第57話. 騒然たる殺意
――あれからセシルは、まるであの庭園で出会った、底知れぬ不気味さと威圧感をまとった男の存在を記憶ごと振り払おうとするかのように、ただひたすらにその場を逃れ、追い立てられるような足取りで、ほとんど視界のすべてを捨て去る勢いで街中を彷徨い続けていた。
(......うぅ、なんで......なんで逃げ出しちゃったんだろう。あれだけ明確に危険信号を放っている相手だからこそ、ほんの僅かでも掴めるものがあったはずなのに)
そんな後悔が胸の内に渦を巻き、同時にどこからともなく湧き出る得体の知れぬ恐怖に追われるようにして走っていた彼女は、気がつけば、人通りがすっかり途絶えた裏路地のような細い通りへと足を踏み入れていた。
つい先程まで耳にしていた人々の楽しげな話し声や笑い声すらも嘘だったかのように掻き消え、辺りにはただ、彼女自身の呼吸音と足音だけがかすかに響く静寂が満ちていた。
「はぁ......はふぅ......っ」
やがて、焦燥と疲労の入り混じった足取りに陰りが見え始め、ふらつく足元を支えるように壁へと片手をついた彼女は、額に張り付いた前髪を乱暴にかき上げると、じっとりと汗ばんだ額にそっと手の甲を当てた。
「あっつ......」
レースの手袋越しに伝わってくるのは、皮膚の下でじんわりと広がる異様な熱気であり、それらはまるで、身体の奥底からじわじわと焼き上げられるかのような感覚だった。
(......どうしよう。本当に、風邪でもひいたみたいな熱さ。いや、それ以上かも......)
庭園近くで感じた、あの得体の知れない“歪み”の気配。それに呼応するように彼女の腕に浮かび上がっている花の紋様が、鋭く疼き、内側から燃えるような痛みを発したときの、焼けつくような感覚。
その痛みは時間が経てば自然と収まる一時的な反応ではなく、むしろ今この瞬間においても、体の深部にじっと居座り、静かに、だが確実に彼女の肉体と精神を蝕んでいるような、そんな不気味な持続性をもっていた。
(このままじゃ......駄目かも。どこか、少しでも休める場所を探さなきゃ......)
重くなった足を引きずるようにして、肩で荒く息をつきながら、彼女は薄暗い路地や建物の隙間へと視線を彷徨わせた。
宿屋でも、簡素な休憩所でも、それが無理なら木製のベンチでも構わない。ただ、今のこの火照った体と混濁しかけた意識を、ほんのわずかでも落ち着ける場所があれば――そんな一縷の望みにすがるようにして、セシルは再び歩き出した。
同時に、無理やり動かしている足元を見つめたまま無意識に熱が籠った頬へ手を当てながら、不意に頭の片隅に、じんわりとした違和感が浮かび上がってくるのを感じていた。
「はぁ、ふぅ......こんなに長引いたことって、今まで、なかったよね......どうして今回は......?」
これまでにも彼女は、“歪み”の力に強く晒された際に、腕の紋様が激しく反応し、痛みに襲われることが何度かあった。
だが、それはあくまで一過性の反応であり、時が経てば熱も痛みも自然と引いていったが、今回は違う。
まるで異物が体内に根を張り、静かに内部から蝕んでいるかのように、その苦しみは未だ消えることなく、むしろじわじわと広がっていた。
(そういえば――)
その瞬間、どこか低く、それでいて不思議と安心を抱かせるような、深い優しさを含んだ声が、まるで記憶の底から浮かび上がるように脳裏をかすめた。
『痩せ我慢を張るのは良くない。原因不明の症状なんだ無理はするな...』
「......そうだ。クロノスさん......クロノスさんが、いつもわたしの傍にいてくれたんだ」
痛みに苛まれ、体が言うことを利かなくなったとき、何も問わず、何も言わず、ただその場に静かに寄り添ってくれていた。
言葉ではなく、沈黙の中にある優しさが、彼女の心を何度となく救ってくれていた――そんな確かな記憶が、熱と痛みに浮かされた意識の奥から、ゆっくりと浮かび上がってきた。
「たしか初めて“歪み”の力に呑まれて、制御できなくなった時もクロノスさんが、自分の力を分けて、わたしの暴走を抑えてくれた。それから何度も、何度も......」
呟いた言葉と共に、彼女の歩みは自然と止まり、視線が遠く宙を彷徨った。
そう――あの時も、そしてその後も、彼の力が流れ込んできただけで、あるいわ彼が隣にいるだけで、暴れ狂う“歪み”の力は嘘のように鎮まり、焼けつくような痛みも不思議と和らいでいた。それらは思い込みではなく、確かな“事実”だった。
そして、なぜそれが可能だったのか。今まで深く考えたことのなかった、その理由に、初めて思考が及んでいた。
(どうして......?“歪み”は精霊由来の力のはずなのに、契約悪魔であるクロノスさんの力で、どうして抑えられるの?)
