第73話. ひた隠しな不安
──やがて、フライパンの底がじわりと熱を帯び始め、油がごく微かに音を立ててはじけるような音が、静まり返った室内に控えめな生命の気配を運び込んだ。
そのささやかな音が空気を揺らす中で、カミュロは火加減を確認するでもなく、ふと、まるで思考の端が無意識に言葉として零れ落ちてしまったかのような、低く抑えた声音でぽつりと口を開いた。
「そこまで心配するのなら......いっそ、自分の事を話したらどうだ?」
その言葉には、責め立てるような鋭さは一切なく、むしろ、冷えた肩にそっと羽織をかけるような、静かで穏やかな響きが込められていた。
ちょうどその時、ノエルは手にしていたグラスの中身を、最後の一滴までゆっくりと喉に流し込んだばかりで、その冷たさが食道を通り、内側から身体の芯に染みていく感覚に身を委ねていた。
しかし、そんな静けさの只中に差し込んできたカミュロの一言は、彼女の全身はぴたりと凍りついたかのように動きを止め、飲み終えたグラスを握った手が僅かに震えた。
そして次の瞬間、彼女は無言のまま、そのグラスをテーブルの上へと「ガンッ」と、まるで感情の衝動がそのまま音へと変換されたかのように、割れないぎりぎりの強さで置いた。
「っ、そんなの、そう簡単に言える訳ないでしょ!!」
その叫びは、怒りというよりも、むしろ心の最も繊細で触れてほしくない部分を不意に掴まれたときのような、防衛反応に近い激しさを帯びているような気配がそこにはあった。
「ただでさえ、セシルにはあの変な力を見られたんだよ? その上、あたしのこの目まで見て......それで......セシルまで、あたしのこと......軽蔑したら。それだけは、本当に......いや......」
言葉の終わりは次第に細くなり、喉に詰まったそれを押し出すことができず、ノエルは俯いたまま、小さく唇を噛みしめると、揺れる前髪の奥で目元を隠すように手を滑らせては、何かを押し殺すように目尻辺りを擦っていた。
その姿には、一見すれば反抗的にも見える強がりの色が滲んでいたが、実際には“信じたいけれど、信じて裏切られるのが怖い”という脆さと、“それでも誰かを信じてみたい”という切実な願いが、危うい均衡の上でせめぎ合っているような、複雑な強さと弱さが入り混じっているようにも見えた。
一方、カミュロはというと、ノエルの激しい反応に引きずられることもなければ、言葉を重ねて追い詰めるようなこともせず、ただ静かに先程から変わらず、羽をふくらませたまま、すやすやと眠っていた小鳥に視線を移した。
その眠りに一切の警戒心がないことが、まるでこの空間がどれほど安心できる場所なのかを証明しているかのようで、それを見つめるカミュロの目は、どこか遠くの記憶を眺めるような静けさと、かすかな哀しみを滲ませながらも口を開いた。
「生い立ちまでのすべてを語る必要はない。それに、もしそれを知った上でノエル様に危害を与えるような奴なら......そんな者のためにここに匿う意味もなくなる。だったらこのまま、すぐにここから追い出せばいい......簡単なことだ」
その言葉には冷たさこそなかったが、不思議と現実味を帯びた理屈と、理不尽すら受け入れるような静かな諦念のようなものが含まれており、まるで「もし本当にそうなったとしても、俺は動じない」と言外に語っているかのような、揺るぎない覚悟の重みが感じられた。
しかし、ノエルはそのあまりにもあっさりとした言い切り方に、何かが引っかかったように、咄嗟に声を上げた。
「はっ、簡単って......じゃ、じゃあ!! 逆によ!!」
その声には怒りというよりも、むしろ心のバランスを一気に崩されたことへの混乱と戸惑いが混じっており、ノエルは思わず身を乗り出すようにテーブル越しに身体を傾け、カミュロの目を真正面から真っ直ぐに見据えた。
「カミュロだって!!家系のせいで勝手に住み着かれた、その契約悪魔のことを......セシルに、本当にちゃんと話せるの?! 自分のことを、ぜんぶさらけ出すなんて言えるの?!」
その問いには、単なる反発や皮肉ではない、むしろ“自分ばかりに痛みを強いるのなら、あなたも同じ痛みを差し出せるの?”という悲痛な訴えが込められており、心の傷を晒された恐怖から、どうにか心の均衡を取り戻そうとする、ノエルなりの必死さが、その言葉の震えに滲んでいた。
「......」
だが、そんな問いかけにも関わらず、カミュロは動じることもなく、怒りを返すこともなく、ただ静かにそこに立ったまま、目を少しだけ伏せるようにして黙り込み、まるで喉元までせり上がってきた何かを、深く息を飲み込むことで押し戻そうとしているかのように、固く閉ざされた口元からは一言も零れることはなかった。
その沈黙が、不意に返ってきた拒絶のように感じられたのか、ノエルはほんの一瞬、眉を顰めながら不安げに彼を見つめたが、やがてその表情も少しずつ緩み、ふっと力が抜けるように長い息を漏らすと、張り詰めていた心の糸が一度ぷつりと切れたかのように、椅子へと腰を沈めた。
そして、自分でもどう処理していいのか分からない感情の残滓を胸の奥に押し込めながら、どこか自嘲気味な苦笑を浮かべ、つい本音が滲み出てしまったかのような、ぽつりとした声音で言葉を漏らした。
