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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第二部. 王女と剣士の誓い : 歪めし片目と契約悪魔の暴走
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第50話. 二択の提案



「起きろ、セシル。もうすぐで着くぞ」


耳元に低く、けれどどこか柔らかさを含んだクロノスの声が届いたのと同時に、身体が軽く揺さぶられる感覚があった。


「ぅん......?」


ゆるやかな振動に包まれながら、セシルはぼんやりとした意識の中で瞼を擦り、ゆっくりと目を開けると、視界の先には、どこか呆れたようなクロノスの顔があり、彼の片耳では、淡く光る耳飾りが静かに揺れていた。


しかし、彼の服装は以前のものとはまるで違っていた。かつて出会った頃に纏っていた、貴族風の装束ではなく、今の彼は黒を基調とした重厚なロングコートを身にまとい、足元までしっかりと覆われていた。


胸元には装飾的な筒状の留め具が左右対称に並び、腰には機能的な細身のベルトがきっちりと締められており、その上、肩から背中にかけてはマントのような布が優雅に垂れており、馬車の揺れにあわせて静かに舞っている。


そして、外からはパカパカと馬の蹄音が心地よく響き、車輪のきしみと揺れが全身を包み込むように伝わってきており、この感触から、セシルは自分たちが今、馬車の中にいるのだとようやく理解した。


「あれ......ここ、馬車? クロノスさんも、なんだか、すごくカッコいい服なんて着ちゃって......」


まだ眠気の残る声でそう呟いたセシルの言葉に、クロノスは一瞬だけ顔を顰めたかと思うと、すぐに恥ずかしさを誤魔化すようにムッとした顔で彼女の頭に手を伸ばし、思い切り乱暴に撫で回し始めた。


「......なに、寝ぼけたこと言ってるんだ。もうすぐで、“オルフィエラ王国”に行くための港町に着くんだろ。しっかりしろ。今までと違って、あそこは貴族も多く集まる場所なんだぞ」


「うにゃあぁぁ〜っ、や、やめてくださいよ〜!」


セシルはクロノスの手を頭から振りほどこうと、両手で小さな抗議のように掴んだが、彼はまるでそれを楽しんでいるかのように、手の力を緩める様子はなかった。


やがて、セシルはふと自分の手の感触に違和感を覚え、クロノスの手を忘れるかのように手と視線を同時に下ろした。


(あれ......なんか感触が、違う?)


目を落とした先には、上品でありながら可愛らしさを含んだレースの手袋があり、それを身につけている自分の手が、どこか他人のもののように感じられた。そして、そこから自然と視線を自分の服装へと移していった。


そこには、トップスは深い森を思わせるような落ち着いた緑の色合いで統一され、胸元には清らかな白の大きなリボンが結ばれていた。


肩から胸にかけては、ケープのような一枚布がふんわりと重なり、ウエストには銀色の丸いバックルが輝く細いベルトが締められていて、全体のシルエットに気品を与えており、また、スカート部分は優しいクリーム色で、そこには繊細なレースが縁取られ、ふわりとした透け感がどこか幻想的な印象を感じられる。


そして、そんな彼女の腰には、見覚えのある剣と、それとは別に綺麗に磨き上げられた短剣の柄が革のカバーから覗かせているものが掛かっていた。


まさに、誰かに「見せるための装い」といった印象で、明らかに普段の自分が着るような服装ではない。


ましてや、無意識のうちにこんな服を着ていた自分に、セシルは一瞬戸惑いの混じった表情を浮かべた。


クロノスが発した‟オルフィエラ王国”という言葉。明らかに出かけるときのような豪華な服装とレースの手袋。そして馬車の揺れ。


(......あっ、そういえば。なんで、あんな事、忘れちゃってたんだろう)


点と点だった情報が、まるで一本の線で繋がるように、数日前の出来事が脳裏によみがえり始めていた。


寝ぼけていた事により、深部に沈んでいた記憶の断片が、ゆっくりと浮上してくるような感覚とともに、セシルの思考は徐々に覚醒していった――。



________________________________________



――数日前。


街の喧騒が遠くから響いてくる中、セシルは人々の往来の中で静かに立ち止まり、目を閉じたまま、包帯が巻かれている手をそっと合わせるように重ね、まるで祈りを捧げているかのように身動きひとつせず佇んでいた。


