく、むしろ、彼女自身の体と心が確かに受け取った“真実”を、自分の言葉で丁寧に、そして誠実に伝えようとする、真っ直ぐであたたかな意志が込められていた。
「だって、昨日。カミュロさんと実際に剣を交えて、わたし──確かに感じたんです。 あの剣さばきや立ち姿、どれをとっても“力の恩恵”のよるものなんかじゃありませんでした。
構えの隙のなさ、間合いの読み、あの一手一手の重みは......全部、経験と積み重ねがあってこそ生まれるものであって、ただの力だけで、あんなに洗練された動きができるわけがないって、肌で感じたんです。
それに......“同じ力”を持っているはずのわたしが、あんなにも圧倒されました。 剣の速度も重みも、視線すら追いつかない瞬間が何度もあって、正直、すっごく悔しかったですよ。でも、それ以上に──密かに感動したんです」
そして、セシルはふっと照れ隠しのように口角をゆるめながらも、彼女の表情にはまだ、昨日の戦いに込められた実感と余韻が残っており、そのまま静かに、けれど力強く言葉を続けた。
「なので、カミュロさん強さは、決して“ただ単に強大な力を持っているだけ”の人に備わるものじゃなくて──“努力の証”だって、そう思っています! 自分と向き合って、何度も傷ついて、それでも積み上げてきた人にしか持てない、尊い強さです!」
その最後の言葉が静かに口を離れ、音として空間に染み込むように広がった瞬間、まるで誰かが目に見えぬカーテンをそっと引いたかのように、部屋の中には静かな沈黙が降り立った。
ほんの数秒──しかし、それは決して単なる気まずい沈黙ではなく、むしろ静けさの中に満ちていたのは、どこか温かく、そして胸を締めつけるような感情の重みだった。
そんな空気の中、セシルは自らが発した言葉が、思っていた以上に深く届いてしまったことを感じ取った彼女は、ふっと肩から力を抜くと、場の雰囲気を少しでもやわらげるために、いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、わざとらしいほど明るい口調で言葉を投げかけた。
「って、ちょっと変な感じになっちゃいましたね。えっへへ......ではでは、料理における努力の賜物を遠慮なく頂いちゃおうかしら」
そう言うや否や、セシルは自分の手に残っていたマドレーヌの最後の一口をぱくっと口に放り込み、ほんのりと甘く香ばしいその余韻を味わうように目を細めながら嬉しそうに笑うと、そのまま自然な流れで足取り軽く、ノエルの元に置かれていたマドレーヌの皿へと向かっていった。
「ノエルちゃん! もう一個もらっても?」
明るくてどこか甘えるような声音でそう尋ねたセシルに対し、突然の呼びかけに一瞬だけ肩をすくめるようにして驚いた様子を見せていたノエルだったが、それもほんの束の間で、すぐに口元に穏やかな笑みを浮かべると、手元にあったマドレーヌの皿を両手でそっと押し出しながら言葉を返した。
「......あっ、う、うん! あたし一人じゃ食べ切れないし、むしろどんどん取っちゃって!」
その反応に、セシルもにっこりと目を細め、まるで何の気負いもなくそのやりとりを受け取るような自然体の笑顔を浮かべていると、ノエルの両手が添えられた皿が、ほんの一瞬だけ動きを止めると、彼女はふいに、静かに顔を上げてセシルの方をまっすぐに見つめながら、僅かに躊躇いながらも、彼女は小さくその名を呼んだ。
「セシル......」
その声音はひどく優しく、けれど微かに震えていて、言葉の端に迷いが滲んでいた。
しかしその真剣な響きに気づいたセシルは、にこりと笑みを浮かべたまま、けれど決して軽くは受け流さずに、まっすぐノエルの瞳を見つめ返しながら、柔らかな声で問い返した。
「なんでしょう?」
その言葉に、ノエルはしばし迷うように顔を伏せかけるが、やがてゆっくりと息を整えるようにしながら、言葉を選ぶように慎重に、けれど心の内から静かに滲み出るような口調で続けた。
「その......ありがとうね......今の、あたしに対してのことじゃないけど。でも、セシルが言ってくれたこと......あれ、聞けてよかったって、思ってる」
その言葉は、明確な内容を示しているようで、実際には抽象的であり、聞いた人間の解釈によって揺らぐような曖昧さを孕んでいた。
それでも、そこに込められた真摯な思いだけは間違いなく伝わるものであり、セシルはしばらく何も言わずにノエルを見つめていたが、やがて、くすっと笑うようにして口元に手を添えると、どこか照れ隠しのような響きを含みながら冗談めかして言った。
「ふふっ、ノエルちゃん。それ、何に対して感謝してくれてるんですか~? それに、わたし、そんなに立派なこと言ってないよ」
そう言いながら、セシルはふと肩にとまっている小鳥へと視線を落とし、ふるふると羽を震わせているその小さな命に向かって、「君も、おかわりいるかな〜?」と冗談めかした声で問いかけると、小鳥は小さく「ヒチチ」と鳴いて、それに応えるように首を傾げていた。
そして彼女は、そのまま手を伸ばし、ノエルが差し出したマドレーヌの皿に指先が触れようとしたその瞬間──まるで静かに流れていた川の流れをぴたりとせき止めるかのような、柔らかくも明確な意志を孕んだ圧力が、ごく自然な流れで、しかし決して偶然ではない確かさをもって、彼女のもう片方の腕にそっと触れた。
「......っ」
思わぬ接触に、無意識のうちに背筋を緊張させるようにして呼吸が止まりかけたが、彼女はすぐに、その掌から伝わる体温と、包み込むようにして添えられた指先の力の入り方から、その手の持ち主が誰であるかを瞬時に悟った。
「えっと......カミュロ、さん?」
ゆっくりと振り返りながら名前を呼ぶ彼女の声には、突然の出来事に対する驚きと戸惑いが入り混じっていた。
だが、それだけではなく、なぜ自分が掴まれたのか、その理由を知りたいという純粋な問いと、相手を責めることなく静かに受け止めようとする慎ましさとが、同時に滲んでいた。
ただ、当のカミュロは何も言わずただまっすぐにセシルを見つめており、どこか決意とも迷いともつかない、言葉では捉えきれない感情の揺らぎが、その瞳の奥に静かに広がっていた。
「......」
セシルは、静かにカミュロを見つめながら彼の言葉を待っていたが、それでも一言も発せられず、彼が何を思ってその手を伸ばしたのか、セシルには理解できないでいた。
けれど、ただひとつわかるのは、その手には衝動的なものや無思慮な勢いはまるでなく、むしろ、長い葛藤の果てにようやくたどり着いた決断のような、内面の逡巡と静かな確信が宿っていたということだけだった。
「......あの」
掴まれたままの自分の腕に視線を落としたセシルは、ゆっくりとまぶたを伏せるように一度だけ目を閉じ、それから再び、彼の目をしっかりと見つめ返した。
その表情には、明確な理解も答えもまだ浮かんではいなかったが、それでも彼の沈黙に向き合う意志だけは確かにあり、戸惑いながらも逃げようとはせず、静かに、ただじっとその場に佇んでいた。




