第30話. 差交す真誠
セシルたちは、ブリギッタたちが構える鍛冶屋を離れ、最初にこの街へ訪れた時に歩いた通りまで走っていた。
しかし、そこに広がっていた光景は、ほんの少し前まで見ていた平和な街並みとはまるで別物だった。
崩れかけた建物が軒を連ね、地面では小さな炎がしつこく燃え続けており、瓦礫の破片が転がる道の上には、慌てふためいた人々が我先にと逃げていく足音が響いていた。
やがて、煙の臭いが一層濃くなり、呼吸がしづらくなるほどの熱気が肌にまとわりつくのがわかる。
「...そ、そんな...」
ついさっきまで普通に歩いていた人々の笑顔が溢れるはずの道とは打って変わり、黒煙に覆われた空の下で、そこを逃げ惑う人々の顔には恐怖が張り付いており、その様子を目の当りにしたセシルは思わず息を呑んでいた。
「くっ、平気か?...この空気の歪みも酷いぞ...」
クロノスは低く唸りながら、セシルのすぐ傍で腕を伸ばし、前方から押し寄せる人波から彼女を守るようにしならがら、その瞳では遠くで燃え上がる炎の火元を探していた。
最初に感じた“歪み”の力が、刻一刻と辺りで濃く漂っていた。それはもう、以前、魔獣と戦ったときよりも遥かに異質で、歪なものへと変わりつつある。
クロノスも、そしてセシルも、それを肌で感じ取っていた。
セシルとクロノスは互いに顔を合わせ、炎が上がる中心地へ向かおうと、無言で頷き、合図を交わしたその瞬間——
「いやぁぁぁ!!」
「っ!!」
突如として、耳をつんざく悲鳴が上がった。セシルとクロノスは、とっさに声のする方へと振り向くと、そこでは、小さな女の子が恐怖に凍りついたように、その場に座り込んでいた。
まるで、逃げなければならないと理解しながらも、恐怖で足が動かなくなってしまったようだった。
彼女の頭上では今にも崩れ落ちそうな建物が、不吉な音を立てており、石材にも関わらず、ギシギシと軋み、すでに小さな破片が、パラパラと舞い落ち始めていた。
「お前はここにいろ!!」
「っ、クロノスさん!!」
突然クロノスはそう叫ぶと、セシルの声を無視するように彼は迷うことなく駆け出した。
しかしその瞬間、まるで彼を試すかのように、壁や屋根が崩れ始めた。
——ガラガラーーー!!
(...くそっ、間に合え!!)
クロノスは、全神経を集中させ、周囲に無数の鎖を召喚した。真紅色の鎖が空間を切り裂くようにうねりながら飛び出し、落下する瓦礫に向かって伸びる。しかし——
(っ、届かない——ッ!!)
ほんのわずか、距離が足りない。彼の指先が宙を掴むように伸ばされたその瞬間——
——世界が、《《静寂に包まれた》》。
視界の端に映る崩れかけた建物、宙に舞う粉塵、恐怖に凍りついた女の子の表情、遠くでこちらを心配するような視線を送るセシル。そのすべてが、まるで絵のように動きを止めていた。
(......な、んだ......?)
クロノスは思わず息を呑んだ。自分だけが“動いている”。
周囲は沈黙し、音すら消えたかのような異様な感覚が残る。瓦礫の破片は宙で静止し、落ちるはずの塵すら、まるでガラス細工のようにその場に漂っていた。
(っまさか...これは......!)
だが、戸惑う余裕はなかった。
クロノスは本能的に動き、鎖を操りながら、宙に浮いた瓦礫を粉々に砕くと、座り込んでいた女の子を両腕で抱きかかえ、一瞬のうちに安全な場所まで跳躍した次の瞬間。
ガシャアァァァァン!!
