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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第54話. 彼が残した言葉



「これは俺個人の勝手な親切心で言ってるんだ。向こうの船場に着いたら、すぐ別の船に乗って引き返しな。まだ、間に合ううちにな......。」


その静かな忠告を耳にしたセシルは、思わず感情が先走りそうになるのをぐっと堪えながら、一度深く呼吸を整え、胸の内のざわつきをなだめるように視線を落とした。


(この人、王国で起きている“歪みの力”について知っている。ということは、精霊や教団に関わっている可能性が高い。少なくとも、何らかの形でその周縁に身を置いていた経験があるはず。それに......わたしのことまで、まるで何かを知っているかのような、あの話しぶり)


そんなことを考えながら、セシルはふと、自分でも気づかぬうちに髪へと指を伸ばしていた。


いつの間にか丁寧に整えられていたその髪を、そっとなぞるように撫でながら、結わえられた感触を確かめていた。


すると、少し離れた場所からセシルを眺めていた男は、不意に潮風に揺れる自らの髪を無造作に指ですくい上げるように弄びながら、どこか飄々とした軽い口調で話し始めた。


「お嬢ちゃん、何か聞きたそうな顔してるね。ま、向かう先に着くまではたっぷり時間がある。正直に訊いてくれたら、それなりには答えてあげるよ。」


その口調はどこか他人事のような距離感を保ちつつも、まるで彼女の思考の先回りをしているかのような余裕があって、セシルは僅かに眉を顰めながら視線を上げ、開きかけた唇を一度閉じると、心の中で慎重に思考を巡らせた。


(精霊や教団の名前を不用意に出しても大丈夫かな?でも、彼の様子だと、都合の悪いことを訊いたからって、即座に命を狙われるような雰囲気ではなさそう。......今のところは、だけど)


やがて覚悟を決めるようにそっと息を吐いたセシルは、いつでも戦えるようにと無意識に剣の柄に指を伸ばしながら、探るように、けれど率直な疑問をそのまま口に乗せて投げかけた。


「......まずは、わたしに対して“貴重”って言いましたよね? けれど教団のあの者でさえ、わたしの存在に気づかなかった。それなのに初対面のあなたが、どうしてわたしのことを知っているような口ぶりをするんですか?」


その問いに、男は一瞬だけ瞳の奥を動かしたかのような気配を見せると、サングラスの光の反射がわずかに角度を変え、次いで小さく、ため息のような息を洩らしてから、唇の端に含みを持たせた笑みを浮かべた。


「ははっ。教団の存在まで知ってるのか。想像してたより、ずいぶんと深入りしてるんだな。まったく、しょうがないやつだ。」


その言葉を聞いたセシルは、視線を逸らすことなく、余計な感情を挟まず、ただ淡々と探りを込めるように静かに切り返した。


「そう言うあなたも、かなり詳しいようですね。関係者だから、ですよね......」


その一言に男は肩をすくめるような仕草をしつつ、船の縁にある磨き上げられた鉄製の柵に背中を預け、潮風に吹かれるまま気怠げに数歩後退していた。


そして、まるでその場の空気に溶け込むような自然な動作で、首元まで覆った黒い衣の襟元を指で摘みながら、どこか飄々とした口調で口を開いた。


「どうやら何か誤解してるみたいだけどさ、俺は別に教団の差し金でも、その関係者でもないよ。それに、“あの者”ってやつの名前を耳にしたことはあるけど、それだけだ。会ったこともなければ、今どこで何をしてるかなんて、正直どうでもいいってレベルだ。」


「......じゃあ、どうして、わたしのことを?」


「そうだね。お嬢ちゃんの事に気が付いたのは......ぁー。」


その問いに、男はほんの僅か思案するように視線を宙に彷徨わせ、続けて頬を人差し指でかきながら、何か言い淀むような曖昧な態度を見せた。


しかし、次の瞬間、まるで何か閃いたかのように手のひらをポンと叩き、軽妙な調子で堂々と答え始めた。


「ま、あれだ。フィーリングってやつさ。ほら、一目惚れってあるだろ?なーんとなく、こいつは特別だなって。あれと同じ現象だよ。」


「はぁ......?」


思わず返ってきたその気の抜けるような答えに、セシルは驚くよりも呆れが先に立ち、半開きの口から脱力した吐息が漏らした。


緊張感に満ちていた空気が一瞬にして弛緩し、思わず「なんなのこの人...」と心の中で言いたくなるような感情が押し寄せてきた。


そのまま男は、先程自分で口にした一目惚れ云々の冗談を思い出したのか、どこかしたり顔で顎に手を添え、愉快そうに目を細めながら小さく頷いてみせた。


しかし、次に男の口から放たれた言葉は、それまでの軽薄さや冗談めいた調子を完全に脱ぎ捨てた、低く重たい声音だった。


「......聞かれる前に答えておくけどさ。王国で確認されている歪みの力はな、確実におまえさんを引き寄せるための“撒き餌”みたいなもんだ。」


「ッ――」


その声には曖昧さも軽さも一切含まれておらず、まるで何かを試すように、あるいは何かを伝える覚悟を持った者の声色で、セシルの意識に強く刻み込まれるような真剣さがあった。


