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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第52話. 送別と歓迎



(......そうか。昨日、結局その答えが出ないまま話が終わっちゃったんだよね)


──カタン、カタンと、馬車の車輪が地面を擦る音が一定のリズムで耳に届く。


心を揺さぶるような激しい振動ではなく、どこか眠気を誘うほど穏やかで、そしてどこか心の奥の記憶を掘り起こすような、静かで淡々とした音だった。


その音を聞きながら、セシルは少しだけ背筋を伸ばし、膝の上で細く指を組みながら、ぼんやりと窓の外へと視線を投げていた。


今、自分がこうして馬車に揺られ、王国へと向かっているというこの現実は、ほんの数日前には想像もしていなかった未来だ。


あの日、自分が心に決めた「進む」という選択と、昨日の夜、クロノスと交わした会話──そのすべてが、こうして繋がりながら、今の自分を形作っているような気がした。


しかし、それと同時に、彼が口にしたある言葉が、心のどこかに引っかかったまま、胸の奥底で静かに渦を巻いていた。


『弟なんて、いないはずだ』


その一言が、まるで小さな棘のように、繰り返し心に触れては、セシルの思考をその都度立ち止まらせていた。


もしかしたら自分は、何か重大なことを知らないまま、見落としたまま、彼と話していたのではないか。──そんな不安と疑念が、ふとした拍子に顔を覗かせていた。


(......はぁ。考えても、きっと今の私にはわからないよね。よしっ、やめやめ!)


セシルは心の中でそう言い聞かせるように小さく首を振ると、その思考を振り払うように、目の前の席に座る人物へと視線を移した。


そこにいたのは、窓際に肘をつき、手を口元に添えたまま、黙って車窓の景色を眺めているクロノスだった。


彼の表情はどこか物思いにふけるようで、遠い何かを見つめているようにも感じられた。


そして、セシルの目がふと止まったのは、彼の服装。黒を基調としたシンプルながらも静かな力強さを感じさせるその衣服は、昨夜、たしかに彼に渡したものだった。


まさか、実際に着てくれるなんて。しかも、何事もなかったかのように黙ってそこに座っているその姿が、どこか不器用ながらも誠実さをにじませていて、思わず頬を緩めたセシルの胸にはじんわりと温かいものが広がり、それがそのまま言葉となって、自然と唇から零れていた。


「似合ってますね、クロノスさん」


不意に向けられたその言葉に、クロノスはわずかに反応を見せ、ちらりと視線だけをセシルの方へと向けたものの、すぐに気まずそうに目を逸らし、顔を窓の外へと戻した。


そして、口元を覆っていた手をゆっくりとずらしながら、まるで自分の表情を隠すように、あるいは内心の照れくささをやり過ごすように、頬のあたりをそっと指先でなぞる仕草を見せていた。


何かを返すでもなく、それでも彼の横顔にはわずかに熱を帯びた色が滲んでおり、それを見逃すはずもないセシルは、自らの手を包んでいる――昨夜クロノスから手渡された、繊細なレースの手袋にそっと目を落としながら、声には出さずとも内心で静かに微笑んでいた。



◇◇◇



──あれから数十分が経ち、何事も起こることなく無事に港町へと辿り着いたセシルたちは、馬車を降り、船着き場へと向かうために町の中心部へと足を進めていた。


見渡せば、これまで彼女らが過ごしてきた場所とは異なり、どの建物も背が低く、地面に近く密集するように立ち並んでおり、通りには陽気な喧噪が満ちていた。


「すごい......なんだか、雰囲気が全然違いますね」


目を輝かせながらそう呟いたセシルに、隣を歩くクロノスは頷きながら答えた。


「あぁ。ここは漁業もそうだが、それ以上に貿易で活気づいてる港だ。行き交う人々の顔ぶれも多種多様だし、見慣れないものも多くて新鮮に感じるのも当然だな」


季節の変わり目の風が春の名残をそっと残して吹き抜け、代わりに少しずつ力強さを増した日差しが、通りを歩く二人の背を温かく照らしていた。


潮の香りが鼻をかすめる中、木箱に積まれて運ばれていく色とりどりの魚や、異国から届いたであろう珍しい香辛料や布地を目にしながら、セシルは物珍しそうに首を左右に振っていた。


