第40話. 非現実的な散策
辺りに包まれていた青白い光がゆっくりと消えていったか思えば、次の瞬間、セシルは気がつけば、見たこともない場所に立っていた。
「えっ......ど、どこ、ここ......?」
呆然とつぶやいた声は霧のように頼りなく、静かに宙へと溶けていった。戦いの喧騒も、息苦しくなるほどに歪んだ空気も、すべてが跡形もなく消えている。
代わりに、目の前に広がっていたのは――低く古めかしい建物が並ぶ、どこか見知らぬ街並みだった。
建物の多くは木造で、窓や軒先には見たこともない意匠が施されており、瓦屋根が連なり、風に揺らめくように淡い提灯の光が揺れていた。
足元には先程まで立っていた石畳ではなく、滑らかに踏み固められた鼠色の土が続いており、足を少し動かすだけで、乾いた土の香りが鼻をかすめ、細かい砂埃がふわりと舞い上がるのが見えた。
「......何、ここ。っ、クロノスさん!!アキラさん!!」
不安と焦りが胸を駆け上がり、セシルは思わず大声で呼びかけたが、その声は、ただ見知らぬ街の空気に吸い込まれるだけで、どこからも返事は返ってこなかった。
「夢......?おかしいよ、こんな......いったぃ~っ......」
現実か確かめようとしたセシルは自分の頬を思いっきりつねってみたが、しっかりと痛みが走った事で、セシルは少し涙目になりながら、つねった頬をさすった。
しかし、頬の痛みを感じたものの、すぐに今いる場が現実だと受け入れられないかのようにセシルはすぐに顔を横に大きく振った。
「...うぅん、こんなの...やっぱり、絶対おかしいよ......」
混乱しながらゴシゴシと目をこすり、ギュッと閉じてからゆっくりと開けてみたが――そこにクロノスの姿もアキラの姿もない。
先程まで戦っていた街も、ましてや共に戦っていた剣も、腰に掛けていた鞘さえも、どこにも見当たらなかった。
そして、全身にまとわりついていた血と汗の匂いも、体を締めつけていた痛みも、まるで幻だったかのように消えいた。
それを不思議に感じたセシルは、思わず両手を広げ、自分の体をじっくりと不思議そうに見つめた。
(夢、じゃないのは分かったけど......現実って感じもしない......)
ぼんやりとしたまま周囲を見渡しながら、セシルは痛みの消えた体を動かし、恐る恐る一歩を踏み出した。その瞬間――
「おっとっつぁんー!ねぇねぇ!水飴買ってよ!」
「おぉ、いい子にしてたからな。この後、買いに行こうか」
「わーい!ありがとう、おっとっつぁん!」
背後から、弾むような子供の声と、それに応える優しげな大人の声が聞こえた。
セシルは驚きに肩を震わせながら、ゆっくりと振り返ると、そこにいたのは、小さな男の子と、その手を優しく握る父親らしき男性だった。
ごくありふれた、微笑ましい親子のやり取りだったがセシルは、それ以上にある“違和感”を覚えていた。
(......あれ?あの人たちの服......)
セシルの視線の先の二人が身に着けていたのは、クロノスが着ていた服とはまったく異なるものだった。
直線的な作りで、前後対称の布を前で重ね合わせ、幅広い帯で締める――長い袖が特徴的な、見慣れない衣装。
それを見つめながらセシルは小さく首を傾げると、顎に手を当てて何かを思い出そうとした。
(......そうだ。そういえば、あの服。東の大陸の伝統的な衣装に似ている、ような...?でも、なんでそんな服を......?)
考え込んでいたその時、ふわりと美味しそうな香りが鼻をくすぐった。
「っは!!いい匂い!!」
セシルは目つきを変えながら顔を上げると、すぐ先に食べ物を売っているらしい建物が目に入った。
「何が売ってるんだろう。えっと......あれ? 読めない...?あれっ、えっ、あの文字......まさか......?」
興味に突き動かされて入り口の看板に目を向けたセシルだったが、そこに書かれていたのは見慣れた文字ではなく、まったく読めない文字だった。
「...うそ...あれ...。ううん、間違いない。東の大陸の文字だ。ヒラガナとカンジ、だっけ? 読めないけど、形が特徴的だし...」
建物も、道を行き交う人々も、看板の文字も――すべてがセシルにとって“異国”の文化を色濃く反映したものだった。
記憶がないのに関わず、なぜ異国の文字の存在を知っているのだろうか?という疑問も一瞬で消え去る程の衝撃だった。
(ま、まさか......場所転移した、の?でも、どうやって?そんなこと、できるはず......)
