第43話. 見つけた答え
意識が徐々に浮上しはじめると、視界の端に、まだぼんやりとしながらも何かがかすかに映り込んでいるような風景が揺らめきはじめた。
「......ぁ、れ......」
先程まで漂っていた、夢とも現実ともつかない、誰かの記憶の奥底を彷徨うような曖昧な時間とは、明らかに異なる感触がそこにはあった。
目の奥に張り付いていた重たい霧が、ゆっくりと、しかし確実に晴れていくのと並行して、手足の感覚も薄皮を剥がすようにじわじわと戻ってくるのがわかった。
まだ身体には鉛のような重みが残り、思うようには動かせなかったものの、それでも、自分の意志が再び肉体に宿っているという確かな感覚が、胸の奥にじんわりと広がっていった。
そんな中、不意に、頭上から聞き覚えのある低く落ち着いた声が飛び込んできた。
「ッ...セシル!気がついたか!」
その声には緊張の色が滲んでいたが、それと同時にどこか安堵を滲ませた響きがあった。
その声に応じるように、どこかで嗅いだことのある衣の香りが鼻先をかすめ、感覚のひとつひとつが確かに“戻ってきている”ことを、ゆっくりと実感させてくる。
(......この声)
ぎこちない動きで視線を持ち上げると、そこにいたのは、自分の身体をしっかりと抱きかかえ、心配そうな面持ちでセシルを覗き込んでいるクロノスの姿だった。
顔立ちはどこか曇っていたものの、その瞳はまっすぐにセシルを見据えており、その視線を通して初めて、自分が今この瞬間に“現実”の中に戻ってきたのだと、ようやく確かな実感が芽生えてきた。
(ここ、現実......?ということは、やっぱり、さっきまでの夢......だったのかな)
そうして安心感が広がると同時に、セシルの脳裏には、つい先程まで見ていた情景が静かに蘇りはじめていた。
あれは本当にただの“夢”だったのだろうか。それとも、自分の心が作り出した幻にすぎなかったのだろうか。
現実と記憶、真実と幻の境界線が曖昧に溶け合う中で、セシルはしばらく言葉を失ったまま、ただ黙ってクロノスの腕の中で意識を巡らせていた。
けれども、それでも、彼が確かにここにいてくれるという事実だけは疑いようもなく、そしてその確かさこそが、今のセシルにとって心強い支えとなっていた。
そして、徐々にはっきりしてきた意識の中、セシルは今目の前で起こっている疑問に対し、ゆっくりと口を開いた。
「......クロノスさん、怪我、大丈夫ですか?」
「ん...?」
クロノスはセシルの言葉に疑問を覚えるような反応を見せていたが、たしかに、セシルの記憶の中には、地面に膝をついて今にも意識を手放しそうになっていたクロノスの姿が焼き付いていた。
だからこそ、今、目の前で何事もなかったかのように、無事でいる彼の姿に違和感を覚えずにはいられなかったのだ。
やがて、セシルの視線に気づいたのか、クロノスはちらりと目線を戻し、少しだけ間を置いてから静かに口を開いた。
「......あぁ、そのことなんだが、痛みが――消えたんだ」
「え......?消え......た?」
セシルが彼の言葉を飲み込めず、驚きに目を見開いたまま固まっていると、クロノスはそっと彼女の肩に手を添え、乱れた位置を整えるように軽く払った。
そして、優しく抱き起こしていた手をゆっくりと離すと、どこか気まずそうに視線を逸らしながら、頬をかき、自身の掌に一瞬だけ視線を落とすと、すぐに彼女の方へ向き直り、真っ直ぐな目で告げた。
「セシルが突然、あの光を放った時......あの場を満たした柔らかな光に包まれた時に、だな。不思議なことに、擦り傷ひとつ残らず、すべて消えていたんだ」
「えっ......そ、それって......わたしが、治したってこと...?」
自分が知らぬ間に治癒魔法のようなものを使ったのだろうか――そんな疑問が胸をよぎり、セシルはただ驚きに満ちた表情でクロノスを見上げるしかなかった。
すると、クロノスはセシルの驚きを気にしないかのようにぽつりと呟いた。
「...あぁ、いつの間にか、元に戻ったみたいだな」
その声と同時に、クロノスは、不意にセシルの頬に手を伸ばし、その親指でそっと顔の輪郭をなぞるような仕草をした。
「んっ......なんですか?くすぐったいですよ......」
親指がそっと頬をなぞるように動き、くすぐったさに思わず目を細めながらも、セシルは彼の仕草の意味を測りかねていた。
だが、クロノスは何も言葉を返さず、むしろどこか不思議そうな視線で、何かを見定めるように、じっとセシルを見つめ続けていた。
(......もしかして、また、わたしに異変が――)
何かを察したかのような彼の眼差しを見つめ返しながら、セシルが口を開きかけたその時、突然、空気を裂くような怒声がその場を響き渡らせた。
「くそっ、くそ、くそッ!!余計な物を思い出させやがって...!!。」
「ッ...!」
突如として、怒鳴るような声が空気を裂いた。セシルとクロノスは思わず声のした方へと顔を向けると、そこには、額にかかる髪を片手で荒々しく鷲掴みにし、苛立ちに任せて乱暴に掻きむしっているアキラの姿があった。
そしてその身体には、本来であればセシルによって切断されたはずの異形の腕も、目元を覆っていたはずの青白い花も、すでに何事もなかったかのように綺麗に再生されていた。
(まさか......彼の傷まで、わたしが治しちゃったの......?)
