第66話. 安らぎに包まれ
――あれから、セシルはノエルの小さな背中が廊下の向こうへ消えていくのを追うように、ほとんど無我夢中で駆け出していた。走るたびに髪が揺れ、包帯に覆われた頭からは鈍い痛みがじわじわと広がっていた。
廊下の空気は妙に重く、どこか歪んだような気配が漂っていて、まるで肌に纏わりついてくるようなの空気の感触は、冷たく異質なものだったが、それでもセシルは顔を伝う汗を拭う暇もなく、ただひたすらに足を動かし続けていた。
(はぁっ.......はぁっ......ど、どこ......行っちゃったの......)
けれど、この城に来てからまだ時間が経っていないセシルにとって、廊下の一本一本がどこへ続いているのかなど皆目見当がつかず、導かれるままに走っていた彼女は、やがて目の前に広がる複数の部屋の入り口であろう扉に行く手を遮られた形になり、その場でぴたりと足を止めざるを得なかった。
(これは......完全に迷っちゃったな。どうしよう......)
だが、その時だった。止めようと踏み出したはずの足が、不意に地面の感触を失ったかのようにふらついた。
まるで見えない何かに後ろから押されたような感覚と共に、セシルの体はぐらりと揺れ、踏ん張ろうとするより早く、膝が床に落ちる音が小さく響き、ほんの僅かに冷や汗が首筋を伝って落ちていくのがわかった。
「っ......、うぅ、いたっ......い......」
それは、辺りに漂っている歪みの気配によるものではないものの、後頭部がズキズキすると共に、巻かれた包帯の奥に、微かだが湿り気のような感覚が広がっていくのを感じ、目に見えぬ形で流れ出た血が、走った衝撃によって再び滲み始めたのだろうと直感した。
(......どう、しよう。ノエルちゃんの事、探しに行かなきゃ......なのに)
悔しさと焦燥が入り混じる思考の中で、セシルは床に手をついたまま、ひとつ深く息を吸った。
(とにかく、もう少しだけ歩き回ってみれば――)
そして、力を振り絞るようにして両膝を立て、痛む身体に鞭打つようにして立ち上がろうとしたが、膝にかかる体重のせいで顔を顰めたその瞬間、後方から足音が走ってくる気配があり、次いで鋭く呼びかける声が耳を打った。
「おい!」
その声に反応して、セシルは体を傾け、立ちかけた勢いのまま振り返ろうとしたが、それよりも早く、視界のすぐ脇にすっと割り込むようにして、顰めた眉と真っ直ぐな視線のカミュロの姿が映り込んだ。
彼の瞳に宿っていたのは怒気ではなく、どこか呆れと困惑、そして薄く抑えられた心配の色が混ざり合った、複雑な感情の滲むものだった。
(.......もう、何やってるんだろう。勝手に先走って、結局ノエルちゃんも見つけられなくて)
ほんの一瞬でもノエルの事を安心させたかった。そんな思いすら空回りしている現実が、セシルの胸にじわじわと染みてくる。
カミュロの感情が完全に読み取れないその視線に自分の浅はかさが映し出されているようで、セシルは視線を逸らしながら、小さく唇を噛み、そして申し訳なさそうに声を漏らした。
「その、ごめんなさい。ノエルちゃんの事......見失ってしまって」
ぽつりと零されたその言葉に、カミュロの目が一瞬だけ驚いたようにわずかに開かれた。
だがすぐに、彼はふっと視線を逸らすと、片手をゆっくりと襟元に持っていき、指先で軽くシャツの襟を整えながら、どこか深く息を吐き出すように一つ大きなため息をついた。
「......いや、いい。ノエル様が行く先くらい、ある程度予測できる」
「っ本当ですか!!なら、案内をお願いしてもいいですか?」
途端に、セシルの表情がぱっと明るくなった。安堵と嬉しさが混ざったようなその顔にカミュロは、ふと彼女の全身を見下ろすように目を向けたかと思うと、微かに眉を寄せていた。
その目には、「まったく...」とでも言いたげな、どこか呆れを含んだ静かな諦めの色が滲んでおり、しかしそれは決して突き放すようなものではなく、むしろ困ったものだと口元をほんの僅かに引き結ぶような表情だった。
そして次の瞬間、彼は何も言葉を発することなく、ごく自然な動作でセシルへと手を差し伸べると、そのまま彼女の体を軽々と抱き上げた。
「えっ、ちょっ、な、なにして――!?」
突如としてふわりと宙に浮かんだ感覚に、セシルは目を見開き、驚きと戸惑いとが入り混じった表情のまま、頬を一気に赤らめて抗議の声を上げた。
自分でも予想していなかった行動に気が動転したのか、彼の腕から逃れようとじたばたと身をよじってみせるが、カミュロはその様子をまるで意に介することなく、淡々とした足取りで廊下の奥へと歩を進めていた。
「暴れるな。頭の傷が開きかけている。それ以上悪化でもしたら、面倒だ」