そして、通りを歩いていた二人だったが、途中で屋台の前を通りかかると、セシルはふと立ち止まり、香ばしい匂いに釣られるようにそちらへとふらふらと歩み寄っていった。


並べられた焼き菓子らしき物をじっと見つめるその姿に、クロノスは「まったく......」と小さくため息をつきながらも、後ろからその首根っこを、まるで親猫が子猫を運ぶ時のように掴み、はぐれないように軽く引き戻していた。


そんなやり取りをしながらたどり着いたのは、通り沿いに屋台がずらりと軒を連ねる一角だった。


そこでは威勢のいい声が飛び交い、店主たちが笑顔で手を振っては、通りすがりの旅人や商人に声をかけており、色とりどりの布で飾られた屋根の下、果物や菓子、飾り細工に香辛料──ありとあらゆる品々が並び、見る者を楽しませていた。


「やぁやぁ、そこのお二人さん! うちの商品、見てっておくれ!」


そんな声が二人に飛んできたが、セシルとクロノスは軽く視線を交わし、会釈だけを返して足を止めることなく通り過ぎると、少し歩いたところで、セシルがふと口元に手を添えて、控えめにクロノスへと囁くように話しかけた。


「今の人、公用語で話してましたね」


その指摘にクロノスはほんのわずかに視線を動かし、頷くと、そのまま流れるように説明を始めた。


「ここは、これからセシルが向かう“オルフィエル王国”がある大陸と深い交易関係があるからな。あちらの大陸では、政治や教育、商取引なんかもその言葉で行われている。だから自然と、公用語を使う人間もこの町には多くなるんだ」


「なるほど...」と納得するように小さく頷いたセシルは、横を歩くクロノスの顔を見上げていた。すると、彼は少しの間、何かを思案するように無言で歩いていたが、やがて口を開いた。


「念のために聞いておくが......向こうに着いたら、公用語での会話が基本になるはずだ。問題なさそうか?」


「ふふっ。記憶喪失のわたしですが、不思議とそういう知識はちゃんと残ってるんです。問題ありません、任せてください!」


その頼もしいドヤ顔と掲げてきたピースサインに、クロノスは思わず小さく吹き出しそうになりながらも、それを堪えるようにふっと笑みを漏らし、表情を和らげた。


何気ないやり取りではあったが、緊張と不安が肌に染み込むような港町の空気の中で交わされた言葉たちは、張り詰めた心にじんわりと染み入るような安堵の余白を与えていた。


そんな穏やかなひとときが流れるうち、ふと二人の前には、大きく開けた視界の中に、帆を高く広げた一隻の船がゆっくりと姿を現した。


それは、風を孕んで優雅に揺れる帆と、磨き上げられた豪奢な船体が印象的な、どこか格式を漂わせる見事な船であった。


だが、セシルはその姿に見惚れるどころか、自分の想像を遥かに超える規模に思わず身を引いてしまい、瞳を丸くしたまま、驚きと戸惑いの声を漏らしていた。


「ひぇ、ぁ、あんなに凄そうな物に乗るの?!」


「......完全にラグジュアリー船だな。せいぜい、二、三時間の船旅なのに、相変わらずの豪華さだな」


セシルのやや怯えたようなその反応に、隣のクロノスもまた、口元を引き攣らせながら苦笑まじりに船を見上げながら、ぽつりと呟いていた。


すると、クロノスのその言葉を口にした直後、まるで船が出航の準備に入ったことを告げるかのように、低く響く汽笛の音が「ポォー」と空気を震わせながら港に鳴り渡った。


その重厚な音に背を押されるように、セシルはふと表情を引き締め、これまでとは打って変わった真剣な眼差しを僅かに細めながら、自分自身を鼓舞するように深呼吸した。


(ふぅーー。よし。そろそろ、行かないと......だね)


