第72話. 杞憂な人達
——月光が差し込んでいた静かな夜の帳がいつの間にかゆっくりと引かれ、いくつもの時が流れ去った後、世界はその表情をすっかり変えていき、東の空が仄かに白み始め、朝靄を照らすようにして柔らかな陽光が大きな窓から静かに差し込み始めていた。
城外からは、目覚めたばかりの街の営みを知らせるように、朝市へと急ぐ商人たちの声や、石畳を軽やかに叩く馬車の車輪の音が微かに届きはじめており、城の中にも少しずつ、夜と朝とが静かに入れ替わっていく、そんな柔らかで優しい空気が流れ込んできていた。
その穏やかな朝の気配に包まれたキッチンの一隅では、数時間前にセシルの応急処置を終え、彼女を自室まで運んだカミュロが、まるで時間そのものの流れを見つめているかのように、静かに一人佇んでいた。
いつもの完璧に整えられた姿とは打って変わって、彼はややラフな雰囲気を纏い、長く流れるような髪を高めの位置でひとまとめに束ね、薄い白のシャツを無造作に羽織った上から、淡いグレーの料理用エプロンを身につけていた。
その姿には、これまでの彼からはあまり見せることのなかった柔和な空気と、微かに人間的な温もりが滲んでおり、まるで彼の秘められた一面が、朝の光によってふと表に現れてしまったかのようだった。
部屋の奥では小型のオーブンが低く唸るような音を立てながら稼働しており、その振動はどこか心地よく、耳を撫でるように空間へ溶け込んでいた。
さらに、溶けたバターと砂糖が熱に溶け合うことで生まれる甘く香ばしい香りが、静かなキッチンの空気にふわりと漂っており、その匂いは、まるで昨夜までの緊迫した出来事が夢の中のことだったかのような錯覚すら与えてくれるほどに、穏やかで幸福感を伴うものだった。
そんな中、カミュロは腕を組んだままオーブンの小窓越しに中の焼き具合を横目で確認しつつ、背中をそっと壁に預けて、まるで今この瞬間だけは務めや義務から解き放たれた者のように、瞼をうっすらと閉じながら束の間の静寂に身を委ねていた。
だが、予告もなく響いた「ガチャリ」という扉の金具が外れ金属同士の触れ合うその乾いた音が、まるで時間の止まった空間にふいに風が吹き込んだかのように、空気を震わせた。
「おはよぉ」
ゆっくりと瞼を開けたカミュロの視線の先にキッチンの扉の隙間から顔を覗かせたのは、やや寝ぼけ眼をしたノエルだった。
彼女は相変わらず柔らかい長い前髪で表情の半分以上を覆い隠しており、どこか遠慮がちに小さく声をかけながら、慎重に一歩一歩、扉を開けていた。
「おはようございます、ノエル様......もう、体は平気なのか?」
カミュロは壁から身を離すと、寝起きの緩やかな気配を纏ったノエルの姿を見つめ、普段の落ち着いた声色をほんの少しだけ和らげて、柔らかく問いかけた。
すると。それに応えるようにノエルは小さく笑みを浮かべ、眠気が残る表情の中にどこか得意げにしながら言葉を返した。
「あの、変な力。久しぶりに暴走しちゃったけど......でも、カミュロがちゃんと回収してくれたから、部屋まで運ばれた後も、体は全然問題なし! ふんふん!見て見て、ほら、この通り!」
そう言いながら彼女は両腕を左右に広げ、くるりとその場で軽く回転して見せると、まるで幼い子が「元気だよ!」と証明するかのような明るい笑顔を浮かべていた。
その仕草には無邪気さと同時にどこか安心した様子が滲んでおり、それを見たカミュロはふっと目を細めた後、目を伏せるようにしてわずかに笑みを滲ませたが、すぐにその表情を引き締め、再びオーブンの方へと足を向けていった。
ノエルはそんな彼の背中を目で追いながら、ふと昨日の出来事を思い出したのか、唇を尖らせて頬をぷくりと膨らませ、抑えていた感情を思い切って吐き出すように声を上げた。