抑揚のない、しかし有無を言わせぬ静かな声音でそう言い放たれると、セシルは思わず言葉を飲み込み、手の動きを止めた。
つい先程感じた後頭部の鈍い痛みと、包帯の内側がじんわりと湿っていた感覚を思い出し、その言葉が的を射ていたことに内心で驚くと同時に、素直に自分の無理が祟っていたことを自覚させられた。
「......っ、はい。分かりました......」
僅かに伏し目がちに、そう小さく答えると、セシルはそれ以上の抵抗を見せることなく、カミュロの腕の中で大人しくなっていた。
「......」
そして、彼の無骨ながらも安定した抱え方や、歩みに無駄のない所作を感じ取るにつれ、今度は気まずさと申し訳なさが胸の奥にじわじわと広がっていた。
そして、カミュロは、廊下の壁際に辿り着くと、片膝を丁寧に床につきながら、ゆっくりとセシルを降ろし、彼女の背を冷たい石造りの壁にもたれかけさせるようにそっと座らせた。
(なんか、色々と申し訳ないことしちゃったな。ノエルちゃんが行っちゃったのに焦って、勝手に走り出して、それで結局こうして迷惑かけてるし)
壁にもたれながら、膝を軽く抱えるようにして座り直したセシルは、気まずそうに視線を足元へ落とすと、冷えた廊下の空気がじわじわと体に染み入ってくるのを感じながら、体の熱が逃げていかないようにと無意識のうちに両足を小さく動かして座る位置を整えた。
その様子を、カミュロは言葉もなく、ただ静かに片膝を立てたまましばし彼女の様子を見ていたが、やがてふいに肩に羽織っていたコートを脱ぎ、そのままセシルの目の前に差し出した。
「夜気で体を冷やせば回復も遅れる。それに、ここで風邪でも引かれたら、ノエル様が俺を押しのけてでも看病に来る羽目になるだろうな」
その言葉には、どこか皮肉めいた響きがあったが、彼の表情には怒りや苛立ちは一切見られず、むしろ淡々としながらも、複雑な感情が垣間見えた。
そして彼は、それ以上何も語ることなく、手にしていたコートを半ば押しつけるようにしてセシルの腕の中に渡すと、彼女が驚いて言葉を失っている間に、そそくさと立ち上がり、背を向けて歩き出そうとしていた。
「......ふふっ、ありがとうございます」
思わず、そう口をついて出てしまったセシルは、両手でそっとそのコートを受け取り、自分の身体に重ねるようにして、丁寧に肩から羽織った。
ふわりと立ちのぼる温もりと、どこか落ち着くような、微かに残る彼の匂いが胸の奥に広がり、ほんの少しだけ、柔らかな安心感のようなものが芽生えていくのを感じていた。
その間にもカミュロは、一度も振り返ることなく、何事もなかったかのような足取りで、静かに廊下の奥へと歩みを進めていき、セシルは、彼の背中に声をかけることはせず、ただその背を見送るだけで精一杯だった。
◇◇◇
――やがて、カミュロの足音が廊下の奥へと吸い込まれるように遠ざかっていき、その姿が完全に視界から消え去ると、場には息を呑むほどの深く静かな沈黙が舞い戻ってきた。
けれども、その沈黙の中には、先程まであたり一帯を満たしていた異質な“歪みの力”の残滓が、目に見えぬほど微かではあったが、確かに空間の片隅に滞留し続けており、その存在がまだ完全には消え去っていないことを、まるで空気のざわめきで告げるかのように、淡く漂っていた。
(......歪みの力。さっきよりはずっと弱まってる気がする。でも......ノエルちゃん、本当に大丈夫かな)
セシルは心の奥でそう静かに呟きながら、肩に羽織っていたコートの襟元を両手でそっと掴み、壁に背を預けたまま、深く身体を沈めるように膝を引き寄せ、そのまま目を閉じた。
温かさに身を委ねながら、セシルは立て続けに浴びせられた怒涛の情報の波を、ようやく自分の中で整理しようと、深く長い吐息を漏らした。
(......そういえば、街の中でも、間近で歪みの力を体験していたはずなのに。どうしてわたし、こんな大事なことをすっかり忘れてたんだろう)
ふと思い出したのは、街で人々の目が狂気の影を宿しながら、自分へと剥き出しの殺意を向けてきた、あの異様な一幕だった。
まともに頭に攻撃を喰らい、意識を手放しそうになっていたその最中。セシルの腕に抱かれていたノエルの身体から突如、青白い光が放たれ、そして、その光に導かれるようにして現れた、禍々しくも異質な気配――あれこそが、紛れもなく「歪みの力」と呼んでいるものだった。
(ノエルちゃんとカミュロさんって、精霊や歪みの力のことを、どこまで知っているんだろう。もっと詳しく聞いてみたいな。 でも、多分――わたしみたいな部外者には、きっと肝心なところは絶対に話してくれないんだろうな。......むぅ、もどかしいぃぃ!)
