第58話. 無慈悲な暴力
目の前には、セシルが振るった一閃によって粉砕された石片が、まるで風に乗って舞い上がる砂のように空中を舞い、やがて静かに地面へと降り積もっていた。
しかし、それはあくまで一時の静寂にすぎず、戦況が劇的に好転するわけでもなければ、休息が許されるわけでもなかった。
彼女の意識はすでに、次なる脅威を見つけ出すために張り詰めており、先ほどの一撃の余韻が完全に消えるよりも先に、ごく微細ながらも確かな「疑念」や「困惑」に似た感情が、静かに、しかし確実に胸の奥に広がり始めていた。
(わたし......いや、確実に狙いはこの子のはず。でも、あの雰囲気じゃ、話し合いでどうこうできる相手じゃなさそうね――)
彼女の顔に浮かんでいたのは、恐怖や戸惑いではなく、目の前にある現実を冷徹に受け止め、もはや戦うという選択肢しか残されていない者だけが持つ、鋭く研ぎ澄まされた覚悟の色だった。
だが、そんな張り詰めた緊張の只中で、不意に頬を撫でる冷たい風が、火照っていた顔の熱を一瞬で冷まし、セシルの意識を現実へと強制的に引き戻されていた。
(っ......大口、叩いたけど。正直、かなり......きついな......)
石を粉砕するために振り抜いたあの剣撃には、相当な集中力と膂力が必要だった。そしてそれを成し遂げた今、セシルの身体は限界を遥かに超えており、全身の筋肉は軋むように悲鳴を上げ、熱に浮かされた視界は滲んで輪郭を歪ませ、焦点すら合わなくなってきていた。
それでも尚、彼女は剣を手放すことなく、鞭のようにしなる刃を一瞬で引き戻して構え直し、その剣越しに、自分たちへと殺意を滾らせながら迫り来る複数の人影を、睨み返していた。
彼女の眼差しには一切の怯えはなく、むしろその奥には、次にどう動くべきかを冷静に測る思考の炎が、燃え続けていた。
「相手は殺傷力の高い武器は......持ってなさそうね。さて、どうしよう、かな.......」
守らねばならないという焦燥感と、逃げ場のない状況に対する諦念――その二つの相反する感情が心の中で複雑に絡み合い、渦となって胸の奥を圧迫していた。
そしてその渦の底には、ごく僅かだが確かに、「いっそこのまま突っ込んでしまえば、すべてが終わるのではないか」という、死を間近に感じた者に特有の、どこか投げやりな誘惑が芽吹き始めていた。
だが、そんな危うい思考を吹き飛ばすように、ふと背後から伝わってきた小さく弱々しい気配が、彼女の神経をはっとさせた。
「っ......!」
無意識のうちに視線を後方へ滑らせた彼女の目に飛び込んできたのは、震える肩を必死に支えながら、かろうじて顔を上げようとする小さな影の姿だった。
その小さな手は、体を覆い隠すマントの隙間から覗いており、そして顔全体は見えなかったものの、可愛らしい色彩の前髪がその輪郭をぼんやりと映し出していた。
「......ぁ、」
そして、その存在が、自分に何かを訴えるように、必死に縋るような視線を向けていることに気づいた瞬間、セシルの口から反射的に声が零れ出ていた。
「大丈夫?! 怪我は、ない......?」
だが、セシル自身の身体の限界などお構いなしに咄嗟に声をかけたその言葉に対して返ってきたのは、今にも風にかき消されてしまいそうなほどに細く、掠れた、しかし必死に絞り出された女の子の声だった。
「......な......んで......なんで、あたしを助けるの......?」
その問いは、あまりにも素朴で、そしてあまりにも重かった事により、一瞬、セシルは言葉を失い、胸の奥に何か鋭いものが突き刺さるのを感じた。
「......」
よくよく考えてみれば、助ける理由など彼女の中には存在していなかった。ただ、目の前で一つの命が脅かされている――その事実だけが、彼女の身体を、心を、突き動かしていた。
「......な、なんでって言われても、現にあの人たちが、あなたを狙って、敵意を――」
だが、その何とか絞り出した言葉を最後まで紡ぐ前に、彼女の背筋をつたうようにして、説明のつかない、本能にも似た直感的な危機の予感が駆け上がった。
「ッ、来る......!」
思わず漏れた声と同時に、視線をすばやく前方へ戻したセシルの目に飛び込んできたのは、太陽の光を受けて鈍く反射しながら、空中を美しい弧を描いて飛んでくる一本の茶色いガラス瓶だった。
中に入っているのは、酒やワインのような赤みがかった液体か、それとも既に空っぽなのか。それを見極める余裕もなく、ただ一つ確かだったのは――その瓶には明確な殺意が込められており、しかも狙いはセシル本人ではなく、彼女の背後に身を寄せていた幼い女の子である、という事実だった。
(ッ、間に合わない......っ!)
