第59話. 未知なる案内人
「♪〜〜♪〜〜」
深い闇の中、まるで温かな絹に包まれているかのような感覚の中で、セシルの耳に微かに届いたのは、風に運ばれるように揺れる心地よいメロディだった。
どこか懐かいような、それでいて確かに知らない――そんな不思議な旋律に誘われるように、彼女の意識はゆっくりと、しかし確かに、現実へでありながら、まるで夢と夢の狭間に沈んでいた感覚に引きずり戻された。
(......あれ、わたし......どうしたんだっけ? あの子を助けようとして......)
朧げな記憶を辿る中で、最後に刻まれていたのは耳をつんざくような爆発音と、熱と痛みに包まれながら崩れるように意識を手放した自身の姿だった。それは夢などではなく、間違いなく自分はあの瞬間――死んでもおかしくなかった。
だが、今この場所に存在する体には、かつて味わったような焦げつくような痛みも、体を焼くような熱も、微塵も存在していなかった。それどころか、肌を撫でる風は優しく、心地よさすら覚えるほどに穏やかであった。
そんな違和感に眉を顰めながら、セシルはゆっくりと瞼を持ち上げた。
「......ん」
視界いっぱいに広がったのは、どこまでも澄み切った、まるで空に吸い込まれてしまいそうなほど鮮やかな青空だった。
だが、その一角に、何かがふと影を落ち、視界の端を横切ったのは、まるで漆黒の染料を落としたかのような、大きな黒い影だった。
「へっ、何......?!」
「クルル?」
反射的に身を起こしながら、混乱したまま目線を上げると――そこには、まるで巨大なカラスのような姿をした不思議な鳥がいた。
翼はどこか艶やかで、深い闇を閉じ込めたような漆黒で、身体は信じられないほど大きく、大の大人が二人は乗れそうなほど堂々としたサイズ。
だがその見た目に反して、セシルを見下ろす表情にはどこか凛々しさも備えながら、それ以上に愛嬌があり、何より、その全身を覆うふわふわとした羽毛が不思議な安心感を与えてくる。
「カッコいい......カラス?って......どこ、ここ......?」
自分の置かれた状況が飲み込めず、セシルは目の前の不思議な存在にそっと手を伸ばしかけたが、ふと周囲の景色が視界に入ると、その動きは自然と止まった。
彼女が今いるのは、まるで秘密の花園のような場所だった。下にはやわらかな芝生が広がり、ところどころには色とりどりの小さな花が咲き誇っており、そして周囲は、自然に生えた木々や茂みがまるで囲いのように空間を守っており、まるでどこかの秘密基地のような、閉ざされた安らぎの空間だった。
「まさか......あの、爆風で......吹き飛ばされた、とか?」
自分の記憶の中で最後にあったのは、あの街の喧騒、民衆の怒号、少女を庇った自分の姿――そして、巨大な爆発。
今ここには、腕の中にいたあの女の子の姿も、怒り狂っていた人々の影もない。あるのは、ただ静かで優しい風と、目の前に佇む黒くて大きな鳥だけだった。
意識が途切れる直前に感じた爆発を思い出し、その衝撃に巻き込まれた末、自分は見知らぬ場所へ吹き飛ばされたのかもしれない――そう考えながら、セシルは真剣な表情で小さく呟いた。
「クッククッ」
その時、目の前からくぐもったような、喉を震わせるような声が響いた。鳥のものとは思えないような含み笑いのような鳴き声に、セシルはぱちくりと目を瞬かせながら顔を上げた。
「なっ、もぅ......もしかして、笑ってるの?」
目の前の大きな鳥は明らかに自分の言葉を理解しているように、目を細め、どこか得意げな、あるいは茶化すような仕草で声を上げていた。
その様子は、まるで「やれやれ」とでも言いたげで、セシルは思わず頬を膨らませ、口を尖らせながら、ジト目でその大きな鳥を不満げに視線を向けていた。
だが、当の鳥はまったく悪びれる様子もなく、片方の翼をゆるりと広げて空気を掬うように羽ばたくと、そのままくるりと背を向けて、のしりのしりと優雅な足取りで歩き出してしまった。
「ちょっ、ちょっと!どこ行くの!待ってってば!」