「それにしてもさぁ、ほんっとにムカつく、あのゼリィナって人! なんなの、あの人! カミュロのこと、名前で呼びもしないで、ずーっと姓の方でしか呼ばないし、あたしのこともすっごい嫌そうにジロッて睨んでくるしさ! 街での騒動を話す時も、なんか、いかにも“全部貴方のせいで~”って感じの話し方でさ!!」
まくし立てるように一息に放たれたその言葉たちは、まるで胸の内にずっと澱のように溜まっていた不満が、今ようやく出口を見つけてあふれ出したかのようであった。
ノエルはそのまま「うにゃらーっ!!」と声を上げながら両手を頭上まで掲げ、まるでレッサーパンダのように小さな威嚇のポーズを取ってみせた。
だが、そんな賑やかで感情豊かな彼女の振る舞いとは裏腹に、カミュロの反応は極めて静かで、まるで感情を押し留めるかのように小さく「そうだな」と一言だけ返すにとどめ、そのまま黙々と棚のグラスに手を伸ばしていった。
「え~、カミュロはあの人の態度に文句とかない訳なのぉ? もっと怒っても良いのに」
ノエルは、その反応に呆れたような表情を浮かべ、肩をがくりと落としながら彼を見上げるノエルだったが、カミュロはほんの僅かに肩をすくめただけで、ただ淡々と手元の作業に集中していた。
「はぁーあ、もうぉ。相変わらず我慢しちゃってるんだから」
ノエルは、小さく息を吐きながら、まるで心の奥底から静かに湧き上がってきたごくわずかな不満を、そっと外へと散らすように、自分の両頬をやんわりと両手のひらで包み込むと、そのままふにふにと揉みほぐすような仕草を見せていた。
そんな微かなモヤモヤを胸に抱えながらも、ノエルは気持ちを切り替えようとするように、軽やかで弾むような足取りを取り戻しながら、キッチンに置かれた椅子へと向かっていった。
「もう......あんな態度ばっかりだから、ほんと、中央の人ってなんとなく苦手なんだよね......」
ノエルはそう呟きながらも、次の瞬間には、まるで跳び箱を軽やかに飛び越える無邪気な子どものように、ふわりと身体を宙に浮かせて椅子の方へと跳ねるように移動し、「よいしょっと」と楽しげな声を上げてから、柔らかな着地とともに座面にぽすんと腰を下ろした。
さらにそのまま、くるりと身体を回転させるような動きで、バランスを取りつつ器用に体勢を整える彼女の姿には、普段からの活発で屈託のない性格が滲み出ていた。
だがその直後、不意にノエルの前髪の隙間から覗く大きな瞳が、何かに吸い寄せられたかのようにぴたりと動きを止め、その先にある違和感を視界の中で確かに捉えた瞬間、彼女の表情にははっきりとした驚きの色が浮かび上がった。
「あれぇ? カミュロが、こんなに服をぐちゃぐちゃに置きっぱなしにしてるなんて、すっごく珍しいじゃん......」
彼女の視線の先にあったのは、普段なら着ない際には、几帳面に折り目を整え、決まった場所に必ず片づけられているはずの、あのカミュロの上着だった。
しかし今はそれが、まるで投げ出すように乱雑に扱われた形跡を残したまま、テーブルの端にだらりと崩れ落ちていて、その様子にノエルは強い違和感と同時に、どこか引き寄せられるような好奇心を抱いていた。
「むむっ?」
小さな唸り声とともに、好奇心をさらに膨らませたノエルは、背筋をすっと伸ばしながら、そのままわずかに身体を前へと傾け、まるで布のくぼみに宿る何かを探し出すかのように、じっと上着の布が沈み込んだ中央辺りに視線を凝らした。
そしてその瞬間、彼女の大きな瞳に飛び込んできたのは、柔らかな羽毛をまとった、一羽の小さな小鳥が、身をすくめるようにして静かに、まるで息をひそめるように眠っている姿だった。
その小鳥は、まるでこの場所が自分にとって最も安全で、誰にも邪魔されない聖域であるかのように、ふわふわとした体を微かに上下させながら、ぴくりとも動かずに目を閉じており、彼女の中で何かがはじけるように感情が溢れ出した。