その視線の先にあるのは、かつて彼女が傷心な思いを抱えた、あの井戸――今は使用されておらず、街の復興と共に安全性を考慮され、柵に囲まれて静かに残されている場所だった。


「......」


沈黙の中で立つセシルのその姿は、どこか神聖さすら感じさせるほど整っており、けれど、その優美な立ち姿からは、彼女が何を思い、何を祈っているのかまでは伺い知ることはできなかった。


ただ、彼女の表情には、かすかな慈しみと共に、何かを決意した人特有の静かな覚悟が滲んでいた。


そんな彼女の背後に、ふと柔らかな空気の流れが生まれたかと思うと、それと同時に温もりを感じさせる掌がそっとセシルの頭に乗せられた。


驚いたセシルが反射的に振り返ると、そこには貴族風の装いを纏いながらも、どこか落ち着いた雰囲気を漂わせたクロノスが静かに立っていた。


彼は、言葉を交わさずとも安心感を与えるような眼差しで、ただ静かにセシルを見つめており、その優しげな視線に触れたセシルは、ふっと肩の力を抜くように、自然な微笑みを浮かべて言葉を口にした。


「帰って来ていたんですね......おかえりなさい」


「......あぁ、ただいま」


クロノスは、その穏やかな微笑みにどこか安堵したような様子で短く返事をし、ふと視線を井戸の方へと向けていた。


二人の間に流れる空気は、数週間前の張り詰めた緊張とは異なり、穏やかで、静かで、どこか懐かしさすら感じさせるものだった。


やがて、その空気を壊さぬようにしながらも、セシルが口を開き、控えめに問いを投げかけた。


「どうでした、クロノスさん。何か、収穫ありました?」


「......あぁ。そのことなんだがな――」


セシルの言葉に応えるように、クロノスは小さく頷きながら言葉を選んでいた。



セシルが言っていた「帰って来ていたんですね」という言葉は、ほんの挨拶のように聞こえるかもしれない。


だがその裏には、彼がセシルと正面から向き合ったあの日以降、何か今の自分たちにできる道を探す為に数日間、街を出ていたという確かな時間の積み重ねがあった。


クロノスは、エンデと名乗る男からセシルが受け取ったという、紫苑色の花が繊細に描かれた招待状と、偶然拾ったという、教団関係者のものと思しき青白い花を模したブローチの二つを手に、その記憶と謎が複雑に交差する場所――かつてのアキラとの日々を知る過去の地であり、同時に新たな真実への糸口が残されているかもしれないその場所へと、確かな足取りで向かっていたのである。


勿論、その旅にセシルも同行すると言い出したが、クロノスは彼女に街の平穏を守ってほしいと頼み込んでいた。


それは表向きには、街に現れるようになった魔獣から人々を守ってほしいという建前だったが、本心では、少しでもセシルに穏やかな時間を過ごしてほしい、心を休めてほしいという彼なりの願いだった。


そして、肝心の「収穫」についてだが――


クロノスが再び足を踏み入れた、かつてアキラと共に過ごしたあの場所には、もはや彼の記憶にあったような静けさや穏やかさは微塵も残されておらず、代わりに誰かの手によって荒らされたとしか思えない無残な痕跡が、あまりにも明確に広がっていた。


セシルから託されていた、教団に繋がると思われる招待状やブローチも、ここでは何の意味も持たず、むしろそれらの手がかりすら、何者かによって先回りされて全てかき回されてしまったかのような、そんな後味の悪い気配だけが辺りに残されていたのだった。



「―― そういうことだ。やはり、教団の奴らが先に手を回していたらしい。探せそうな場所は、もう跡形もなかった」


一連の話を告げられたセシルは、一瞬だけ目に陰りを宿したものの、それ以上感情を波立たせることなく、小さく深呼吸をし、困ったように笑みを浮かべながらクロノスに向き直った。


「いやぁ、やっぱり手がかり見つけるの大変ですね......これからどうしましょうか」


その問いかけに、クロノスは少し申し訳なさそうに視線を伏せたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げ、まっすぐに彼女を見据えて言った。


