第41話. あいまいな出会い
「はぅ、はふ......結構......きついな......」
あれから数分が経ち、目の前にそびえる石造りの階段を黙々と登り続けていたセシルは、その見た目以上に急勾配な構造に予想外の体力を奪われ、思わず足を止めかけていた。
そして、ようやく辿り着いた小さな踊り場の端にそっと身を寄せると、胸元に手を当て、浅くなった呼吸をなんとか整えようとした。
「はぁ...ふぅ...酸素、薄い...もう随分と上まで来たはずなのに、全然先が見えない...」
汗ばんだ額にかかる前髪を払いながら階上を見上げるが、その視界に映るのはどこまでも続く階段の影ばかりで、頂上らしきものは一向に見えず、むしろどんどん遠ざかっていくかのように感じられた。
「うぅ......降りようかな。で、でもでも、もう少し頑張ったら...なんて事も...」
諦めたい気持ちと、あと一歩だけでも前に進もうという思いが胸の奥で交錯し、セシルは一人、ぶつぶつと呟きながらその場でもじもじとしていた。
その時、不意に階段の上から元気な子供たちの声が、まるで風に乗って降ってくるように響いてきた。
「よーし、走っしれー!」 「逃げろ逃げろー!」
そんな声と共に階段の上から、大きな影が見えたかと思えば、次の瞬間、ドタドタと子供たちの集団が降りてくるのが見えてきた。
「わっ、!」
思わず身を引いたセシルは、勢いよく駆け下りてくる子供たちにぶつからないよう、踊り場の隅へと素早く身を寄せ、手すりに片手を添えながらその元気な群れを見送った。
(......こんな急な階段で走れるなんて、子供ってすごいわね)
彼らが通り過ぎた直後、セシルの耳に「ポトッ」と何かが階段に落ちる小さな音が耳に届いた。
階段を駆け下りていった子供たちのうちの誰かが、何かを落としていったのだと直感的に気づいたセシルは、反射的に彼らに声をかけた。
「あ、ちょ!何か落ちたよ!」
だが、セシルの声は駆け下りる勢いに勝てるはずもなく、子供たちはあっという間に階段を降り、そのまま下にも広がる霧の中へと姿を消してしまった。
「あー、むぅ...早いんだから...」
小さく呟いた後、セシルは音のした方へと視線を向けると、自身がいる踊り場の数段程下の階段に、何かが落ちているのが見えた。
「......さすがに見過ごすわけには、いかないよね。...よいしょっとっ」
階段から足を滑らせないよう注意深く腰をかがめ、片手を手すりにかけながら、もう片方の手でそっと指を伸ばした。
その指先が何か柔らかなものに触れたかと思うと、セシルは慎重にそれを拾い上げた。
やがて、指先に柔らかな感触が触れる。拾い上げてみると、それは一輪の花だった。
(えっと......げっ、お花!?)
手の中に収まっていたのは、一輪の小さな花だった。淡いピンク色の花弁が、まるで鈴のような形に整っており、どこか幻想的な雰囲気を漂わせていた。
「あれ......この花の形。なんだか、アキラさんが使ってた花に似てる...?でも、色も違うし、花のつき方も違うし......別物、かな?」
ぽつりと呟きながら、セシルはその花を指先でつまみ、まるで光を透かすように天へと掲げて眺めると、光を受けた花弁は柔らかくきらめき、まるで意志を持っているかのようにゆらりと揺れた。
「とりあえず普通に触れちゃったし...こういうのって、届けるべきなのかな?」
最初に話しかけた老婆と違いごく普通に触れた事で本気で落とし物の花を届けるかでかなりは深く悩んでいた。
たかが花。しかし、だからこそ届けるべきなのか。そんな曖昧で優しい迷いがセシルの胸に生まれたその時——
「きゃははっ。ほら、あきらくん!ちゃんと走って、みんなのこと捕まえなきゃー!」
(えっ!?)
