第60話. 見透かす視線
セシルの目の前に佇むその女性は、まるで一枚の絵画から抜け出してきたかのような、非現実的なまでに整った美しさを湛えていた。
透き通るような淡い紅茶を、滑らかで丁寧な手つきでティーカップに注ぐその所作には、一点の乱れもなく、どこか神秘的な静けささえ漂わせており、その姿はあまりに洗練されていて、まるでこの空間そのものが、時間の流れを忘れさせるほど完璧に整えられた一枚の静物画のようだった。
そんな女性の所作から目を逸らすことができず、「こんなにも美しい人が、本当にこの世界に存在していいのだろうか」と、心の奥底で真剣に考えてしまうほどだった。
やがて、張り詰めた空気に耐えきれなくなったのか、セシルは小さく息を吐くと、緊張を少しでも和らげようと、ポニーテールの毛先を指でそっと弄びながら、思い切って口を開いた。
「......あの、そういえば。歌声が聞こえて......とても、心地よかったです」
その言葉に、女性は紅茶を注ぐ手を止めることなく、僅かにセシルの方へ視線を向けたがその瞳はすぐに紅茶へと戻り、変わらぬ優雅さを保ったまま、やや自嘲気味な声で応じた。
「あら......聞かれてしまっていたのですね。お粗末な歌声で、お恥ずかしい限りですわ」
どこか遠くを見つめるような声音には、本当に恥じているというよりも、むしろ自身の過去に対する照れや複雑な想いが滲ませており、ティーポットをテーブルに戻すと、女性はかすかな苦笑を浮かべた。
だが、その謙遜の仕方に思わず我慢できなくなったセシルは、勢いよく椅子から立ち上がり、両手をテーブルについた。
「全然、お粗末じゃないですよ!! とても素敵な歌声でしたよ!!」
反射的に椅子から立ち上がり、テーブルに両手をついたセシルの言葉は、抑えきれない熱を帯びており、その瞬間、ティーカップとソーサーがカチャンと小さく触れ合い、空間にわずかな揺らぎが走った。
そんな熱を帯びたセシルの言葉に、苦笑いを浮かべていた女性は勿論、その背後で羽を休めていた大きな鳥までもが、まん丸な目を瞬かせながらセシルを見つめていた。
「ぁ......その、とても綺麗......でし......た、よ......?」
一瞬の高揚が過ぎ去ると同時に、自分があまりに場の空気にそぐわない行動を取ってしまったことに気づいたセシルは、気まずさと羞恥が押し寄せてきた事で、みるみるうちに顔を赤らめて、そそくさと椅子に腰を下ろした。
女性はというと、しばらくの間、指先を唇に添えたまま目を伏せ、何かを思案しているようだったが、やがてふっと肩の力を抜き、柔らかな微笑を浮かべながらセシルの目をまっすぐに見つめた。
「......そう。ありがとうね」
「クルル~♪」
大きな鳥は、まるで自分が褒められたのだとでも思っているかのように、誇らしげに胸を張り、小さく羽をぱたぱたと揺らしていた。
その愛らしい仕草に、場の緊張がわずかに緩むのが感じられ、セシルもまた、その様子につられるように肩の力を僅かに抜いた。
だが、それでも頬に残る熱は容易には引いてくれず、顔を逸らすこともできないまま、指先だけが所在なさげに髪を弄び続けていた。
(うぅ、大声出しちゃった。......恥ずかしい)
そんな彼女に、女性は何一つ咎めることなく、むしろ優しい手つきでミルクを数滴ティーカップに垂らし、それを器用にかき混ぜると、ゆったりとした動作でセシルの前に紅茶を差し出した。
「どうぞ。久しぶりに誰かに紅茶をお出ししたものだから、味が落ちていないといいのだけれど」
その声は控えめながらも、どこか誇りや自信を感じさせる響きを秘めていた。セシルはその言葉に促されるようにティーカップに手を伸ばしかけたが、ふと自分の手元に目を落とした。
(......どうしよう。これ、外さないと失礼、だよね)
セシルの視線の先に会ったのはあのレースの手袋だった。食事のときは外すべきなのか、礼儀を欠いていないだろうか――そんな迷いが、一瞬セシルの動きを止めた。
すると、その微細な戸惑いを感じ取ったかのように、女性は背後の鳥を撫でながら、ふわりと囁くように言葉を続けた。
「もし作法のことを気にしているのなら、そこまで厳密にする必要はありませんわ。わたくしも立ち上がらずにご挨拶をしたでしょう? それに、あなたが席に着いたときの所作を拝見して、きちんとした方なのだとすぐにわかりましたもの」
「クルクル」
鳥のくぐもった優しい鳴き声がまるで、女性の穏やかな言葉を後押しするようなその音色に導かれたのか、セシルの表情にもわずかな緩みが生まれ、ようやく強張っていた唇がほどける。
そして、セシルはそっとティーカップに指を添え、その温もりを掌で確かめるように静かに持ち上げると、立ち上る湯気と共に広がる芳醇な香りを鼻先で受け止めながら、慎重にその液体を唇に含んだ。
