第55話. ひと時の安息
――結局、男の正体も、その名前すらもわからないまま、あの後、セシルは貴族たちが集まる喧騒と気配の濃い船内には戻らず、静けさの残る甲板の片隅に身を移し、寄りかかるように柵へと腕を組んで乗せながら、まるで夕暮れの空を一人見つめるように、王国への到着を静かに待っていた。
組んだ腕を柵の上に乗せるようにして、顔をうずめるその姿は、一見するとただの物思いに沈んだ少女のようで、時折、船体のきしむ音や小さな波のぶつかる音が風に混じって耳に届いても、それに反応する気配もなく、どこか夢の中にいるように見えた。
そして、事実その通り、風の心地よさに身を委ねたまま、彼女は船の揺れと静寂に包まれながら、立ったままの姿勢で、いつの間にかうたた寝を始めていたのだったが、その小さな休息は、「ポォー」と、低く響く汽笛の音によって、あっけなく断ち切られることになる。
「――はっ......!!」
まるで誰かに名前を呼ばれたかのように、セシルはびくりと肩を揺らし、慌てて顔を上げた瞬間、瞼の裏に残っていた微かな眠気が、現実の空気に触れるようにしてすっと引いていき、その視線の先には、すでに港へと延びた長い桟橋が、船の側面に沿ってぴたりと接岸されつつあるのが見えた。
(......着いた、のかな)
目元を軽く擦りながら、セシルは僅かに目を細め、視線をその先へと滑らせていくと、そこには灰白色の石畳で敷き詰められた壁が海辺に沿って伸び、その中央には王国を象徴するような高く厚い門がそびえていた。
そして、門や壁の向こう側までは見えないが、壁の上を越えて漏れ聞こえてくる人々のざわめきや、楽器の音色、どこか楽しげな歌声の断片が、活気に満ちた街の存在が甲板の上にいても伝わってきており、その空気の熱量は、まるで外の世界が、眠っていた彼女を呼び覚ますような感覚すら与えていた。
セシルはひとつ深く息を吸い込み、ふいに身を引き締めるようにして腰の剣の位置を整え、鞄の位置を再確認すると、次いで、肩を小さく回して、こわばりをほぐすように息をついた。
(ふぅーー。......ここに、わたしのことを知った上で“呼んだ”誰かがいる、か)
そう心の中で自分に釘を刺すと、甲板の中央付近ではすでに乗客たちが整然と並び始めており、順に下船の準備を整えていた。
その多くは、身なりの良い貴族や富裕層で、誰もが色とりどりの装飾が施されたマントを身にまとい、宝石のついたブローチや、豪奢な刺繍で身分を誇示するかのようにしていた。
「......わたしもそろそろ降りないとだね」
降りてくる人々の装いに驚きつつも、足元の水に滑らないよう注意を払いながら、船内へと続く階段に向けて静かに歩を進めた。
胸の奥にはまだ、ほんの少しだけ、船で話したあの男の残像が影のように残っていたが、それよりも今は、目前に迫る王都の門が放つ熱と、人の気配の強さの方が、彼女の中に確かな緊張を芽生えさせていた。
◇◇◇
――やがて、タラップの前に辿り着いたセシルは、陽光を受けてきらめく磨き込まれた金属の手すりにそっと指先を添えると、微かに反射する自分のどこか不安そうな姿を見つめながら、そこから見渡せる風景へとゆっくりと視線を滑らせた。
眼前に広がるのは、王国の象徴たる高くそびえる石畳で敷き詰められた壁と、その中心に厳然と構えられた堅牢な門。
それらは彼女がこれより足を踏み入れようとする、未知で満ちた領域を象徴するだけでなく、同時に、名も知れぬ“誰か”の意志によって“呼び寄せられた”ことを思わせる、まるで舞台の幕開けを告げる装置のようでもあった。
潮風に混じる街の匂いも、耳に届く人々のざわめきも、そして肌に触れる風の温度さえも、これまで過ごしてきた日々とはどこか質感の異なるものに感じられた。
そんな新しい空気の中で、セシルは一度小さく息を吐き、胸の奥にわずかに滞っていた緊張を押し出すように深く呼吸し直すと、背筋を意識的に伸ばし、肩に入っていた力をそっと抜きながら、心を整えるようにして静かにタラップの第一歩へと足を乗せた。
(......はぁ。なんだか、急に緊張してきたな。......あれ? あの人って――)
段差に足を取られぬよう注意深く降りていく途中、不意に目線を下げたその先の岸で見送る船員たちの列の中に、どこか既視感を覚える面差しを持った一人の姿が、セシルの視線をふと引き寄せた。
心が一瞬だけ揺れ、無意識のうちに足がわずかにタラップを降りるスピードを速めていた。
そして、彼女がその人物に向けて声をかけようと口を開きかけた、その瞬間、先に気づいたのは、向こうの方だった。視線が交差した次の瞬間、その船員は親しげな笑顔を浮かべながら一歩前へと進み、軽く手を上げて陽気に呼びかけた。
「――あっ、お客様!」
そこにいたのは、まさしく乗船の際、甲板の構造やマントの扱い方を丁寧に教えてくれた、あの親切な船員だった。
相変わらずどこか気さくで、大型犬のような人懐っこい空気を纏った彼は、セシルの姿をまじまじと見つめたあと、明るく言葉を続けた。
「髪型が変わっていたので、最初は気づきませんでしたよ。とてもよくお似合いです」
