第64話. 気配無き城内
――あれからというもの、セシルはノエルに手を引かれたまま、城の長い廊下を歩いていた。
ノエルは明るく屈託ない声で、廊下に面した部屋の一つひとつについて、まるで遊びに来た友達に家を案内するような調子で説明してくれていたが、セシルは背後からじわじわと降りかかるような視線に、なんとも言えない落ち着かなさを覚えていた。
(うぅ......すごい見られてる気がする。ぜったい警戒されてる、よね......)
思わずノエルに手を引かれるまま足を進めつつ、そっと肩越しに後ろを振り返ると、その先にいたのは、先程まで彼女を鋭く見つめていたカミュロだった。
けれどその視線は、いつの間にか彼女から外されており、代わりに、彼の手元で不思議なものが静かに動いていた。
彼の手元では、糸のように細くしなやかな水が絡みつくように漂っており、手首の動きに呼応するように滑らかに旋回しながら、まるで舞を舞うかのような軌道を描いていた。
一見すれば、虫でも払うような取るに足らない手の動きに見えるのに、妙に優雅で、同時に不気味なほど静謐な気配を纏っていた。
やがて、その水の糸は自然とひとつにまとまり、掌の上で小さく揺れる雫のような球体となって淡く輝いき、そして次の瞬間、彼はその美しい水の珠を、なんのためらいもなく握り潰すようにして、音もなく霧散させたのだった。
その光景を目の当たりにした瞬間、セシルの中で、どこか懐かしさを伴う感覚がわき上がり、思いがけずいくつかの記憶の断片が脳裏に浮かんでいた。
(あれっ......あの動きって。そういえば、さっき赤い武器を召喚していたし、まさか、カミュロさんって――)
頭の中に積み重なっていく数々の謎の断片。そのうちのひとつが、ようやく霧の向こうからぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせはじめ、セシルの意識はその答えに向かって手を伸ばそうとしていた。けれど、それはあまりにも唐突に遮られることとなった。
「きゃっ!」
突如として、ノエルにセシルの腕がぐっと強く引かれた。その行為が単なる呼び止めのつもりだったのか、それとも何かを伝えようとした拍子に起こったものだったのかは分からない。
しかしその勢いは、あまりにも唐突で予想外だったために、セシルの身体は不意にバランスを失い、ふらりと前につんのめってしまった。
「わああっ! セシル!!」
ノエルの焦りに満ちた叫びが耳に飛び込んできたが、その声をまともに受け止める余裕は、今のセシルには残されていなかった。
まだ本調子ではない身体では咄嗟の動きに反応することもままならず、全身の力がふっと抜けてしまったかのように、彼女の意識は無防備に宙へと投げ出された。
――このままではノエルまで巻き込んでしまう。そんな嫌な予感が、脳裏をかすめていた。
(まずっ!ノエルちゃんを下敷きにするわけには......!)
反射的に身体をひねったセシルは、とっさに隣にいたノエルをかばうように腕を伸ばし、自らの身を盾とする構えを取った。肩をすくめ、地面へと叩きつけられる痛みに備えて全身に力を込めた。
だが、待てども、床の硬さも、転んだ衝撃もいつまで経っても訪れず、まるで、落下という現実そのものがどこかで途切れたかのように、セシルの身体は宙にふわりと浮かび、そのまま時間が止まったように動かなくなっていた。
(......あ、れ?助かった?)
混乱と戸惑いが渦を巻くなか、彼女の耳元に、どこか低く、しかし妙に落ち着き払った男の声が滑り込んできた。
「力加減には気をつけろ、ノエル様」
その声音には、一見すると平坦な抑揚のなさがある。だがよく耳を澄ませば、その奥には凛とした芯の通った静けさと、それに溶けるような微かな温もりが同居していた。
セシルは反射的に目を見開き、視線をあちこちへと巡らせると、自分の腹部あたりに、どこか安心感すら覚えるぬくもりと、しっかりと支えるように添えられた腕の存在があり、それが誰のものであるかを察した瞬間、驚きと共に感情がこみ上げ、思わず声を上げた。
「っ、......!た、助かりました......!」
突発的な事態に対する驚きと、無事であったことへの安堵、そして少しばかりの気恥ずかしさを滲ませながら、セシルが視線を上げると、そこには、片腕で彼女をしっかりと抱きとめながら、真っ直ぐに彼女を見つめるカミュロの姿があった。
彼の表情は、いつものように感情の揺れを感じさせぬ冷静さに包まれていたが、ほんの僅か、目元に柔らかな揺らぎが見えたかと思えば、そんな彼が、ぽつりと呟くように言葉を落とした。
「......これ以上無駄な傷を増やすな」
「え?」