「ッ......美味しい」
「お口にあったようで良かったわ」
セシルの小さな呟きが零れたとき、女性は穏やかな笑みを深め、アフターヌーンティーセットからスコーンを取り上げようとしていた。
だがその一方で、セシルはゆっくりとティーカップを置くと、まるで記憶の奥を辿るかのようにそこに映る紅茶の表面の揺らぎをじっと見つめていた。
(......ブリギッタちゃんが作ってくれる紅茶とは、何かが違うような)
そして唐突に、口にした紅茶の中にある微かな違和感――いや、それは味の美しさの裏に潜む、「異質さや違い」とでも言うべき感覚に気づいたセシルは、ゆっくりと息を吸い込み、確信に満ちた声で言葉を続け始めた。
「この紅茶に使われているお水、こちらの大陸のものではないですよね?」
静かに、それでいて確信を帯びた声で問いかけながら、セシルは再びティーカップを持ち上げ、その味を確かめるように、もう一口、慎重に口に含んだ。
「渋みがほとんどなくて、舌の奥に残るような雑味も感じない。それに、表面に浮かぶ膜も見当たらない。あまりに澄みきっていて、まるで......」
その繊細な観察に、女性はスコーンを皿に盛ろうとしていた手をそっと止め、思わずセシルを見つめた。やがて目を細め、興味深そうに微笑むと、ゆっくりと頷いた。
「あら、お見事ね。おっしゃる通りよ。それは、東の大陸から取り寄せた特別なお水なんですの。以前、あちらにお住まいの方から薦めら――」
そう、穏やかな笑みと共に語られていた言葉は、そこまで口にされたところで、ふと切れた。
まるで、何かを言いかけた瞬間に、それが“言ってはならないこと”だったと気づいたかのように、女性の声は唐突に途切れ、空白が落ちたような静寂が訪れる。
女性の唇は、言葉の続きが自然と出てくるのを拒むかのように、ぴたりと閉じられ、僅かに肩がすくめられた。
その仕草は、まるで先程の一言をなかったことにしようとする無意識の演技であり、それを隠すかのように、彼女は何でもない風を装いながらスコーンの皿をセシルの前にそっと差し出してきた。
(......今、途中で言葉を止めた。つまり――わたしへの警戒が、ちょっとだけ緩んで余計なことを言っちゃったってことだね。だったら、今のうちに色々と聞き出さなきゃ)
セシルは、彼女の仕草に滲んだ小さな動揺を見逃さず、ほんの一瞬だけ、じっと探るような視線を向けた。
そして、その場に張り詰めていた緊張の空気が、針の先で突けば壊れてしまいそうなほど微細に緩んだ気配を感じ取った瞬間、セシルは心の内で静かに深く息を吸い込んだ。
そのまま、目の奥に宿る迷いを押し隠しながらも、慎重に言葉をかける準備を整え、真っ直ぐに女性の瞳を見据えたまま、つとめて丁寧な声音で問いかけた。
「あの......もし差し支えなければ、まず、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
その問いかけに対し、女性はほんの一瞬だけ、その艶やかな眼差しに鋭い光を走らせたがすぐに目線を伏せると、まるで何かを懐かしむような、あるいは遠い記憶をたどるような沈思を纏って、しばし沈黙の間を置いた。
そして数秒後、静かに顔を上げたその表情には、先ほどの鋭さとは異なる、どこか柔らかく、品のある落ち着きが宿しながら、彼女はゆっくりと、けれど迷いのない口調で名乗りを上げた。
「そうね。名乗るのが遅くなりましたわね。わたくし――エリス・ラミードと申します。どうぞ、エリスとだけお呼びください」
その名乗りは、どこか古典的な貴族的洗練を帯びており、セシルは無意識のうちにその柔和な声音に心の緊張を少しだけ解かれた。
とはいえ油断するには早すぎる場面であり、セシルは依然として警戒を保ちつつ、しかし今度は一歩踏み込んだ問いを口にし始めた。
「ありがとうございます、エリスさん。では、早速、単刀直入にお聞きします。ここはいったい――どこなんですか?」
その質問に、エリスはふと視線を泳がせ、何かを誤魔化すでも誇張するでもない、けれど確かにその奥で揺れ動く感情を覆い隠すかのように、自然な動作で紅茶の準備へと移った。
彼女が棚に整然と並べられた幾つもの茶葉の瓶の中から一本を選び出し、優雅な指先で蓋を外し、香りを確かめる様子には、無駄のない優美さと、どこか現実離れした静けさがあった。
その仕草の一つひとつが繊細でいて流麗、けれどその合間に、何度か遠くを見つめるような虚ろな視線が垣間見えた。
「どこと言われましても......少し難しい質問ですわ。むしろ、わたくしとしては、なぜあなたがここに現れ、こうしてわたくしとお話しているのかを、お聞きしたいぐらいですのよ」
その返答には、皮肉も怒りもない。むしろそこには、一種の好奇心と、観察者としての余裕が漂っていた。