瓶の放物線と女の子との距離、その軌道を直感的に見切ったセシルは、剣の刃を鞭のようにしならせて撃ち落とすといった選択肢を即座に却下した。
代わりに、どういう訳か迷うことなく手にしていた剣を手放すと、次の瞬間には自身の身ごと飛び込むようにして、まるで猛獣のような勢いで女の子の元へと跳躍していた。
ガチャン――パリーン!
「っく......」
乾いた破裂音とともに、ガラス瓶はセシルの頭上をわずかに逸れて通り抜け、前方の石畳に勢いよく衝突し、炸裂するように粉砕された。
その瞬間、無数の鋭い破片が陽の光を反射して煌めきながら宙を舞い、いくつかの破片は、まるで意思を持ったかのようにセシルの方向へと鋭く飛来してきた。
だが、彼女はそれすら意に介さず、腕の中の女の子をしっかりと抱き寄せ、その小さな身体を自分の体で覆いながら、身を挺して守ることだけに意識を集中させていた。
「っ、大丈夫?今の......どこにも当たってない、よね......?」
荒くなった呼吸の合間から、セシルは痛みをこらえながらも優しい声を搾り出し、震える声で抱きしめた女の子の無事を確認するように視線を向けた。
(......危なかった。マントのフードがなかったら、確実に頭に刺さっていたね)
自身の頭部を守ってくれたマントのフードに破片がいくつか突き刺さっているのを感じながら、セシルはそれを慎重に頭から外すと、痛みを堪えつつ、地面についた片方の腕で体を支えながら、限界寸前の身体に鞭を打って、再び女の子を庇おうと必死に立ち上がろうとした。
だがその矢先、背後から聞こえてきたのは、嘲るような鼻声を含んだ男の声だった。
「へっ、やっと尻尾を出しやがったな!」
「ぃ......!」
体を起こそうとしたその刹那、不意に頭部を貫いたのは鋭い痛みと、皮膚の奥にまで伝わる不快な衝撃だった。
ポニーテールに結った長い髪を、乱暴な手つきで誰かが鷲掴みにし、そのまま容赦の欠片もなく力任せに引き上げたことで、セシルの首は不自然に後方へと反らされた。
無理やり引き上げられた視線の先にいたのは、彼女の髪を掴んでいたのは、粗雑で粗野な風貌を持つ男であり、顔には人を見下す嘲りと猜疑の色が濃く浮かんでいる。
そして、そんな彼の背後には、まるで捕獲したばかりの魔獣を観察するような、興味と警戒、そして底知れぬ嫌悪を湛えた視線を向けてくる数人の大人たちの姿があった。
「は?仕え手って......まさか、こんなガキの女だったのか!!」
「なによそれ!! 今まで怯えてたのがバカみたいじゃない!!」
罵声と嘲笑が、次々と口々に飛び交う。彼らにとって、セシルという存在は、ただの「得体の知れない何か」であり、敵意と不安の象徴でしかなかった。
その中、セシルは必死に地面へと落ちた自分の剣の所在を探すように、視線を泳がせながらも、その腕の中に抱えていた小さな女の子の身体を、ぐっと強く引き寄せ、守るように抱きしめ直した。
――自分のことはどうなってもいい。ただ、この子だけは、決して彼らの手に渡してはならない。
その一心だけが、今の彼女を突き動かすと、何とか相手を刺激しないようにとゆっくりと口を開いた。
「ぅぅ......誰と、勘違いしているのか......わかりませんが。わたしは、つい先程ここに――」
「嘘つくんじゃねぇ!!!」
最後まで言葉を紡ぐ暇もなく、叫びと共に、男はセシルの髪を荒々しく放り捨て、その直後、怒りを剥き出しにした勢いのまま、思い切り足を振り上げると、その踵で彼女の背中を力任せに蹴り飛ばした。
ドカッという鈍い音が響き、セシルの身体は浮き上がるようにして宙を舞い、そのまま地面へと叩きつけられた。
その衝撃は、まるで道端の石に八つ当たりするかのような無慈悲な暴力であり、一切の理性や感情を欠いた、ただの憂さ晴らしに近い衝動そのものだった。
「ッ......!!」
空気が肺から一気に押し出され、喉の奥から掠れた息が漏れ、全身を駆け抜けた鋭い痛みによって意識が一瞬揺らぎ、視界が淡く滲み始める。
それでもセシルは、必死に地面へと腕を突き、腕の中に抱いている女の子の小さな身体だけはどうにか守ろうと、崩れそうな身体を必死に支えていた。
(......ま、ず......い......意識が......)
