第70話. 凍える感情
(......はぁ。ダメだな、わたし。いい加減、スプーンとかナイフとかにちゃんと慣れないと。いつまでも、こうやって人に気を使わせちゃいけないのに)
セシルは、口にした自分の言葉を思い返し、その情けなさと不甲斐なさに胸の奥がじわりと締めつけられるような思いを抱きながら、まるでその感情を隠すようにして、そっと両の手で顔を覆うと、ミレイアに気づかれないようにと意識しながらも、どうしても抑えきれなかった小さな呼吸がひとつ、深く、そして静かに漏れ出ていた。
(はっ、いけない、いけない! こんなことで落ち込んでる場合じゃない。今は、ここのことを知る貴重な機会なんだから、ちゃんと集中して、訊くべきことはしっかり訊いておかないと!)
自分にそう言い聞かせるようにして、胸の中にわだかまっていた弱気な感情をぐっと押し込めると、セシルはそっと手を顔から離し、姿勢を正すように背筋をぐっと伸ばしながら、気持ちを整えるために軽くひとつだけ咳払いをしてから、視線を真っ直ぐ前に向けた。
(......とにかく。ここまでの話で、ノエルちゃんとカミュロさんがここで二人きりで過ごしている理由については分かったし。王が即位した際に、それまでここで働いていた人たちが一斉に辞めさせられたという、どう考えても異常としか言えない出来事があったというのも把握できた。あとは――)
「そういえば、最初に君が口にしていた。なぜ冷遇されているかって話は聞かなくていいのかな?」
いつの間にか別の棚から何かを取り出し、再び調理台に戻っていたミレイアは、手元でギザギザの刃を持つ包丁を器用に操りながら、丸くて硬そうなパンの上部をくり抜くように丁寧に切りながら問いかけてきた。
セシルは、その言葉のタイミングのあまりの的確さにハッと息を呑み、何かに引っかかるような感覚とともに、思わず口を開いた。
「ッ、待ってください!それも、たしかに気になっていたことですが......あの。少し、考えさせてください」
「うん。ゆっくりでいいよ」
その返答に対して、ミレイアはパンの中身をくり抜く作業を中断することなく、ただ小さく頷きながら、今度はほんの少しだけ声のトーンを落として、先程までの陽気さとは違う静けさを帯びた声で呟いており、その言葉を耳にしながらセシルは疑念を巡らせていた。
(......正直、ノエルちゃんが、街の人からあんなに殺意を向けられているのは普通じゃない。でもそれより、この城の――異常がわかりそうな気がする。なら、ここは少し、踏み込んでみても......)
セシルは、まだ心の底にうずくまっていた迷いを振り払うようにして小さく肩に力を入れ、控えめなガッツポーズを作ると、それを胸元でそっと解きながら、深くひとつ呼吸を整えると、意を決したように顔を上げ、言葉を選ぶようにして、慎重に問いを口にした。
「ノエル様が秘めている......あの、歪んだ力のようなもの。その正体を、ミレイアさんは知っていますか?」
その言葉を発すると同時に、セシルの中に浮かび上がったのは、あの時、目の前で見たノエルが光に包まれた手を必死に顔に当て、まるで何かを抑え込むかのように逃げ出した小さな背中。
彼女から滲み出た、寒気を伴うような気配と青白い光、そしてあの空気を濁らせるほどの違和感の正体は精霊が放っている歪みの力と同等の力を感じ、どう考えても、普通の女の子が持っていいような力ではなかった。
セシルの言葉に、ミレイアは僅かに尻尾を小さく震わせたが、手元の作業を止めることなく、包丁を軽くまな板の上に置くと、気怠げに肩をすくめながらセシルの方へと身体を向けると、いつもの飄々とした雰囲気のままで、ただ淡々とした口調でこう答えた。
