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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第53話. 曲者の戯れ



「ふはぁーー、き、緊張したーー」


──あの重く張り詰めた空気からようやく解き放たれて、まだ数分と経たないうちに、セシルは静かに甲板へと足を運んでいた。


周囲をぐるりと見渡して人影がないことを確認すると、どこか肩の力を抜くように、小さく息を吐きながら、ほとんど足を引きずるようにして前方へと歩を進めた。


やがて、船の先端部へとたどり着く頃には、腰に携えた剣が「カシャン」と乾いた音を立てて揺れたが、セシルはそれにも一切気を留めることなく、まるでその全身を預けるようにして、無造作に手すりへと体をもたれかけた。


そして、顔を僅かに乗り出すようにして視線を海原へと向けると、そこには、エメラルドグリーンと濃紺が複雑に交じり合い、太陽の光を反射して宝石のようにきらめく、美しくも果てしない水面が広がっていた。


頬を撫でていく潮風はやや強く、彼女の黒髪をいたずらに揺らしていた。それをセシルは無意識に手でかき上げながら、胸の奥にこびりついていたざわつきを、風に洗い流すかのように静かに沈めようとしていた。


(あの人たちが、クロノスさんの言ってた......貴族、か。ふぅ......なんだか、どっと疲れちゃった)


脳裏にちらつくのは、先程自分に向けられた視線や、聞こえないようにささやかれた嘲笑混じりの言葉たち。セシルは僅かに顔をしかめながら、それでも「皆が皆そうじゃない」と自分に言い聞かせるように、気持ちを切り替えようとした。


そして、まるで今の思考ごとその胸中から拭い去るように、柵越しに広がる海面へとそっと手を伸ばし、届くはずのないその距離に、ただ一方的な想いを乗せてその動きと共に、ふと彼女の脳裏には、乗船時に出会った親切な船員の言葉が蘇っていた。


(そういえば、マントが必要なんだった。街を歩く時には着ていないと、まずいらしいし......)


現実への意識を少しだけ引き戻されたセシルは、柵にもたれかかっていた身体をゆるやかに起こし、ぼんやりと前方の空を見上げながら両腕を高く掲げて、大きくひとつ伸びをした。その吐息には、気怠さと共に、どこか眠気すら混じっていた。


「ん~、あの親切な船員さんに、マントを頂けないか、お願いしてみようかなぁ~!」


その、誰にも届かぬはずの緩い独り言のような呟きに、まるで待ち構えていたかのように、ふいに返されたのは、軽くからかうような調子の、男の声だった。


「俺が無償で献上しようか、お嬢ちゃん?。」


思いがけず差し挟まれたその声音に、セシルの肩がビクリと跳ね、小さく「ひゃッ...!」と悲鳴にも似た声が漏らすと、驚いた拍子に身体は反射的に後方へと仰け反り、同時に両手は咄嗟に戦う構えを取るように上がっていた。


鋭く跳ね上がった彼女の視線の先に立っていたのは――どこか掴みどころのない雰囲気を漂わせた、異様な風貌の男だった。


首元までぴたりと密着した、コンバットスーツのような質感を思わせる黒い服は、彼の細身で引き締まった体つきに完璧にフィットしており、さらにその上から羽織られた衣は、どこか東の大陸を思わせる異国風の装いだった。


だが、それもまた一つの大陸の様式には収まりきらない、奇妙な折衷性を持ち、その着崩し方にすら計算された意図のようなものが見え隠れしていた。


また、晴天下でも色の濃いサングラスが彼の表情を曖昧にし、その非現実的な佇まいは、まるでこの世界のどこにも属さないような異邦人の気配を帯びていた。


男は柵に片肘をついて気怠げに寄りかかりながら、ぶらんと片手を垂らし、警戒心に満ちたセシルの構えを見て、唇の端を軽く吊り上げ、抑えきれぬ笑みを漏らした。


「ははっ、いやいや。そんな目で睨まないでくれよ。落ち着け、別に取って食おうなんて思ってないさ。」


彼のその軽口は、ひと聞きしただけでは冗談とも皮肉ともつかず、真意が掴みづらいものだったが、どこか柔らかな響きを帯びていた。


だが、その笑みもまた、挑発的というよりは、むしろ子どもが驚いた時に見せる仕草に思わず笑ってしまったような、どこか親しみを込めた表情に見えた。


しかし、男の目の奥には、底の見えない暗がりがひっそりと潜んでおり、つかの間の軽快さの裏で、何かを見透かし、あるいは隠し持っているような胡散臭さを、セシルは本能的に感じ取っていた。