意識はかすかに遠のき始め、世界が水の中のように歪み、音も像もぼやけていた。現実感がどんどん薄れていく中で、彼女の背後ではそんな苦悶するセシルを見下ろすように、冷酷な人々の声が次々と、まるで見世物にでも興じるかのように好き勝手に投げかけられていた。
「絶対、こいつがそうだ!!見ろよ、髪を一つに結んでる、噂通りじゃないか!!」
「いや、剣の動きも普通じゃなかったし、あれが証拠だってば!!」
「落ち着け!!そもそも、あの化け物を庇ってる時点で、普通じゃないんだよ!!」
怒号と罵声。まるで群衆が正義を装って獣に石を投げるように、彼らはセシルの「正体」を勝手に決めつけ、恐れと好奇心と残酷さを入り混ぜた目で次々と言葉を投げかけていた。
「......好き勝手、言っちゃって......くれてるね」
セシルは吐き捨てるように呟いたが、それを否定するための証拠も理屈も、今の彼女には何ひとつ持ち合わせていない。
加えて、身体は痛みと熱でまともに動かず、思考も重く鈍い。何より、状況の急変に心が追いついていなかった。
(......本当に......まずい状況かもしれないね、これ......)
そんな考えがかすかに浮かびながらも、セシルは顔を歪め、倒れた身体を何とか支えるようにして、片腕と膝をつきながら立ち上がろうとしたが、気力も体力もすでに限界に近いのか、腕と膝は震え、少し動くだけでも全身が軋むように痛んでいた。
そんな中――彼女の胸元で、小さな手が震えながらも必死に、ぽんぽんとセシルを叩いた。
「......ん、どうしたの。大丈夫、大丈夫だから。絶対に逃がすからね」
セシルは自分の声が震えないよう努めて穏やかに保ち、怯える女の子を少しでも安心させようと優しく囁きながら、視線を落とすと、マントに頭まですっぽりと包まれた少女が、恐怖に震えながらも何かを言おうと、か細く唇を動かそうとしているのが見えた。
「おねがい.......今からでも......あたしを、捨てて、一人で、逃げて......。いやだよ......もう、あたしを守ってくれる人がいなくなるのは......」
その喧騒の中、セシルの腕の中から微かに震える声が叫びのように漏れており、自分の命など顧みず、セシルに「逃げて」と訴えるその声には、到底子供一人で背負えるはずのない、深い恐怖と、胸を締めつけるような孤独が滲んでいた。
「......そんな事、わたしに......できるわけないでしょ」
セシルは、女の子の訴えか、あるいは自分自身の行動に対してか、どこか呆れにも似た笑みを口元に浮かべると、胸の奥にこみ上げる熱を押し殺しながら、腕の中の小さな存在を更に強く抱きしめると、倒れそうな身体を震わせながら、ふたたび立ち上がろうと、気力を振り絞った。
だがその瞬間、それまでの決意をあざ笑うかのように、突如として彼女の頭上に巨大な影が降りかかり――
――ガシャーン!
「っ......!」
耳を突き抜けるようなガラスの破裂音と同時に、重く鋭い衝撃が頭を直撃した。
鈍く響く痛みに思わず声を漏らしながらも、セシルは揺れる意識の中で咄嗟に両腕を突き出し、腕の中にいた女の子を押し潰されぬよう、とその小さな身体を覆い込むように必死に庇った。
頭に受けた衝撃で視界はぐらつき、地面が歪んで見える中、それでも彼女の指先だけは必死に女の子を支えようと動き続けていた。
(いま......なぐ......られた......の?)