そして、再び船を見上げ、どこか決心したような表情を浮かばせると、クロノスの方へと向き直り、深く頭を下げた。


「あの。ここまで見送ってくださって、本当にありがとうございます、クロノスさん」


礼儀正しいその姿勢に、クロノスもまた穏やかな微笑みを浮かべて応えたものの、その眼差しの奥にはわずかな迷いと、言いかけた言葉を選ぶような躊躇いの色が差していた。


「何度でも言っておくが、無茶はするなよ。分かってるとは思うが、俺がすぐに駆けつけられる場所じゃないんだからな」


しんとした空気の中、クロノスの真面目な口調に少し照れたようなセシルは、堅くなりすぎた空気を解こうと、どこか軽やかな声で冗談めかして口を開いた。


「まぁまぁ、クロノスさん。立ち入り禁止って言ってまし──ぅなぁッ!」


だがその瞬間、あまりに気の抜けた調子に「油断するな」という無言の意思が込められたクロノスの手が軽く動き、容赦なく彼女の頭へとチョップが振り下ろされた。


その力加減は決して強すぎず、まるで子どもをたしなめるような優しさを含んだものだったが、セシルは頭を押さえてむくれたようにクロノスを僅かに睨み上げていた。


だが、クロノスはそんな彼女の反応を見て、肩の力をふっと抜くように小さく笑みを漏らすと、視線をゆるやかに逸らしながら、ふと目を留めたのは——海風に揺れる黒髪の間から、微かに光を反射してきらめいていた、彼と対になるような色違いの耳飾りだった。


そのささやかな揺らめきに、彼の眼差しがわずかに細められたかと思うと、次の瞬間、クロノスは何の躊躇いもなくその手をゆっくりと伸ばし、セシルの頬に触れぬよう気遣いながら、そっと髪を耳にかけ直した。


その指先がほんの一瞬、風に触れるように彼女の輪郭をなぞり、続いて落ち着いた低い声が、どこか遠くを見据えるような響きを帯びて静かに告げた。


「......気を付けて行くんだぞ」


その一言には、ただ旅路の安全を祈るという意味合いだけではなく、これからセシルが足を踏み入れるのが、精霊や教団といった得体の知れぬ存在が関わる土地であるということを深く理解したうえでの、強い不安と責任の重みが込められていた。


その真剣な眼差しに、セシルは一瞬目を見開いたが、すぐにその気持ちを受け止めるように、柔らかく、けれど力強く微笑み返した。


「......大丈夫ですよ。では、行ってきますね」


彼女は小さく息を吸い込み、迷いのない足取りで船へと向かって歩き出し、その背中を、クロノスはただ黙って見送っていた。


彼女が振り返ることはなく、しかしその姿が船体に吸い込まれていくまで、クロノスは一度も目を逸らさず、そこに立ち続けていた。



◇◇◇



やがて、船のタラップをゆっくりと上がり、手すりに自然と手を添えながら歩を進めるセシルの目に映ったのは、丁寧に磨き込まれた金属の手すりに施された繊細な蔓草模様の彫刻だった。


そこには、まるでこの船が単なる移動手段ではなく、一つの格式ある建築物であるかのような誇りが感じられ、さらに足元には鮮やかな赤い絨毯が敷かれており、それが静かに続いている様子はまるで王城へと向かう道のように荘厳さを感じさせるものだった。


そんな中、まるでその場の空気に飲まれるようにして一歩を踏み出したセシルは、船上の静けさと格式に圧倒されながらも、胸の奥にざわつくような緊張を抱えていた。


けれども、その不安を悟られまいと、彼女はそっと瞼を閉じてから小さく息を吸い、静かに整えた呼吸と共に表情を平静に保とうと努めていた。


(......大丈夫。ただの楽しい旅行だと思えばいい。そうよ、着いたらまず屋台でも回って、美味しいもの食べ歩きして......うん、それでいいんだ)


