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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第一部. 契約悪魔と精霊の交差点:忘却の契約と廻る歯車
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第6話. 束縛の昼餐会



セシルは、遠ざかっていくエルナの小さな背中を、声を上げることもできずにただじっと見送ることしかできなかった。


湧き上がる悔しさと無力感に胸を締めつけられ、気づけば無意識のうちに小さな拳をぎゅっと握りしめていると、不意に胸を圧迫していた苦しさが幾分か和らいだことで、彼女の意識も徐々に戻り始めたのを感じた。


そして、そのままぼんやりとした視界の中、セシルは自分の首や手足に絡みついたままの鎖に視線を落とし、再びその束縛から逃れようと必死にもがき始めた。


(......くっ、やっぱり、ダメ。いったい、これ......なんなの?)


鋭い疑念と焦燥が胸に渦巻くなか、その思考を断ち切るように、耳の奥を突くような男の声が静かに、しかし不気味に響いた。


「ふーん。あれだけ締め上げられておいて、怯えるどころか、まだ反抗するつもりとはね――その執念は評価するよ」


思わず顔を上げると、そこにはアキラの姿があった。彼はゆったりと腕を組み、片手を顎に添えながら、まるで愉快な劇でも観ているかのように口元を吊り上げていた。


「教えてやろうか。その鎖は“クロノスの力”によるものだよ。つまり、契約の拘束そのものさ。今のお前じゃ、何をどうしたところで解けはしない。......まぁ、無駄なあがきを見せてくれる分には、こっちとしても楽しませてもらえるけどね」


柔らかな口調に反して、その瞳の奥には確かな悪意と嘲りが宿っていた。だがセシルは、その視線を真正面から受け止めながらも、じわりと足元の鎖へ意識を集中させ、わずかな隙を探すように静かに身体を動かし続けていた。


(......ん?今、少し......)


ふとした瞬間、彼女の足に絡んでいた鎖の一部が微かに緩む感触があった。すぐに視線を落とすと、鎖そのものが外れたわけではないが、どうやら地面に固定されていた錠が引っ張りによってわずかに外れ、限定的ながらも足の可動域が確保されていることに気づいた。


(ッ、動ける......!この状態なら、もしかして......)


一筋の希望が胸の奥で灯ったその時、アキラが彼女の視線の異変に気づいたようで、やや首を傾げながら、不審そうに身を屈めた。


「おい、何をそんなに熱心に見ているんだ?」


その言葉を合図に、セシルは心の中で「今しかない!」と心の中で叫び、全身の力を込めて右足を大きく振り上げた。


ブンッ!


勢いよく半円を描いた足が、鋭い風切り音とともにたるんでいた鎖を宙へと舞い上がらせ、次の瞬間、その鎖は重みを伴ってアキラの首元を狙い、激しい音を立てながら降り注いだ。


「なっ...!」


一瞬、アキラの顔に驚愕の表情が走ったが、しかし彼はすぐに反応し、袖口から現れた鎖と同じ色の真紅の短剣を抜き放つと、刹那のうちに落下してきた鎖を受け止めた。


ガキィィンッ!


鋭い金属音が空間に響き渡り、火花が散っていたが、直後、セシルは間髪を入れずにもう片方の足に繋がった鎖を振るい上げ、目標をアキラの剣を握る手に定めた。


バシィィン!


鈍い衝撃音と共に、鎖が彼の手首を正確に打ち据えると、そのまま弾かれた短剣はくるくると回転しながら宙を舞い、やがて彼女の足元へと滑り込むように落ちていった。


(これなら、勝機はある......!)


