第7話. 微かな温もり
――セシルがアキラの罵声に耐えている間、クロノスはアキラの命令に従い、エルナを連れてセシルのいる小屋から遠く離れた場所へと歩いていた。
静まり返った重苦しい空気の中、小さな小屋の扉を開けたクロノスだったが、声を掛ける間もなくエルナが無言で中に足を踏み入れていた。
その背中には、かつての明るい笑顔の欠片すら見えなかった。
クロノスは扉のそばに立ち、かすかな息をつきながら、言葉を探すように口を開く。
「すまない...エルナ。俺は――」
その言葉を遮るように、エルナは背を向けたまま静かに言った。
「やめて...何も言わないで...」
俯いた彼女の声は震え、床に涙が落ちた痕跡が光を反射していた。
「......」
クロノスの胸に重苦しい痛みが広がったが、それ以上かける言葉が見つからない。
「........お前の妹は無事だ。それだけは――本当だ」
やっとの思いで声を絞り出すように言った。
それだけ告げると、彼女の返事を待つこともなく、クロノスは扉を静かに閉めた。その場を離れるために足を動かした。
外に出た彼は、吐き捨てるように自分を罵倒した。
(くそっ...!俺は何もできない。ただ見ているだけの無力な存在だ...)
苛立ちを押さえきれず、クロノスは両手で頭を抱え込んだ。
(”契約悪魔”である俺が、ここまで情を持つなんてな...)
そう呟きながら、小屋からさらに離れた場所で立ち止まったクロノスは、顔を覆う手を強く擦り付けるようにして、溢れそうになる涙を押し殺していた。
(俺は...ただの傍観者だ。それでいいはずなのに――)
そう嘆いている彼の耳飾りは無情にも煌めいていた。
契約悪魔――。
それは契約相手の願いを叶える代わりに、等価の代償を奪い取る存在。
代償が金銭や名誉で済むならまだ安いものだ。
多くの場合、代償として自らの命や、心の奥底に眠る大切な何かを差し出すことを意味する。
そんな契約悪魔にとって、他人に感情を持つことは不要――いや、むしろ危険ですらあった。
契約者となる者の多くは、己の欲望を満たすために、他人をまるで息をするように平然と踏みにじる存在だった。
そんな光景を繰り返し目にすれば、心が壊れるのは当然のこと。だからこそ、感情を持たずに淡々と接するのが当たり前とされている。
ただ契約に従い、淡々と願いを叶え、代償を受け取る。そして、相手の最期まで、あるいは契約が破棄されるその時まで、冷たく寄り添う。
それが契約悪魔としての本来の在り方だった。
本来のクロノスもまた、感情を持たず、無機質に契約を履行するだけの存在であるべきだった。
しかし――
いつからだろう。感情など無縁であるはずの彼の中で、何かが変わり始めていたのは。
”あの笑顔を見た時だろうか?”
クロノスは、自分がかつて他人への感情を持たなかった頃の記憶を思い出していた――
❀❀❀
ある日、クロノスは何気なく森の中を歩いていた。
彼にとって拠点と呼べる場所がないわけではなかったが、その時は特に戻る理由もなく、契約者を探すためにあてもなく世界中をさまよっていた。
目的もなく、ただ時間を持て余す日々。
契約相手がいない間の時間は、彼にとってはただの退屈でしかなかった。
(ここは随分と静かだな...)
ここ最近訪れるこの森の静けさが、彼の気まぐれな日常において、ここ最近で気に入っているものだった。
そう思いながら歩くクロノスの耳に、遠くから突如として悲鳴が響いた。
「お願い!!こっち 来ないで!!」
人間の少女の声だった。その切迫した叫びが、森に吸い込まれるように消えていく。
「......悲鳴」
クロノスは立ち止まるものの、特段興味を持ったわけではなかった。むしろ普段なら気にも留めず、そのまま無視していただろう。
――だが、このときの彼は、何気なくその方向へと足を向けていた。
◇◇◇
悲鳴の方向へ向かうと、目に飛び込んできたのは、一人の少女が複数の魔獣に追い詰められている光景だった。
少女が手にしていた剣は無残にも折られており、残った刃先だけを必死に魔獣たちへ向けていた。
「...あれは、この辺りに出てきてような数じゃないな」
クロノスは一瞬立ち止まり、面倒くさそうに頭を乱暴に掻いていた。
「やれやれ、見なかったことにするには少々派手すぎる量だ...」
その時、少女が何かに躓いてそのまま地面に尻もちをついた。それと同時に、魔獣たちの爪やブレスが一斉に彼女に向かって振り注がれる――。
少女はもうダメだと、両手で頭を守るように構えていた。
だが次の瞬間、少女の視界にはクロノスの姿がいつの間にか立ちはだかっていた。
彼が冷然と指をパチンと鳴らす音が響いた。すると、地面が不気味に震えたかと思えば、真紅の鎖が突如として現れ、勢いよく魔獣の体を貫いていた。
「...そんなものか」
静かに呟くと、クロノスは周囲の魔獣たちを一瞥し、さらに無数の鎖を召喚し始めた。
ジャラジャラッ!
