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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第一部. 契約悪魔と精霊の交差点:忘却の契約と廻る歯車
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第47話. 達観されし断決



走り出してから、まだほんの僅かな時間しか経過していないというのに、アキラたちの背後からは、空間そのものを引き裂くような魔獣の咆哮がいくつも重なり合いながら響き渡り、その耳をつんざくような咆哮の合間には、空を這うようにして接近してくる巨大な翼の羽ばたき音が、不協和音のように辺り一面に反響していた。


グジャァァァッ!!!


「ッ、......ちっ、魔獣か」


鋭く耳を突く咆哮に、アキラは苦々しく舌打ちをしながら、ほんの一瞬、何かを思い悩むような曇った表情を浮かべた。


しかし彼の眼差しはすぐに燃え立つような決意に塗り替わり、抱えたセシルの体を担ぎ直すと、炎の残滓を帯びるような視線をちらりと背後へと投げた。


「あのな、コイツはお前らみたいな雑魚どもに、そう簡単に殺されていい命じゃねぇんだよ!!」


怒りを孕んだ声が、震える空気を切り裂くようにして響き渡り、まるで呪詛のように世界に刻まれると同時に、アキラは失ったはずの左腕に、確かにそこに存在しているかのような強い意志を叩きつけた。


その瞬間、地を抉るような轟音が大気を震わせ、澄んだ芳香を孕んだ風が辺りを吹き抜け、まるでこの場に神域が降り立ったかのような荘厳な気配が、地面を媒介にして立ち現れた。


見る間に、地表には天へと届かんばかりに咲き乱れる藤紫の花々が咲き誇り、まるで異界への門が開かれたかのように、眼前の光景を一変させた。


(大人しく這いつくばってろ。お前らに進む道はここには、ない――)


アキラの脳裏に強く刻まれたその意思は、まるで現実を塗り替えるかのように顕現けんげんした。


脳裏に刻まれた強い意志が、現実を歪めるかのように顕現し、次の瞬間には、幾重にも重なった花弁と絡み合う蔓が奔流となって押し寄せ、迫り来る魔獣たちを次々と絡め取り、締め上げ、突き刺し、容赦なく地面へと叩きつけていった。


だが、決して油断できる状況ではなく、中にはその攻撃を跳躍でかわし、あるいは翼で高く舞い上がり、空を縦横無尽に舞いながら執拗に食らいついてくる個体も多かった。未だその数は一向に減少する気配を見せなかった。


(この数......まさか、クロノスがこっちに向かってきているか?)


アキラの脳裏に過ったのは、クロノスがあの者の元を離れたことにより、その動きに反応する形で魔獣がこちらに回り込み、偶然、見つけた自分たちを狙っているのではないか、という仮説だった。


彼はすぐに周囲に花の召喚を続けながら、契約者としての特権――契約悪魔の大まかな位置を察知する能力を発動させ、クロノスの所在を探った。


そして、その情報を得た瞬間、アキラの眉がぴくりと動かした。


「ッ......違う。あの魔獣も、あの手も、偶然現れたんじゃない。アイツが、こっちを狙って別口で送り込んできたんだ。クロノスがたかが魔獣を取り零すはずがない」


アキラの脳裏にはクロノスは未だ、先ほど自分たちがいた地点から動かず、そこに留まりながら戦っていたのが分かった。


その事でアキラはすぐに、これらの魔獣があの者によって新たに呼び出されたのだと確信した事で、その口調には、怒りだけでなく、焦りと苛立ちを滲ませながら、再び迫ってくる魔獣を貫かせるように花々を伸ばし続けた。


「おい、息してるか」


ふと、背中に抱えた少女に声をかけるが、返ってくるのはかすれた吐息だけだった。


それでも、彼はセシルを落とさぬようしっかりと腕に力を込め、まるで地を踏みしめる度に結界を築くように、足元には次々と藤色の花々が咲き乱れ、魔獣の進行を拒むように道を彩っていった。


(こいつは、精霊がかつて失った力を宿しているはずだ。だからこそ、アイツには絶対に知られてはならない。この存在自体、精霊を崇めているあの者にとっては最大の冒涜。そして同時に――歪んだ今の精霊の在り方を変え得る唯一の可能性なんだッ)


アキラは花の香りが混じる空気の中、荒れた呼吸を必死に抑えながら、後方の魔獣をけん制しつつ走り続けた。しかし次の瞬間、地面から突き破るようにして異形の影が突き上がってきた。


ガラガラガラッ!