クロノスの身体が完全に癒えていたことを思い出したセシルは、自分の中に目覚めた“力”が、意図せぬかたちでアキラにも作用してしまったのではないかと考え、思わず口元に両手を当てて顔を覆った。
そんな彼女の様子を横目で見たクロノスは、どこか訝しげな様子で静かに口を開いた――。
「......余計なもの?一体、何の事だ?」
その声を受け、セシルは思わず目を伏せた。瞼の裏に浮かぶのは、教団におけるフラワーホルダーという存在。アキラが呟いた、片割れである精霊。そんな、いくつもの断片的な記憶。
そして、もうひとり――確かに自分と共に巻き込まれた、忘れてはならない存在。
頭の中は霧がかったままだが、どれもが不思議なほど、心のどこかに引っかかっていた。
(......気になることが多すぎる。でも、今はそれよりも――)
確かめたい答えにどうしても手が届かず、もどかしさに眉を寄せたまま、それでもセシルは小さな決意を込めるようにそっと顔を上げると、隣に静かに佇むクロノスの袖を、迷いながらもそっと指先で引いた。
「アキラさん、きっと...囚われているんだと思います。――自身の、過去の記憶に」
静かに、それでも確かな声で告げられたその言葉に、クロノスはほんのわずかに息を呑みながら、驚いたようにセシルの顔を見つめた。
「囚われている...か?......そうか。たしかに、お前が抜け殻のようになったあの時、呼びかけに応えず、何かを“見ている”ように動きを止めていたな...」
クロノスが低く呟くと、その場にふと沈黙が訪れた。
しかしその静けさは、どこか安らぎを感じさせる穏やかなものであり、二人は自然と視線を合わせ、ほんの僅かに、だが確かに口元に柔らかな笑みが浮かばせていた。
「...ふっ、俺たちの正反対だな」
クロノスがふと洩らしたその言葉に、セシルもくすっと微笑みながら頷いていた。
「ふふっ、ですね。でも、案外、似てるのかもしれませんよ。過去の記憶に囚われていても、忘れてしまっていても......その苦しさに変わりはないんですから」
そう語ったセシルの瞳には、一瞬だけ影のような寂しさが滲んでいた。その感情を感じ取ったクロノスは、表情を変えることなく、静かに彼女の想いを受け止めた。
そんな穏やかな空気を切り裂くように――
――シュンッ
突如として空気を裂く鋭い音が耳をつんざくよりも速く、理屈ではなく本能が危機を察知し、クロノスの身体は反射的に――いや、それすら追い越して動いていた。
「ッふ、......油断も隙もねぇな――!」
クロノスの視線が音の先を捉えた瞬間、青白い光を放ちながら一本の短剣が宙を裂くように飛来していた。
狙いは、セシルの喉元を鋭く、殺意の込められた一撃で狙い澄ました刃は恐ろしいほどの速さで迫ってきていた。だが、それが届く寸前――
――ガシャァン!!
