第65話. 降り注ぐ事実
「そちらに人を配属していないのは、イングレアム様のご意向によるものです」
「ッ...!」
背後から突如として響いたその声は、まるで耳元で囁かれたかのような近さと鋭さを持っており、反射的に肩をすくめたセシルは、驚きと警戒をないまぜにした表情で振り返り、そして言葉を失った。
廊下の中程――つい先程まで確かに誰一人として存在していなかったはずのその場所に、まるで、突如現れた怪盗のように、あるいは煙の中からすっと立ち現れた幻のように、一人の女性が静かに佇んでいた。
彼女は背筋をぴんと伸ばした長身であり、身に、纏っているのは無駄のないデザインながら上質さが際立つ衣装で、布地の一つひとつにまで手が行き届いているのが分かる。そして、裾からのぞく足元には硬質な音を刻む高いヒールを履いている。
肩にかかることなく端正に切り揃えられた髪は、磨かれたように滑らかで、廊下のわずかな光を艶やかに反射しており、その顔立ちは凛として美しく、鼻にかけられた銀のチェーン付きの丸眼鏡が、彼女の持つ理知的な雰囲気を一層際立たせていた。
そして、彼女はゆったりと眼鏡の縁に指を添えると、微かにそれを押し上げる仕草と共に、じっとセシルを見据えていた。
「あなたが......なるほど。やはり噂は本当だったのね」
そう静かに発せられたその言葉は、まるで観察者が対象を見定めるかのように、確信と興味を織り交ぜた響きを持っていた。
(なっ......人、いるじゃん! それに、イングレア様って誰の事よ! あぁ、もうー!誰にも聞けないのに、謎だけ増えて~)
セシルは、唐突に現れた謎の女性の存在に混乱しながらも、彼女の佇まいにただならぬものを感じ取り、じりじりと後退りながらも心の中で叫ぶように思考を巡らせていた。
「まぁ、そのご様子ですと......何も聞かされていないのね」
女性はセシルの動揺をまるで玩具でも見るかのように眺めながら、口元に指先を添えて薄く笑みを浮かべていた。
そしてそのままゆったりとした歩調で近づいてきながら、伸ばされた片手が――まるで初めて出会う獲物の質を確かめるかのように、警戒心なく異様に自然な動きでセシルの腕へと向かってきた。
「貴方......まだ信頼されていないという事。むしろ好都合だわ。ぜひ、一緒に――」
その最後の言葉は、子供をあやす囁きのように柔らかく、しかし同時に背筋に冷たい氷水を流し込まれたような不穏な重みを持っていた。
ぞわりと肌を撫でるような寒気が走り、セシルは咄嗟に身を引き、抗議の言葉を発しようと口を開きかけた、そのまさに瞬間――
――ガキィィィンッ!
鋭い金属音が廊下の静寂を激しく切り裂いたかと思えば、その直後、風すらも断ち割るような真紅の閃光が、セシルのすぐ傍らを掠めるように通過した。
その切っ先は彼女の髪の先端を微かに撫で、まるで刃の冷気が皮膚のすぐ下を這うような錯覚を与えるほどの緊張感を周囲に走らせた。
「っ、カミュロさん!!」
思わず声を上げたセシルの視界に飛び込んできたのは、彼女のすぐ横に影のような素早さで割り込んだ、カミュロの姿だった。
片手に巨大な真紅の大剣を構え、その姿の彼からは、獲物を睨む魔獣のように鋭く目を細め、その眼差しにはこれまで見せたことのないほどの怒気と敵意が露わに浮かんでいた。
一方、その怒りに晒された女性もまた、咄嗟に反応するように、どこからともなく現れた薙刀に似た長柄の武器を瞬時に抜き放ち、両手で構え、迫りくるカミュロの猛烈な一撃を正確に受け止めていた。
その表情には一筋の冷や汗が伝い、内心の動揺を物語っていたが、それでも口元には、挑発とも受け取れる、どこか余裕すら感じさせる穏やかな笑みを浮かべていた。
「まぁ......ずいぶんな歓迎ですね、イングレアム様」
皮肉を込めた調子でそう言葉を漏らした彼女は、カミュロの瞳を真正面から捉えながら一歩も引かずに立ち続けていた。
しかしそれに対してカミュロの反応は冷淡そのもので、普段はどこか抑制された彼が、今は明らかな怒りを声に滲ませ、まるで穢れを見るような視線を向けながら低く呟いた。
「黙れ。その名をお前ごときが軽々しく口にするな」
その瞬間、彼の手にあった大剣がまるで魔力を孕んだよう水を帯び、次の瞬間、空気を切り裂く凄まじい一閃が閃いた。
まるで断罪の刃のように容赦なく力を込められたその一撃は、彼の怒りそのものを体現したかのようで――
――バキィィン!!