混濁する意識の中でセシルはなんとか状況を整理しようと視線を僅かに動かすと、視界の端にはガラスの破片のようなものが、粉々になって地面に散らばっており、それに続くように、そこへぽたり、ぽたりと、赤い液体が落ちてきているのが見えた。
(これ......血?............わたしの?)
自分でも実感が湧かないような現実に、セシルの意識はまるで夢の中にでも迷い込んでいるかのようにぼんやりと浮かび上がっていた。
そしてその耳には、まるで演劇でも楽しむ観客のように、背後から嘲笑と罵声が容赦なく浴びせられた。
「よくやったぞ!!いい一撃だ!!」
「化け物を庇っているあんたは、そのままくたばればいいんだよ!!」
その声には、微塵の理性も、哀れみも、人間らしさも感じられなかった。ただただ、目の前で傷つき倒れる少女を見て溜飲を下げる、その様はまるで――セシルが「人間」としてではなく、「化け物の仲間」としてしか見られていないことの証だった。
(ぁ、わたし......いよいよ、ダメ、かも......)
四肢から力が抜け、肌が冷たくなり始める感覚の中で、セシルは恐怖というよりも、どこか現実感のない、浮遊するような思考に包まれていた。
自分が今まさに殺されかけているという事実を、頭では理解していても、心はまるでそれを受け入れようとせず、口を突いて出たのは皮肉のような、呑気な独り言だった。
けれど、腕の中で抱きしめ続けている女の子の体温だけは、まだ微かに現実の中にセシルを繋ぎ止めていた。
視界は白く霞み、耳は遠くなり、感覚は薄れていく――それでも、セシルの腕は最後の最後まで、女の子を決して手放すまいと、僅かな力で抱きしめ続けていた。
「やめて......いやだ。いやだよ......」
その時、今にも泣き崩れそうな声が、セシルの胸元から漏れ聞こえた。その声に、朦朧とした意識の中でもセシルは自然と反応し、震える手で女の子の頭を優しく撫でながら、まるで夢の中のような静けさで囁いた。
「......泣かないで。大丈夫、絶対に、あなたには......手を出させないからね」
その声は、怒号と罵声が響き渡るこの空間において、掻き消されそうなほど小さく、それでも確かな意思を宿していた。
だが、セシルの想いなどお構いなしに、背後から新たな命令のような声が響き渡った。
「おい、もう一発誰か、早く殴れよ!」
「あんた、その瓶貸せ!」
「あっちに剣が落ちてたぞ。それでもいい!」
やがて、何人かが武器になりそうなものを手にしたのか、ジャリ、と石畳の破片を踏むような足音が、ゆっくりとセシルの方へ近づいてきた。
(......あれ、そういえば......ここでわたしが死んだら......この子、どうなるの......?また......また、守れなかったって......誰かを、わたしのせいで......)
その思考には、恐怖という感情はほとんどなく、あるのはただひとつ、後悔に近い――何もできずにまた、大切な誰かを失ってしまうという、静かで重い絶望だった。
しかしそのとき、セシルの腕の中から、これまで押し殺していた女の子の悲痛な叫びが、感情の限界を超えて爆発するように響いた。
「やめてっ! もうやめてってば!! もう、ほっといてよ!! あっち行ってよ!!」
その瞬間、女の子の小さな身体が、突如として淡く青白い光を放ち光は空間を裂くように奔り、空気がびりびりと震え始めた。
そして、マントの下から溢れ出したのは、怒りと恐怖、そして拒絶の感情が混じり合い、純粋な力となって空気を震わせる程に凝縮されているような“何かの力”だった。
(これ......歪みの、力......?)
見覚えのあるその異質な力の感覚に、セシルは驚きに目を見開いたが、その正体を理解する間もなく、既に限界を迎えていた身体はついにそのまま崩れ落ち、意識は音もなく、闇の底へと滑り落ちていった。
そして、彼女が最後に耳にしたのは――世界そのものが震えたかのような、空間がねじれ、空気が凝縮し、そして爆ぜるような轟音と、それに続く人々の絶叫だった。