「正直に言えば、どちらも気が進まない。ただ、俺から二つ提案がある」


彼の真剣な眼差しに、セシルは無意識に喉を鳴らし、次の言葉を待とうとした――その時。


ぐぅ~~~


「ぁっ......」


張りつめていた空気を、唐突に、けれどもどこかセシルらしい形で破ったのは、彼女のお腹から響いた、控えめながらもしっかりと聞き取れる音だった。


それまでの真剣な雰囲気や静謐せいひつさは、一瞬で揺らぎ、その場には再び街の喧騒が溶け込んでくるかのように賑やかさが戻ってきており、クロノスは、突然の出来事に反応しきれず、心の芯から力が抜けたような脱力感を顔に滲ませながら、まるで魂が抜けたかのように盛大に呆れの色を浮かべていた。


対するセシルは、自分でも予想していなかった事態に、恥ずかしそうに小さく肩をすくめながらも、手を胸元でそっと合わせて、まるで「ごめんなさい」と言葉にする代わりのように、茶目っ気に舌を出していた。


重苦しい緊張感が一気に肩すかしを食らい、代わりに訪れたのは、どこか気まずさと可笑しさが混じったような空気だったが、それも長くは続かなかった。


ふっと苦笑ともため息ともつかない呼気を漏らしたクロノスは、拍子抜けしたような優しい声色で、まるで気を取り直すように言葉を継いだ。


「......逆に良いタイミングかもしれないな。何か軽く買って、人に聞かれない場所で食べよう」


「えっへへ、すみません。お気遣いありがとうございます」


恥じらいながらも、セシルは嬉しそうに頬を緩ませ、照れ隠しのように自分の頬を指先で掻いた。


そんな彼女を見て、クロノスもまた、ふっと小さな笑みを漏らすと、二人は人の流れに紛れるように歩き出し、静かに食べる物を求めて街の中へと消えていった。



◇◇◇



やがて二人は、賑やかな通りから少し外れた、どこか静けさが落ち着くような一角へと足を進めた。


人通りもまばらになり、騒がしさが少しずつ遠のいていくにつれて、木々のざわめきや遠くで聞こえる小鳥のさえずりが、まるで意図しているかのように、彼らの会話の余白を優しく包み込んでいた。


そこに設置された簡素な木製のベンチへと腰を下ろしたセシルは、手にした細く編まれたチーズが生地に練り込まれ、まるで髪の毛を丁寧に編み込んだような形状のパンを嬉しそうに頬張りながら、心の底から満たされているような笑顔を浮かべていた。


「ん~、美味しい。これ、新作なんですよ」


弾んだ声でそう呟く彼女の横顔を、クロノスは黙って見つめていた。その眼差しにはどこか微笑ましさと優しさが滲んでいたが、同時に、彼の脳裏にはまだ拭いきれない懸念がひっそりと影を落としていた。



ナイフやフォークを手に持つことに未だどこかで抵抗を抱えている彼女の姿――その根底にある過去の傷を思うたび、栄養が偏ったサンドイッチばかりを選んでしまう傾向に、どうしても小さな不安が拭えなかった。



だがその思いを表に出すことはせず、クロノスはわずかに息を吐くと、自らの中で封じるようにして話題を切り替えた。


「それで、これからのことについて提案なんだが――」


「ん、んんッ!!ごくん......ぷはっ。んもぉ、急に話始めるんですね」


パンを頬張るのに夢中になっていたセシルは、少し驚いたように声を詰まらせ、急いで飲み込んだあと、ぷくりと膨らませた頬を戻しながら、少し拗ねたようにクロノスを見上げた。


「ふっ......すまない。だが、早めに聞いてほしくてな」


クロノスの声音には、どこか穏やかさがにじんでいた。しかしその一方で、言葉の端々からは、微かな緊張や、言葉を選びながら話そうとする真剣な気配も感じられた。


その空気を敏感に感じ取ったセシルは、小さくふぅっと息を吐くと、手にしていた食べかけのパンを紙袋に丁寧に包んでしまい、静かに姿勢を正した。そして、目の前のクロノスを見据えながら、無言で頷いてみせた。そして、クロノスは一拍の間を置いてから、ゆっくりと話し始めた。