その違和感は、どこか懐かしいようでいて不快な――つまり、“信用できない大人”のそれに近いものだった。


彼女はいつの間にか自然と構えていた手をゆっくりと下ろしていたが、それでも全身に走る緊張の糸は一切ゆるめず、鋭い目つきのまま、その男の眼差しを真っ直ぐに見据えながら、低く問いかけた。


「な、なんですか......いきなり声をかけてきて、一体何のつもりですか。いつの間に、そんな近くに......?」


その問いかけに対して、男は気にした様子もなく、片手を後ろ首に回して伸びをするように軽く肩をすくめると、やや大袈裟なほどの仕草で首をコキリと鳴らし、そのまま柵から体を離した。


その動作一つひとつには、無駄がなく、むしろどこかこの状況に手慣れているような洗練を感じさせる。


それでいて、彼の口元に浮かぶ笑みや、その瞳の奥に宿る光には、まるで底が抜けているかのような軽薄さがあり、その軽さこそが、逆に得体の知れなさを際立たせていた。


「ん~......俺? ただの親切な通りすがりってやつさ。ただね、君みたいな“貴重な”お嬢ちゃんが、こんなところで物思いにふけってる姿を見かけちゃうと、どうにも放っておけなくてね。」


「......貴重、って......?」


男の口から発せられたその一言に、セシルの表情はかすかに曇り、眉の奥に宿る警戒の色が一層濃くなると、反射的に、腰に帯びた剣へと視線を走らせると、恐る恐る手を伸ばし、その柄へと指先を添えた。


そのまま刃の重みを確かめるように、じんわりと力を込めながら、呼吸の奥で慎重に身構えていった。


「......もしかして、あなた......わたしのこと、知ってるんですか?」


彼女の問いかける声は、彼女自身にも届くほど微かに震えていた。それは、相手への探りというより、自分自身への確認――自分は“知られているべき存在”なのかという、自覚と恐れが入り混じった問いだった。


自分の過去を知っている者なのか?


自分に宿る力を見抜いている者なのか?


それとも、精霊、あるいはアストラル教団に関わる何者か?


曖昧な不安が胸の内にじわじわと広がり、問いに対する明確な答えが得られぬまま、思考だけが焦燥を帯びて渦を巻いた。


その最中、彼女の指先は剣の柄をかすかに押し込むように力を込め、そのまま刃を抜こうとした――まさに、その瞬間だった。


「っと......ずいぶん好戦的だなぁ、お嬢ちゃん。」


軽く笑うような調子で男が口を開いたかと思った瞬間、空気がピリリと弾けるように変わった。


まるで空間そのものが一瞬だけ揺らぎ、世界の膜が震えたような不協和音が走せた。セシルの感覚に、電流にも似た微細な静電気のような刺激が背筋を駆け上がり、思わず視界がふっと揺れる錯覚を覚えた次の瞬間――男は、もはや目の前に立っていた。


その動きは、まるで最初からそうあるべくしていたかのように自然で、違和感を抱く余地すら与えないまま、男はそのままごく滑らかに、けれども明確な意図を持って、セシルの手首へと手を伸ばすと、その小さな手を優しく包み込むように掴み、驚くほど静かに、剣をそっと鞘へと戻した。


「――なっ!?」


理解よりも早く、反応よりも速く、セシルの手のひらから確かに感じていた鋼の重みが忽然と消え去り、代わりに指先に伝わってきたのは、ひんやりとした鞘の感触と、その上をなぞるように滑った男の指の動きだった。


あまりにも自然で、滑らかで、そしてこちらの思考を先読みしていたかのような、まるですべてを知っていて、それでもなお“遊んでいる”かのような余裕な行動に、セシルは背筋を凍らせるような警戒を覚えた。、彼の全身から滲み出ていた。