「歪みの力、かぁ......多分、あの空気が急に息苦しくなる時のこと、言ってるんだろうね。 うーん、まぁね、残念だけど、その正体が何なのか、オレにも全然わからないんだよね」
「......そう......ですか」
あまりにあっさりとした答えに、セシルは拍子抜けしたような気分とともに、ふと肩の力が抜けてしまい、小さくうなだれるように視線を落としており、何かを期待していた分、その空振りに心が少し沈んでいた。
しかし、その様子を見たミレイアは、すぐに態度を変えるでもなく、逆にどこか慈しむような目でセシルを見つめながら、腕を組み、ゆったりと尻尾を左右に揺らしながら柔らかな声音で語りかけてきた。
「ねぇ。さっきオレが言ったこと、覚えてる? 先代の王が亡くなって、今の王が即位した時に、ここで働いていた人たちが総入れ替えされたって話」
その言葉に、セシルは一瞬だけ目を細め、ミレイアが以前に語っていた内容を改めて胸の中でなぞるように思い返しながらも、余計な言葉を挟むことなく、ただまっすぐにミレイアの瞳を見据え、小さく頷いて静かにその続きを待ち続けた。
そんなセシルの姿を前にして、ミレイアは僅かに視線を逸らすように目を伏せると、どこか過去を辿るような口調で、言葉を静かに続けた。
「......あのね、その力っていうのは、決して彼女が生まれ持っていたものなんかじゃないんだ。あれが姿を見せ始めたのは、まさに、先代の王が亡くなって、その座を新しい今の王が引き継いだ、あのタイミングでね」
その静かな一言が落ちると、まるで空間ごと時間が凍りついたかのように、部屋の中からすべての音が消えたような錯覚に陥った。
ミレイアはそれ以上何も言わず、視線を床に落としている一方で、セシルはその一言の重みに思わず息を詰まらせたように口を半開きにし、驚愕と困惑が入り混じった表情でミレイアを見つめていた。
だが次の瞬間、体を貫いた衝撃がそのまま動作となって噴き出すように、両手をテーブルにつき、勢いよく立ち上がっていた。
――ガタンッ!
「っ、それが本当なら......! あの入れ替わりの話も含めて、偶然なんかじゃ絶対に済まされませんよ!!」
激しく立ち上がった反動で、後ろの椅子が無惨なほど勢いよく倒れ、そのまま床の上をコロコロと転がっていく音が鋭く部屋の静寂に響いた。
セシルの声は怒鳴るような勢いを伴っていたが、それはただの感情の暴発ではなく、確かな疑念と確信が交錯した中で思わず飛び出した言葉だった。
「......」
しかしその言葉を受けたミレイアは、まるで何かを予期していたかのように特に驚く様子も見せず、ただゆっくりと目を伏せて沈黙を貫いていた。
部屋の中には再び沈黙が満ち、唯一残されたのは、転がった椅子の微かな音と、それまで黙っていたアリオナがどこか心配そうに「クルル...」と低く鳴いた、その小さな声だけだった。
その音に我に返ったセシルは、自身の行動を反省するかのように一度瞳を閉じると、勢いよく立ち上がった際に肩に落ちた横髪を指先で静かに耳の後ろへと払いながら、ゆっくりと息を整え、低く落ち着いた声で口を開いた。
「......ごめんなさい、いきなり声を荒げてしまって。でも......王が即位してから、この城の中で起きている変化が、あまりにも不自然で。いいえ、もはや異常と呼んでも差し支えない程で。もう完全にこれは、偶然や些細な出来事じゃなくて、明らかに何か裏があるとしか思えません」
言葉を吐き出しながら、自分の中に芽生え始めていた確信のようなものが胸の奥深くに根を張っていくのを感じたセシルは、その重たく息苦しい感情をなんとか押し込めるように、胸の奥底から空気を吐き出すようにして深いため息をついた。