地盤ごと揺るがす凄まじい衝撃と共に、地中から這い出してきたのは、全身を堅牢な鱗で覆い尽くし、眼すら持たず、円環状に開いた口内に無数の牙を備えた異様な魔獣だった。


その異形の魔獣は、耳をつんざくような甲高い咆哮を上げると、ただ本能に従うように、長大な首を振りかざし、ためらい一つ見せることなく、纏めて一息に呑み込まんとするかのように、アキラたちに向かって勢いよく伸びてきた。


「薄気味悪い、図体しやがって回り込んできやがったな。だが、すぐに地べたに這いつくばらせてやるよ」


アキラは、眼前に突如として現れた魔獣を前にしても一切怯むことなく、むしろ戦意を剥き出しにして、瞬時に藤色の花を召喚させた。


その花々は彼の意志に応えるように勢いよく広がり、まるでクロノスの鎖のように空気を切り裂いて伸びようとした。だが、その瞬間、背後から耳に焼き付くような鋭い音が響いた。


バキューンッ


「ッは......?あの者、の ?!」


背後から聞き覚えのある銃声が聞こえて来たことにより、反射的にその場で立ち止まりかけたアキラの意識は、背後から自分たちを追う新たな脅威を即座に認識した。


「ちっ、挟み撃ちとは......良い趣味してやがるな!!」


歯噛みしながら悪態をつくと、アキラは即座に背後へ向けて、藤色の花を瞬間的に広げ、力をたえぎらせた。


次いで、背に抱えていたセシルを、より確実に守れるよう前へと抱え直し、失った左腕に代わって、残った右腕だけで彼女を必死に庇うように、しっかりと抱きしめた。直後――


ズシャァッ! バツンッ!


「ぐっ...ッ」


咄嗟に放った花の蔦が、かろうじて銃弾の軌道を逸らしたものの、完全には防ぎ切れず、弾丸はアキラのかつて左腕があった肩口を掠め、鋭く皮膚を抉り取った。


しかし、アキラは苦悶の声を喉奥で押し殺しながらも、かろうじて体勢を崩すことなく踏みとどまり、セシルを守る腕を緩めることなく、なおも前方へと駆け続けた。


一方、彼らに迫っていた銃弾は、逸れることなく直進し、そのまま正面から突進していた魔獣の巨体を真っ向から貫き、咆哮と共にその血肉を盛大に引き裂いていった。


轟音と共に吹き飛び、血飛沫を撒き散らしながら崩れ落ちる魔獣。飛び散る汚れを遮るように、アキラは再びセシルを強く抱き寄せ、自らの体を盾にして彼女を守りながら、僅かに引き結んだ口元の奥で、鋭く思考を巡らせた。


(くそっ、魔獣だけならまだしも。まさか、あの者自身もクロノスを振り切って、追ってきやがったのかよ......)


怒りにも似た焦燥が脳内を渦巻くが、それでもアキラは冷静さを失わず、周囲に警戒の視線を配りながら、進路を切り開こうと必死に走り続けた。そんな中、進行方向を睨んだアキラの目に、あるものが映った。


「......あれは」


無意識に腕の中のセシルへと視線を落とし、彼女の穏やかな寝顔を一瞥したその刹那、アキラの脳裏には確信めいた閃きが走ると、迷うことなく、見つけたそれへ向けて、一層加速させた。


(あの者の動きからして、セシルの力には気づいていない......なら、アイツの狙いは――)


その瞬間、足元に、突如鋭い痛みと共に重さがのしかかった。


「っ...!」


激痛と共に体勢を崩しかけたアキラだったが、辛うじて踏みとどまり、素早く視線を落とすと、そこには、かつてセシルの首を絞めていたのと同じ、忌まわしき青白い手が、無数の蔦の隙間を縫うように地中から這い出し、彼の両足をがっちりと捕らえていた。