胸の奥にわだかまっていた疑問は、まるで湧水のように次から次へと尽きることなく湧き上がり、そのすべてが頭の中をぐるぐると駆け巡っては思考の隙間を埋め尽くしていた。
もし本当に、ノエルが王家の血を引く存在なのだとしたら――なぜ彼女は、あの街で、民衆からあれほどまでに理不尽な仕打ちを受けなければならなかったのか。
そして、そんな彼女に仕える者が、たった一人――カミュロしかいないという事実も、突然現れたゼリィナという女性の言葉から初めて知った。
彼女は「イングレアム」という名を口にしたが、それに対して怒りを滲ませていたカミュロは、どれほど深い思いや過去が秘められているのか、セシルにはまだ知る由もなかった。
さらに、もしノエルが“本物の精霊の力”と呼ばれる何か。それも、普段は表には出さず、ある特定の条件や感情に触れたときにだけ顕現する、歪みを伴った異質な力を内に秘めた存在なのだとしたら。
謎は謎を呼び、真実に近づこうとすればするほど、答えのない問いが増えていくような感覚に襲われ、気づけば、最初に抱いていた小さな違和感は、複雑に絡み合う巨大な疑念へと変貌し、セシルは無意識のうちに頭を抱えそうになっていた。
(......あぁぁあ!やめやめっ! 憶測で物事を捉えちゃいけないってのもクロノスさんに言われたんだから!)
そうして自分の思考に無理やりブレーキをかけるように、セシルは軽く膝を立てた状態のまま、自分の頭を両手でポカポカと軽く叩いていた。
そうして、頭の中に渦巻いていた疑念や仮説を、まるで払い落とすかのように首を振って振り払うと、寒さに肩をすくめながらも、気を取り直すようにしてコートの前をぎゅっと握り締めた。
そして、まだ完全には晴れないもやもやを心の奥に抱えながらも、そっと瞼を開きかけた――まさにその時だった。
「ヒチチチ!」
突如として、周囲の静寂を破るようにして響き渡った、小さくも甲高い、そしてどこか可愛らしい鳴き声がすぐ近くから聞こえてきた。
「ん...?」
思いがけず耳に届いたその声に、セシルは僅かに眉を動かしながら、ゆっくりと瞳を開き、声の発生源と思われる方向へとそっと視線を向けると、視界に飛び込んできたその光景に思わず目を見開いた。
(......わぁぁ、かわいい!)