(......ミレイアさんにこれ以上問いただすような言ってもしょうがないじゃない。とにかく、クロノスさんが睨んでいた通り、今の王が怪しいという裏付けができたのは良い事よ)
ようやく落ち着きを取り戻し始めていた自身の内面に意識を向けながら、セシルはふと、さっきの衝動の結果として倒れ込んだ椅子のことを思い出し、振り返るようにして後方へと視線を向けた。
すると、椅子は彼女の思っていた以上に遠くの壁際まで転がっており、その無防備な姿はまるで、噴き出した感情に打たれ、できるだけ遠くへと逃げ出そうとしたかのようにも見えた。
その姿に、小さく目を細めたセシルは、つかの間の空白に現実を引き戻されたような心持ちになりながら、感情の波が静まった今、慎重に歩を進めて椅子のもとへと向かい始めた彼女の背中に、ふと沈んだ声がふわりと届いてきた。
「そうだよね。まったくもって君の言う通りだよ。でも、オレだって、これらが......ただの偶然だって思えたら......どんなに楽だったか......」
ミレイアのその言葉は、まるで心の奥底から絞り出されたかのように弱々しく、言葉の端々には諦念と、それに抗おうとした痕跡すら感じさせない自己嘲笑の響きが滲んでいた。
「......」
セシルはその声に何かを返すべきだと心のどこかで感じながらも、実際には胸に広がる重たい感情が言葉として形を成すことはなく、ただ静かに、無言のまま足を止めることもなく歩を進め、やがて倒れた椅子に指先が届きそうな距離にまで身を屈め、指先が触れかけていた椅子の角にそっと手を置こうとした――まさにその瞬間だった。
「っ...!」
突如として、空間全体が一瞬で凍りつき、まるで真冬の山奥に裸足で放り出されたかのような鋭く突き刺さる冷気が、皮膚を越えて骨の奥まで染みわたるように流れ込み、感覚の全てを侵食していくのがわかった。
(何、この異様な冷気は......っ)
思考が追いつくよりも早く、まるで背後から冷たい刃物でなぞられたかのような悪寒に、彼女は肩をすくめて一歩踏みとどまり、転がっていた椅子に伸ばそうとしていた手を空中でぴたりと止めた。
あまりの異常さに、頭の中が一瞬真っ白になり、椅子を拾うという小さな行動さえも、もはや後回しになるほどに、空間の空気が明らかに変質しているのを肌で感じ取っていた。
そして、セシルがその異様な正体を確かめるべく、体を向けようとしたまさにその瞬間――視野の境界すら超えた先から、何かがまるで疾風のごとく、もしくは空間を裂いて飛来する彗星のような速さで近づいてきた。
それは氷の欠片とも、結晶のような透明な塊とも見えたが、形状を正確に捉える暇などあるはずもなく、ただその存在が信じがたい速度でこちらに向かってきているという事実だけが、圧倒的な現実感だけがあった。
「なっ...!」
反射的に喉の奥から短い声が漏れたものの、いつもなら肌身離さず持ち歩いているの剣は部屋に置いてきてしまったことで手元になく、今の自分には咄嗟にそれを防ぐ術も備える隙もないことを、瞬時に悟るより他なかった。
ただ、目前に迫るその飛来物を真正面から受け止めるしか術がないと、頭の奥が冷静に判断した瞬間、セシルは思わず身を縮め、咄嗟に強く目を閉じて、来る衝撃に身構え――その直後、「ドシンっ!」と重たく鈍い衝撃音が耳に響き渡った。
「......っ」
だが、どれだけ身構えても、自分には何一つとして痛みも衝撃も感じられず、代わりにどこかから低く唸るような声と、先程まで会話していた時には聞かなかった怒気を孕んだミレイアの「何やっているんだ!」という鋭い怒声、そしてこちらに駆け寄ってくるバタバタとした足音だけが、はっきりと聞こえた。
(......何も当たってないし、痛くない?)