「......まず、ひとつ目だ。俺の“知り合い”でもある、契約悪魔に会いに行く。お前にはこれまで詳細を話してこなかったが。それには、それなりの理由がある」


そこでいったん言葉を切ったクロノスは、視線を少し逸らすようにしながら、肩の力を抜くように息をひとつ吐いた。そして、再びセシルの目を見て言葉を続けた。


「正直、あまり会いたくはない相手だが。けど、俺たちが前に進むには“避けては通れない存在”なんだ」


セシルはその言葉に対して、しばらくの沈黙のあと、「なるほどな」と小さく呟いた。その声は、納得の色を含みながらも、どこか慎重な響きを帯びていた。


クロノスはそんな彼女の様子を見て、再び口を閉ざすと、目に見えない何かを振り払うように、静かにもう一度深呼吸した。


「そして、もう一つは、この街から北にある島陸の、とある場所――“オルフィエラ王国”に向かうことになる。そして、その場所で()()()()()を確かめることだ」


その言葉が口をついて出た瞬間、場の空気がわずかに張りつめたように感じられた。


クロノスが口を閉じると、セシルは目をぱちくりとさせ、何かを整理しようとするように一瞬黙り込んだが――その静寂を破ったのは、やや遅れてから訪れた彼女の素早い反応だった。


「いやいやいやいや!!『気が進まない』って言うから何か深刻な事かと思ってたのに、前者はともかく、歪みの力って......!それ、絶対に精霊と関係あるやつじゃないですか!?そっちを優先するべきですよ!!」


セシルは勢いよくベンチから立ち上がると、鋭い目つきでクロノスを見据えたまま、つかつかと距離を詰め、ついには彼の肩に手をかけてぐいと体ごと揺さぶろうとした――しかし。


「待て、話を聞け」


クロノスは観念したように、けれど穏やかに言葉を発し、その手でセシルの両手をそっと掴み、優しく自身の肩から離した。


「気が進まないと言ったのには、それなりの理由がある。だから、ちゃんと説明させてくれ」


彼はそう言いながら、まるで子どもをなだめるような落ち着いた手つきで、セシルの肩に優しく触れ、そのままの勢いで軽く押すようにして、ベンチに腰を下ろさせた。


セシルは少し不満げに眉を寄せ、ふくれっ面を作りながらも、抵抗らしい抵抗もせずに座らされるままに従い、しぶしぶといった様子で彼の話に耳を傾ける体勢に入った。


「端的に言う。俺はその王国に行けない。正式には、立ち入りを禁じられている」


「えっ......?」


思いもよらない理由に言葉を失ったセシルは、ぽかんとした表情でクロノスを見つめ、気まずそうに視線を逸らそうとする彼の様子に思わず、小さく声を漏らした。


けれど、その場の空気の気まずさを感じ取ってか、その雰囲気を和らげようと、少し冗談めかした口調で言葉を続けた。


「い、いやだなぁ、まさかクロノスさん。何か悪いことでもしちゃったんで――」


おどけたような調子で話しながら、セシルはクロノスの肩をぽんぽんと軽く叩いたが、クロノスが苦笑すら浮かべず、わざとらしいほどに視線を逸らし、明後日の方向をじっと見始めた事により冗談が通じる雰囲気ではないことをすぐに察した。


「えっ......クロノスさん......」


セシルは肩をすくめるようにして、そのまま言葉を飲み込んだ。何気ない一言のつもりだったが、どうやら思った以上に触れてはいけない話題だったらしい。


「おい、そのドン引きした目を向けるな。俺は断じて、誰かを殺したりなんてしてないし、迷惑......は、大いにかけたかもしれんが。とにかくセシルが想像してるような類のことはしてない」


あまりにも必死な様子で否定するクロノスの姿に、セシルは思わず「ふふっ」と吹き出し、抑えようとした笑いがこぼれてしまい、ついには口元を手で覆いながら、小さく笑い声を漏らしていた。


その笑みの裏には、気まずさを隠しきれず頭を掻くクロノスの、どこか不器用で人間らしい仕草が見えていて、冷静沈着で感情を表に出さない彼の普段の態度を知っているセシルにとっては、その不意に覗いた素顔がむしろ新鮮に映り、緊張していた肩の力が自然と抜けていくのを感じていた。