「ほら。やっぱり、言えないんでしょ。簡単とか言わないでよ......はい、このお話は終わり。カミュロとこれ以上、言い合いとか......したくないもん」
その言葉と同時に、それに伴う疲労感を滲ませながら、ノエルは両腕を軽く前へ伸ばすようにしてテーブルへと身体を預けると、まるでもうこの話題は終わりだと自ら幕を引くように、視線をふと、何も知らず、ただ夢の中を漂うように丸まって静かに眠っている小鳥の方へと向けた。
けれど、その静寂を突き破るようにして、唐突に、カミュロが音もなく彼女の方へと身体を向けたかと思えば、その声は静かでありながらも、芯に重みを宿した短い言葉が、空気を切り裂くように部屋に響いた。
「俺は言える」
「............はっ、えっ?」
あまりに不意打ちのようなその一言に、ノエルはまるで思考が数秒遅れて追いついてくるような感覚に陥り、反射的にテーブルへと預けていた身体を起こしながら、信じられないという驚きと困惑を滲ませた視線で、彼の方を凝視した。
「い、今......あたしの聞き間違いじゃなければ......もしかして、“言える”って、言った?」
耳を軽く押さえるようにして、言葉が自分の中で何度も反響するのを確かめながら、ノエルはまるでカミュロの瞳の奥に隠された真意を探るように、真っすぐに視線をぶつけた。
すると、カミュロはその問いに応えるように、目を伏せて一度深く息を吐き、そして、今度は迷いのない声音でゆっくりと語り出した。
「......あぁ、言える。この力のことも、イングレアム家のことも、聞かれたなら全て話す。もう、これ以上何も隠すつもりはない」
「ッ、な、なんで!! そんなの、うそだ!!」
「嘘ではない」
その叫びは、ただ驚いただけの声ではなく、むしろそれは、彼の“平然と言えると宣言した”姿に突き動かされ、自身の奥底に隠していた感情が一気に溢れ出たがゆえの、どうしようもなく荒れた声だった。
だが返されたその短い言葉に、ノエルは困惑と困憊を浮かべたまま、まるで過去を辿るように遠くを見るような眼差しで、押し殺した声を絞り出すように呟いた。
「で、でも、あたし、覚えてるもん!! カミュロのこと、“あの力があるから強いだけ”って、陰でこそこそ言ってた人たち。あたし、この耳でちゃんと聞いてたんだから!!」
その記憶は、過去の苦い残像として今も彼女の胸に刻みつけられており、その時に感じた理不尽さや、彼を想うがゆえの憤りは、時間が経っても色褪せることはなかった。
そして何より、そういった苦しみを味わってきたはずの彼が、それでもなお、自分の過去や力を他人に語る覚悟を持っているという事実が、ノエルの中にある“自分の恐れ”を一層際立たせていた。
「だから、その力のせいで、カミュロだっていっぱい嫌な思いしてきたのに......それを、自分からセシルに話すなんて、できるわけないじゃんって......あたし、そう思ってたのに......」
吐き出すように出たその言葉は、抗議というよりは、自分自身の限界を認めるような、痛々しい呟きに変わっていき、彼女の声音は震え、意識はまるで自身を納得させるための言葉を繰り返すしかできないように、どこか不安定だった。
だが、カミュロは彼女の動揺や拒絶を責めることはせず、むしろその場に静かに佇みながら、右の掌にはいつの間にか水の糸が緩やかに流れ始めていて、その揺らめく細流は、まるで言葉にできない感情の奔流を封じ込め、外に溢すまいとする彼なりの“静かな葛藤”の象徴のようだった。
「......っ」
ノエルもまた、自分の言葉が相手を傷つけてしまったのではないかという後悔と、どうしても上手く伝えられないもどかしさの狭間で押し潰されそうになっていたが、それ以上何も言うことができず、ただその掌の中でゆらめく水の動きに、言葉にできない心の内を投影するように見つめていた。
その沈黙は、空気を重たくすることなく、どこか儚く、そして切実な静けさを持って、部屋を緩やかに包み込んでいたが――
ガチャ。
その空気を破るように、突然、扉が開く乾いた音が室内に響き渡り、反射的にノエルとカミュロは一斉にその方向へと顔を向けると、そこには朝の光を背に、どこか呑気な様子で首を傾げながら顔を覗かせたセシルの姿があった。
「あっ、おはようございます、お二人とも! なんだか、すっごくいい匂いが廊下まで漂っていたので、ついふらふら〜っと追いかけるように来ちゃいました!」
その明るく無邪気な声が、まるで張り詰めていた空気の膜を破る一条の陽光のように部屋全体に柔らかさをもたらし、ほんの瞬間前までこの部屋に満ちていた緊張と沈黙が静かに溶けていくのが、空気の肌触りの中に感じ取れるほどだった。
「......セシル」
ノエルの口から思わず零れたその声には、どこか張り詰めていた感情が少しだけ解かれたような気配があり、そしてカミュロの表情にも、僅かだが、深く息を吐いたあとのような柔らかい安堵が浮かんでいた。
まるで、何も知らずに無防備に現れたセシルという存在が、この空間の“静かな葛藤”を新たな色に塗り替え、ふたりの揺れ動く想いに小さな“転機”の兆しをもたらす風穴となってくれるのではないか――そんな微かな予感が、部屋の空気の温度に宿っていた。