突然の行動に驚きつつ、セシルは思わず手を伸ばし、その背中を追いかけようと慌てて立ち上がった。しかし、その瞬間、彼女の中に小さな違和感が芽生えた。
「......痛く、無い......?」
ほんの僅か前には、自分の頭に鋭い痛みを感じ、血が流れている感触もあったはずだ。それなのに今は、立ち上がっても、どこにも痛みはなく、頭に重さもなければ、熱も感じない。
「そんな事......?」
半信半疑のまま、セシルは後頭部へと手をやり、そっと指先で触れてみると、微かな痛みすらなく、ただ肌の感触だけがそこにあり、驚きと共にその指をゆっくりと目の前に持ち上げて凝視した。
だが、いくら目を凝らして見ても、そこに血の跡も、乾きかけた痕跡すらも存在しておらず、まるで最初から傷など存在していなかったかのように、すべてが綺麗に、完璧に消え去っていた。
「おかしいな......たしか、相当酷い怪我だったはずなのに......」
思わず口をついて出た呟きに、自分の声すら少し震えていたことに気づかないほど、セシルは混乱していた。
更に何か違和感があるような気がして、彼女は次に、自分の身にまとっていたマントの感触を確かめるように、ゆっくりと肩から脱ぎ、それを丁寧に両手で広げて見下ろした。
そこには、刺さったガラス片の痕——それすら、見事なまでに跡形もなく消えており、まるで、傷そのものが最初から存在していなかったかのようだった。
「......やっぱり。破片もどこにも残ってない」
胸の奥で高鳴る鼓動と共に、不安と困惑が次第に強まり始めたその瞬間、ふと別の違和感がセシルを襲った。
それは物理的な違和感というより、感覚の中にぽっかりと開いた“喪失”のようなものであり、彼女ははっとしたように腰へと手を伸ばした。
「ッ、......剣も消えてる」
思わず声を上げながら、今度はその場でくるりと体を回転させて、自分の装備や持ち物を確認するが、どこをどう探しても、腰に掛けていたはずの剣の鞘も、短剣も、さらには常に持ち歩いていた小さな鞄の姿すら見当たらない。
どれもこれも、まるで最初から身に着けていなかったかのように、完全に消えていた。
傷の痕もなければ、暴動の中で受けたはずの外傷も見られず、加えて、自分の持ち物さえもすべてが消失しているという奇妙な現状に、セシルは怪訝な表情を浮かべながら、その手に抱えていたマントへと再び視線を落とすと、ほんの一瞬、何かが胸の奥をかすめるような感覚が走った。
(......そういえば。この感じ、覚えがある。たしか以前にも――)
そう、まるで既視感のように、過去のある一場面が思い起こされかけたその時だった。
「クルック!」
「ッ......!」
大気を震わせるような、しかしどこか親しみを感じさせる鳴き声が、突然頭上から響き渡り、思考が中断された。
セシルが慌てて視線を上げると、そこには、さきほど顔を覗き込んでいたあの大きな黒い羽の鳥が、立派な翼を広げながら、まるで「早くおいで!」とでも言いたげに、もこもことした体をふわふわ揺らしつつ、可愛らしい仕草で下の芝を舞い上げていた。
「ふふっ、もう......そんな風に誘われたら、行くしかないじゃない」
頬に自然と微笑みが浮かび、セシルは小さく呟いたあと、脱いだマントを抱きしめるようにして胸元に抱え、その鳥のあとを追うように歩き出した。
「今、行くよ~!」
「クルル♪」
彼女が歩き出すのを確認すると、大きな鳥は再び、くるりと背を向けて、のしりのしりと凛々しい面持ちながら、後ろからでもわかる程、ご機嫌よく前へ進み始めた。
羽ばたきに揺れる草花が、まるで道を示すかのように揺れ動き、その光景に心が少しずつ穏やかにほぐれていた。
そんな鳥の後ろ姿を見守るように追いながら、セシルは再び、自分の頭の中に浮かびかけていた記憶の断片に思考を巡らせていった。
(えっと、たしか......そう、あの時だよ。アキラさんと戦っていた途中で、突然、強い光に包まれたんだ)
――それは、ちょうど一か月と数週間前の出来事。