不意の褒め言葉に、セシルはほんの一瞬、驚いたように目を丸くしたが、すぐにその表情は柔らかくほどけ、どこか照れくさそうに目を伏せると、静かに一礼してその思いを伝えた。
「甲板のこと、教えてくれてありがとうございました。おかげで、とても心地よい時間を過ごせました」
「それは良かった。そう言っていただけると、こちらとしても本当に嬉しいです。......それに、マントもちゃんと羽織ってくださっていて、安心しました」
微笑みながらそう言うと、不意に彼は視線をセシルの肩へと落とし、そのまま自然な仕草で手を伸ばした。
そして、そのまま躊躇う様子もなくフードの端をつまみ上げ、丁寧な手つきで彼女の頭にふわりとそれをかぶせると、柔らかな笑みを浮かべたまま、言葉を続けた。
「フード付きのマントでしたので。せっかくなら頭まで覆っていた方が、王都の護衛たちにも引き留められずに済むと思いま――」
しかし、そこまで言いかけたところで、彼は突然、はっとしたように手を引っ込めると同時に、まるで自分の行為にようやく気づいたかのように目を見開き、慌てた様子で数歩、後ろへと距離を取った。
「あっ......す、すみません!お客様に対して、あまりにも馴れ馴れしかったですね!本当に、失礼いたしました!」
真面目さと戸惑いが入り混じったその表情で彼は真っ赤になった頬を隠すように咳払いを一つ挟むと、きっちりとした所作で胸に手を添え、深々と頭を下げた。
その律儀すぎる姿に、セシルは一瞬くすりと笑いそうになったが、どうにかこみ上げる感情を押しとどめると、代わりにそっと掛けてくれた自分のフードの縁に指をかけ、軽くつまみながら、微笑みを浮かべて言葉を返した。
「いえ、むしろお気遣いありがとうございます」
彼女の柔らかな返答に、船員はようやく肩の力を抜いたように表情を緩めたが、どこか申し訳そうに後頭部を掻きながら、少し声を落として続けた。
「言い訳がましく聞こえてしまうかもしれませんが、どうにも、妹に重ねてしまいまして。お互い、職業柄、長年会えておらず、ずっと手紙でしかやり取りできていなくて......」
その言葉に、セシルは小さく頷きながらも、その内心では、彼の声ににじむ、どこか満ち足りない寂しさや、それを覆い隠すような穏やかな優しさの気配に触れ、胸の奥からゆっくりと、柔らかなぬくもりのような感情が立ち上ってくるのを感じていた。
(ふふっ、妹さんか。きっとその方も優しくて、真っ直ぐな人なんだろうな......)
そんな風にふと思いを巡らせる自分に、どこかくすぐったいような気持ちを覚えながら、気がつけば、あれほどまでに胸を締めつけていたはずの緊張の名残が、まるで春の雪解けのように、知らぬ間にすっかり溶け去っていたことに気づいた。
セシルはそっと息を整え、改めて背筋を伸ばすと、決意を新たにするように彼の方へと向き直り、その瞳に静かな凛とした光を宿しながら、澄んだ声で言葉を返した。
「お仕事中に、お邪魔してしまいましたね。そろそろ、行こうと思います」
「いえ、とんでもないです。こちらこそ、無礼をしてしまって。では――お客様、どうか良い旅を」
そう言って彼は、まっすぐな姿勢で敬礼をしながら、満面の笑みでセシルを見送った。
その姿にそっと背を押されるようにして、セシルは静かに歩を進め、フードを整えながら、眼前にそびえる王国の門――新たな物語の幕が上がるその場所へと、一歩また一歩と足を向けていった。
◇◇◇
――門の前での些細な緊張が、まるで幻だったかのように、セシルは何の障害もなく街の中へと足を踏み入れ、皆がそれぞれの目的を持ちながら向かっているその熱気が入り混じる大通りへと導かれるように、彼女は自然と歩みを進め始めた。
ふと振り返れば、あの厳格な城壁と門番の視線が遠ざかっていき、目の前には色とりどりの屋台が立ち並び、左右からは威勢のいい呼び声が飛び交っていた。
「いらっしゃい!そこの坊ちゃん、一つどうだい!」
「奥さん、このネックレス、きっとお似合いになりますよ!」
賑わいに満ちた通りの向こう、視線を少し遠くに向ければ、白亜の城が堂々たる姿で聳えており、その周囲では、上質な衣装を身にまとった貴族らしき男女が、帳簿を手にした商人たちと忙しなく言葉を交わしながら行き来している。
その風景は、まるで舞台の一幕のようなきらびやかさを持ちながらも、土の匂いや人々の息遣い、屋台の香ばしい匂いといった現実の熱を孕んでおり、セシルの瞳には、幻想とも現実ともつかぬ、不思議な実在感をもって映し出されていた。
(......あれも、これも気になるな。うーん、でもまずは、辺りを見て回ろうかな)
そう心の中で静かに呟いたセシルは、手招きをしてくる商人たちに小さく微笑みを浮かべて会釈だけを返し、どの屋台にも足を止めることなく、石畳を踏みしめて真っすぐに歩みを続けた。
マントのフードを指先でそっと摘み直しながら、人波の中を器用に縫うように進んでいくその姿は、まるでこの街の風景に自然と溶け込もうとする一人の旅人のようだった。