「ちッ、...!」


怒りと焦りを押し殺しながら、必死に踏みとどまるアキラは、己の足に絡みつく異様な手を睨み据えた。


すると、その青白い手は、まるで四肢を粉砕するためだけに存在するかのように、じわじわと締め付ける力を強め、冷たく嫌な感覚をアキラの足元から全身へと這い上がらせた。


「くそっ、が......その薄汚ねぇ手を、離しやがれッ!!」


怒声と共に、アキラの足元から再び藤紫色の花々が一斉に咲き乱れ、瞬く間に伸びた蔦が青白い手へ幾重にも絡み付いた。怒りを刃に変えた蔦たちは、絡み付いた手を容赦なく、何度も何度も切り裂き続けた。


ザシュッ、ザシュッ!!


鋭く空気を裂く音が響き渡り、蔦に刻まれた手は耐え切れずに力を緩めた。その一瞬を逃さず、アキラは蔦を更に伸ばして青白い手をぐるりと絡め取り、まるで獲物を締め上げる蛇のように強引に引き剥がすと、地面に向かって叩きつけた。


そして、叩きつけられ、無防備に転がる手を一瞥すると、アキラは即座に残った右手を掲げ、新たに生み出した花の蔦を鋭く伸ばし、逃がさぬように何本もの杭となって青白い手に突き刺した。


「ふんっ......無様だな」


動きを封じたことを確信すると、アキラは肩で荒く息をしながらも、口元に僅かな嘲りの笑みを浮かべ、その場を離れようと足を踏み出した――だが。


「っぅ...!」


再び、両足へ走る鈍い痛みに、アキラは思わず動きを止めた。


(まさか、別の刺客が来たかのか...?)


一瞬だけ不穏な予感に眉をしかめつつも、慎重に視線を落とすと、そこに青白い手の姿はなかった。


だが代わりに、赤い血の雫が足首からじわりと滴り、地面を静かに染めていた。どうやら、蔦で青白い手を引き剥がした際、自らの足も巻き込んでしまったらしい。


それでも、アキラはそんな痛みを気にも留めないように、口元に微かな笑みを浮かべると、むしろ己を叱咤しったするように、再び力強く前へと歩を進めた。


「......まぁ、切断されなかっただけマシだな」


低く、呟いたその声は、疲弊と冷笑、そしてほんの僅かな達観を孕んでおり、その声音に己を奮い立たせるような棘を織り交ぜながら、アキラはためらうことなく、再び荒れた大地を蹴り、走り出した。


足元には、彼の意志を映すかのように藤色の花が静かに咲き広がり、結界のように淡く地を彩っていかせながら、疲弊した肉体を無理やりにでも前へと押し進めた。


その中で、アキラは不意に、ずっと心の奥底に沈め、忘れかけていた“ある記憶”をまざまざと思い出していた。


(そういえば、教団の集会で色が変わった、あの招待状。確か、あの時、赤い花が描かれていた連中は、例外なく、全員焼け死んだはずだ.......)


アキラは、自身が教団の集会で見た光景を思い起こしながら、当時手にしていた招待状に描かれていた赤い花と、それを目にするより前に聞いた、集会の中心で語られていた人物による言葉を脳裏に蘇らせていた。



『本来なら、例年通り、手紙で通達するところだったのだが――。あの者のご指示により、こうして全員に集まってもらった


招待状に描かれている花の色を確認せよ!入り口で招待状を渡した時点で、花の色は変わり、全てが決まっている!』



(おかしいと思ったんだ。教団として一堂に集めるなんて、ありえない。そもそも、精霊関係の通達は個別に伝えられるものだったはずだ。それなのに今回は、やけに盛大に、しかもほぼ全員を呼び寄せて――)


グギャァァァ!