あの時、絶望と怒り、そして誰かを守りたいという願いが渦巻く中で、暴走したアキラに対して、身動きが取れなくなっていたクロノスを守るために、セシルは自ら立ちはだかった。
『......ックロノスさんから――離れろっ!!!』
それは、魂の叫びとも呼べるような、胸を打つ絶叫だった。瞬間、セシルの中で眠っていた何かが弾けたように、体の内から湧き出す力が解放され、全身が青白い光に包まれたかと思うと——
(......そう。あの時、わたしは、まるでアキラさんの記憶の中に入り込んだみたいだった)
あの光の中で彼女が見たのは、自分がまったく知らないはずの風景。そして、アキラの中に秘められていた、かつての想い、過去の記憶、そして彼がなぜ精霊の力を欲し、なぜ歪んでしまったのか——その一端だった。
それが夢だったのか、それとも、何かの力によって実際に体験した記憶だったのか、今も定かではない。
だが、この奇妙な花と草の楽園のような場所に目覚めた今、あの出来事と何かが繋がっているのではないかという、漠然とした確信のようなものが、セシルの胸の奥に静かに灯り始めていた。
その時だった。目覚める寸前にぼんやりと耳に届いていた、誰かの歌声が、今度はより明瞭な音色として風に乗って流れてきた。
「♪〜〜♪〜〜」
「......綺麗な歌声」
囁くようにそう呟いたセシルの隣で、先程から前方で道案内するように先に歩いていた大きな鳥がぴたりと動きを止めた。
それから、まるで人のように首だけをこちらへ向け、意志をもって、まるで「ついておいで」と語りかけているかのように視線を送ってきていた。
「......もしかして、こっちに来てって言ってるの?」
不安と期待がないまぜになった声で小さく呟いたセシルは、鳥の横に歩を並べるようにして進み始めと、やがて、前方にふわりと浮かび上がるように、可愛らしいランプのような形をした建物が姿を現した。
その建物は、まるで夢の中の光景のように不思議な佇まいをしており、壁は白く濁ったガラスで覆われていて中の様子ははっきりとは見えない。
しかし、入口と思しき開かれた場所からは、僅かにくすんだ水泥色の葉が覗いており、植物が生い茂っているようにも思えた。
「......植物園、みたいだね」
「クックル~」
セシルの言葉に応えるように、大きな鳥が一声鳴いたかと思うと、再びゆっくりと足を踏み出し、その不思議な建物の方へ向かって歩き出すた。
その背を見送ったセシルは、その鳴き声をまるで肯定の意志と受け取り、僅かに緊張しているように息を大きく吐いた後、そっと足を前へと進めていった。
(......ここは誰かの記憶、あるいは想いの残滓?だとしたら、この鳥さんは、この世界の案内人?それとも、ただ、わたしをどこかに誘きよせている魔獣のような存在?)
思考が絡まりかけたその瞬間、セシルはふと眉を寄せたが、次の瞬間には、自ら首を小さく振り、心の中でその疑念を打ち消した。
(......うぅん、違う。この子からは、殺意や敵意のようなものは、少しも感じられない。それどころか、安心感にも似た、温かな気配すらあるような気がする)
そんな思案を巡らせながら、鳥の背を追うようにして歩を進めたセシルは、先に入っていった鳥の後を追い、ゆっくりとその中へと足を踏み入れた。
しかし、踏み込んだ瞬間、彼女の足は自然と止まり、その場で固まったように立ち尽くしてしまっていた。
(......すごい)
目の前に広がっていたのは、彼女が想像していたような、鬱蒼とした緑に包まれた幻想的な植物園ではなかった。
そこにあったのは、まるで時間の流れがどこかで切り取られたかのような、優雅で整然とした空間。
真ん中には丸いテーブルが一つだけ据えられ、その周囲には上質な白い木材で作られた数脚の椅子。そしてそのうちの一脚には、気品を纏った一人の女性が、まるで舞踏会の合間の午後を過ごすかのような穏やかさで腰掛けていたのだ。