その一言に、セシルの中で緩みかけていた警戒心が瞬時に引き戻され、背筋を強張らせた。


(――撒き餌。つまり、わたしの存在を知っている誰かが、意図的にこの異常を仕掛けて、わたしをそこへ誘導しているって事なの?)


そう理解した瞬間、セシルは噛みしめた唇からわずかに血の気を引かせながら、再び男に鋭い視線を向けていた。


まるでその場の空気ごと切り裂くような眼差しには、彼女が内心で想像していたよりも遥かに不利な立場にある現実への戸惑いと、理不尽な誘導に対する怒りが滲んでいた。


だが、男はそんな彼女の反応にも動じることなく、潮風を受けながらふっとサングラスの奥で目を細め、落ち着いた声で続けた。


「だからこそ、俺はあらかじめ言ってるんだ。向こうの船場に着いたら、すぐに引き返せってな。足を突っ込まなければ、何も始まりはしない。」


その言葉の中には、脅しでも命令でもない、ただ一人の人間としての純粋な“忠告”が感じられた。


それを聞いたセシルもまた、少しだけ眉根を緩め、男が自身を今すぐ始末しようとしているわけではないことを改めて確信すると、僅かに緊張を解き、続けて口を開いた。


「......その言い方、まるで“誰が”歪みの力を、意図的に発生させているのかまで、あなたは知っているように聞こえますけど」


真正面からの直球とも言える問いに、男は顎に添えていた手をゆっくりと口元へ移し、指先で唇に触れるような仕草をしながら、意味ありげに微笑んだ。


「おっと、それ以上は有料情報だ。タダじゃ口は割れないよ、お嬢ちゃん。」


その軽口に、セシルは一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐに鋭い視線を戻し、核心を突くような一言を口にした。


「......わたしとしては、今、王として即位された“弟”――その人の存在が、もっとも怪しいと踏んでいますけど」


その言葉が放たれた瞬間、男の顔にごく小さな変化が現れた。冗談交じりだった口元がわずかに引き締まり、サングラス越しの瞳の奥で何かが小さく揺れたように見えた。


そして、彼はそれまで背を預けていた柵から体を離し、手を下ろしながら再びセシルの方を見やった。


「なっるほどねぇ......ただ単に様子を見に来たわけじゃなくて、しっかりとした見解を持った上で、来たわけか。しかも、そっちの内情にまで踏み込んで推察してるとは。正直、想像以上だね。」


男はどこか感心したような声で呟くと、小さく鼻を鳴らし、皮肉のようでもあり、どこか寂しげな響きを含んだ声で続けた。


「でもね。ドンピシャだったとしても、見当違いだったとしても......そこまでは、俺の口から言うわけにはいかない。おまえさんが“真っ直ぐなやつ”だってことぐらい、見てればわかる。だからこそ――余計な情報を与えちまえば、あっという間に自分の命を顧みず飛び込んでいくタイプなんだろう?俺としては、それだけは避けて欲しいんだよね。」


言葉はやや笑い混じりではあったが、その響きの奥底には、確かな“憂い”と“覚悟”が滲んでいた。


男は、確かに何かを知っている――それも、ただの噂や憶測などではない、核心を突くような確実な情報だ。


だが、それをこの場で明かすことが、セシルにとってどれほどの危険を招くのかを十分に理解しているがゆえに、あえて語らないでいた。


その選択は、決して無責任なものではなく、むしろ言わないという行為そのものが、彼なりの誠意なのだとセシルは感じ取っていた。


セシルは、そんな彼を見つめ続けていたが、もはやこれ以上確信的な情報を聞き出すことはできないと悟ると、わずかに肩の力を抜き、諦めのような、しかしどこか吹っ切れたような呼吸をひとつ吐いた。


「......はぁ、そうですか。とりあえず、相手がわたしに明確な敵意を抱いていると分かった以上、それなりの警戒をもって行くようには心掛けます」


言葉こそ穏やかに放たれたが、その目には決して揺るがぬ意志が灯っており、そのまっすぐな決意に、男は肩をすくめるようにして苦笑しながら、やれやれといった調子で口を開いた。