彼の声音は静かだったが、それは決して感情を切り離した冷たさではなく、むしろ、抑え込まれた焦燥、あるいは怒りにも似た切実さのようなものが、言葉の奥にじっと潜んでいるように感じられた。
セシルはそんな彼に続けて言葉を返そうと唇を開いたが、その瞬間、カミュロは彼女に何も言わせまいとするかのように、そっとその身を離すと、何も言わずに先に歩き始めていた。
「......」
セシルはただ、呆然とその背中を見送っており、その瞳には、助けられたという事実と、それに込められた想いをどう受け止めればよいのか分からず、複雑に揺れ動く感情が渦巻いていた。
そんな彼女の隣で、小さく手を合わせたノエルが、申し訳なさそうに伏し目がちになりながらも、おずおずと声を上げた。
「セシル~っ、ごめんね!!あたし、勢いよく引っ張っちゃって」
「っ、ううん。わたしの方こそ、話をちゃんと聞いてなかったので......」
咄嗟に返したセシルの声には、気まずさと自責の念が混じっていたが、同時に、互いの非を責めずに分かち合おうとする優しさも感じられた。
そうして二人は、まるで気まずさを払拭するように、お互いに謝り合いながら、セシルは少しばつが悪そうな笑みを浮かべ、手をひらひらと振って「気にしないで」という意思をジェスチャーに込めていた。
(あんなに警戒されちゃったのに......助けて貰っちゃったな)
彼の行動に込められていたものを、セシルはまだ正確に言葉にできないでいたが、それでも胸の奥にふわりと灯った温かな感情は確かで、それがゆっくりと心に染み渡っていくのを、彼女は戸惑いながらも受け止めつつあった。
そんなセシルの表情の変化を見逃さなかったノエルが、そっと彼女の顔を覗き込むようにしながら、遠慮がちに声をかけてきた。
「あ、あのねっ!!カミュロってあんまり感情を表に出さないし、言葉足らずな所があるから、冷たく感じると思うんだけど......ほんとはっ、すっごいやさしい人なんだよ!!」
その言葉には、誰かに分かってほしいという純粋な願いが込められており、そしてそのまま、ノエルは自然な動作で再びセシルの手を取り、軽やかな足取りで歩き出すと、セシルはほんの少し安心したように目を細めた。
「ふふっ......冷たい人だなんて、思ってないです。むしろ、助けてくれたことが嬉しくて」
ぽつりと零れたその言葉は、セシル自身が驚くほど素直で、それゆえにどこか照れくさく、しかし確かな本音だった。
それを聞いたノエルは、安心したようにほっと息をつきながらも、どこか誇らしげに、まるで大切な人の魅力を伝えたくて仕方ないような調子で続けた。
「あのね、実は、セシルの着替えを手伝ったり、身体の手当てをしたのはあたしなんだけど......頭のケガだけは、カミュロがやってくれたんだよ!」
「えっ、本当に......?」
思わず驚きに目を見開いたセシルは、自分の頭部へとそっと手を当て、丁寧に巻かれた包帯の感触を確かめるように指先を滑らせた。
「うん、そうなの。でもね~、見た目がちょっと変わってたからって、セシルのことてきだと思っちゃって、一度攻撃しかけちゃったでしょ?あれで多分、本人すっごく気まずくなってると思うよ〜」
ノエルの明るい口調に潜むさりげない優しさは、兄のような存在であるカミュロの不器用さを笑いに変えようとする気遣いと、彼の内面をちゃんと理解してほしいという切実な願いに満ちていた。
そんな彼女の言葉に、セシルは自然と笑みを浮かべると同時に、不器用で真っ直ぐなカミュロの優しさが、胸の中でゆっくりと形を成していくのを感じていた。
無骨で、寡黙で、感情を見せるのが苦手な人――けれど確かに優しさを宿した人。その存在を思い浮かべるたび、セシルの足取りは徐々に軽やかになり、歩くたびに、胸の奥でぽつぽつと灯る感情が、静かに彼女の心を温めていった。
◇◇◇
「でねでね!それでねっ、こっちがね──」
先頭を歩いていたカミュロが自然な足取りで先導し、そのすぐ後ろでノエルがはしゃぐように声を弾ませながら部屋の説明を続けているのを、セシルはやや遅れて追いかけながら耳を傾けていた。
どの部屋も見事なほどに整えられていて、隅々まで掃除が行き届き、美術品のように磨き抜かれた装飾や調度品が静かに佇んでいる。
しかし、それらの美しさとは裏腹に、どこか釈然としない違和感が、セシルの胸の奥に静かに沈殿していくのを感じていた。
まるで、全てが絵画の中に描かれた「理想の城」のように完璧で、非の打ち所がないはずなのに──その空間からは人の気配がまったくといっていいほど感じられなかった。
(おかしい......ここまで立派な場所なら、普通もっと人の出入りがあるはず。使用人や衛兵、それに通りすがる誰かの気配があってもいいのに、どうして?)