「えぇっ?! な、なにこの可愛い子!!どこから連れて来たの?!」
ノエルは思わず大きな声を上げ、その声には、さっきまで胸に渦巻いていたゼリィナへの不満や中央へのもやもやした感情など、すべてを一瞬で吹き飛ばしてしまうほどの、純粋でまっすぐな喜びがこもっていた。
そしてそのまま、まるでその小鳥の存在そのものに惹きつけられるように、椅子の上から身を乗り出し、テーブルに両手をついて、顔をそっとその羽毛のすぐそばまで近づけていった。
「ふっわふわの、もこもこだね〜」
ノエルは、まるで夢に出てくるような柔らかな羽毛に触れてみたいという欲求と、それを起こしてしまうかもしれないというためらいの間で揺れ動きながら、小さく指を動かし、そっと手を伸ばすものの、その距離はまるで羽の温もりに触れるか触れないかという絶妙な間合いを保ち続けていた。
そんな彼女の様子を黙って見守っていたカミュロは、静かに瞳を細めながら、ゆっくりと手にしていたグラスを持ち上げ、その中に満たされたオレンジ色の液体が淡く光を反射するのを見届けるようにしながら、そっとノエルの頭上へ差し出し、低く落ち着いた声で話しかけた。
「無闇に触らない方がいい。ノエル様も寝ている最中に突然触られたら嫌だろ」
その声はいつも通り抑揚を極力抑えた淡々とした調子だったが、その言葉の奥には、確かに彼なりの気遣いと静かな思いやりが滲んでおり、彼をよく知る者であれば、その微細な感情の動きをきっと読み取ることができたかもしれない。
しかし今のノエルにとっては、目の前で小さく静かに丸くなって眠る小鳥の命が、あまりにも尊いものに感じられていて、カミュロの言葉を深く噛みしめる余裕すらなく、ただ夢中でその羽根の震えをじっと見つめ続けていた。
「......」
そんな黙ったままのノエルの様子に、カミュロは僅かに息を吸い込むと、まるで子どもが何かに一心不乱になっている姿をそっと見守る大人のような、少しだけ諦めと慣れの入り混じったまなざしを彼女に向けた。
やがて、無言のままその手からグラスをテーブルの端にそっと置くと、まるでタイミングを見計らったかのように間を一呼吸置いてから、今度は問いかけるような、感情の起伏を抑えた落ち着いた口調のまま、静かに口を開いた。
「その顔を見るに、今しか話せないこともあると思うんだが......杞憂だったか?」
その声音には、彼女の心を無理やりこじ開けようとするような強引さは微塵も感じられず、ただ静かに確かな意思を込めて、彼女の言葉が自然に紡がれるのを待っている――そんな柔らかな優しさが、ほんのりと滲んでいた。
すると、その言葉を受けた瞬間、ノエルはまるで何かに気づかされたかのように、小さく肩を揺らしてハッと我に返るようにふわりと顔を上げると、そのまま視線をテーブルの上へ滑らせると、そこに置かれていたグラスへと手を伸ばし、何の躊躇もなく、それをまるで初めから自分の所有物だったかのように、ちゃっかりと手元に引き寄せていた。
そして、その動作のまま、さりげなくカミュロの方へと体を向けると、どこか気恥ずかしそうに眉尻を下げ、少しだけ口元を緩ませて笑ってみせた。
「ん、やっぱりカミュロにはバレちゃうんだね!」
その言葉に滲むのは、心の奥底をそっと覗き込まれてしまったことへの驚きと照れくささ、そして、それを責めるでも避けるでもなく受け止めてくれる彼に対する、どこかくすぐったいような安心感だった。
しかし次の瞬間、ノエルはそんな思いをかき消すかのように、手にしたグラスを静かに持ち上げ、オレンジ色の液体が揺れるその縁をそっと唇に当てると、言葉を飲み込むようにして、何も言わず、一気にそれを喉へと流し込んでいった。
「......」