自分に言い聞かせるように思考を巡らせながら、少し硬くなった足を動かして再び歩き出したその時、不意に背後から丁寧な声が掛けられた。


「すみません、お客様」


「ひゃいっ!なんでしょうか!」


突然の呼びかけに驚いたセシルは、反射的に背筋を伸ばして体を反転させ、思わず声を裏返しながら返事をしながら声の主に視線を向けた。


すると、そこに立っていたのは、白を基調とした制服を身に纏った筋肉質の男性だった。


そして、よく見ると、彼は白い服をベースに、その裾や胸元には淡い水色のラインが控えめながらも美しく走り、肩口にはこれから向かうオルフィエラ王国の象徴を思わせる紋章が刺繍されていた。


それは誰の目にも、この人物が王国直属の乗務員――つまり船員であることを示す明確な証だった。


すると、彼はセシルのやや過剰な反応に申し訳なさ感じたのか、少しだけ口元に手を添えて遠慮がちに微笑んでから、柔らかく落ち着いた声で続けた。


「お声をおかけして申し訳ありません。実はお客様が向かわれていた方向は、宿泊客用の個室が並んでいる区域でして。ご案内いたしますので、こちらへどうぞ」


「あっ、そうなんですね!ありがとうございます!」


自分が早速、方向を間違えていたことに気づいたセシルは、頬をほんのり染めながらも慌てて言葉を返すと、照れ隠しのように指先でそっと髪先をいじりながら、船員の後に続いて歩き出した。


(はぁ、乗ったばかりなのにもう迷うなんて......本当に、やっていけるのかな。心配になってきた......)


そんな風に自分の不甲斐なさを噛みしめるように胸の中で小さくため息をついていると、前方を歩いていた船員がふとセシルに視線を軽く向け、今度は少し慎重な声色で再び話しかけてきた。


「それと、お客様。少々気になったのですが。マントをお持ちではないようですね」


「えっ、マント......ですか?」


予想外の言葉に戸惑い、セシルは思わず立ち止まりかけるが、歩を緩めつつも返事を返し、きょとんとした表情で船員の背中を見つめていると、彼は歩みを止めることなく、半身をこちらへ向けるようにして、なおも丁寧な口調で説明を続けた。


「はい。現王陛下が布告された義務でして、王国内では、すべての市民および訪問者が、屋外に出る際にはマントを着用することが義務付けられております。特に街中では、マントを身に付けていない者は王の定めに背いていると見なされ、場合によっては警備隊に呼び止められることもあるそうですので、お気をつけください」


「そ、そうなんですね......」


セシルはその説明に頷きつつも、ふと心の中で引っかかるものを覚えながら、口元に手を添えながら、首を微かに傾げさせていた。


(外に出るときに、全員がマントを?どうしてそんな決まりが......?単なる礼儀っていうには、少し違和感があるような......)


そう疑問を抱きながらも、それを口に出すことはせず、ひとまずこの国の風習に従うしかないのだと、自分に言い聞かせるように小さく頷いていた。


だが、同時にマントを持っていない状況に「どうしよう...」と不安を覚えながらも、船員に着いていって行った。


そうしていると、船員はピタリと足の動きを止め、振り返りざまにセシルの方へと穏やかな笑みを浮かべながら、ゆったりとした口調で言葉を続けた。


「はい。こちらです、お客様」


案内された先にあったのは、まるで古い童話の一節に登場するかのような、重厚で豪奢な両開きの扉だった。


その深く艶のある木肌には精緻な彫刻が施されており、金の装飾が控えめながらも確かな存在感を放ち、ただそこに立っているだけで見る者の胸に小さな緊張を走らせるような気配を纏っていた。


そして、船員がその片扉に手を添えると、まるで儀礼に則った一連の動作のように、静かで無駄のない動きで開き放たれると、セシルの眼前に広がったのは──現実のものとは思えない、眩いばかりの異世界のような光景だった。