思考の渦中、不意に耳を劈くような咆哮と、巨大な翼が空気を裂く激しい音が降り注ぎ、アキラは条件反射で顔を上げた。


彼の視界に飛び込んできたのは、異形の巨躯を持つ、三つ首の巨大な鳥のような魔獣。凶悪な嘴の奥には、今にも吐き出されんとする、強大な魔力の光が灯っていた。


「随分な真似をしてくれるな!今さらそんな攻撃、陳腐極まりないぞッ!」


アキラは瞬時に足を止めると、裂けた足の痛みを無理やり押し殺し、荒くも鮮やかな動きで、地面から藤色の花を一斉に咲き立たせ、その花々は彼の意志に応えるように螺旋を描きながら立ち上り、やがて魔獣を中心に、幾重にも重なる結界となり、空間を編み上げていった。


そして、ドーム状に完成したその瞬間、三つ首の魔獣が喉奥から吐き出した魔力の奔流が、花々の結界を貫かんと鋭くいた。だが、それすらもろともせず、内部で魔力が暴走し、魔獣自身の体と共に、空中に閃光と花びらを散らして爆散した。


ドカーンッ


空を震わせる爆発音と、焦げた羽毛と血の臭いが立ち込める中、アキラは一切振り返ることなく、前を向き直り、再び地を蹴って走り出した。


「......雑魚が」


吐き捨てるように呟いた声には、怒りも蔑みも交じらず、ただ冷めた無関心だけが漂っており、背後で爆ぜる焦げ臭い風を横目に感じながら、滴る血に表情を変えることもなく、アキラは深く長い息を吐いた。


そして、魔獣に邪魔される前に巡らせていた思考を、静かに、しかし確実になぞり直していった。


(そうだ。僕の招待状にも赤い花が描かれていたのに、燃えなかった......いや、むしろ、すぐ後に、あの者に腕を掴まれたな)


あの者に腕を掴まれた直後、自分は復讐心に駆られ、精霊の力を得られるという液体を何の疑いもなく飲み干し、そして、暴走した――。


あの時、自らの中に宿った異様な復讐心に身を任せ、教団の者たちの目をはばからずにその場を蹴散らしていったあの光景が、ありありと脳裏に蘇ってきていた。


苦々しく、そしてどこか自嘲するような表情を浮かべたアキラは、確信には至っていないものの、自身の中に芽生えた仮説に、ひとつの理由を見出していた。


「......められたな、完全に」


異例の集会。赤い花が描かれた招待状。異例的に燃やされなかった自分。そして――直後にあの者によって強引にその場から引き剥がされるように攫われた出来事。考えれば考えるほど、一つの線が浮かび上がってきていた。


(アイツの事だ。僕が契約悪魔であるクロノスと契約していることくらい、既に察していたはずだ。それに、家族を殺した奴の情報が欲しくて、僕は液体のことも、連れてきた器の存在の事も、すべて話してしまった)


暴走に駆られた自分が、精霊の力で契約悪魔――クロノスを殺し、周囲にその脅威の存在と力を知らしめるために。そのために、あの者は周到に舞台を整えていた。


憶測にすぎないとはいえ、あまりにも符合する出来事に、アキラの思考はひとつの答えを形作り始めていた。


走る足も、やがて徐々にその速度を緩め、そして、とある場所へ辿り着いた瞬間、彼はピタリとその場に動きを止めた。


「......やっと着いたな」


誰にともなく、小さく呟いたその声には、安堵とも諦念ともつかぬ感情が滲んでいた。アキラは、呼吸を整える間も惜しむように、周囲を鋭い視線で見渡した。


辺りは静寂に包まれ、魔獣の気配も、あの者が今にも銃撃してくる気配も、どこにも存在せず、風に乗って届いてくる花の匂いと血の匂いすら、妙に遠く、どこか現実感を欠いて感じていた。