すかさずセシルはその短剣を足で押さえつけ、アキラに奪い返されないように確保したが、アキラもただ黙ってやられる男ではなく、鎖の直撃を受けた手を軽く振りながら、鋭い視線を彼女へと向けた。


「......ふん、まさかここまでやるとはな。なかなか、根性あるじゃないか」


その言葉には、内に燃え上がる怒りを押し殺すような冷ややかさと、焦り混じりの苛立ちが滲んでおり、そんな彼の様子を見ながら、セシルは胸の内で短剣を使って鎖を断ち切れるかもしれないという微かな可能性に賭けようとしていた――その時だった。


「おい。忘れるなよ」


アキラの声音が、急激に冷たさを帯びて変わると、彼は、凍てつくような視線をセシルに投げかけながら、言葉を重ねた。


「それ以上、歯向かえば――エルナがどうなるか、知らないぞ?」


「......っ、それ、は......」


セシルの心臓が大きく跳ね上がらせると、そのまま怒りと恐怖、焦りと躊躇いが一気に胸を駆け巡り、口を開きかけた彼女の言葉は喉で凍りつかせた。


「お前が従えば、何も起こらない。だが逆らえば、その分だけ彼女の命が危うくなる。......その意味、わかるよな?」


まるで刃を喉元に突きつけるような言葉に、セシルは肩を震わせながら黙り込んだ。自分の行動がエルナの運命に直結しているという事実に、彼女はただ静かに俯き、言葉を失うしかなかった。


アキラは、そんな彼女の姿を嘲るように満足げに笑みを浮かべると、冷淡な口調で言い放った。


「よくできました。そうやって、おとなしくしていればいいんだよ」


「ッ......」


だが、セシルはその言葉に反応し、怒りを燃やすような鋭い光を瞳に宿すと、僅かに俯いたままの姿勢から、一気に膝を沈めて体重を乗せ、足元に転がっていた短剣を鋭く蹴り上げた。


その瞬間、短剣は甲高い音を響かせながら宙へと跳ね上がり、空気を切り裂くように高速で回転しつつ、美しい弧を描きながらアキラの胸元を目がけて飛翔した。


だが、アキラは、まるで最初からそうなることを知っていたかのように、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。


微動だにしないその姿勢は、もはや人間離れした威圧感さえ帯びており、次の瞬間、彼はわずかに片腕を持ち上げると、まるで空中の刃を呼び寄せるかのような滑らかさで、短剣を空中で正確に掴み取ってみせた。


その動作には一片の無駄もなく、力みも衒いもなかった。あまりに自然で、精密で、まるで刃が彼に触れられることを望んでいたかのようですらあった。


その光景に、セシルの胸に走ったのは驚愕でもなければ恐怖でもない。ただ一つ――この男はやはり、普通などではないという確固たる確信だった。


「ふん、悪くないな。反骨心のある眼は嫌いじゃないが――」


アキラは短剣をひねるように握り直し、冷笑を浮かべながら短剣を指でもてあそびながら、再び冷たい視線をセシルに向けていた。


「お前が従えば、エルナに害は及ばない。それだけは保証してやろう。だが、逆らうたびに彼女の命が危険に晒される――その意味を忘れるんじゃないぞ?」


アキラは、手中の短剣をひねるように持ち替えると、冷笑を浮かべながら刃の背を指でなぞり、無造作にそれを弄びながら、再び冷たい視線をセシルに向けた。その目には、一切の情がなかった。あるのはただ、支配者としての無慈悲な愉悦だけだ。


「いいか? お前が素直に従えば、エルナには一切の害を加えない。それは約束しよう。だが逆らうたびに、彼女の命が危険に晒されることになる――この意味を、よく理解しておくんだな?」


セシルは歯を食いしばり、全身を震わせながらも、尚アキラを睨みつけていたが、アキラはその反抗的な眼差しを嘲るように笑い、わざと顔を近づけて、彼女の視線を正面から受け止めるように覗き込みながら、さらに追い打ちをかけるように言葉を続けた。


「まずその反抗的な態度を根っこから叩き直さなければならん。......いいか? お前の態度次第ですべてが決まるんだ。お前の未来も、エルナの命運もな。さて――その鎖を外してやろうじゃないか」


(......ダメ、逆らっちゃ......お姉ちゃんが......)