天井からは幾千もの小さなガラスの粒が煌めきを放つ巨大なシャンデリアが優美に吊るされ、壁一面に埋め込まれた鏡が空間を何倍にも広く、幻想的に映し出していた。


そして、足元には磨き抜かれた白い大理石が敷き詰められ、反射する光がゆらゆらと幻想のように揺れ動いており、そして行き交う人々の衣服は、どれもが華麗な刺繍に彩られ、ところどころに小さな宝石が埋め込まれており、まるで衣そのものが貴族の権威を語っているかのようだった。


空気には、甘さを抑えた優美な香水の香りが漂い、耳を澄ませば、遠くで奏でられる弦楽器の静かな旋律が、まるで波紋のように空間全体へと広がっていた。


その音と香りは、時間の流れさえもゆるやかに引き延ばし、この一室だけが現実から切り離された別世界であるかのような錯覚を呼び起こしていた。


そんな中、セシルはひとり、目の前に広がる景色に思わず圧倒されながら、どこか不安そうな面持ちでそっと胸元に手を当てていた。


(ご、豪華すぎる......まさかほぼ全員、貴族の方?)


その考えがふと頭をよぎった瞬間、身体がすくんだように脚が前へ進まず、セシルは扉の外から一歩も動けずに、ただ呆然と中を見つめるばかりだった。


すると、彼女の異変に気づいたのか、扉を支えていた船員は静かに彼女のそばへと戻ってくると、今度は人目を気にするように少し身を屈め、耳元にそっと声を落とした。


「お客様。もしあの空間があまり得意でないようでしたら、中に入って右手奥にある階段を上がると、甲板へと出られますよ。貴族の方々はまず行きませんし、風も心地よくて海もよく見えます。少し気持ちを落ち着けるには、ちょうど良いかと思います」


その声は柔らかく、どこまでも穏やかで、決して押し付けがましくも、遠慮がちすぎるわけでもなかった。


その自然な気遣いに、セシルは少し驚いたように顔を上げると、そこには相変わらずの落ち着いた微笑みを浮かべた船員が、優しく彼女を見守るように視線を向けていた。


その目に宿るごく僅かな温もりを感じ取った瞬間、セシルの胸の奥で張り詰めていたものがふっと緩み、どこかで冷たくなりかけていた心が、ほんの少しだけ温まったような気がした。


思わず唇に浮かんだ小さな笑みをそのままに、彼女は丁寧に頭を下げながら、感謝の言葉を口にした。


「ありがとうございます。ここまで、ご丁寧に。とても、助かりました」


「いぇ、どういたしまして。むしろ、少々お節介が過ぎましたかね」


それを聞いた船員は、どこか照れたように軽く後頭部をかきながらも、どこか誇らしげな微笑みを浮かべてこう返した。


セシルはその姿にふっと笑みを返しながら、胸の奥に芽生えたささやかな安心感を、そっと自分の手で抱きしめるようにして、今度は自らの手で扉の取っ手へと手を伸ばすと、そのまま静かに足を踏み出した。


(よしっ!とりあえず、クロノスさんから聞いた感じの悪い貴族のイメージしか知らないから、この場の雰囲気を味わってから判断しないとだね...)


内心でそう自分に言い聞かせるように、セシルは気合を入れて心の中で小さなガッツポーズを作ると、意を決したように豪華なホールの中へと歩を進めていった。


だが、ほんの数歩、いや、数秒も経たないうちに、何か冷たいものが身体を撫でるような感覚がセシルの肌を突き刺した。


それは目には見えないが確かに存在している、他方からの視線──まるで値踏みするような、探るような視線の奔流が、一斉に彼女の方へと向けられて、加えて、耳に届くのはひそひそとした囁き声。


内容までは分からないものの、声の抑え方からして、自分のことを話題にされているのは明白だった。


(......見られてる、ね)


その認識が、まるで胸の内に硬い氷の欠片を沈められたかのような冷たさとなってじわじわと広がり、セシルは反射的に身をすぼめるようにして身体をわずかに丸め、胸元にあしらわれた大きく白いリボンを、意識せずぎゅっと握りしめていた。


まるでこの場にいること自体が間違いであるかのような、ひとつの異物として空間から浮き上がってしまっている感覚。周囲から流れ込んでくる無言の拒絶と静かな違和感に、彼女は息苦しささえ覚えた。


