第61話. 真紅色の大剣
「......ぅ」
闇の底から浮かび上がるように、セシルはゆっくりと瞼を持ち上げると、目に飛び込んできたのは、ほんのりと橙色の光に照らされた、見覚えのない天井だった。
「ここ......」
ぼんやりとした視界の中で、真っ先に彼女の目を引いたのは、その天井に施された繊細な装飾だった。重厚でありながらも品のある意匠が空間に高貴な雰囲気を漂わせ、ここがただの民家や宿屋でないことがすぐに理解できた。
そして、どうやら彼女の身体は柔らかな寝台の上に横たえられており、薄暗いながらも心を落ち着かせるような静けさが室内を包んでいた。
「ッ、まさか!......つぅぅっ〜!」
突然、飛び起きようとしたセシルだったが、その動きに伴って後頭部へ鋭い痛みが走り、思わず顔を顰めながら、その箇所を片手で庇うように押さえた。
「いたたぁぁ......」
咄嗟に目を閉じ、しばらくそのままうずくまるようにして痛みに耐えており、その痛みこそが、夢のような光景では感じ得なかった、肉体が現実に在ることの証であると、彼女に確かな感覚を与えていた。
(......痛みが、ある。やっぱり、ここは夢の続きじゃない......現実に帰ってきたってこと、だよね?)
ぼんやりとした頭の中でそう確信しながらも、彼女の胸には得体の知れない不安が渦巻いていた。
――自分はどこにいて、何が起きたのか。今、ここにいる理由が、すぐには思い出せない。
それでも、少しずつ現実に引き戻されるようにして、セシルはゆっくりと上半身を起こし、辺りを見回した。
すると、目に映ったのは、上品なアイボリーと淡い金色を基調とした壁紙に、繊細な彫刻が施された家具の数々。
(うはぁ、見るからに高価そうな物ばかり......)
どれも手の込んだものであり、この部屋の主が相当な身分にある者であることを伺わせ、同時に窓際には厚手のカーテンが掛けられていたが、その隙間から差し込む夕暮れの光が、部屋全体を柔らかく橙色に染め上げていた。
落ち着いたその空間は、不思議と安堵感を与えるものであったが、それ以上にセシルの胸中を満たしていたのは、得体の知れない違和感だった。
「わたし......たしか、街にいたはず......?なんで......」
エリスと話していた空間を夢や妄想と仮定するとすれば、確かに、ほんの少し前までは、荒れた人波の中で、怒声と混乱に包まれ、腕の中には幼い女の子のぬくもりがあり、周囲には怒り狂う群衆の気配があった。
その記憶があまりに鮮明だっただけに、今この静けさが信じがたく、まるで現実が飛び飛びに断ち切られているように感じられた。
「えっ、格好が!」
自分の身体に目を落とすとそこには、あの時、着ていたはずの深緑の服もも、黒いレースの手袋も、マントも、両耳を飾っていた大切な耳飾りも見当たらず、その代わりに身に着けていたのは、可愛らしいレースとリボンをあしらった、寝巻き用と思われるワンピースだった。
「着替えさせられてる......それに、なんだかひんやりするような?」
違和感に導かれるまま、セシルはおそるおそるワンピースの裾を捲り上げると、その下には丁寧に巻かれた包帯が幾重にも重なり、腕や足を守るように施されていた。
触れると、包帯は僅かに湿っており、まるで薬草の成分を溶かした物を染み込ませてあるかのような冷たさが肌を撫でた。
「まさか、誰かが手当てをしてくれたの?......でも、一体誰が?」
戸惑いと不安の入り混じる思いの中で、セシルはそっと頭に手を伸ばすと、長く降ろされた髪の下、耳の後ろあたりにも、目立たないように包帯がきつく巻かれていたことに気づいた。
乱暴にではなく、まるで彼女の傷を少しでも癒そうとするような、見た目には分からぬように気を遣われた優しい処置の痕跡が、そこには確かに残されていた。
「......わたし、助けられたんだ。それで、ここはその人の......」
セシルは、自分の口から零れたその小さな言葉に、現実の重みを感じるように瞼を一瞬伏せた。
「よし、じっとしても何も始まらないね!」
そんな決心をした言葉と共に、そっと寝台から足を下ろし、重心を移すたび、体がじんわりと痛みを訴えたが、そんなふらつく身体を支えながら、慎重に立ち上がった。
「っとと......まだ、熱っぽいな......それに、殴られただけあって、まだ足取りも怪しいし......」
そして、視線を部屋の中へと巡らせると、目に飛び込んできたのは寝台よりも低い位置にあるテーブルが目に入った。
その上には乱雑に置かれた包帯や薬瓶が散らばっており、つい先程まで誰かがここで手当てをしていたような生々しさが残っていた。
「あっ、わたしの荷物......!」
セシルは思わずそのテーブルの下に目を凝らすと、見覚えのある剣が丁寧に立てかけられ、その足元には彼女の腰に掛けていた鞄と靴が整然と置かれていた。
(あれ、鞄......開けられている?)
