第63話. 偶然の幸運
(ムムッ、......ダメだ。今、考えても意味がない気がして来た。......あっ、そんな事より、お礼を──!)
目まぐるしく移り変わる出来事に心が追いつかず、どうにか思考をまとめようと試みたセシルだったが、結局のところ何一つ確かな答えが得られないままでいた。
そして、自身の置かれている状況について悩むのをいったん打ち切ると、今さらながらではあるが、自分を助けてくれたことへの感謝だけは、ちゃんと伝えなければならないと考え、慌てて顔を上げた。
だがセシルが声を発するよりも一瞬早く、そこに立っていたノエルが、優美な仕草でスカートの裾を両手の指先で軽やかに摘みながら、まるで舞うような動作で丁頭を下げ、一礼していた。
「言うのがおそくなっちゃったね。さっきは、助けてくれて本当にありがとう」
その一言は、まるでセシルの慌てていた感情を解すような柔らかさを帯びており、その声色には、素直でまっすぐな感謝の気持ちが滲んでいた。
けれどセシルは、そんな真っすぐなお礼の言葉に一瞬ぽかんとした顔をして首を傾げていた。
「えっと......さっき、ですか?」
あまりにも多くの出来事が怒涛のように押し寄せてきたため、彼女の頭の中ではすでに記憶が渦を巻いており、ノエルが何のことを指しているのかが瞬時には判断できなかった事で、セシルは混乱した表情を浮かべていた。
「さっきっていうのは、そのね......」
ノエルは返答しかけたものの、ふいに言葉を飲み込み、長く伸びた前髪にそっと手をやり、指先で髪をいじっていた。
その仕草には、あえて口にするには少しばかり勇気が要るような、どこか言いづらさや躊躇が含まれており、その口元には微かな陰りが差しており、セシルもそれ以上、自分から聞けるような雰囲気ではなかった。
すると、そんな微妙な空気を切り裂くように、ノエルのすぐ後ろで控えていたカミュロが、まるで機械のように感情を抑えた平坦な声で言葉を投げた。
「覚えていないのか。街での騒ぎのことだ」
その一言が、セシルの脳裏で散らばっていた記憶の破片を、まるで磁石のように引き寄せ、ぴたりと一つの像を結んでいた。
そう、つい先程、整理した情報である、「街で偶然出会った女の子が、突如として人々から本気の殺意を向けられ、命を狙われた出来事」という情報と、今ここにいるノエルの姿とが、ぴったりと重なったのだ。
「あっ、もしかして、あの時の......! はぁ〜良かった、無事だったんだね。怪我もしてなさそうで、本当に、安心し──」
自然と口をついて出た安堵の言葉を漏らしながら、そのまま胸元で手を組み、微笑みを浮かべようとしたセシルだったが──不意にその言葉は途中で途切れ、目を大きく見開いたまま、何かを思い出したかのように指を指しながら、勢いよく叫んだ。
「あーーーーっ!!!」
『絶対、こいつがそうだ!!見ろよ、髪を一つに結んでる、噂通りじゃないか!!』
『いや、剣の動きも普通じゃなかったし、あれが証拠だってば!!』
街で響いていた人々の怒号とその中で叫ばれていた断片的な言葉が、鮮明に脳裏に蘇るりながら、セシルが指した指先には、ノエルの後ろで腰に帯びた剣に片手を添えまま、どこか居心地悪そうに眉根を寄せながら立っているカミュロの姿があった。
長い髪を一つに束ねたその風貌。そして、セシルも体験した力強い剣の使い手である事。群衆が言っていた特徴と、今目の前にいる彼の姿は、あまりにも一致しすぎていた。
「なっ......まさか、仕え手って、あなたのことだったんですか?!」
驚きに任せて思わず指を差してしまった自分の行動に、セシルは気まずそうに手を引っ込めつつも、瞳には明らかな動揺の色が浮かんでいた。
カミュロはその問いかけに対して何も答えず、変わらぬ無表情のまま佇んでいたが、代わりにノエルが肩をすくめるような動作を見せ、困ったような微笑を浮かべながら口を開いた。
「うぅんと、そうなんだよね。それに関しては、なんて言えばいいのかな......」
その声はどこか歯切れが悪く、前髪を指先でなぞるように整えながら、ノエルは申し訳なさそうに眉を下げ、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと話し始めた。
「ごめんね。その、ぐー然、色いろな事がかぶってて......だから、結果的にあなたがカミュロと間ちがわれたっていうか、うん、そんな感じ」
「そう、だったのね......」
セシルは、どこか納得したように、けれど完全に飲み込めたわけではないという曖昧な表情で、小さく息を吐きながら、力なくそう返していた。
けれどその胸の内では、説明された通りの出来事だけでは、到底拭えないような、根深い違和感がじわりじわりと膨らんでいるのを感じていた。
(そうだ。たしか、あの人たち、この子に“化け物”って。まるで人間じゃないものを見るような目で、本気で殺そうとしてたよね。それなのに、どうして? 見た目は至って普通だし。それに、仕え手がいるってことは、普通なら貴族とかそれなりの立場のはずじゃ......?)