そして、まるでそんな彼女の恐れすら見透かしたかのように、男は今度は意図的に軽さを強調した調子で、愉快そうに微笑みながら再びセシルへと手を伸ばした。


「はーい、確保だ。大人しくしろよ〜。」


冗談めいたその声が、あまりにも近い距離で耳元に囁かれた次の瞬間――セシルの身体は、不意に男の懐に包み込まれていた。


その動作には、恐ろしいほどの熟練があり、まるで舞いのように流れる所作で、男は背後へと回り込み、セシルの身体を自身の影の中に巻き込むように抱き込んだ。


その抱擁は力任せではなく、むしろ柔らかで優雅ですらあったが、その内側には一切の逃げ場を許さない、絶妙な力加減の“拘束”が潜んでいた。


長くしなやかな腕が、彼女の背中から肩へと羽織るように巻きつき、その腕の中に閉じ込められたセシルは、無意識のうちに身体をよじって逃れようとした。


「ッ、は、離し――ッ!」


反射的に叫び声を上げかけ、無意識のうちに身体を捩らせて逃れようとした、その瞬間――鋭く冷たい刃が肌すれすれを掠めるような感覚と共に、まるで無数の針が皮膚の表面に突き立てられたかのような錯覚に陥る、凍てつくような冷気が背筋を這い昇った。


理屈では説明しがたいその戦慄に、セシルの思考は一瞬で凍りつき、抗おうとした意思は宙に浮いたまま、言葉にもならず霧散していった。


「......あんまし、こういう脅し紛いなことはしたくないんだけどね。かと言っておまえさんと剣を交えるつもりもないからね。ま、言葉が足りなかったのは認めるよ。」


男の声音は、その恐怖すらも含んだ状況とは裏腹に、相変わらずどこか芝居がかった軽やかさを保っていて、まるでこのやりとり自体が少し悪ノリの延長であるかのような印象すら与えるものであった。


ふと顔を上げたセシルの視界に飛び込んできたのは、男の顎が自分の頭のすぐ上、触れそうなほどの至近距離にあるという異様な事実だった。


そこからわずかに伝わる温もりと圧力に、彼女はようやく、自分と男との間にある物理的な距離感が、常識的な範疇を明らかに逸脱していることに気づかされた。


「っ......」


そのあまりに親密を通り越した、むしろ侵略的とすら感じるような間合いに、セシルは言葉を失い、喉の奥で詰まった呼吸が小さな吐息となって漏れるだけで、やがて静かに身体の動きを止め、まるで獲物を見つめる大型の捕食者の前で硬直するか弱い小動物のように、その場で凍りついてしまっていた。


すると、そんな彼女の様子を見下ろしながらも、男はあくまで軽やかな調子のまま、気楽な世間話でもするかのように言葉を続けた。


「ぁー......いやねぇ、怯えさせるつもりはこれっぽっちもなかったんだけどさ~。」


そう言いながら、片腕でセシルの動きを緩やかに制したまま、もう一方の手で彼女の頭にふわりと触れた。その指先が、まるで壊れ物に触れるかのような繊細な動きで髪を梳き、くしゃりと撫でた。


まるで幼子をあやすようなその仕草は、過剰な親しさすら感じさせる一方で、セシルの胸の内に、言葉にならないざわめきを生み出していた。


「それとさ、ちょ~っとだけ見せてくれない? さっき、ちらっと見えちゃったんだよね。俺としては、見過ごせないわけよ、うん。」


そう言いながら男は、あくまで柔らかく、しかし確実に拒否を許さぬ動きで、セシルの腕に手を添え、そのまま袖口をそっと持ち上げていった。


そして、布の下から露わになった彼女の肌には、微かに色褪せた古傷の他、紫色に変色した打撲痕や、じわりと滲むように広がる内出血の痕跡が幾重にも重なっていた。


そのどれもが、単なる不注意や偶発的な怪我では説明のつかない、積み重ねられた痛みの軌跡を静かに物語っていた。


「あっちゃー......これは、だいぶ来てるなぁ。うーん、暴力振られてるって感じではないけど。で、覚えてる? どうしてこうなったのか。」


男の口調は相変わらず軽妙だったが、その声の奥底には、確かに何かを見極めようとする真剣さが潜んでおり、サングラス越しに向けられた視線は、冷やかしとは程遠い重みを帯びていた。


「......こ......れ、は――」


その視線に晒されることに耐えきれず、セシルは思わず目を逸らし、震える指先を隠すように、答えを出す代わりに、ただその場で小さく呼吸を繰り返しながら視線を落としていた。


男はその反応を見た瞬間、小さく何かを察したように「あぁーね...。」と呟くと、手際よく袖を元に戻しながら、声の調子を変えることなく、しかしどこか優しさを含んだ響きで言葉を続けた。