恐る恐るセシルは瞼を開き、状況を確かめようと視線を彷徨わせると、そこには普段の愛くるしく穏やかな姿とは打って変わり、険しい表情と鋭い瞳をしたアリオナが、低く唸り声を漏らしながら、明らかに敵意を向けて下方を睨みつけていた。
「っあ、アリオナ!?何が――!」
咄嗟にアリオナが睨みつけていたその視線の先にあるのは、彼女の足元で、まるで氷で形作られたかのような姿を持つ、狼のような動物が、必死に暴れようとしている姿だった。
「だっ......あなた、一体どこから?!」
驚きと困惑が入り混じった声が自然と口から漏れ、セシルは目の前の異様な存在から視線を外せないままでいると、そのすぐそばに駆け寄ってきたミレイアが、乱れた息を整える暇もなくアリオナの隣にしゃがみこむと、まずはアリオナに「ごめん、ありがとう!」と短く感謝を告げ、すぐさまアリオナの足元に手を伸ばしていた。
「なぁ、オレも悪かったけどさ......急に飛び出さないでくれる? あの子が大怪我でもしたらどうするのさ」
怒りを抑えきれず、それでも必死に言葉を選ぶような低く押し殺した声音で、ミレイアはまるで諭すように静かに言葉を投げかけながら、その小さな狼のような存在の首根っこを、慣れた手つきでひょいと掴み上げると、必死に抵抗するそれをまるで羽のように軽々と持ち上げてしまった。
(えっと、つまり。この子は、ミレイアさんの知り合いで。ついさっき、わたしはこの子に襲わせそうになってたって事だよね......)
そんな一連の流れをただ静かに眺めていたセシルには今の現状を冷静に整理できているのに、むしろ不思議なほど現実感が薄く、まるで遠い世界の光景をただぼんやりと眺めているかのような、そんな不思議な感覚すら覚えていた。
すると、そんな彼女の茫然とした視線の先で、ミレイアは狼のような存在をぷらんと首根っこで吊るしたまま、セシルに向き直ると、勢いよく、必死さと焦りの滲む様子で頭を深く下げ、謝罪の言葉を口にし始めた。
「本当に、ごめん!! オレが、ちょっと変な感情になってたせいで......それで、うちの子が、見知らぬ君を突然襲うなんて!! この子、知らない相手には本当に警戒心が強くて、信頼していないと、すぐにこうして攻撃的になっちゃうんだ!!」
必死に謝罪を述べるミレイアだったが、セシルの方も咄嗟に「えっと...」と曖昧な声を漏らすことしかできず、ただ目の前でしきりに頭を下げ続けるミレイアと、がっりと掴まれながらも不服そうな瞳でじっとこちらを睨みつけてくる、小さな存在とを、言葉もなくただ見つめ続けていた。
だが、そんな混乱の渦中にありながらも、ふとセシルは無意識のうちにミレイアの姿に視線を滑らせ、その身体に走る、ある奇妙な異変に気づいていた。
(あれ、ミレイアさんの耳。まるで......凍ってる、みたい?)
目を凝らし、よくよく彼の耳や尻尾を観察してみれば、それらはまるで薄く張りつめた氷のように、淡く透き通った氷結の結晶を静かに纏い始めており、その色合いも、ついさっきまでの自然な色とは異なり、まるで水面を映したかのような儚げな水色に変わっていることが分かった。
(そういえば、もう......寒くないな。さっきの冷気もすっかり消えてる......)
ミレイアの変化に気がつくと同時に、ほんの数秒前まで確かに自分の肌を刺すように突き刺していた、骨の髄まで凍えるようなあの不気味な冷たさが、今はまるで嘘のように消え去っていることにも気がついた。
先程まで支配されていたあの圧迫感のようなものが、まるで何事もなかったかのように空気からも、肌からもすっかり消え失せてしまっていることに、思わずこの城に直接的に関わる情報では無いものの、新たな疑問が胸の奥にじわりと滲み出していた。