本来であれば、交わることすらあり得ないはずの二つの力は相反し、拒絶し合うはずのそれが、なぜか重なり合い、まるで互いの空白を埋めるように作用していた。
それは理屈では説明のつかない、不自然な符合であり、矛盾と不条理、そしてどこか神話的な神秘がそこにあった。
その不思議な関係性に初めて思い至った瞬間、胸の奥でくすぶっていた違和感が、なにか得体の知れない不穏な気配と共鳴するかのように、静かに、しかし確実に広がっていった。
「まさか......契約悪魔と精霊には、互いの力を打ち消し合えるほどの、何か重大な――」
だが、その静寂を裂くようにして、乾ききった通りに、耳をつんざくような怒声が突然響き渡った。
「おい、待ちやがれ!! この、呪われた化け物が!! 逃げんじゃねぇ!!」
「ッ、!」
怒気と狂気がないまぜになった、鋭利な刃のような叫び――それは遠く離れた場所から放たれたにも関わらず、まるで空間そのものを裂くかのような勢いで真っ直ぐにセシルの鼓膜を貫き、あまりの衝撃に全身がびくりと震え、反射的に肩がすくみ上がらせた。
その声に込められていたのは、ただの怒鳴り声や罵声ではなく、聞く者の存在自体を否定するような、鋭い憎悪と毒気だった。
まるで心の奥底に潜む何かを見透かし、えぐり取ろうとするような冷たい悪意。聴いただけで肌が粟立ち、背筋にじわりと冷たい汗が滲む。
(な、何......今の怒声......?普通の喧嘩や口論で出る怒りじゃない。もっと、こう......心の奥底から噴き出してるような、純粋な憎しみ......)
混乱と警戒がないまぜになった思考を抱えながら、セシルの指先は無意識のうちにフードの縁へと伸ばした。
その視線には自然と警戒の色が宿り、ゆっくりと、しかし慎重に周囲をうかがうようにして視線を持ち上げかけた。
だが、その緊張の糸が張り詰めた瞬間を狙うかのように――まるで突風が巻き起こるような勢いで、足元へと何かが飛び込んできた。
ドシンッ。
「きゃっ...!」
熱に冒されて鈍くなった体は反応が追いつかず、バランスを崩したセシルは、足を絡め取られるようにしてその場に倒れ込み、反射的に手をつくこともできないまま、腰から落下する形で尻もちをついてしまった。
「くっ......」
腰にかけていた鞄がわずかに衝撃を和らげてくれたものの、もはや限界寸前にまで消耗しきっていたセシルの身体にとっては、それすらも焼け石に水でしかなく、骨が軋むような鈍痛と痺れるような衝撃が、脊髄を通じて脳髄へとじんわり広がっていた。
「ぅぅっ......いった、た......」
呻き声を漏らしながら、痛みに耐えるようにして腰へと手を伸ばしかけたその時――ふと視界の隅に、地面に座り込む小さな影が映り込んだ。
それは、自分と同じように転倒した誰かの姿だった。だが、体全体をすっぽりと覆うようなマントに包まれ、性別や容姿すら曖昧でありながら華奢な体つきと小さな背中をひと目見ただけでそれがまだ幼い子供であることが一目で理解できた。
(えっ......なんで、こんな人通りが少ない場所に一人で?)
突然、目の前に現れた予想外の存在に、セシルの胸の中で小さな動揺が走った。けれど、それと同時に自分の体の痛みや不調など一瞬頭から消え去ったかのように、彼女は迷うことなくその小さな影のすぐそばへと駆け寄った。
そっと腰をかがめ、身を屈めてその子の目線に合わせると、セシルはゆっくりと顔を近づけながら、怖がらせたり驚かせたりしないように、最大限に柔らかい表情を作り、優しい声で、まるで微かな灯火を絶やさないように慎重に話しかけ始めた。
「ご、ごめんなさい......!前をよく見ていなくて......!」
しかし、その言葉は、彼女の想いとは裏腹に、まるで届かない壁にぶつかったように目の前の子どもは、まったく反応を示さないでいた。
顔を上げようとする気配もなく、まるでセシルの存在そのものが、空気のように透明で見えないかのように、固く背を丸めてその場にじっとうずくまっていた。
「......だ、大丈夫?もしかして、どこか痛いの?」
異様な静寂が辺りを支配し、その中で胸の奥にじわじわと広がっていく中、セシルはさらに体を寄せ、膝をつけたまま子供の視線の高さに合わせるようにそっと覗き込むと――その瞬間、視界に映り込んだのは、小刻みに震える小さな肩だった。
(ッ、震えてる......?)