自分の私物を見つけた嬉しさと同時に、鞄の口が僅かに開いているのに気づき、彼女は無意識のうちに近づくとそのまましゃがみ込み、その鞄の中を覗き込んだ。
そこには、テーブルに立てかけられている剣とは別に腰に携えていた短剣、手に着けていた黒いレースの手袋、そして両耳に飾っていた耳飾りまでもがきちんと収められていた。
「はぁー。よかった......何も盗まれていない......」
胸の奥から湧き上がる安堵の息を大きく漏らしながら、セシルはゆっくりと立ち上がった。そして丁寧に立てかけられていた、片手で剣を取り上げ、もう一方の手で足元に並べられていた靴を掴み、慎重に履きながら思考を巡らせた。
(手当てもされてて、荷物も全部揃ってる。ここにいる人は、街で会った人と違ってわたしに危害を加えるつもりはない......)
そして、靴を履き終えると、セシルは剣の鞘の紐を腰にしっかりと巻き付け、部屋の奥にある豪華な装飾の扉に視線を向けた。
その瞬間、街で出会ったあの女の子の姿が脳裏に浮かび、思わず胸がきゅっと締めつけられた。
(そういえばあの子、無事なのかな......うぅん、まずは、どうして自分が助けられたのかを確かめないと!)
扉の向こうには、今の自分の状況を教えてくれる人がいるかもしれない。あるいは、自分をここへ運んでくれた人物が、まだ近くにいる可能性だってある。
そんな微かな希望に導かれるように、セシルは慎重に、扉に近づくと、僅かに力を込めながら、一歩を踏み出す為に、扉を開けた。
◇◇◇
キィ――と静かに扉を押し開けると、そこには両側に広がる荘厳な長い廊下が広がっていた。
足元には滑らかな質感の絨毯が敷かれ、天井には豪奢な装飾が惜しげもなく施されており、その一つ一つが手間暇を惜しまない職人の技を感じさせた。
廊下の壁に面した大きな窓にはステンドグラスが嵌め込まれており、夕焼けの柔らかな光が色とりどりの光となって絨毯に降り注ぎ、廊下全体を神秘的な雰囲気で包み込んでいた。
(うひゃぁ......想像以上の豪華と広さ。もしかして、ここってかなり大きなお屋敷なのかも......)
思わず感嘆の声が漏れそうになるのを飲み込み、セシルは自分の頬を両手でぺしぺしと叩いて気を引き締めた。
「いやいや!呑気に感心してる場合じゃないよ!今は、誰かを探すのが先でしょ、わたし!」
小さく自分を叱咤すると、「こっちかな...?」と彼女は迷うようにして左右に分かれた廊下のうちの一方を選び、ゆっくりと歩き出した。
そして、その歩みの中で、彼女は心の中で自分を助けてくれたであろう人物への言葉を考えていた。
(会えたら、まずはお礼だね。それから、どうして助けてくれたのか聞かなくちゃ。それに、一緒にいたあの子のことも――)
顎にそっと手を添え、物思いに沈んでいたその瞬間、彼女の視界を突如として貫く異変が起こった。
眼前の絨毯の上――そこから突如として、まるで地面そのものが怒りを込めて噴き上がったかのように、鋭く冷たい水の壁が出現した。
「危なっ......!!っ、水?!」
まるで一瞬にして天井に向かって凍てついた水柱が形成されたかのように、その障壁は無機質でありながらも、見る者に圧倒的な威圧感を与える、異質な存在感を放っていた。
壁面は、差し込む淡い夕焼けの光を屈折させ、空間全体にぼんやりとした蒼白い輝きを撒き散らすと同時に、周囲の空気の質すら変えてしまったかのような、非現実的な静寂が満ちていった。
まるで音そのものが封じられたかのように、周囲の気配は張りつめ、セシルの肺を満たしていた息ですら、凍りついたように動きを止めた。
「な、なんで、こんな場所に突然......?!」
口をついて出た困惑混じりの言葉は、あまりに異様な光景に追いつかない思考の断片であり、空虚に宙へと消えていった。
だが、反射神経が先に動くと、セシルは直感に突き動かされるままに一歩後退し、次の瞬間にはその場でぴたりと立ち止まっていた。
「これ......ただの水じゃない。刃みたいに鋭い感じ。もしかしたら、触れていたら怪我してたかも」
その判断が、まさしく生死を分け、水柱の形成は一瞬の出来事であり、その圧力と冷気が肉体を裂く前に距離を取ったことで、セシルは巻き込まれることを間一髪で免れたのだった。
(一体、何が起こ――ッ?!違う、何かこっちに......来る!!)