すべてを確かめたアキラは、ほんの僅かに表情を緩めると、腕の中に抱える小さな存在――セシルへと、そっと目を落とした。


彼の腕に抱かれた少女は、未だ目を閉じたまま、かすかに震える手で首元を押さえながら、今にも途切れそうな呼吸を繰り返していた。


よく見れば、彼女の首筋には、強く締め上げられた痕跡がありありと残っており、青黒く浮かび上がったアザは、あまりにも痛々しく見えていた。


そんな彼女の姿に、アキラは小さく鼻で笑いながら、皮肉げに口を開いた。


「すぐに起き上がると思ったが......無理そうだな。まぁ、僕自身、身をもって経験したからな。責めるつもりはないさ」


ぽつりとそう漏らすと、アキラはようやく自らの両足へと意識を向けた。


走り続けていた間中、絶え間なく違和感を覚えていたが、改めて視線を落とすと、彼の両脚からは赤い血がじわじわと溢れ出し、静かに滴り落ち続けていた。


目を凝らすと、彼が走り抜けてきた道には、まるで糸で縫い留めたかのような、細く赤い血の線が、途切れ途切れに続いており、それを見たアキラは、乾いた苦笑を浮かべた。


「我ながら、よくもまぁ来れたな...」


そして、再びセシルへと視線を戻したアキラは、膝をつきながら静かにしゃがみ込み、意識を手放しかけた彼女を両手で丁寧に支えると、その小さな身体をできる限り乱暴にならないよう細心の注意を払って、そっと地面へと座らせた。


ぐったりと力を失ったセシルの体は、まるで魂の抜けた人形のように、どこか壊れてしまいそうな脆さを帯びながら、自然とアキラの胸元へと崩れ落ち、微かに感じる儚げな温もりだけが、彼女がまだ辛うじて生きているのだと、かろうじて教えてくれていた。


「......」


アキラはそんな彼女を、腕の中にそっと抱きとめたまま、しばし無言で見下ろしており、その瞳には、乾いた風に運ばれる土と血の匂いに混じって、どこか取り残されたような懐かしさと、胸を締めつける悲哀が静かに滲んでいた。


やがて彼は、ごくゆっくりと片腕を持ち上げると、崩れかけた祈りを手繰り寄せるように、セシルの小さな耳をまるでこの胸のうちにある痛みも、決意も、絶望も、誰にも触れさせたくない秘密のように、ひっそりと伝えるために腕で優しく覆い隠した。


「.........許されないとはわかっている。わかっているが.........エルナの事は、本当に、悪かった。それに、お前の故郷に対しての仕打ちも、な」


その声音は、どこまでも低く、重く沈み込み、言葉の端々には拭いきれない悔恨と、赦されることなど到底ありえないと知りながらもそれでもなお、贖いを願うかのような痛みが滲んでいた。


静かに、ひとしずくの悔いを言葉に落とすと、アキラは深く息を吐き、ぐったりと座り込んでいたセシルの身体を再び右腕一本で抱え上げ、力強く、そしてどこか覚悟を宿した動きで、ぐっと立ち上がった。


「......ぅ、ぁ......」


その瞬間、急な動きに引き寄せられるように、アキラの腕の中のセシルが僅かに眉をひそめ、薄く、今にも消え入りそうなほど朧な目を開いていた。


意識はまだ夢とも現ともつかない不確かなものであったが、それでも懸命にアキラを見ようとするかのように、濁った瞳がわずかに宙を彷徨い、そして、ほんの一瞬だけ彼を捉えたようにも見えた。


その小さな反応に、アキラは思わず息を呑み、驚いたように目を見開き、何かを言いかけたが、すぐにその唇をきつく噛み締め、苦味を押し殺すようにして言葉を飲み込んだ。


そして、どこか達観した、すべてを受け入れた者のような表情を浮かべると、ぽつりと独り言のように呟いた。


「まぁ、そういう事だ。それに――そうだな、エンデにもよろしく伝えておいてくれよ。セシル」


吐き捨てるように絞り出されたその声の奥には、それでも消しきれない微かな温もりがあった。そして、その言葉を合図に、アキラは支えていた腕からふっと力を抜いた。


支えを失ったセシルの身体は、抵抗する間もなく重力に引かれ、あっという間にアキラの腕をすり抜け、冷たく、暗い闇へと真っ逆さまに落ちていった。そして――



――ザブンッ、と。鋭く響いた大きな水音が、静寂に支配されていた空間を響かせ、その余韻だけが、ぽつりぽつりと、いつまでも耳に残るかのように、微かに残った。

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