鎖が空気を切り裂く音が響き渡り、魔獣たちの体を容赦なく縦横無尽に切り裂いていき、魔獣たちは抵抗する間もなく、次々と地面に沈んでいった。
やがて、最後の一匹が動かなくなると、クロノスは冷たい目でその残骸を見下ろし、ふとため息をついた。
そして、彼は少女に視線も合わせず、何事もなかったかのようにその場を立ち去ろうとしていた。その時――
「あ、あの! 助けてくれて、ありがとうございます!」
突如、背後から聞こえた少女の声が聞こえた。クロノスは足を止め、思わず振り返ってしまった。
そこには涙を今にも零しそうな表情を受けべながらも、必死にお礼をしてくる少女の姿があった。
「......」
無表情のままクロノスは少女を見つめていたが、特に彼女の言葉に何か思うことがあったわけでもなく。ただ、立ち去るタイミングを逃していた。
しばらく少女が何も言わないまましばらく沈黙が続くと、クロノスは軽く肩をすくめ、再び歩き出そうとした。その時、少女が慌てて声を上げた。
「待ってください! 私、近くの村で暮らしているエルナっていいます。本当に助かりました! あの......もし良ければお礼を――」
「要らない」
クロノスは少女に目を向けることなく、冷たく言い放った。
「俺はただ、目の端に入ったから来ただけだ」
彼の冷たい言葉にもかかわらず、少女は驚くどころか笑顔を浮かべたままだった。
「それでも!命を救ってもらったことには変わりありません! 気が向いたら、いつでも村に遊びに来てください!」
少女の言葉は力強く、それでいてどこか素朴な響きを持っていた。
しかし、クロノスは無言のまま軽く首を振るだけで、その言葉に応じることなく背を向けた。そして一歩、また一歩と歩き出し、少女を置き去りにするように歩き出した。
(....なんだ、この感覚は?)
足を進めるたびに、胸の奥に微かな違和感が広がる。それはこれまで経験したことのない、かすかな温もりだった。
ただ、それが何なのか、クロノス自身にもわからない。その正体を知ることを拒むように、彼は一度も振り返ることなく森の深みへと姿を消していった。
◇◇◇
あれから少し経った後、クロノスが同じ森を散歩していると、突然子供の泣き声が耳に入った。
(やれやれ、また魔獣か...)
内心で溜息をつきながら目を向けると、足をケガした男の子が膝を抱えて地面に座り込んでいた。
(まったくあの人間は何をしているんだ...?)