まるで、セシルという存在を一人の人間ではなく、物語の登場人物のように捉え、冷静に観察しているような、そんな静かな眼差しにセシルは瞬間的に返答の言葉を喉元で飲み込んだ。
――なぜここに現れたのか。
その問いは、セシル自身にとっても答えようのないものだった。彼女は何かの意志でここに足を踏み入れたわけではなく、気づいた時にはこの場所にいたのだ。
もしここが誰かの記憶の残滓であるならば、あるいは異なる次元の投影であるならば、彼女が語る言葉など、どこまで真実として意味を成すのだろうか。そもそも彼女自身、この場所に至る過程も目的も記憶にないのだから。
結果、言葉は浮かびながらも音にはならず、ただその場に沈黙が生まれた。
だが、エリスはその沈黙を責めることはせず、静かに紅茶の蒸らしを待ちながら、ふと口元にわずかな笑みを浮かべると、こんどは軽やかに問いかけた。
「そうね、ではわたくしからも一つだけ、よろしいかしら......セシルさん?」
その呼びかけはあくまで柔和であったが、同時に、空気が一変したような感覚をセシルは覚えた。エリスの背後に控えていた大きな鳥が、いつの間にか真っすぐにセシルを見据えており、その双眸には獣のような洞察の光が宿っていた。
静寂の中、まるで心の奥まで見透かされるような視線に晒されながら、セシルは無意識に背筋を伸ばし、かすかに緊張を強めながらも、平静を装った声で応じた。
「......何でしょうか?」
彼女の声は落ち着いていたが、内面では張り詰めた神経が些細な揺らぎにも反応しようと構えていたが、エリスはそんなセシルの様子をじっと見つめたのち、ふっと言葉を滑らせた。
「わたくしも、単刀直入に尋ねますわ。あなた、オルフィエラ王国には......どういった目的で足を運ばれたのかしら?」
その問いは、柔らかく響く声色とは裏腹に、言葉そのものがまるで刃のように鋭く、相手の心の奥底にまで踏み込もうとする探意に満ちていた。
「......今、なんて......?」
その言葉は、ごく当たり前の世間話の一環にも思える内容だった。だが、それはまさにセシルにとっては驚愕の一言であり、彼女は固まったように目を見開いた。
まるで、彼女の現在の立場や行動のすべてを把握しているかのような口ぶり――それは単なる偶然では片付けられない、意図的な認識に基づいたものに思えた。
「......エリスさん。なぜ、あなたはわたしの“今の状況”をご存じなんですか?」
その問いに込められた感情は、疑念でも怒りでもなく、ただただ真摯な戸惑いと、理解したいという切実な願いだけだった。
「......」
だが、エリスは再び紅い唇を閉ざしたまま、ふと、名状しがたい、まるで何かを悟ったような笑みを浮かべるだけだった。
セシルは、その沈黙と微笑の奥に隠された真意を読み取ろうとするが、それが果たして真実なのか、それとも幻影なのかすら分からなかった。
(ここは、本当に誰かの記憶の残滓なんかじゃない。これは――まるで、天の高みから全てを見下ろされているような......)
思考の渦が加速度的に回転を始め、セシルの中に一つの直感が芽生えかけた、その瞬間――突如として、激しい衝撃が後頭部を襲った。
「っ......!」
まるで鋭利な何かで殴られたかのような痛みと共に、全身の力が急速に奪われ、足元から這い上がってくるような強烈な重力に身体が引きずり込まれるような錯覚が彼女を襲った。
まるで鋭い杭で脳髄を打ち抜かれたかのような痛みと共に、全身から力が抜け、重力に引きずられるような感覚が足元から這い上がってくると、直後、視界が乱れ、景色が歪み、すべてが崩壊していった。
(......な、に......?身体......が......)
世界が壊れ、意識が朦朧として行く中、耳に届いたのは、あのエリスの声――どこか名残を惜しみながらも、どこか運命の輪を受け入れるような、静かな響きだった。
「まぁ、どうやらお帰りの時間が来てしまったようですわね。できることなら、このお話の続きを次のティータイムで......と申し上げたいところだけれど。再びお会いできるかどうかなんて、お気まぐれ――あるいは、最後の一杯の紅茶の運命次第でしょうか?」
その声には、淡々としながらもどこか愉しげで、しかし一抹の哀しみのようなものも含まれているようにも聞こえた。
そしてその言葉が余韻として空気に残るよりも早く、セシルの視界が完全に崩れ、光も影も感じ取れなくなったその時。
「そうだわ。ねぇ、あなた。もし可能でしたら、わたくしの代わりに――」
「......クルルゥ」
最後に響いたのは、エリスの柔らかな囁きと、それに応えるように鳴いた、あの大きな鳥の静かで、どこか切ない鳴き声だった。
その音が、セシルの沈みゆく意識の縁にそっと触れながら、やがて完全なる闇へと溶けていった――。