そして、笑いの余韻が徐々に静まり、空気に穏やかな沈黙が満ちていく中で、セシルはゆっくりと視線を落とし、一拍おいたのち、思案するように顔を上げた。


その表情には、先ほどまでの柔らかさは跡形もなく消え失せ、代わりに彼女の内に灯った覚悟が、静かな炎のようにその瞳に宿っていた。


「とりあえず、クロノスさんが行けない事はわかりました。ですが......“歪みの力”が実際に確認された以上、わたしは行きます。一人でもね」


真っ直ぐで、一分の曇りもないその宣言に、クロノスは聞いているだけで気が遠くなりそうなほど、盛大なため息をついた。


「はぁぁぁぁーーー」


「えっ、な、なんですか!!」


セシルが思わず身を乗り出しながら抗議の声を上げたその瞬間、クロノスはまるで肩にかかっていた何かをまとめて落とすように大きくため息をつき、ベンチの背もたれに身体を預けるように身を沈めた。


だが、次の瞬間、彼はまるで何かを振り払うように勢いよく顔を上げると、セシルの額目がけて容赦なくデコピンを放った。


「ったぁ、!」


「ったく、わかってないな。『歪みの力を確認した』ってのは、ただ精霊の事を調べるチャンスってだけじゃない。教団......特に、“あの者”のような連中と再び出くわす危険性がある。お前一人で行くなんて、正気の沙汰じゃない」


セシルはデコピンされた額をさすりながら、しかしその言葉にはしっかりと耳を傾けていた。クロノスの言う“あの者”――それが誰を指しているかは聞かずとも分かっていた。


頭の奥で、あの銃声の残響がよみがえり、次いで、魔獣が大量に召喚されたあの場面の凄惨さ、身のすくむような恐怖。それは決して忘れられるようなものではなく、今も彼女の中に深く、重く刻まれていた。


それでも尚、セシルの目からは一切の迷いが消え、むしろ確信に満ちた光を宿しながら彼女は静かに口を開いた。


「わたし、クロノスさんがいないと何もできないって思われたくないんです。今のわたしが、本当に自分の力で前に進めるようになったのか......それを確かめるためにも、これは必要なことなんです」


そして、セシルの放った言葉に対し、クロノスはまるで彼女がその話題を口にした時点で、最終的にどう言い出すか、そしてどんな言葉を投げかけても彼女の意志が変わらないことを初めから理解していたかのように、口を閉ざしたまま押し黙った。


その沈黙の中には、まるで諦めの色を滲ませながらも、同時に言葉にはならないほんの僅かな寂しさが混じっていて、彼の胸の奥底に小さな波紋のように広がっていくのが、どこか空気の揺らぎからも感じ取れるようだった。


そして、何かを言いかけ、ほんのわずかに唇を動かしかけたその瞬間――まるでその重たい空気を跳ね除けるかのように、セシルが勢いよく立ち上がった。


その手には、先程、途中で食べるのをやめたまま残っていたパンが入った小さな紙袋が握られており、彼女の顔にはまるで曇り一つない晴れやかな笑顔が咲いていた。


「それに、それでわたしが死んじゃったら、それはそれでしょうがないってことで!むしろ、わたしとの契約が途切れて、クロノスさんの記憶が戻るかもしれませんよ?」


「なっ、お前なぁ!!!」


「ではでは、善は急げってことで!その“オルフィエラ王国”に行くって、ブリギッタちゃんたちに伝えてきますねー!」


そう言うなり、セシルはその小柄な体からは想像できないほどの勢いで、街の人混みの中へと飛び込んでいった。


クロノスが咄嗟に伸ばした手は、虚空を掴むこともできずに宙を舞い、結局彼女の背中はあっという間に人の波に紛れて消えていった。


「おい、待て!!まだ目的地の名前しか聞いてないだろ!!......まさか、最初の案すら聞く気がなかったとは思わなかったぞ」


どうしようもない苛立ちと焦燥に突き動かされるように、クロノスは頭を乱暴に掻くと、小さく呟くように、けれど確かな怒気を孕んだ声でぼやいた。


「あいつ、自分の命を軽く扱いすぎなんだよ。はぁ、それだから、俺が時を止める力を“本来どうやって引き出すか”、伝えられないんだよ」

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