立ち止まったクロノスの耳に、近くから聞こえる足音が重なり、彼はとっさにその場から木陰へと身を隠していた。
(くそっ、隠れる必要なんてないだろうに...いや、それよりもさっさとこんな厄介そうな場所を離れるべきだったな)
自分の軽率な行動に呆れつつ木陰に潜んだままでいると、どこかで聞いたことのある優しい声が耳に届いた。
「ちょっと、大丈夫?すぐに治してあげるからね!」
そっと顔を覗かせると、以前助けた少女――エルナが、子供のそばに膝をつき、優しく声をかけているのが見えた。
「あの時の人間...」
クロノスは遠目にエルナの顔を確認し、彼女の存在を思い出していた。
その瞬間、エルナが伸ばした手が子供の傷口に触れた。次の瞬間、淡い光が辺りを包み込み、まるで彼女自身が温かな光を放っているかのように見えた。
(...治癒魔法か。人間であれほどの力を扱える者がいるとはな)
クロノスの目が、その美しい光景に思わず引きつけられていた。
――治癒魔法。
怪我を癒す力として多くの種族に知られるが、それを人間が扱えるのはごく限られた才能ある者のみ。
ましてや、欲深い契約者たちばかり見てきたクロノスにとって、このように純粋な思いやりに基づく魔法は異質で、信じがたいものだった。
「よし!こんな感じで大丈夫かな。きみ、最近ここら辺にこわーい魔獣が出るから、次からは一人で来ちゃダメだよ」
エルナは柔らかく微笑みながら、両手で「がおー」と可愛らしいポーズを作って子供を安心させていた。
その様子を影から眺めていたクロノスだったが、ふとエルナの近くで茂みが揺れるのを感じ取った。
(魔獣の気配...。危機感が足りないな、あの人間は。あのままでは頭から食い殺されるのがオチだな)
特に助けに行くわけでもなく、ただその様子を傍観していた。だが、次の瞬間、魔獣の気配は綺麗さっぱりとなくなった。
(...消えた?いや、断たれたな。だが、一体何が?)
クロノスが考え込んでいると、茂みの中から小さな声が飛び出してきた。
「お姉ーちゃん!」
茂みの中から姿を現したのは、もう一人の少女だった。
「わぁっ!セ、セシル!?ちょっと、何でそんなところから出てくるのよ!」
エルナは驚きの声をあげながらも、妹らしき少女に向けてホッとした表情を浮かべていた。
その少女はエルナと似ているものの、その瞳にはまるで守るべきもののために戦う覚悟が宿っているように見えた。
その鋭い雰囲気は、エルナの柔らかい印象とは対照的なものだった。
「えへへ、食べられそうな木の実探ししてたんだよ!お姉ちゃんこそ、一人で何してるの?」
(妹か...?位置的に、さっきの魔獣はあの人間が倒したはずだ。先ほどの発言は明らかに嘘のはずだが...なぜだ?全く悪意を感じない――)
クロノスがそんなことを考えている一方、エルナは茂みから姿を現したセシルを見て、胸を撫で下ろすように安堵していた。
そして、怪我をしていた子供に視線を向けながら優しく話し出した。
「ケガしているこの子を見つけてね。今、治していたところなの」
「えぇ、大変!他にケガはない?大丈夫?」
セシルは子供に顔を寄せるようにして、真剣な声をかけていた。
「...うん、ごめんなさい、お姉さん」
子供は再び目に涙を浮かべ、泣き出しそうになる。そんな様子を見て、セシルが軽い調子で口を開いた。
「ほらほら、そんな泣きそうな顔しないで!それに、説教ばかりするエルナお姉ちゃんだって、つい最近、魔獣に襲われたばっかりなんだからね!」
「ちょっと、セシル!余計なこと言わないでってば!それに、説教なんてしてないし!」
エルナは顔を赤くして慌てた声を上げるが、セシルは意に介さず、いたずらっぽい笑顔を浮かべていた。
その様子に子供の緊張が少しほぐれたのか、微かに笑みが戻っていたのが見えた。
(...くだらない茶番だな。いい加減去るか)
そう考えながら、さっさと立ち去ろうと一歩を踏み出した瞬間、クロノスはふと背筋に視線を感じた。
ゆっくりとその方向へ目をやると、先ほど茂みから出てきた少女――セシルと目が合ったような気がした。
(...目が合った?いや、偶然だろう。そんなはずはない)
そう自分に言い聞かせたが、心の奥に微かな違和感が残る。それを振り払うように立ち去ろうとした矢先、その少女の動きが視界の端に捉えられた。
彼女は真剣な目つきを浮かべながら、腰の剣に手を添え、クロノスに向かって一歩一歩静かに歩み寄ってきていた。
(...なんだ、あの人間?厄介な相手に目をつけられたか。いっそ、ここで始末してしまうか?)
クロノスはすぐには攻撃を仕掛けることもなく、木の陰に留まり、じっとセシルの出方を見守っていた。
(さて、どうしたものか...)
彼の眼差しは警戒をはらみながらも、どこか観察者としての冷静さを帯びており、彼女の一挙手一投足を見逃すまいと、クロノスは神経を集中させていた。