「っ...!」
轟く衝撃音と共に、女性が手にしていた長柄の武器は容赦なく真っ二つに折られ、その破片が空中に舞い、次いで彼女の身体もまた後方へと吹き飛ばされた。
彼女の顔には、予期せぬ力の差に対する驚愕が浮かんでいたが、その姿は宙に舞いながらもすぐさま空中で一回転し、まるで猫のようにしなやかな動きで地面に着地してみせた。
(な、なにこれ......どういうこと? “イングレアム様”って、カミュロさんの事? いや、それよりも、この人たちって敵同士なの?)
思考が急速に巡り始め、混乱する頭の中で浮かび上がる仮説をまとめきれずにいるセシルは、気づけば彼女はカミュロの背に守られるように立ち尽くし、何かを言いたい衝動に駆られながらも言葉が出てこなかった。
そんな中、カミュロはふとセシルに視線を向けると、無言のまま大剣を軽々と宙へ放り投げた。すると、刃は空中で淡く蒼い光を纏いながら、音も立てず霧のように形を失い、まるで初めから存在していなかったかのように掻き消えた。
「何もされていなさそうだな」
「...?」
不意に低く呟かれたカミュロの声は、敵意でも安堵でもなく、ただ事実だけを冷静に確認するような響きを持っていた。
だが、唐突に向けられたその言葉に、セシルは困惑の色を滲ませながら、言葉を探すように小さく首を傾げた。
どう答えればいいのかもわからないまま、口を開こうとした――が、その一歩先に、先程吹き飛ばされた女性がゆったりと体を起こし、どこか楽しげな色すら混じった声音で、皮肉とも感心ともつかぬ調子のまま言葉を投げかけた。
「流石です、イングレアム様。契約悪魔の力を持っているだけのことはありますね......まぁ、ここまで綺麗に真っ二つに折られるとは」
そう言いながら、彼女は双剣のように二本に折れた長柄の武器の残骸を一瞥し、苦笑を浮かべて肩をすくめていたが、まるで致命的な損失であることに一抹の未練も感じていないかのように、その態度には余裕すら漂っていた。
「っ、契約悪魔。やっぱり――」
ふと、セシルの唇から無意識に漏れたその呟きは、彼女自身も気づかぬほど微かな声だったが、確かにカミュロの耳に届いていた。
彼は僅かに眉根を寄せ、その目をセシルに向けかけたものの、何かを言いかけて思いとどまるように視線を逸らし、再び女性の方へと視線を移した。
「......何故こっちに来た。ゼリィナ」
冷ややかな声音に、先程までの余裕を残した警戒が潜み、彼女――ゼリィナと呼ばれた女性に対しての敵意は、隠すつもりすらないようだった。
するとゼリィナは、折られた武器の残骸を片方の手にまとめるようにして持ち替え、空いた手で静かに眼鏡の縁へと指を添えると、そのまま、カミュロとそしてその後ろに立つセシルへと、観察するような目線を流した。
「名をきちんと覚えていてくださったなんて......驚きですね。えぇ、何の用、そうお尋ねになるのでしたら、確かに少々言葉に困るのですが――」
そこまで言ったところで、ゼリィナの視線がふとセシルの背後へとずれた。何かを見つけたかのように、鋭い視線をその奥へ投げると、指先で眼鏡を軽く押し上げながら、口元に不敵な笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「――やはり貴方もいらしていたのですね。お久しぶりです、オルフィエラ様」
その一言に、場の空気はまるで時が止まったかのように静まり返る中で、カミュロの指先が静かに腰のレイピアへと伸び、軽く触れた瞬間、金属が微かに擦れ合い、カチャッという音だけが響き渡った。
(オルフィエラ......? それって、確か王国の名前じゃ――)
セシルの脳裏に、その名がもたらす意味が、まるで氷のように冷たく、じわじわと肌の奥に染み入るような感覚で広がっていった。
彼女が今こうして立っている王国の名として記憶に刻まれているその響きが、人の名として呼ばれたということに、セシルの中で言葉にすらできない異質さとして立ち現れ、背中に粟立つような悪寒を呼び起こした。
そして、その名を呼ばれた対象が誰なのかを確かめるように、恐る恐るゼリィナが向けた視線の先を追いかけるように、セシルは無意識に髪を耳にかける仕草と共に、ゆっくりと後ろを振り返ると、――廊下に面した部屋の扉の隙間から、まるでこちらの様子を窺うようにして、ひっそりと姿を覗かせている小さな影が見えた。
「......えっ、ノエルちゃん?」
そこにいたのは紛れもなく、先程カミュロに促され、静かに先に戻っていったはずのノエルの姿だった。
そもそも、ノエルがこの場に再び姿を見せたこと自体が予想外であったが、それ以上に衝撃だったのは、先程ゼリィナの口から“オルフィエラ様”という、この王国そのものを象徴するような名が、まるで当然のように彼女に向けて発せられたという事実だった。
(ま、まさか。ノエルちゃんって......この王国の王家の人、とかだったの?)