そこにいたのは、手のひらの中にすっぽりと納まりそうなほど小さく、ふっくらと丸みを帯びた小鳥だった。
まるで絵本から飛び出してきたかのような愛らしい佇まいで、橙色の胸元は光を浴びて優しく輝き、頭から背にかけては柔らかな茶色の羽毛に覆われている。
そして、そのくりくりとしたつぶらな黒い瞳は、まるでこちらに好奇心を隠す気もなく、キラキラと無垢な光をたたえてセシルをじっと見つめていた。
そして、細くて頼りなさそうな足をちょこちょこと動かしながら、まるで「こっちを見て見て!」とでも言いたげに、彼女の目の前で小さな反復横跳びを繰り返していた。
(......この子、たしか“ロビン”っていう種類に似てるような。でも、どうして、こんな場所に)
あまりにも場違いなほどに愛らしく、あまりにも唐突に現れたその存在は、張り詰めていた空気をやんわりとほぐしながら、まるで心の隙間にするりと入り込んでくるようで、無意識のうちにセシルの頬はふっと緩んでいた。
そして、セシルはほんの少し視線を柔らげると、小鳥に向かって微笑みながら、そっと声をかけた。
「ふふっ......愛くるしい動きだね。君はどこから入って来ちゃったのかな~。こんなところで、迷子になっちゃったの?」
まるでこちらから話しかけられるのをじっと待っていたかのように、その小鳥は小首をかしげるような仕草を見せながら、黒い瞳をまっすぐにセシルへ向けてきた。
小さな体をちょんちょんと軽やかに跳ねるように動かしながら、興味深そうに彼女の方へと歩み寄ってくる様子には、人間への警戒よりも好奇心の方が勝っているのがありありと感じられた。
「人慣れしているの? なら、ちょっと触らせて貰おっちゃおうかなっと」
そんな独り言を呟きながら、セシルはゆっくりと壁に預けていた背を起こし、細心の注意を払うかのような仕草で、そっと右手の指先を差し出した。
すると、その小鳥は、小さな瞳を柔らかく細めながら、まるでその申し出を歓迎するかのように胸元のふわふわとした羽毛をセシルの指先へとそっと押し当てた。
「ヒチチ」
その小さな鳴き声とともに、セシルの指先に伝わったのは、まるで雲の一片をなでているかのような、驚くほど柔らかで温かな感触だった。
「っ、ふわっふわぁ......本当に人に慣れてるんだね。こんなに素直に触らせてくれるなんて」
セシルの声は自然と優しさを帯び、微笑みが頬に浮かんでおり、彼女の指がそっと撫でるたび、小鳥はくすぐったそうに身を揺らしながらも逃げることはなく、むしろ嬉しげに羽を震わせ、その場にとどまっていた。
そして、その小さな体から伝わるぬくもりと鼓動に、セシルの胸の奥にわだかまっていた硬い何かが、ほんの少し、ゆっくりと解けていくような感覚が芽生え始めていた。
「ふふっ、大満足。ありが――」
そう感謝の言葉を口にしながら、セシルはそっと指先を離し、愛らしい訪問者に別れを告げようとした。
だがその瞬間、小鳥はふわりと軽やかに羽ばたき、空気をすべるようにして宙へと舞い上がったかと思うと、そのまま一気にセシルの肩元へと向かって飛び込んできた。
「え?」
そして、彼女の髪の隙間を器用にすり抜けながら、するりと首と肩のあいだにあるわずかな窪みに身を滑り込ませ、小さな体をぴたりと寄せて落ち着いたのであった。
あまりにも自然で、一切の躊躇すら感じさせないその動きに、セシルは一瞬呆気にとられたように声を漏らし、そのまま目を見開いたまま固まってしまった。
一方、彼女の肩にぴたりと身を預けるように落ち着いた小鳥は、ちょこんと居座ったまま羽をぽふぽふと震わせ、まるで「ここが自分の定位置です」とでも言いたげな様子で目を細めていた。
「ちょっと、くすぐったいよ~......ふふっ、でも......あったかいね」
首筋にそっと触れる羽の感触は、軽やかなくすぐったさと、胸の奥まで染み渡るような穏やかな温もりが入り混じった、不思議な心地よさをもたらした。
それはまるで、今までずっと張り詰めていた心の糸を優しくなでて、ふっと力を抜いてくれるような、そんな魔法のような優しさだった。
(こんなに......小さいのに......こんなにも、あたたかいんだね......)
その温もりに静かに寄り添うようにして、セシルはコートの襟を軽く引き寄せると、再び身をその中に沈めていった。
寒さが忍び寄る夜の廊下で、コートと小鳥の存在だけが、焚き火のように心と体をそっと温めてくれていた。
「とにかく......これから、どうしよう......かな......」
ぽつりと漏れたその言葉は、誰かに聞かせるためのものではなく、ただ心の奥底から自然とこぼれ落ちた、行き場のない思いと、未来へのかすかな希望が入り混じった、祈りのような呟きだった。
霧がかかったままの思考はまだ明瞭ではなかったが、それでもこの一瞬だけは、肩に寄り添う小さな命と、そのぬくもりを感じながら、世界の静けさに身を任せてもいいような気がした。
「......」
そして、まどろみのような安らぎがセシルの心をやわらかく包み込み、重たくなった瞼はゆっくりと閉じられて行った。
そして、ようやく訪れた穏やかな時間の中へと沈み込むように、微睡みのような眠りに導かれていくのだった。




