第62話. 幼き者の説教
セシルは、未だに剣を手にしたまま警戒の色を完全には解こうとせず、じっと青年を見つめていた。
しかし、その胸の奥底では、自分でも言葉にできないような、矛盾した思いの波紋が広がっていた。
(そういえば、わたし。この場所にいる人によって助けられているじゃん。......なら、彼は敵って訳じゃないかもしれない。ただ、なにか誤解や、事情があっただけで......)
その思考は、緊張感で冷えかけていた頭の中に、静かに火を灯すように広がって行くと、やがて剣を握るセシルの指先から少しずつ余計な力が抜けていくのが自分でもわかった。
(相手からは敵意は感じない。なら、ここは信じるべきよね......)
やがて、セシルがおずおずと剣を鞘に収めていく様子は、まるで警戒心を解ききれないままも、それでも人を信じようとする小動物のようだった。
「......」
その一部始終を黙って見つめていた青年は、辺りを押し潰すような威圧感も、肌を刺すような殺気も、今はすっかり影を潜めながら静かに見守っていた。
ただ、彼の眼差しの奥には、どこか申し訳なさそうな、あるいは迷いを抱えたような微かな色が浮かんでおり、言葉をかけようとするように、彼は唇をわずかに動かした――その瞬間だった。
場を包んでいた静寂を破るように、まるで場違いなほど元気で、しかもどこか怒りを孕んだような高い声が、水の壁の向こうから飛び込んできた。
「カミュロ!!そこにいるんでしょ!?このお水、早くしまいなさいっ!!」
耳に届いたその声は、不意打ちのようでありながら、どこか聞き覚えのある雰囲気を漂わせていた。
まるで、夢の中で聞いたことがあるような、遠い記憶を呼び覚ますような響きが、セシルの胸の奥で微かに反応を起こした。
(あれ、この声......?)
不思議そうに眉をひそめながら、セシルはようやく「カミュロ」と呼ばれた青年から視線を外し、水の壁――未だ揺らぎながらその奥を覆い隠している神秘的な障壁へと視線を向けた。
光と水の屈折により、壁の向こうはまだ曖昧な影となって揺らめいていたが、それでもその向こうに“誰か”が確かに存在していることと、声の主が自身と同じくらいの少女なのではないかと感じ取ることができた。
「......少し下がってくれ」
すると、カミュロは低く、しかしどこか柔らかさを含んだ声音でセシルに告げられた。
(だ、大丈夫......よね)
セシルは彼の表情を見つめながら、その瞳の奥に自分を傷つけるような意志がないことを確認すると、静かに頷き、一歩、そしてもう一歩と、慎重な足取りで後退した。
その様子を確認したカミュロは、すかさず空間に向けて片手を差し伸べた。
その所作はまるで大気と一体化するかのように自然で、空中に見えない糸を手繰るように指を優雅に動かすと――
ゴゴゴッ...
次の瞬間、先程までセシルの背後にそびえていた水の壁が、低く震える地鳴りのような音とともに揺れはじめた。
そして、その中央から何かがこじ開けて来るような力で一気に亀裂が走り、左右へとゆっくり裂けていった。
「ほわぁぁ、すごい......!」
あまりにも神秘的で幻想的な光景に、セシルは無意識のうちに息を呑み、両手を胸の前で組みながら、まるで魔法劇の一幕を見ている子どものように目を輝かせていた。
壁の水はまるで意思を持ったかのように滑らかに形を変え、乱れ一つなく道を作り、まるでモーセが海を割った奇跡をこの現世に再現しているかのようだった。
「......」
カミュロは無言のまま、セシルの横顔をちらりと視界の端で捉えると、その表情を観察するかのように静かに目を細めていた。
彼にとって、この少女が本当にこのままにしていい存在なのか、あるいは未だに危うい存在なのか――その判断を、自らの目で確かめようとしていたのかもしれない。
やがて水の壁はすっかり引き、波の痕跡すら残さず消え去った空間には、再び穏やかで透き通った空気が流れはじめた。
先ほどまで、あれほど激しく水が吹き上がり、まるで生きた壁のように視界を遮っていたというのに、それが嘘だったかのように、静寂と澄み渡る透明感が辺りに戻ってきていた。
空気すら張り詰めたような沈黙の中、その水幕の向こう側に、ついに“彼女”の姿が現れた。
(ぇ、想像してたより......、幼い?)
思わず言葉を飲み込んだセシルの目に映ったのは、まるで童話の世界から抜け出してきたビスクドールかのような、不思議な雰囲気を纏った女の子だった。
年齢は10歳を満たしているか、いないかと言える程の絶妙なラインだ。
だが、その小柄な体には、膝丈のふんわりと広がるスカートと、細やかなレースや淡い色のリボンが丁寧に縫い込まれた衣装がよく似合っており、まるで舞踏会にでも出かけるかのような優雅さが漂っていた。
肩に掛けられた小さなケープには、ふんわりとしたフリルが施されており、ひときわ愛らしい印象を引き立てていた。背には、小さく折りたたまれた弓が背負われていた。
しかし、何よりもセシルの目を奪ったのは、額からまっすぐに垂れ下がる長い前髪だった。
その前髪は、まるで意図的にそうされているかのように、彼女の目元を完全に隠しており、どこを見ているのか、どんな感情を秘めているのか、一切を読み取ることができなかった。
(この子が、ノエル様......?)