そんな中、セシルはほんの僅かに目を細め、息を整えるように内心でそっと呟いた。


(......うん、お耳閉じて、甲板に行こう。そうしよう、それがいい)


そう自分に言い聞かせるようにして、セシルはくるりと踵を返すと、あたかも最初からそちらへ向かうつもりだったかのように自然な所作で、右手奥にある階段へと歩を進めていった。


その足取りには、まるでその場から逃げるような脆さが確かに滲んでいたが、同時に、こうして自分を保ち続けようとする意志の芯もまた、確かに見れて取れた。


軽やかに、それでいて静かに響く足音を残してホールを離れていくその背に、なおも好奇と粗を探るような視線が、重く、絡みつくように注がれ続けていた。



________________________________________



「やぁねぇ、あんなに安っぽい外見なんてね。この場の格に見合ってないのが、自分でわからないのかしら?」


「ほんとですわね。それに、あんなに堂々と剣なんて腰に下げてるなんて。まるでどこかの傭兵か、流れ者よ。野蛮だこと」


「所作が無駄に整ってる分、逆に浮いてて目立ってるわよね。......ま、育ちは悪くなさそうだけど」


グラスの中の臙脂えんじ色の液体を揺らしながら、貴族の令嬢らしき女性たちは、互いに軽やかに笑いを交わしつつ、刺々しい言葉を次々と紡いでいた。


その笑みはあくまで優雅で洗練されているが、声の抑揚や目元の光には、見慣れたものを拒む排他意識と、閉ざされた世界の中で退屈を紛らわせるための意地の悪さが、ほんのりと滲んでいた。


場の空気がゆったりと流れる中で、彼女たちから少し離れた壁際に、一人の人物が静かに腕を組み、さも気配を溶け込ませるようにして立っていた。


淡い陽光が差し込む船の窓辺、その傍らの壁に背を預けるように立つ一人の男性は、喧騒と華美に満ちた社交の空気にはどこか馴染まぬ雰囲気を纏っていた。


動き一つ見せぬその姿はまるで静かな彫像のようでありながら、サングラスの奥に隠された眼差しは、決してこの場に気を許してはいない。


むしろ全てを見透かすような冷ややかさと、どこか達観したような倦みを孕んでいた。


(......あーあ、他人様の悪口なんて言ったところで、一円にもならねぇのにな。好き勝手言ってる連中ってのは、決まってつまらなそうな顔してんだか。)


内心で投げやりな独白を吐きつつも、その人物は軽く顎を引いたまま、傲然たる会話の中心にいるであろう人物を探すように、ごくわずかに視線だけを漂わせた。


そしてそのまま何気なく視界の隅を舐めるように流していたその瞬間、不意に人混みの向こう、甲板へと続く階段をゆっくりと登っていく少女の後ろ姿が、彼の目に留まった。


少女は、きらびやかな衣装に身を包んだ貴族たちの中にあって、明らかに異質な存在でありながら、その佇まいには不思議と品位が宿っており、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿からは、周囲の視線や言葉にも一切揺るがぬその様子に、一種の美しさと、どこか危うさめいたものが共存していた。


(ん、中々見ないタイプのお嬢ちゃんだな。肝が据わってるってのは、あぁいうのを言うんだろうな。......あー、いや、それだけじゃないね。)


彼女の存在に引き寄せられるように、男は静かに壁から身体を離すと、ゆっくりと一歩を踏み出しながら、唇の片端でわずかに笑みを描き、男は低く、独り言のように呟いた。


「いやはや、こりゃまた。運命ってのはずいぶんと気まぐれな舞台を用意してくれたもんだ。どうやら、今までの静観も今日でおしまいってことか......。」


周囲の誰一人として、少女を追いかけることも、引き止めることもせず、ただ、空間に漂う音楽と香水の甘い香りだけが、表面だけの平穏を繕っていた。


――だが、彼だけは違った。少女の背を見送ったその瞬間、彼の中で確かに、何かが静かに動き始めていた。

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