命拾いに安堵する間すら与えられないまま、次の瞬間、背後から突き上げるような異様な気配が、彼女の背骨を通じて全神経を逆撫でした。
身体の内側から浮き上がるような、得体の知れない重圧感は、まるで大地を這う雷鳴のように不穏で、鋭く、しかも抗いがたい――殺気に近い「意思ある脅威」として、確実にセシルに向けられていた。
(っ、一か八か......よ!!)
姿も、気配の正体も未だ掴めていない。しかし、そうであるがゆえに、より一層明確に感じ取れてしまう「敵」の気配が直感が理性を追い越し、セシルは迷いなく腰の剣に手をかけた。
そして、滑らかな動きで一気に抜き放つと、そのまま振り向きざま、風を裂く鋭音とともに刃を構え、襲い来る気配の中心へと身を向けた。
――ガキンッ!
次の瞬間、鋼鉄が鋼鉄を打つ甲高い衝突音とともに、火花が迸った。セシルの足元へと飛び散る火花の中、剣を通じて伝わってきたのは、骨の芯まで響くような衝撃と、痺れるほどの手応えだった。
「ぐっ......!」
思わず低く呻きながらも、彼女は両腕に力を込め、体勢を崩さぬよう必死に踏みとどまった。
(強い......!こんな重い一撃、まともに受けたら――)
剣越しに伝わる力は、躊躇いも容赦もなく、殺意を孕んだ一閃そのものであり、相手はただ斬りかかってきたのではなく、初手から不意打ちで殺しにきているような威圧に震える足で踏ん張りながら、彼女の背筋を冷やした。
「受け止めるか......やるな。だが、あんたのような小柄な体では、体力勝負で俺には勝てない」
「っ......!」
耳を打ったその低い声は、抑えられた冷静さの奥に、一切の油断を許さない鋭さを宿していた。
セシルは思考が巡る中、セシルは剣越しに相手の姿を確認すべく目を凝らすと、そこにいたのは――レイピアのような細身の剣を片手で軽やかに構えた、長い髪をポニーテールに結った青年だった。
彼の纏う服はどこか軍服を思わせる洗練されたワイシャツと身体に沿うベスト、そして片方の肩にだけ無造作に羽織られたコートが彼の動きに合わせて静かに揺れていた。
そして、剣を持つ手にはレザーグローブの様な手袋がされており、その隙のない立ち姿と、油断なく研ぎ澄まされた瞳とその動きの一つ一つが洗練された戦闘者のものであることを雄弁に語っていた。
セシルはそんな彼の剣を受け止めていると、青年は剣にさらに力を込め、セシルの抵抗を測るようにじわりと押し込みながら、そのまま静かに口を開いた。
「......ノエル様に害を成す刺客か。どうやってここに入り込んだ?」
(ノエル、様......?)
突如として告げられたその名に、セシルは反応せざるを得なかった。記憶にあるような、ないような感覚に、頭の奥底に鈍い痛みが走り、何かが引きずり出されそうな感覚とともに、違和感がじわじわと心を満たしていった。
(っ、声が......上手くっ、でない......)
それでも、今は目の前の剣に応じるだけで精一杯であり、意味を問う暇などなく、青年の剣の重みが現実として彼女の手を震わせていた。
すると、青年はセシルの沈黙を見て、僅かに表情を強張らせ、静かに息を吸った。
「......答える気はないか。あるいは、口を利けぬように訓練されたか。ならば、仕方がない」
その静かな一言が発せられた瞬間、まるで世界そのものが一瞬にして深く沈み込んだかのように、まるで大地そのものがひそやかにうねりながら、何か異質な重力の中心へと引きずり込まれていくような、得体の知れない圧力が空間全体を覆い尽くして行き、周囲の空気が重く揺れた。
それは単なる緊張感とは異質なもので、まるで空気そのものが凝縮され、時間までもが凍結したかのような、静謐にして異様な圧だった。
(なっ!歪みの力じゃない......でも、知っている。この力......この既視感——)
やがて青年が、ゆるやかさで片手を横へと広げると、その仕草とほぼ同時に、空間の一点が目に見えぬ力に軋み始め、音もなく虚空に細かな亀裂が走っていった。
そして、亀裂の奥から閃いたのは、赤い稲妻のような、視界を裂く一筋の光。その一閃ののち、まるで異界の淵から引きずり出されるようにして、セシルの身長にも匹敵するほどの、異様に巨大な大剣がその姿を現した。
青年は、そんな禍々しいまでの威容を誇る剣を、まるで何の負担も感じさせることなく片手で受け止め、肩の力をわずかに抜くような動作で構えを取った。
(やっぱり。この色、この圧力......!クロノスさんの鎖と――そっくりじゃない......!)