想像していたよりもずっと幼く、そして人形のように静謐な雰囲気を纏ったノエルの登場は、あまりに予想と大きく異なり、すぐには頭がついていかないでいた。
だがその間にも、ノエルは何の躊躇も見せることなく、コツ、コツ、と小さな靴音を静かな空間に響かせながら、軽やかにこちらへと歩みを進めると、セシルの目の前で一瞬だけ立ち止まると、ほんの僅かに口元を緩めた。
その微笑はとても控えめで、声も目もないはずなのに、どこか穏やかで優しい感情が、そこに確かに宿っていると感じさせた。
「あの......」
セシルは、そのあたたかな気配に押されるように、声を掛けようと、なんとか喉の奥で言葉を探し、口を動かしかけた。
だが、ノエルは何の迷いもなくセシルの横をすり抜け、そのまま真っすぐに後ろに立っていたカミュロの方へと向かって行った。
そして、勢いよく、ビシッとカミュロを指差しながら、小柄な体で目いっぱいの力を込めて、叱るような声を高らかに響かせた。
「カミュロ!お水こうげきで、いじわるしてたんでしょ!」
その言葉には怒気すら含まれていたが、同時にどこか子ども特有の純粋さも混じっていた。
真正面から、しかも、およそ身長差で1.5倍以上はある相手に向かって抗議するその様子は、どこか微笑ましさすら感じさせた。
「......」
一方のカミュロは、ノエルの怒りの声をしばし無言で受け止めた後、肩を僅かに落とし、どこか不満げな瞳を浮かべながら、低く答えた。
「いや、俺が最初に確認した時と姿が違っていたから、侵入者かと──」
「言いわけ、きん止っ!!!」
そんな言葉と共にノエルはぴしゃりと遮りながら、両手を腰に当て、ますます語気を強めて叫んだ。
「見てよ?こんなに可愛いネグリジェを着ているのに、どうして、しん入者だなんて思えるの?! カミュロはもうほんっとに、そういうとこがダメなんだからっ!!」
すると、そのまま勢いに任せて、小さな拳を握りしめると、「うりゃーっ!」と可愛らしい掛け声とともに、ぽかぽかとカミュロの腹部あたりを叩き始めた。
一撃一撃は軽く、痛みを与えるものではなかったが、そこに込められた怒りや思いは、確かに彼に届いているようようで、彼もまた、それを拒むことなく静かに受け止めていた。
「......すまない」
低く、申し訳なさそうに漏らされた謝罪の言葉は、先程までのあの圧倒的な威圧感を放っていた青年のものとは思えないほどに、ご主人に怒られた事で、耳を垂らした犬のように、どこかしょんぼりとした反省を滲ませたものだった。
(あれぇ?これ、どういう状況なんだろう......)
セシルはそんな二人のやり取りを、ただぽかんと口を開けたまま見つめていた。
ついさっきまで自分を剣で威嚇していた相手が、今や子どもに叱られ、まるで年下の妹に怒られている兄のような構図が目の前に広がっており、そのあまりの急展開に、頭が混乱し、理解が追いつかないでいた。
「えっと......?」
思わず漏れたセシルの小さな声に、ノエルはぴたりと動きを止めると、くるりと身を翻すと、再びセシルの方を向き、長い前髪に隠れた瞳の代わりに、口元でふわりとした笑みを浮かべた。
「あ!ごめんね、カミュロがぶれぇーなことしちゃって。でも、大じょう夫?いじわるされて、ケガとかしてない?」
その声は先程までの怒気とは打って変わって柔らかく、相手を気遣う優しさが滲んでおり、その急なトーンの変化に、セシルは少し戸惑いながらも、小さく首を振り、ぎこちなくも微笑みを返した。
「いぇ、それは大丈夫です。かすり傷もないですから......」
その返事を聞いたノエルは、安堵したように小さく息を吐くと、胸元にそっと手を当てて心を落ち着けるような仕草を見せた。
一方で、ノエルのすぐ後ろに立っていたカミュロは、彼女の様子を無言で見守ってはいたものの、どこか視線が泳いでおり、場の空気に馴染みきれないような気まずさを滲ませていた。
セシルはそんなカミュロの態度をちらりと視界の端で捉えながらも、今この場で自分が置かれている状況について、冷静になろうとするかのように思考を内側で巡らせ始めた。
(......どうしよう。わたし、本来は“精霊による歪みの力”の正体を突き止めるためだけに、この場所まで足を運んだはずだったのに。気づけば、分からない事が増え続けちゃってるような)
彼女の脳裏に浮かんでくるのは、これまでに経験した不可解で謎めいた出来事の数々だった。
船上で出会った、奇抜な服装とサングラスを身に纏い、自らを“本物の精霊の力を持つ者”だと自称していた得体の知れない男の存在。
街の庭園の入口で姿を現した、異様な雰囲気を纏い、近づくだけで肌を刺すような危険な気配を放っていた謎の男。
そして、街で偶然出会った女の子が、突如として人々から本気の殺意を向けられ、命を狙われた出来事。
さらに、夢と現実の狭間のような曖昧で不確かな空間の中で出会ったエリスと、その傍にいた巨大な鳥の存在。
そして極めつけは、つい先程、目の前で繰り広げられた、カミュロによるクロノスの放つ力と非常によく似ていた大剣による一撃。
(どうしよう......整理すればする程、謎が謎を呼んじゃう......)
一つひとつの出来事は、それぞれが独立した謎の断片のように浮かび上がっていたが同時に、どこかでそれらが一本の線で繋がっているような感覚もセシルの中には確かにあって、その正体の見えない繋がりに戸惑いながらも、彼女は懸命にその糸を手繰ろうとしていた。
けれど、どれだけ思考を巡らせても核心には届かず、むしろ霧は濃くなるばかりで、解きかけたはずの謎が、また新たな謎の扉を開いてしまうような感覚に襲われていた。
(うーん、でも、何か大切な出来事を忘れているような......)
セシルは「むむむっ...」と、小さく唸るように口元に手を添えながら、何をどの順序で話すべきか、そもそも話すべきなのかさえ分からずに言葉を選ぼうとしていた。