胸の内に去来する疑念は、やがて確信めいた恐れへと変わり始めていた。振り返れば、カミュロがあれほど年若いノエルに対して一貫して「様」を付けて敬称を用いていたこと、そして常に一歩引いたような慎重な振る舞いを見せていたことも、今となってはすべて腑に落ちた。
だが、その尊敬の裏にあるのが単なる親しみや配慮ではなく、王家の血筋という立場から来る敬意であったのだとすれば、それはあまりに重い現実であった。
セシルは未だその事実を受け入れきれず、視線を戻すと、ゼリィナは何事もなかったかのようにメガネを指先で押し上げる仕草を繰り返し、カミュロに至ってはただ無言のまま、表情を一切動かすことなく佇んでいた。
(嘘、じゃない......?でも、そんなの......)
徐々に現実としてその重みを受け入れ始めようとしていた矢先、セシルの脳裏には、街でノエルに注がれた冷たい視線、容赦ない罵声、“化け物”と呼ばれた辱めの数々。
そして、カミュロ以外の誰一人として彼女の身辺に付き添わぬ異様な環境などが次々と思い出され、その記憶の鮮烈さに、再び思考が混乱を極めていた。
(じゃあ......なんで?もし、ノエルちゃんが本当に王家の人間なら、あまりにも扱われ方が酷いじゃない)
セシルの胸の内には、理解の及ばぬ事実が次々と積み重なり、もはや言葉を発する余裕すら奪われていた。
そんな彼女の表情をちらと盗み見たゼリィナが、まるでその反応を愉しむかのように薄く笑みを浮かべると、意識的に話題を転じるようにしてカミュロへと顔を向け、何気ない調子で語りかけた。
「そういえば、彼女を見て思い出しましたわ。街での一件、オルフィエラ様が関わっていたそうですね。それに実際――」
ピリッ。
ゼリィナの言葉の途中で、突如として何かがひび割れるような、まるで空気の層そのものが見えない力が軋むような、異様な気配が、突如として空間を満たし始めたのを感じた。
(っ、今のって......)
まるで周囲の空気そのものが凍てついたかのように、底冷えする寒気が足元からじわじわと這い上がり、セシルの背筋を鋭く貫いた。
思わず肩を抱きかかえるように身を縮こまらせた彼女は、強張った指先の震えすら忘れるほどの警戒心と緊張感に包まれ、無意識のうちに大きく瞳を見開いていた。
(この感覚......まさか、これは歪みの力――?!)
それは、かつて王国に辿り着いて間もない頃、彼女を襲った圧倒的な力のそれとは異なるものの、かつてアキラとの死闘の最中、空気に溶け込むように漂っていた、“歪み”と酷似した、異様な気配がそこにあった。
セシルは本能的に異変の兆しを察知し、鋭い視線をゼリィナから逸らすと、僅かな手掛かりを探し出そうと反射的に周囲へ目だけを巡らせた。
(あのゼリィナと言う人の背後に、誰かが潜んでいる?......いや、彼女以外の人間の気配はない。カミュロさんからも何も感じない。じゃあ、これは一体......?)
疑念と警戒が交錯する中、ふと背後へと目を向けたその瞬間――セシルの目に飛び込んできたのは、床にしゃがみ込むノエルの姿だった。
彼女は小さな身体を抱えるように膝を抱え、長い前髪を力強く両手で掴んでおり、その細い肩は小刻みに震え、やがて、その身体の輪郭から、まるで内側からにじみ出るように、青白く淡い光がじわりと広がっていくのが見えた。
(ノエルちゃんの中から、溢れ出てる――?! ど、どういうこと? 彼女から、歪みの力が? じゃあ、わたしをここに誘導したのはノエルちゃんだったってこと? いや、そもそもさっきまで、どうしてあんな歪みの気配を一切感じなかったのに......)