だが、次の瞬間には、次第に湧き上がってくる疑問を振り払うように、セシルはぶんぶんと小さく首を振ると、心の中でそっと自分自身に言い聞かせるように語りかけた。
(いや、ダメダメっ!! クロノスさんも言ってたじゃない。“他人の事情には深入りしない方がいい”って。うん、そうだよ。 偶然出会っただけなんだし、感謝されたからって、だからって──無理に踏み込む必要なんて、ないんだ。 もう、これ以上関わることもないんだし。うんうん、よしっ、そうしよう......)
自分を納得させるように、何度も頷きながら腕を組み、目を閉じて思考を落ち着かせようとするセシルだったが、その胸の奥では好奇心の種が、ひそやかに芽吹き始めており、理性という名の柵を乗り越えようとする、危うい衝動が、微妙に揺れ動いていた。
そんな葛藤に身を任せ、思わず目を伏せていたセシルの前で、ノエルはふと不安げな表情を見せていた。
けれどその時、ノエルの背後でひたすら沈黙を保っていたカミュロが、まるで何かを決意するように無言のまま一歩、地を踏みしめて前へと進み出た。
「ん、どうしたのカミュロ?」
その気配を察してノエルが小さく振り返ると、カミュロはほんの僅かに気乗りしなさそうな表情を浮かべながらも、腰を低くし、ノエルの耳元に口を寄せて小声で何かを囁いた。
ノエルはその言葉に、一瞬だけ口元に指を当てて考える素振りを見せたものの、すぐにこくんと頷き、迷いを振り切るようにセシルの方へと向き直った。
「えとね、その......ちょっと言いにくいんだけどさ.......」
ノエルは言い出しにくそうに言葉を選びながら、お腹の辺りで両手を組み、ぎこちない笑みを浮かべた。その口元にはどこか困惑と申し訳なさが滲み出ており、彼女なりにどう伝えるべきか迷っていることがひしひしと伝わってくる。
「あたしを助けてくれた、あの時のこと、覚えてる? その時にね、国民の人たちが、あなたの顔を見ちゃったじゃない? それでね、そのまま今、外に出ちゃうと、どうなっちゃうか、ちょっと分からないの。もしかすると、もっとあぶない目にあうかもしれないんだ。 ほら、カミュロに間ちがえられちゃったじゃない?だから、その......余計にね」
「えっ?」
セシルは言葉の意味がすぐには理解できず、ぽかんとしたままノエルの顔を見つめたが、しかし次第に、言葉の裏にある現実がじわじわと彼女の背筋を駆け上がり、喉の奥がひゅっと細くなるような息苦しさが襲ってきた。
「つ......つまり、それってしばらくの間、ここから出られないってこと?」
「うん、そういうこと!!」
そう確認するように、恐る恐る言葉を紡ぐセシルに対して、ノエルは一瞬だけ目を伏せ、どう言葉を返すか迷うような仕草を見せたが、次の瞬間にはパッと顔を上げ、無邪気で明るい表情を取り戻す。そして小さくガッツポーズのような仕草を添えて、まるで励ますように、元気な口調で言葉を返した。
「でもね、今はそれが一番安全だと思うんだ!! 助けてくれたあなただったら安心できるし。 ほら、それに、みんなの気持ちがもうちょっと落ち着いたら、また外に出られるようになるからさ!」
その屈託のない笑顔と、未来に希望を繋げようとする言葉に、セシルは反射的に微笑み返していだが、その笑顔の裏側では、胸の内で焦燥と混乱が激しくぶつかり合っていた。
(そ、そんなぁ......! ここから出られないってなると、クロノスさんが警戒してた、あの弟のことも、わたしを誘き寄せた精霊の歪みを放つ存在の正体も、何一つ手がかりを探れないってことじゃない!)