血のように深く、紅蓮のように燃え上がるその剣の色彩は、セシルの記憶の最奥に沈んでいた感覚を呼び覚ますには十分だった。
目の前に突如現れたその大剣の色、質感、そして放たれる圧力は、かつて彼女の傍らにあったクロノスの鎖が纏っていた、あの重苦しいまでの輝きと——すべてが酷似していた。
だが、その思考が完全にまとまるよりも早く、青年は何の躊躇も見せることなく、その重厚な大剣を軽やかに構え直すと、次の瞬間には容赦のない斬撃をセシルに向けて解き放っていた。
(避けなきゃ――!、でも......!)
本能が逃走を叫ぶ中、セシルは即座に、自分がいま巧妙に仕組まれた“罠”の中に閉じ込められているという事実に気づいた。
背後には、先程自らを飲み込むように突き上がった硬質の水の壁がそびえ立ち、その冷たい障壁が、まるで逃げ場を塞ぐためだけに設置された檻のように立ちはだかっており、左右の空間にも身を捩じる余地すらなく、回避という選択肢が残されていない。
(もう、ダメ......!)
焦燥と、抗えぬ運命に対する一瞬の諦念が胸の奥に膨らみ、セシルは剣をかろうじて支えながらも、ついに逃げ場のない状況の中で目を閉じてしまった。そして真紅の刃が自分の身体を両断する未来が、頭の中に鮮明に浮かんだその時だった。
シュンッ――カキィィン!
空気を切り裂く鋭い音が鳴り響き、次の瞬間、水の壁の背後から一本の矢が疾風のように飛来した。
その矢は、薄く輝く光の膜を纏い、どこか神聖な気配すら感じさせる佇まいで、まっすぐに水壁を貫通し、まるでその一撃を狙い澄ましていたかのように、青年の振りかざした大剣の側面に正確に命中した。
「......!」
重々しい鈍音が響き、剣の軌道が僅かに逸れながらも紅の一閃は、セシルへと届く寸前で止まり、空中で静止したまま、空間に緊迫した静寂が走った。
「ッ、ノエル様......!」
振りかぶった大剣の動きを止められた事で、青年の顔には一瞬だけ驚愕の影が走ったが、次の瞬間にはその動揺を押し隠すように表情を平静に戻した。
そして、次の瞬間、手にした大剣をまるで最初から幻だったかのように、静かに一瞬で粒子のように霧散させた。
(力が緩んだ......! 今......!)
セシルは、圧倒的な力に押し込まれながらも辛うじて耐えていたその剣の重みが急に軽くなるのを感じ取ると、即座にその隙に反応し、背後の水の壁にぶつからぬように体勢を踏ん張りながら、相手の剣を押し返す力を発揮した。
ガキンッ
「っ!」
金属が触れ合う乾いた音が空間を裂き、青年の視線がわずかに揺らいでいた。その瞳の奥に浮かんだのは、焦りにも似た一瞬の動揺――まさか自分がか弱そうな少女に押し返されるとは思っていなかったのだろう。
だが、彼はすぐに冷たい硝子のような沈静を取り戻し、視線を逸らし、どこか気まずげな雰囲気を纏いながら、静かにその手元のレイピアを腰の鞘へと収めていった。
(はぁ、はぁ......た、助かったーー)
セシルは肩で大きく息をしながら、ほんの少し前まで、自分の命を断ち切ろうとしていた死の刃が今は存在しないという事実にようやく実感が追いついて来ていた。
激しく脈打つ心臓の音が、胸を内側から叩きつけられ、冷や汗が額から頬へと伝い、手足にはもはや力が入らず、今にも足元のふかふかそうな絨毯に全体重を預けてしまいそうだった。
(......ノエル様って、もしかして、わたしを助けて、手当してくれた人なの?)
セシルは剣を構えたまま、警戒の視線を青年に向け続けていたが同時に、自らを救ったあの矢の主——「ノエル様」という存在に対して、これまで以上の警戒と興味を抱き始めていた。