突然、聞き覚えのある名前が耳を打ち、セシルの胸が大きく跳ねさせると、次の瞬間、階段の上から駆け下りてきた一人の少女が、明るい笑顔でセシルの横をすり抜けていった。
「ま、待って!今、アキラって...?」
驚きで声を漏らし、拾った花を握りしめたままセシルが顔を上げると、踊り場の一角で荒い息を吐きながら、自身の顔の汗をぬぐっている少年の姿が視界に入った。
年齢は、ブリギッタと同じくらいだろうか。彼もまた、セシルが見慣れない衣装を身にまとい、まるでどこかの祭りから抜け出してきたかのような華やかさを纏っていた。
だが何よりもセシルの目を引いたのは、その少年の顔立ちであった。
どこかで見たような——いや、間違いなく知っている顔。
「......うそ。アキラ......さん......?」
「...ぁ?」
セシルが漏らした声に気づいた少年が振り返り、まるで不審者でも見るかのような目でじっとこちらを見つめてきていた。
「......」
「......」
やがて二人の間に無言の時間が続いた後、少年は腕を組みながらゆっくりと口を開いた。
「誰〜、お姉さん?僕の名前、なんで知ってるのかな......?」
「えっ...あ、あの...わたしの事、知ってますか?」
先程声をかけた老婆には、まるで見えていなかったかのように無視されたばかりだった。
そのため、セシルの声に返事をもらえたことで、「自分は確かにここに存在している」と、心の中で安堵していた。
それと、同時に、未だ整理しきれていないこの状況に戸惑っているのか、彼女の問いには混乱が滲んでいた。
「はぁぁ...」
すると、少年は呆れたような顔で肩をすくませると、大きくため息をつくと、セシルを訝しみながら口を開いた。
「...あぁ、わかった。お姉さん、幽霊のマネとかしてるんでしょ?その、なんか見慣れない服装も、いかにもって感じ」
「...えっと...」
それ以上何を言えばいいのか分からず、セシルは手に持っていた花をそっと両手で包み込みながら、自分の胸元に寄せて黙り込んでしまった。
すると、少年は困ったような顔で後頭部をガシガシと掻くと、セシルに背を向け、手を軽く振って言った。
「よくわかんないけど......まぁ、僕は行きますね。またね、お姉さん~♪」
そう言い残すと、少年は手を軽くひらりと振るだけで背を向け、まるで舞台から静かに退場する役者のように、一段ずつゆっくりと石の階段を降り始めた。
その姿に戸惑い、言葉を失いかけていたセシルだったが、気がつけば、反射的に声を張り上げていた。
「っ、あ、待って!待ってください!アキラさん!!」
その声は、霧がかかっていた階段に反響しながら響き、降りかけていた少年の足をぴたりと止めさせた。
一瞬の沈黙ののち、少年は振り返ることなく、肩越しにほんのわずかにこちらへと視線を流した。
「......はぁ、なんですか?本当に、もう」
溜め息まじりに応じるその声には、どこか呆れとも憐れみともつかぬ感情が滲んでいた。
しかし、その動作と、この少年はたしかにこちらの声に反応してくれたのだと、セシルは一瞬で確信を得た。
再び言葉を続けようと、セシルが口を開きかけた――その瞬間だった。
「あ......れ......?」
何の前触れもなく、視界がぐにゃりと揺れた。
いや、揺れたのは視界だけではなく、足元にあったはずの階段も、立ち尽くしていた少年の姿すらも、次第にその輪郭を曖昧にしていき、目の前が霧そのものに包まれるようにぼやけ始めていった。
(な......なんで......?)
思考が追いつかないまま、セシルは突然、足場を踏み外したような感覚に陥ったかと思うと、重力が唐突に狂ったかのように体のバランスが崩れ、背後へと引っ張られるように、ぐらりと大きく傾いた。
(——やばっ)
反射的に手を伸ばすが、掴めるはずのものは何もなく、指先が空を切り、手にしていたはずの花までも、いつの間にか消えていた。
意識が追いつくより早く、視界はぐるりと回転し、先程まで自分が立っていた階段が、まるで遥か遠くへと引き離されていくかのように遠ざかっていった。
だが――落下に伴う衝撃や痛み、さらには重力の引力すら、どこにも感じられなかった。
重さも、痛みもない。落ちるというより、沈み込むような奇妙な浮遊感の中で、セシルは自身の輪郭までもが曖昧になっていくのを感じていた。
そんな身体感覚が薄れていく中、不意に脳裏の奥底に、何かが流れ込んでくるような感覚が走った。
それは、ただ脳裏に浮かぶ言葉でも映像でもない、もっと根源的な“気配”だった。
目の前に広がる空間に、光の粒子がひとつ、またひとつと現れ始め、やがて渦を巻いて形を成していく。
その光が描き出したのは——まぎれもなく、“誰かの記憶の一片”。