それは一過性の驚きや外的な要因による恐怖ではなく、もっと根深く、もっと静かで、しかし確実に精神を蝕むような何か――まるで、心の奥底に沈殿した絶望や、身体の芯からじわじわと滲み出す本能的な恐怖に飲み込まれているような震えだった。
体の奥底から染み出すような本能的な恐怖に飲み込まれているかのようで、背筋にぞくりとした悪寒が這い上がるのを感じながら、セシルは慎重に声をかけようと口を開いた。
「ねぇ。どう、したの......?何か――」
喉の奥で言葉が詰まりかけながらも、なんとか優しい声音で問いかけ、そっと差し伸べた手が、もう少しでその小さな肩に触れそうになった、まさにその時。
再び、怒声が――今度はより近く、より明確に、空気を裂いて突き刺さるように響いた。
「おい、いたぞ!! 化け物の仕え手もいるぞ!! 絶対に逃がすな!!」
その叫びとともに、視界の端に複数の人影が駆け寄ってくるのが見えた。さらに間を置かず、今度はその怒声に続くようにして拳ほどの大きさの石がいくつも、殺意を含んだ勢いでセシルの頭上めがけて飛来してきた。
その軌道には一切の警告や威嚇の色はなく、最初から命を奪うことだけを目的とした、純粋な暴力の意思が込められているように見えた。
しかし、とっさのその状況の中で、セシルの胸に最初に湧き上がった感情は、「恐怖」ではなく、ただただ、この目の前の子供を守らなければ、という強烈な使命感だけだった。
「ッ.......いきなり、何するんですか!!」
反射的に叫び返すと同時に、セシルは立ち上がり、小さな身体をそっと、けれどしっかりと腕の中に引き寄せ、己の背後にかばうようにして盾になった。
どこから来たのか、誰なのか、そもそも何が目的なのか。それすらも分からない者たちからの攻撃に、頭が追いつく間もなかった。
(この子を抱えて走るのが一番......でも、この体じゃ持たない。地理もわからないし、無理に動けば狙い撃ちにされるだけ)
思考の片隅で冷静かつ現実的な判断が働いているにも関わらず、セシルの動きに躊躇いはなく、そのまま彼女は素早くマントの裾を翻し、その下に隠していた腰の剣の柄へと迷いなく手を伸ばした。
その手つきは決して軽々しいものではなく、むしろ鋭い意志と確信に満ちていて、柄をしっかりと掴むと、そのまま勢いよく引き抜いた。
(今更、石ごときにやられてたまるもんですか!!)
そんな強い決意が胸の内で静かに燃え上がる中、剣が鞘から抜ける瞬間、軽快な「カチッ」とまるでその一音が、セシルの覚悟を象徴しているかのように、小さな音が周囲に響き渡った。
その指先は、柄に仕掛けられた特殊な機構を慎重に、しかし確実に作動させており、刃を包む金属の連結部分が、ジャラジャラと乾いた連鎖音を奏でながら、まるで生き物のように自在に形を変えていく。
その瞬間、剣は固い刃から鞭のように長くしなやかな形状へと変貌を遂げ、床の上でゆっくりとその刃を広げながら伸びていった。
光を受けて煌めく金属の刃が、空気を切り裂くかのように音を立てて地面を這い、まるで守護の結界を張り巡らせるかのように、周囲を包み込んでいた。
「......間に、合あってッ!!」
息を荒げる暇もなく、セシルは必死に唇を固く結び、剣の柄を握る腕に可能な限りの力を込めて、一気にその鞭状の刃を宙に振り上げると――宙を舞うその刃を横一閃、力の限りを込めて振り抜いた。
スパーンッ!
乾いた鋭い金属音が静かな空気を裂き、その刃が通った軌跡に沿って、目の前の石は一瞬で粉々に砕け散ると、砕けた石の破片がパラパラと舞い落ちる様は、まるで相手の戦意が完全に折れたかのように、無力さを物語っていた。