目の前では、無邪気に笑うノエルが、あれこれと楽しげに説明を続けていたが、その様子を遮るのが少し躊躇われたセシルは、気づかれないようにそっと後ろを振り返ってみた。
だが、豪奢な廊下の奥には、やはり人の気配どころか、どこからも視線を感じることはなく、ただ、磨き抜かれた床と壁が静寂を反射しているような、妙な閉塞感だけが漂っていた。
(流石に、これだけ人がいない理由くらいは、聞いてもいいよね。だって、しばらくここで過ごすことになるし......)
そんな事を思いながら前方へと視線を戻したセシルは、考えを巡らせるように何気なく顎に手を添え、小さく息を吐いているとその時、先を歩いていたカミュロの背中が、不意にぴたりと静止した。
そして、まるで、背後から近づくセシルたちの気配を敏感に感じ取ったかのように、彼は無言のまま、ゆっくりと体を半回転させ、こちらへと向き直った。
やがてセシルとノエルが数歩の距離まで近づくと、それを見計らったような絶妙な間合いで、カミュロは静かに口を開いた。
「案内はここまでだ」
唐突に告げられたその言葉に、セシルは一瞬、状況が飲み込めず目を瞬かせた後、戸惑いを隠せない表情のまま問い返した。
「えっ......?でも、あの......この先にもまだ、部屋がいくつも見えてますし......」
そう言いながら、彼女は自然と視線を廊下の先へと滑らせると、そこには、さらに精緻な装飾が施された扉がいくつも連なり、まるで道の果てが存在しないかのように、廊下は奥へ奥へと続いていた。
同時に、その奥には、何かがある。そう感じさせるには十分なほどに、圧迫感すら覚える静けさと、異様な空気が漂っていた。
“何かを隠しているのかもしれない”──そんな考えが頭をよぎりつつも、問い詰めるにはあまりにも唐突で、無遠慮な印象を与えかねないと感じたセシルは一歩引いた心構えで、慎重にカミュロの表情をうかがった。
すると、カミュロはそんな彼女の探るような視線に気づいたのか、すぐには答えず、ほんの少しだけ目を伏せると、あくまで感情を読ませない無機質な声音で、言葉を続けた。
「ここから先は、城の中でも中央部にあたる場所だ。......俺たちのような立場の者が、安易に立ち入るべきではない領域だ」
その一言は、冷たいようでありながら、まるで、何かに逆らえない事情があることをほのめかすかのように、どこか忠誠心と戒律に根ざした責任感も感じられるような口調だった。
そして、短く切られたその言葉の余韻が、廊下に沈黙をもたらした中、セシルは目だけを横に動かし、ノエルの様子を窺った。
すると、先程までの朗らかな笑みを浮かべていたノエルはどこにもおらず、代わりに、彼女は視線を伏せたまま自らの前髪に指を絡ませ、所在なさげにそれを弄っていた。
(......ノエルちゃんにこっそり聞ける感じじゃないね。仕方がない、ここは一つ正直に──)
ノエルの様子を目の当たりにしたセシルは、彼女にこっそりと理由を尋ねることを諦め、再び視線を正面に戻してカミュロをまっすぐに見つめると、躊躇いながらも再び口を開いた。
「......立ち入り禁止の理由も、もちろん気になります。でも、それ以上に、ずっと気になっていたことがあります。──なぜ、ここまで歩いてきた間、あなたたち以外の人の気配が、まったくしないんですか?」
その問いかけに対し、カミュロは一瞬だけ瞳を揺らしたが、しかし、それもほんの一拍のことであり、彼はすぐにその揺れを押し殺すと、再び無感情に近い口調で冷たく言い放った。
「......言う義理はない」
それ以上の説明は一切ないまま、セシルの言葉を跳ね除けるように、カミュロはスッと歩み寄ると、そのままノエルの肩に手をかけ、自然な動作で彼女の体の向きを反転させ、優しく背中を押しながら歩き出した。
そのまま彼らの背中が僅かに遠ざかっていくのを見送りながら、セシルは彼らの反応から、無遠慮に踏み込んでしまったことを悟り、少しばかり後悔の色を浮かべながら、小さくため息をついた。
「やっぱり、部外者が踏み込むものじゃないね......」
ぽつりとそう呟くと、彼女は無意識に自らの髪を指先でくるくると弄りながら、自己嫌悪にも似た気持ちで目を伏せていた。
(はぁぁぁ、何やってるのよ、わたし。助けて貰ったからって.......ほんの少しの間、ここで世話になるだけの立場というのには変わりないのよ。余計なこと、聞いちゃダメだよね......よしっ!)
自分を戒めるように、セシルは小さく首を振り、両手でぺしぺしと自分の頬を叩き、気持ちを切り替えるように、カミュロたちに追いつこうと一歩を踏み出した、その時──背後から、誰かの声が、不意に彼女を呼びとめるように声が響いた