「自分でも、もううすうす分かってるんだろ? 自分の身に何が起こってるのか。.......でもな、あんまり無茶すんなよ。今は俺も手持ちがないからな、着いたら、ちゃんと薬くらいは自分で買っとけ。分かったな?。」


男の声音は、これまで通りの軽さを装いながらも、その奥底に宿る真摯な思いが、確かな温度としてセシルの胸に届いており、彼の言葉に対してセシルは頷きもせず、否定もせず、ただ曖昧な沈黙を返したが、それでもどこか、何かが通じたという感覚が、ふたりの間に静かに芽吹いていた。


波の音が遠くから穏やかに届き、潮の匂いが風に乗って流れる中、張り詰めていた空気が少しずつ緩やかにほどけていくのを、セシルは微かに感じ取りながら、ふと自分の胸中に去来する警戒と安堵の交差点で、思考を巡らせ始めていた。


(......この人は、敵......じゃない。少なくとも、わたしに害を与えるつもりはない。むしろ、気遣ってくれている?)


そんな思いが心の奥底に芽生えかけた、その時、男が、片手で空を裂くような動きを見せたかと思うと、ひんやりとした布の感触がセシルの肩にそっと落ちてきた。


「ほら、さっき話したマントだ。そんな格好で出歩いたら、変な目で見られちゃうよ? ......いやまぁ、すでに十分、目を引いてたけどね~。」


冗談めいた言葉を添えながらも、彼の動作には一切の軽率さがなく、まるで何度も同じようなことを繰り返してきたかのような手慣れた仕草で、マントの位置を丁寧に整えていった。


その自然さがかえって、セシルの中に小さな波紋を生みながら、ようやく落ち着いてきた彼女は一呼吸置いてから、意を決したように口を開いた。


「......あなたは、本当に、何を知っているんですか?」


「ん〜?。」


その問いには、恐れよりも、確かめるような意志を滲ませていたが、男はそれをさらりと受け流すように口角を上げ、マントの襟元に添えていた手をすっと滑らせて、今度はセシルの耳元へと指先を伸ばした。


冷たい指先がそっと髪に触れたが、その感触は決して不快なものではなく、むしろ静かに寄り添うような柔らかさがあり、彼の指が丁寧に髪をすくい取っては、なでるように後ろへと流していった。


「......髪色、もしかして黒か?こっちじゃ珍しいね。うーん、こうすると、目元がよく見えるな。」


男は、セシルの長い髪を手馴れた仕草で指先に絡めながら、余計な言葉を挟むことなく、ゆっくりと髪を束ねており、その指先にはどこから取り出したかわからないリボンのような紐を取り出して結び始めた時、ようやくセシルは、彼がポニーテールを作っていることに気づいた。


その手つきはあまりにも自然で、躊躇いや戸惑いの一切を感じさせず、まるで何年も前から彼女の髪に触れてきたかのような、確かな親密さを帯びていた。


そして、そんな最中、唇の端にうっすらと笑みを浮かべながら、男はようやくその手を止め、吐息のような声でぽつりと呟いた。


「お嬢ちゃん、あの王国で起きてる“歪みの力”、あれを調べに来たんだろ?。」


「え、なっ......やっぱり、知って......」


まるで何気ない話の一部であるかのように投げかけられたその一言が、空気の流れを一変させると、セシルの心臓は跳ね上がり、その瞬間、周囲の波音すらも遠ざかるような錯覚に陥った。


そして、反射的に身を引き、男の顔の方に振り向いたセシルの目に映ったのは、動かぬまま、余裕そうにただ静かに佇む男の姿だった。


サングラス越しの瞳は、まるで曖昧な鏡面の奥からこちらを見据えているかのように鈍く光り、セシル自身でさえ見て見ぬふりをしていた不安や疑念の核心を、容赦なく抉り出すかのような、底知れぬ視線を宿していた。


「これは俺個人の勝手な親切心で言ってるんだ。向こうの船場に着いたら、すぐ別の船に乗って引き返しな。まだ、間に合ううちにな......。」


その言葉に込められた声音は、表面的には淡々としながらも、どこか取り返しのつかない現実を知っている者だけが持ち得る、静かな確信と、ある種のあきらめにも似た影を帯びており、セシルの胸の奥深くに、凍りつくような感触をじわりと滲ませていった。

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