まるで絵画の中の一場面に迷い込んでしまったかのような錯覚に囚われながら、セシルは無意識のうちに自らの腕に抱えていたマントを強く握りしめており、目の前の光景のあまりの非現実さに、言葉を失い、そのまま身じろぎもせず、ただその場に立ち尽くしていた。
先を歩いていた大きな鳥はというと、女性の傍らに静かに歩み寄ると、そのまま彼女の背後に落ち着くようにしてしゃがみ込み、まるで忠実な犬のように、静寂の中でその身を沈めていた。
「......」
空気がひときわ静まり返ったその時、不意にその沈黙を破るように、澄んでいながらもどこか乾いた響きを含んだ声が、柔らかく、しかし明瞭に空間を満たしていった。
「あら......そんなにじっと見つめられると、わたくし、ミルクのタイミングを外された紅茶みたいに落ち着かなくなってしまいそうだわ」
思いがけない軽口に、まるで見透かされていたかのような恥ずかしさが胸の奥に広がり、思わず顔を赤らめながら、慌てて首を大きく横に振った。
「そ、そういうつもりではなくて......っ!」
焦りに駆られたように言い訳を口にしながらも、すぐに我に返ったセシルは、自分の所作を思い出したようにマントをそっと片手に持ち替え、もう片方の手でスカートの裾をつまみ上げると、丁寧に優雅なお辞儀をして見せた。
「あの......こんな素敵な空間に突然お邪魔して、申し訳ありません。わたし、セシルと申します」
すると女性は、椅子から立ち上がることなく、ゆったりと脚をセシルの方へ体を向け、同じくスカートの裾を持ち上げて、胸元に手を添えながら、控えめに、しかし上品にお辞儀を返した。
「ご丁寧にありがとう、セシルさん。......本来なら、座ったままお迎えするなんて失礼なのだけれど、少し事情があってね。どうか許してちょうだい」
「クックル〜♪」
その女性の声に合わせるように、大きな鳥も控えめに頭を下げるような仕草を見せていた。
すると、そんな大きな鳥の様子に慎ましく、笑みを浮かべた女性は手を軽く広げて、セシルに向かいの椅子を勧めるような仕草を見せた。
「それに、お邪魔なんてとんでもない。この子があなたをここに連れてきたということは、あなたはこの場所にとって必要な“客人”に値する存在だわ。よろしければ――わたくしのお茶に付き合っていただけるかしら?」
「......は、はい。では......お言葉に甘えて、失礼いたします」
戸惑いながらもその場の雰囲気に心を委ねるように、セシルは一礼し、ゆっくりと椅子に近づいていき、そのままスカートの裾を整えながら丁寧に腰を下ろすと、緊張しながらも、しっかりとした姿勢を保ち、静かにその女性と向き合った。
その一連の動作を女性はじっと見つめ、ふっと目を細めると、テーブルに並べられた瓶から数種の茶葉を静かに取り出し始めると、それらを小さなポットにそれらを慎重にブレンドし始めながら、穏やかに、けれどどこか意味ありげな声音で呟いた。
「どこかの貴族のお嬢様かしら?......その所作、まるで一煎目の香り立つ茶葉のように繊細で、淹れ手の心までも映し出すわ。丁寧に淹れられた一杯のように、よく選び抜かれている動きね」
「......い、いえ、貴族というわけでは。でも、そう言っていただけるなんて、光栄です」
セシルがやや緊張気味にいつもと違う畏まった口調で答えると、女性は優雅な手つきで鉄瓶を持ち上げ、静かにお湯を注ぎながら、ふと寂しげな微笑を浮かべた。
「不思議な気分ね。また、誰かとこうして言葉を交わせるなんて――」
その呟きは、あまりにも自然で、けれど意味深長な重みを孕んでいた。その言葉の端々に潜む、かすかな翳りと何かを懐かしむような感情に、セシルはほんの一瞬、小さく眉を寄せた。
(......“また”?どういう意味なんだろう。それに、この空間って、てっきり誰かの過去の想いか記憶だと思ってたけど――彼女の言葉、まるで今も続いている現実のような)
心に浮かんだ疑問は、すぐには言葉にできなかった。ただその場では、湯が注がれる澄んだ音と、お茶の香りが空間を優しく満たし、セシルの中に芽生えた小さな違和感とともに、静かに揺れていた。