クロノスの右腕から解き放たれた鎖が、まるで意思を持つ蛇のようにしなやかに宙を舞い、正確に短剣の軌道を打ち砕き、金属と金属が衝突する鋭い音が空間に響き渡った。
そのまま、ぶつかりあった事で短剣の刃からは火花が鋭く散り、そのまま弾かれた短剣は地面に叩きつけられて砕けるように跳ね飛んだ。
「ひ、ひぇ......!」
セシルが驚きに目を見開いたその時には、すでにクロノスは彼女を守る盾のように前に立ちはだかっていた。
そして、クロノスが短剣が飛んできた方へ鋭い視線を送ると、そこには低く身を構え、呻き声を漏らしながらも、腕を前に伸ばしているアキラの姿があった。
その姿を捉えたクロノスはため息を吐くように息を抜きながらも、アキラに一瞬、警戒の視線を向けると、すぐにセシルの方へと顔だけを向け直した。
「......お前、妙に刺されそうになる運命だな」
「いやぁ、えっへへ、ですね。実際、思いっきり体を貫かれちゃいましたからね」
セシルは、喉元に刃が迫っていたことなどなかったかのように、緊張を解くように自身の髪の先を指先でくるくると弄びながら、呑気に軽口を叩いていた。
その姿に、クロノスは半ば呆れながらも、どこか信じられないというような表情を浮かべ、ジト目でセシルを見やった。
だが、その視線もほんの一瞬のことで、すぐに表情を引き締め直し、再びアキラの方へと視線を戻す。
そして、今のところアキラが何の反応も見せず、動く気配を見せていないことを確認すると、再びゆっくりとセシルの方へと向き直り、静かだが芯のある声で言葉を続けた。
「......セシル、今度こそ成功させる。だから、頼む。前を行ってくれ」
その真剣な声に、セシルは一瞬息を呑み、手遊びのように弄んでいた自分の髪を思わずぎゅっと掴みながら、戸惑いと不安の入り混じった視線でクロノスを見上げた。
そして、その視線を恐る恐る交えたまま、ぽつりと口を開いた。
「......成功って、まさか、最初に言ってた、“作戦”のことですか?」
クロノスはその問いに対して言葉では答えず、ただ一度、静かに、しかし揺るがない意志を感じさせる頷きだけで応えた。
すると、セシルは困ったように眉を寄せ、ちらりと視線を逸らしながらも、どこか自嘲気味に笑みを浮かべた。
「......いいんですか。また、わたし......何かやらかして、迷惑かけちゃうかもしれませんよ?」
その遠慮がちな呟きに、クロノスはふたたびアキラへと目を向けたまま、低く、けれど確信に満ちた声で静かに返した。
「......逆だ。あの時、セシル、お前が一人で果敢に立ち向かってくれたからこそ......俺は、ほんの僅かだが答えを見つけかけたんだ」
それ以上の言葉はなかったが、その短い一言に込められた想いは確かにセシルの胸に届き、彼女は驚いたように目を大きく見開いた。
けれど、すぐにその目元が柔らかくほころび、張り詰めていた肩の力がふっと抜けるように小さく息を吐き出した。
「もぅ、仕方ないですね...」
苦笑交じりにそう呟いたセシルは、迷いを断ち切るように、腰に提げていた剣を鞘から静かに引き抜くと、決意を込めたその瞳のまま、クロノスの横にすっと歩み寄り、逆の手で彼の背中を軽くポンと叩いた。
思わぬ接触に、クロノスはわずかに目を見開いてセシルの方へ視線を落とした。
「......行ってくれるのか?」
クロノスのその問いかけに、セシルはどこか誇らしげな笑みを浮かべると、小さくピースサインを掲げてみせた。
「ふふっ、行ってきますよ。信じてますからね!......でも、肝心の作戦内容を言わないあたり、ちょっと意地悪ですね!」
「いや、それはっ...!」
セシルは舌をちょこっと出して、子どもじみた仕草でクロノスをからかうように笑いかけた。
クロノスは一瞬驚き、何か言いかけたものの、その声は喉の奥で止まり、結局、それ以上何も言えずにいた。
セシルはそんなクロノスの反応を楽しむようにくすりと笑うと、そのまま重苦しい空気を一気に切り裂くような勢いで颯爽と地を蹴り、小さな背中を遠ざけていった。
「......」
クロノスは、黙ったまましばらく、颯爽と駆けていく、その彼女の後ろ姿を見つめていたが、やがて静かに視線を落とし、強く拳を握り締めた。
そして再び顔を上げると、その瞳には確かな決意の光が宿っており、前を見据えるその表情に、迷いはもうなかった。
「......頼んだぞ、セシル。次こそは――俺の力で、時を制してみせる」