脳裏に浮かんだ声は、自身のものでありながら、まるで遠い昔に失った誰かのように思え、セシルは唇を噛みしめ、肩を震わせながらも、何とか冷静さを保とうと必死に自分に言い聞かせた。


そんなセシルの沈黙を、アキラは都合の良い“服従の意思”と受け取ったのか、勝ち誇ったように口角を吊り上げ、満足げな様子で彼女の手足を拘束する鎖へと視線を落とすと、手にした短剣を当て、ひとつひとつの鎖をゆっくりと切り始めた。


真紅の鎖の繋がりが断たれるたび、微かに響く音が、妙に静かな甲板に不気味な余韻を残していった、その音を聞きながら、セシルは、怒りに燃えながらも押し殺していた。



◇◇◇



鎖をアキラが持っていた短剣で全て切ってもらい、ようやく自由になったはずのセシルだったが、その足取りは重く、反抗的な素振りを一切見せることなく、ただ静かにアキラの背後を歩いていた。


その様子は、まるで心の芯まで冷えきってしまったかのように無感情で、感情の温度を失った瞳が、どこにも焦点を合わせずに宙をさまよったまま彼女は、そのまま一軒の古びた小屋へと連れて行かれた。


「ほら、入れよ」


短く、冷たい声が背後から投げかけられ、セシルは、わずかに躊躇したものの、声を発することもなく、無言で小屋の中へと足を踏み入れた。


床はきしみ、空気はどこか乾いていた。そんな中、アキラの指示で、彼女はそのまま簡素な木製のテーブルの前に腰を下ろすことを命じられるが、命令というよりも、それは有無を言わせぬ圧のこもった「制圧」に近かった。


そして次の瞬間、アキラは小屋に入らずに扉を閉め、セシルを一人残してその場を去ってしまった。


(行った......?)


一瞬だけ、セシルの中で何かが揺れ動き、突き動かされるように心の奥から逃げ出したい衝動が浮かび上がったが、それと同時に、現実が彼女の足を鎖のように縛られていた。


(今なら逃げだ――でも、お姉ちゃんの居場所も分からないし、それに......クロノス様に会ったら......きっと、また連れ戻されるだけだよね......)


唇を強く噛み締めながら、セシルは悔しさを滲ませた瞳を閉じ、再び感情の波を押し殺していた。


彼女の中で抗う気持ちは確かに芽生えかけていたが、それ以上に、エルナを人質に取られているという事実が、何よりも重くのしかかっていた。自分一人の感情や衝動で動くことは、今は許されないとそう理解していた。


ふと視線を落とすと、テーブルの上には、整然と並べられた銀食器――フォーク、ナイフ、スプーンが幾何学的な整列を保っており、その中央には淡い花の形に折られたナプキンが、まるで客人を迎えるための演出のように置かれていた。


その配置は、どこか現実離れした洗練された異様さを伴い、まるで高級フランス料理店の食卓を模したかのような完璧さが逆に不安を煽っていた。


(まさか、これから食事......?で、でも、そんな気分じゃ......)


自然と首元に手が伸び、先程まで嵌められていた鎖の跡が、赤黒く皮膚にくっきりと残っており、指がその痕跡に触れた瞬間、冷たい感覚と共に、恐怖の記憶が鮮明に脳裏に蘇った。まるでその跡が、心の奥底に潜む罪悪感や無力感を具現化したようだった。


やがて、時間の感覚が曖昧になるほどの静寂が流れた後、ようやく扉が再び開き、アキラが台車に皿を乗せて現れた。その姿には軽やかな調子が戻っており、まるで先程までの威圧的な態度など無かったかのように、柔らかく口を開いた。


「ほら、さっさと食べろ」


セシルはその軽さの裏に潜む冷たいものに本能的な違和感を覚えながらも、皿が一つ、また一つと丁寧に並べられていく様子に、まるで狂気と優雅さが共存する違和感を感じながら彼の手元に視線を向けた。