混乱する思考を無理やり整理しようとしながら、セシルはふと、視界の端に映ったものに心を引かれ、自然と歩き出していた。
(...と、とにかく、誰かに話を聞いてみよう。うん、美味しそうなのは後で、ね!)
香ばしい香りを名残惜しそうに振り返りつつ、セシルは小さくガッツポーズを作ると、前を向いて鼠色の道をザッ、ザッと一歩ずつ進み始めた。
◇◇◇
何軒か気になる建物が目に入ったものの、セシルはそれどころではなかった。今の自分の状況を把握するため、誰か話しかけられそうな人物を探していた。
「よかった~、やっと見つけたぁ~」
通りの脇に目を向けると、赤い布が敷かれた長方形のベンチに、一人の老婆が穏やかに腰かけ、灯器のような器を手に、何かをゆったりと飲んでいる。
東方の伝統的な衣装に身を包み、長い白髪を優雅に結い上げたその姿には、どこか懐かしさすら感じさせる優しい微笑みが浮かんでいた。
(ぅん...あの人なら、きっとわたしの話を聞いてくれるかもしれない)
そう思ったセシルは、小さく息を整え、歩みを早めて声をかけた。
「す、すみません! あの、お尋ねしたいことがありまして――」
少しばかり戸惑いながらも、どこかで礼を欠くまいとするように、セシルは丁寧な口調で言葉を投げかけ、そっと手を差し伸べながら相手へと一歩近づこうとした――その、まさに瞬間だった。
――スッ。
「えっ...?」
驚きに思わず目を見開く。手を伸ばしたその先には、たしかに老婆の姿があるはずだった。けれど――
その存在は、まるで靄の向こうにある幻のように、輪郭が曖昧で、掴もうとしてもすり抜けていた。
まるで指先が相手の衣をかすめることすらなく、ただ空気を撫でているだけのような感覚しか残らなかった。
「なっ...ど、どういう...なにが...?」
セシルは思わず、声を震わせながら手を引っ込めたが、老婆はその場に確かに座り続けているものの、こちらを見ているようでいて、視線が合っているのかも判然としない。
だが、彼女の姿は確かにそこにありながら、どこか現実のものとは思えない浮遊感を纏っており、その場に広がるのは、まるで時間が止まったかのような沈黙だけが続いた。
「...っ」
想定外の出来事に、セシルはどう言葉をかければいいのか分からず、今度こそ、触れられるのではないかという、根拠のない希望にすがるように、ただ震える指先をもう一度、意を決して差し出してみるが――
だがやはり、手応えはなく、伸ばした手は虚空を彷徨い、老婆の肩も、腕も、衣の裾すらも捉えることができないでいた。
目の前に存在しているにもかかわらず、触れることができないという奇妙な事実に、冷たい汗が背筋を伝って落ちていくのを感じていた。
(......何、これ......本当に、ここにいるの?)
セシルの頭では困惑が続く一方で、老婆は変わらず、無言のままそこに立っていた。
けれど、その佇まいはどこか人間離れしていて、まるで空間そのものに組み込まれた“像”のようでもあり、彼女は立ち尽くしたまま、ただ静かに、その現実離れした場面に向き合っていた。
(......ここ、本当に普通の場所じゃない、でしょ)
そんな不穏な思いが脳裏をかすめた時、ふと視界の隅で何かが揺れた。
反射的に目を向けた先には、静かに上方へと続いている長い石造りの階段が、いつの間にか姿を現していた。
風雨に晒され、年月を感じさせるその階段は、まるで古の神殿へと続いているかのような荘厳な佇まいをしており、その先は濃い霧に包まれていて、どこへ続いているのかすら分からない。
(......なんだろう、あの階段...?)
その存在に気づいたと同時に、まるで誰かに背中を押されたかのような不思議な力を伴いながらも、風が一陣、優しくも鋭く吹き抜けた。
風が過ぎ去ると同時に、先程まで耳にしていた街の音が、完全に遠のいた。
それと、同時にセシルの身体は何の躊躇もなく、まるで誘われるように自然と一歩を踏み出し、そのままゆっくりと階段の方へと向かっていっていた。
理由はわからず、説明もつかない。
けれど、何故か登らなければならない気がした事で、胸の奥では不思議と拒絶する感覚がなかった。
むしろ、階段の先にある“何か”を、見届けたいという衝動の方が勝っていた。
(上に...何かがある...気がする...)
現実の感覚がどんどん曖昧になっていく中、セシルはまるで観光気分にでもなったかのように、心のどこかで軽やかさを保ったまま、足を一段、また一段と階段へと運んでいった。