対するカミュロは、そんなノエルの一連の動作を遮ることも、急かすこともせず、ただその場に静かに佇むような空気を纏いながら、黙って彼女の言葉がこぼれ落ちてくるのをじっと待ち続けていた。
ようやくグラスの中身が半分ほどになった頃、ノエルはそれをゆっくりと口元から離すと、先程の軽口とは明らかに違う、言葉の重みを量るような、どこか慎重で繊細な声色で、ぽつりと呟き始めた。
「あのね。セシルのことなんだけどさ......あたしの、この変な力、絶対に見てたでしょ? だから、その......怖いとか、気持ち悪いとか。もしセシルがそういう事を言ってたなら、ちゃんと......あたしに報告してほしいな、って思ってて」
その言葉には、ただの確認でも、ただの愚痴でもなく、まるで、自分の存在そのものを否定されるかもしれないという恐れと、それでも知らなければ前へ進めないという、心の中でせめぎ合う感情が言葉の一つひとつに滲み出ているようだった。
気づけば、ノエルはグラスを両手でぎゅっと握りしめ、指先にまで力を込めながら、まるでそこにすがるような仕草で、それでも逃げずに、覚悟を決めたかのようにゆっくりと顔を上げると、まっすぐにカミュロの瞳を見据えた。
「それ関してだが......」
彼女の中に秘められた必死な思いを、カミュロはたしかに感じ取ったのだろう。その証拠に、彼はほんの一瞬だけ視線を逸らし、まるで心の奥底に沈めていた古い記憶を引き上げるかのように、僅かに目を伏せた。
しかし、その沈黙は長く続かず、やがて彼は再び静かな意思を宿した眼差しでノエルの方を見つめ返し、真っ直ぐに言葉を返した。
「心配するな。むしろ、ノエル様を案じる言葉が多かった。それに......自分の傷が悪化しているのにも関わらず、あんな......」
その続きを語ろうとした瞬間、カミュロは言葉の先を自ら飲み、口元を手でそっと覆うようにしながら、抑えきれなかった感情が零れるのを抑えるかのように小さく微笑を浮かべていた。
言いかけた言葉が何だったのか、あえて説明はしなかったが、それは彼の中で何か感情が込み上げてきた証であり、それをうまく言葉に変換できなかっただけなのだろう。
「ふっ」
「えぇぇ......今の、笑うところなんてあった?」
ほんのさっきまでの緊張した空気が、思いもよらぬ方向に崩れたことに戸惑いを隠せず、ノエルはグラスを両腕で抱きかかえるように引き寄せると、まるで防御のように体を小さく折りたたみ、椅子に座る身体を仰け反らせて、その場から少しでも距離を取ろうとするような、なんとも不器用で子どもっぽい仕草を見せた。
しかし、その戸惑いの中にもどこか救われたような空気が滲んでいたのは、彼女の表情にじわじわと浮かび始めた安堵の色が、言葉よりも雄弁に語っていた。
「......でも、良かった。とりあえず、嫌われてない......のかな」
その一言は誰に向けたものでもなく、ただ自分自身の中にある不安をそっと確かめるように零された呟きであり、彼女の口元に浮かんだ小さな笑みには、安堵と照れ、そしてほんの少しの希望が、入り混じるようにして滲んでいた。
そんな彼女は、ふと無意識のうちに指先をそっと顔の前へと伸ばし、長く垂れた前髪にふわりと触れ、感情を整え直すかのような、そんな仕草でもあったがすぐに意識を戻したようにグラスを持ち直すと、その縁にそっと唇を重ね、まだ冷たさを残したままのオレンジ色の液体を、ゆっくりと喉の奥へ流し込んでいった。
その静かな動作の余韻がまだ彼女の周囲にふわりと漂っている中で、まるで場の空気をさりげなく切り替えるかのように、カミュロは無言のまま静かに背後にあるキッチンへと歩を進めた。
そして、長年の習慣に裏打ちされたような手慣れた所作でコンロの前に立つと、すでに準備してあったフライパンを手に取り、火にかける始めていた。