ぐるぐると降りかかった新たな事実を懸命に処理しようと、だその場で震えているノエルの姿に、セシルは一歩踏み出すことすらできずにいると、不意に記憶の底から、一つの声が蘇った。
『そうだ。最後におまけとして一つだけ教えてやろうか。“本物の精霊の力”を持つ者ってのはな、人為的に作られた力とはまるで違う。そんな“歪みの力”なんてもんは、そう簡単に外部へ漏らしたりはしないのさ――俺みたいになぁ。』
それは、この王国に来る途中、船の上で出会った、奇抜な服装とサングラスをかけた謎の男が、どこか芝居がかった調子で語っていた言葉だった。
セシルはその言葉をまるで呪文のように心の中で反芻し、ある結論へと辿り着いた。
「......あれが、本物の精霊の力、なの?」
ぽつりと、誰にも届かないほどの微かな声でセシルが呟いたその直後、ノエルは突然立ち上がり、顔を両手で覆ったまま、ふらつく足取りでその場から逃げ出そうとした。
そんなノエルの背後では、青白い光が移動しながら、その小さな足音と歪みの力の根源が遠ざかっていくように、彼女の足取りに合わせて、まるで空気が薄くなるような圧迫感が、廊下全体を覆っていた。
「っ、ノエルちゃん!!」
反射的に声を上げたセシルは、そのまま迷いも躊躇もなく地を蹴り、薄らと歪み始めた空気の中を衝動とも言える動きだったが、彼女の心は奇妙な確信と直感に突き動かされていた。
(違う......!わたしがここに来て感じてきた“歪みの力”には、もっと明確な悪意が宿っていた。今の彼女の力は、それとはまるで違う。なら――)
確かに歪みの力には違いなかったが、あの時自分の身を削るようにして感じ取った不快な暴力性のある歪みとは異なり、今のノエルから溢れ出たそれには、どこか切実で、純粋な苦しみや恐れが滲んでいた。
それを無言で背負い、何も言わずに走り去った彼女の小さな背中を見て、セシルはただその姿を追いかけた。
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一方で、セシルの突発的な行動に一瞬だけ目を見開いたカミュロだったが、すぐに平静を取り戻すと、未だ余裕の笑みを浮かべて腕を組んでいるゼリィナに、怒気を孕んだ鋭い視線を投げつけていた。
「......余計な事までペラペラと」
「あら、何のことかしら?私はただ、事実を述べただけ。ですよね、イングレアム様」
ゼリィナは、挑発するように視線を外し、唇に細い指先を添えて小さく微笑んでおり、その態度には、まるで全てを見透かしているかのような余裕が滲んでおり、それがかえってカミュロの神経を逆撫でするようだった。
カミュロは無言のまま拳を握りしめ、睨みつける視線をさらに鋭く研ぎ澄ませたが、やがてセシルが走り去った方向に体を向けると、抑えつけるような息を一つ吐き、歩を進めようとした。
「お待ちなさい」
ゼリィナの呼び止める声が響いたが、カミュロは一切反応を見せることなくその場を離れようとしたが、彼女はまるで独り言のように、気にする様子もなく言葉を続ける。
「オルフィエラ様を追いかけたあの少女。どうやら、契約悪魔の存在を知っているそうね。先ほど、小さく呟いていたのが聞こえましたよ」
その言葉に、カミュロはピタリと足を止めると、冷たさを増していた視線だけを、興味深そうに言葉を零すゼリィナに向けた。
「......」
「まぁ、そんな怖い顔をして。これでも親切心で申し上げているのよ。訳は聞かないで、早々にあの子をこちらに引き渡してくださらないかしら?その方が、後々貴方の為になると思いますけども?」
「......いい加減黙れ。次、同じように現れてその口を開いたら、容赦はしない」
カミュロは低く押し殺した声でそう呟くと、そのまま視線を逸らし、先程よりも速い歩調で廊下を進んでいった。
そんな彼の後ろ姿を、ゼリィナは目を細めて無言のまま見送っていたが、やがて、ふっと意味ありげな笑みを浮かべながらメガネの縁に指を添えて押し上げ、逆方向の廊下へと静かに歩き出した。