「ははっ、やっぱ帰る気なんてさらさら無いんだな。そりゃそうか。お嬢ちゃんの性格じゃ、ここで引き下がるわけがないとは思ってたけどさ。」


その言い草には、呆れと同時に、どこか彼女に対する信頼のような感情すら混ざっていた。


セシルはそんな男の言葉に対して反応せず、代わりに再び鋭い視線を彼に向け、問うべき最後の問いを静かに投げかけた。


「......では、これだけは聞かせてください。あなたは、わたしの“敵”ですか?それとも“味方”ですか?」


その問いかけに、男は「出たな。」というような表情を浮かべると、わざとらしく腕を組み、顎に手を添えて考え込む素振りを見せた。


そしてほんの一拍の静寂の後、男は何の躊躇いもなく、まるでその動作を何度も繰り返してきたかのような手慣れた身のこなしで、背後にある柵に軽やかに飛び乗った。


船体の揺れすらも味方につけるような自然な動きで、そのまま腰をかけ、視線だけはセシルを捉え続けたまま、あくまで飄々とした表情を崩さなかった。


「そうだね......中立の立場、って言いたいとこなんだけどさ。現状、俺はおまえさんにとって、“敵側”に身を置いてるってのが、正しい言い方になるな。」


セシルはその言葉に一瞬だけ眉をひそめ、目を細めながら、まるで彼の言葉の真意を探るように相手の挙動や表情の変化をじっと見つめた。


だが、男はその視線にも微塵も動じることなく、どこ吹く風とばかりに、軽やかな調子をそのままに、さらに言葉を続けた。


「けどな、もしも今回の件でお嬢ちゃんがこれから挑もうとしていることを、ちゃんとやり遂げてくれたら――」


そこまで語ると、男はわざとらしく口をつぐみ、しばらく空を見上げていたが、まるで急に何かを思い出したかのように、指を一本立てながら付け加えた。


「そうだ。最後におまけとして一つだけ教えてやろうか。“本物の精霊の力”を持つ者ってのはな、人為的に作られた力とはまるで違う。そんな“歪みの力”なんてもんは、そう簡単に外部へ漏らしたりはしないのさ――俺みたいになぁ。」


「っ、それって......!!」


思いも寄らぬ事実を突きつけられ、セシルは反射的に男に詰め寄ろうと一歩を踏み出したが、その動きよりも一瞬早く、男は背を反らせるようにして、軽く笑いながら柵の向こう――海側へと身を投げた。


その直前、彼の表情に浮かんでいたのは、不敵とも愉快ともつかない、何とも言えぬ含みを持った微笑だった。


「待って!!」


セシルが呼び止める為、叫んだ瞬間、素早い速さで目の前に距離を詰められた時に感じた物と同じ静電気が肌の内側を這うようなざわめきと共に、彼女の視界にあったはずの男の姿が、音も気配も残さず、忽然と掻き消えていた。


「ッ......」


セシルはすぐさま男が腰掛けていた場所へ駆け寄り、柵の向こうへと身を乗り出して下を覗き込んだが、そこに広がっていたのは、まるで誰かが飛び込んだ痕跡など最初から存在しなかったかのように、微かな水飛沫すら立てることなく穏やかに揺れる――エメラルドグリーンと紺色が幾重にも混ざり合った、底が見えるほど透き通った美しい海だけだった。


そして、その静謐せいひつな景色の中に取り残されたのは、耳元に束ねられた髪が風に流されることで露わとなった、両耳にそっと揺れる耳飾りのわずかな煌めきと、肌に当たる潮風のひんやりとした感触。


そして肩から羽織った男から渡されたマントが、風を受けて静かになびいている姿だけだった。


「......」


先程まで、次々に押し寄せてくる情報の奔流に心をかき乱され、思考がついていかず混乱しきっていたセシルは、その場にしばらく立ち尽くしたまま、何も言葉にできずにいた。


だがやがて、まるでようやく頭が静まり返ったかのように、ぽつりと独り言のように言葉を漏らした。


「......名前くらい、聞いておけばよかったな」


その声には、戸惑いと小さな悔しさ、そして彼女なりの必死な整理の跡が滲んでいたが、それを受け止める者はすでにどこにもいない。


その場に残されたのは、男の最後の言葉――それだけだった。まるで風の通り道に紛れ込むかのように、その言葉は静まり返った甲板の空気の中に溶け込み、確かな意味を宿したまま、誰の耳にも届かぬ場所へと音もなく漂っていた。


そして次第に、それさえも潮風にさらわれ、波と共にまるで彼の存在そのものが最初から幻だったかのように、痕跡も残さず遠くへと流れ去っていた。

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