心の中で天を仰ぐようにして必死に思考を整理しようとするも、不安の渦は止むことなく膨らんでいくセシルはその動揺を悟られまいと、言葉を飲み込み、内側から込み上げてくる焦りを懸命に抑え込んだ。
しかし、外から見れば、彼女はただ「うーん」と戸惑いを隠しきれずに唸っているようにしか映らず、その姿はまるで迷子になってしまった子どものような印象さえ与えていた。
そんなセシルの様子に気づいたのか、あるいは最初から察していたのか、ノエルの背後に控えていたカミュロは無機質な静けさを漂わせながらも、その瞳の奥には確かに冷静な配慮と警戒が同時に宿っていた。
やがて、カミュロは、腰に添えていた手をゆっくりと動かし、握っていた剣からそっと手を離すと、彼は、まるで場を和らげるように、落ち着いた動作で手を差し出すと、控えめながらもはっきりとした声で言った。
「安心しろ。国民の奴らが、わざわざ城に乗り込んでくるような真似はしない。ここにいる限り、あんたに手を出せる者はいない」
「うーん、ですが.........って、へっ?!」
一度は納得しかけていたセシルだったが、ふと耳に引っかかった一言に眉を顰めると、ほんの数秒の間を置いてから、その言葉の意味にようやく思い至るように、驚いたように目を見開き、カミュロへと顔を向けた。
「い、今、お城って言いました?」
自分がいる場所は、てっきりどこかの広い屋敷か施設だと思っていた。だが、まさか、自分が王族や貴族の居城のような場所にいるとは夢にも思っていなかったセシルは、完全に動揺の色を顔に浮かべたまま、戸惑いを隠すことができなかった。
そんな彼女の反応に、カミュロは一瞬だけ困ったように視線を逸らしつつ、ちらりとノエルの方を見やった。
「......言い方が悪かったか?」
「うぅん、ノープロブレムだよ。一語一句、間ちがってないから安心して!」
ノエルは笑顔を浮かべながら、まるで気にする様子もなく朗らかに答えると、まるで気遣うようにカミュロの身体を軽くポンポンと叩き、場の雰囲気を穏やかに包み直していた。
そのやりとりはあまりにも自然で、まるで以前からの知り合いであったかのような、ごく当たり前の空気の中で交わされた事で、セシルは、思わず再び口を僅かに開いたまま呆然と立ち尽くし、目の前で起きている状況を理解しようと、必死で思考を巡らせていた。
(城、って。最初に遠目に見えた、あの大きな城のことだよね? そんな場所で過ごせるとなれば、もしかして例の王に会える......? いや、それって寧ろチャンスじゃない? 偶然を装って様子を探れるかもしれないし、うまくいけば情報を引き出すこともできちゃう)
今まで心の奥に沈んでいた霧のような不安の中に、一筋の光が差し込むような感覚が、ふと胸を掠めた。
しかしその一方で、胸の奥底には、ほんのつい先ほど自分を救ってくれたばかりの相手に対して、本来ならば抱くべきではない、けれどどうしても拭いきれない警戒心が、ひそやかに、しかし確かに芽吹き始めていた。
(......疑いたくはないけど。もしこの人たちが、怪しいって言われてる例の王と深く繋がっていたとしたら?わたしが求めている情報を、すでに握っている可能性だってある。それどころか......精霊や、アストラル教団に関わっているとしたら――)
そう考えると、手放しで信頼するにはあまりにも危うく、セシルの心は、不安と希望の狭間で激しく揺れ動いていた。
そんな中、不意に視線を上げると、こちらをまっすぐに見つめているノエルの姿が目に入った。
彼女の瞳は隠れていて直接表情は窺えないはずなのに、その全身から放たれる無邪気な雰囲気や、周囲に浮かぶようなキラキラとした存在感が、彼女の期待を自然と物語っているようで、セシルはその無垢なまなざしに、何も言い返せないまま、ただそっと視線を落とすしかなかった。
「うん、じゃあとりあえず決定かな?よーし、それじゃあ、さっそくここを案内するよ!!」
ノエルは、セシルの反応を肯定と受け取ったのか、ぱんっと小さな音を立てて手を叩きながら元気よく声を上げると、躊躇いもなくセシルの手を取って、勢いよく最初に彼女が現れた廊下の方へと、楽しげに引っ張るように歩き出した。
セシルは、咄嗟に包帯を巻かれた手を触れられたことで、驚きからか小さく肩をすくめるようにしていたが、ノエルがそれに特に触れる様子も見せなかったことに、どこか安堵するように、ゆっくりと口を開いた。
「あの、わたし、言いそびれてしまったのですが......手当までしてくださって、本当にありがとうございました」
感謝の気持ちを込めて丁寧に言葉を紡ぐと、ノエルは手を軽く握り返しながら振り返り、まるで気にも留めていない様子で、明るい笑みを口元に浮かべた。
「いいの、いいの!元はといえば、あたしのせいでこんな事になっちゃったんだし......あっ、そうだ。お名前聞いてなかったね?」
「セシルです。改めてよろしくお願いいたします、ノエル様」
繋いでいない方の手を胸元に添え、丁寧に頭を下げるセシルだったが、その礼儀正しすぎる言い回しに、ノエルはぷくりと頬を膨らませて、すかさず抗議の声を上げた。
「えぇぇ、やだぁん!“ノエル様”なんて、かた苦しいのはナシ!セシルには“ノエルちゃん”って、もっと可愛くよんでほしいな~!」
その予想外の軽やかな提案に、セシルはふっと笑みをこぼしながらも、肩の力をほんの少しだけ抜いて、控えめに応じた。
「ふふっ、わかりました。では......ノエルちゃん、ですね」
僅かに距離が縮まったその空気を感じ取りながらも、そんな二人の後ろでは、沈黙を守ったままのカミュロが、静かに歩を進めていた。
その表情には特に目立った感情は浮かんでいなかったが、その瞳だけは鋭く光を宿し、まるでセシルの心の内側までを覗き込もうとするかのように、じっと彼女を見つめていた。