そして、すべての料理を並べ終えると、アキラは彼女の向かいに座り、にこやかな笑みを浮かべていた。


その笑顔の不自然さに、セシルの手は自然と硬直し、料理に手を伸ばすことができなかった。すると、彼女の戸惑いに気づいたアキラの眼差しが、急激に冷たく鋭く変わった。


「なぁ、早く食べろ。精霊様の器になるには、いろいろと準備が必要なんだよ。あぁ、心配するな。毒なんて入っていないからさ――今はな」


穏やかに、まるで冗談のように言いながらも、その言葉の一つ一つが鋭く、セシルの心を刺していた。彼の声色は柔らかいのに、内に秘める威圧と支配の力が、彼女の息の根をじわじわと奪っていくようだった。


(反抗しちゃダメ......お姉ちゃんのために......)


セシルは自分の中に沸き立つ怒りと反発心を必死に押し殺し、震える手でフォークを取った。だが、一口目を取ろうとした――その瞬間。


「おい、その動きは何だ!!」


突然、アキラの怒声が炸裂し、空気が張りつめ、鋭い金属音と共にあの深紅色の短剣がテーブルに突き刺さり、セシルは驚愕のあまり反射的に体を強ばらせた。


「もっと丁寧に食べろ!精霊様を侮辱しているのか!」


彼女の思考は凍りつき、理解の及ばない言葉に呆然としていたがが、アキラは容赦なく椅子を蹴り倒し、怒りのままに彼女のもとへ歩み寄ってきた。


「見ていられない。こうだ!」


乱暴に手を掴まれ、無理やりフォークの持ち方を矯正され、さらには姿勢まで正され、背中を強く叩かれ、その衝撃に、一瞬呼吸が止まり、肺に溜まった空気が抜けていくのがわかった。


「お前の動きは粗野すぎる。精霊様の器と言えど、そんな野蛮な所作では隣に立つ資格などない。そこらの魔獣と同じだな」


(そんな......わたし、そんなに汚い......?)


屈辱、悲しみ、怒り、恐怖――すべての感情が渦巻く中で、セシルは唇を噛み、必死に涙を堪えていた。


「次はそのスープだ。一滴もこぼすな!」


震える手でスプーンに持ち替え、慎重にスープを運ぶが、その冷たさが胃に落ちるたび、心の奥の温もりが削がれ、空虚さだけが広がっていった。


「違う!! その角度では美しさが足りない。もっと優雅にしろ!」


繰り返される罵倒にセシルの中の何かが、じわりと壊れていくのを感じながらも、ただ黙って耐えるしかなかった。


(お姉ちゃんのために......我慢、しなきゃ......)


しかし、次の一言が、彼女の中の均衡を完全に崩した。


「その程度の覚悟なら、お前の姉にも同じ“躾”を与えることになるな」


「それだけはやめて!!」


鋭く声を張り上げ、セシルは抑えていた感情が溢れ出たその瞬間、彼女の中の理性と恐怖がせめぎ合い勢いよく立ち上がった。しかしそれもまた、アキラの怒りをさらに焚きつけただけだった。


「ちっ、その口の利き方は何だ!精霊様はそんな下賤な言葉を使わない!」


再び響く怒声にセシルはただ、再び席に座り直す事しかできず、そのまま恐怖の檻が、セシルの心を締め上げていた。


(お姉ちゃん......どうか......無事でいて......わたしが......)


かすかに震える唇、虚ろな瞳でセシルの心は、もはや深い霧の中に沈んでいた。ただ、姉を守るためという理由だけが、彼女の意識を繋ぎ止めていたが、その信念さえも今や、足元から崩れ始めていき、アキラの言葉は刃となり、視線は冷たく、彼女の意志という名の光を一つ一つ潰していった。


彼女は、ただ耐えるしかなかった。だが、その代償は、確かにセシルの心を静かに、しかし確実に、まるで、二度と戻れぬ場所へと、音もなく引きずられるかのように蝕んでいった。

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