轟音とともに、止まっていた世界が一気に動き出した。周囲の音が雪崩のように押し寄せ、粉塵が舞い上がる中、クロノスは思わず息を切らし、地面に膝をついた。
「はぁ、っく...くそ...」
まるで体が鉛のように重く、異常な倦怠感に意識が引きずり込まれるような感覚にクロノスは眉をひそめた。
視界の端がわずかに霞み、意識が遠のくような感覚に、一瞬、歯を食いしばる。
だが、そんなことを考えている場合ではないと言わんばかりにクロノスは汗を指で軽く拭うと、腕の中でまだ恐怖に震えている女の子に視線を落とした。
「...おい、動けるか?」
女の子は一瞬ぽかんとした顔をしたが、すぐに涙を浮かべながら小さく首を横に振ると、クロノスの胸元に埋まるように抱きついた。
「こ、こわいよ......!」
クロノスは少し困った顔をした後、女の子の頭を撫でると、体を起こし、顔を覗き込むように見た。
「親はどうした...?逸れたのか?」
女の子は縦に頷き、腕で目を擦っていた。その様子にクロノスは一瞬目を伏せたが、すぐに目を女の子に合わせ、口を開いた。
「大丈夫だ。君の親は無事だ。あとで、俺が一緒に探してやるから、今は、ここから離れることだけを考えてくれ」
クロノスは女の子の親の安否などわかっていたはずもなかった。だが、そんな嘘でも言ってでも彼女を逃したく、クロノスはそう短くそう言うと、優しく子供の背を向かせ、軽く押した。
「ほら、行くんだ」
クロノスが改めて背を押すと、泣きじゃくっていた女の子は、クロノスを一瞥するとそのまま必死に足を動かし始めた。
無我夢中で駆け出す小さな背中を見届け、クロノスは静かに立ち上がると、徐に自分の手のひらを見つめていた。
(...先ほどの力は...まさか...ほんの一瞬だったが、使えたのか?)
クロノスは何かを確認するように手を握りしめたが、指先が軽く震えているのに気がついた。
(...ふぅ、やはり、負担があるな...)
力の余韻が体にまとわりつくように残るが、クロノスは違和感を抱えながらも、深く息を吐いた。
自分が何をしたのか、覚えはあるものの確信が持てないまま、指先に残る感覚を確かめるように軽く握る。
だが、すぐにその疑問をかき消すように、無造作に頭を掻いた。今は考えても仕方がない。そんな思いを抱え、先ほどよりも近づいていた炎の元へと視線を向けた。
◇◇◇
一方、遠くでクロノスが女の子を助け、膝を立てながら優しく話しかけているのを見て、セシルは思わず息を呑んでいた。
「す...すごい。クロノスさん...」
本当に、一瞬の出来事だった。崩れ落ちる瓦礫に届かないと思われたその刹那、クロノスの姿がかき消えたように見え、その次の瞬間には、彼はもう女の子の側にいた。
まるで、時の流れを飛び越えたかのように——。
「今の動きって——」
セシルの頭の中では、先ほどの光景が何度も反芻していたが、突然、セシルの肩にドシンっ!とぶつかる衝撃が走った。
「ひゃっぅ!」
「うわっ!す、すみません!!」
背中から倒れ込む、そう思った瞬間、その慌てた男性の謝罪の声とともに、背中へと回された手がそっとセシルの体を支え、かろうじて地面に倒れるのを免れた。
「へっ、い、いえ!わたしも前を——っ!」
驚きと安堵が入り混じる中、セシルは助けてくれた人物へと顔を上げた。
するとそこには、目元まで深くフードを被った男がいた。
暗い影に覆われていて、その顔の全貌はよく見えないが、かろうじて口元と、僅かに覗く淡い色合いの髪が視界に入った。
そして、表情こそ見えなくとも、その雰囲気から伝わるのは、明らかに申し訳なさそうな気配がした。
(......黒の、マント.....)
セシルの脳裏に、馬車の中や街へ着いてから見たアキラの姿がよぎる。
あの時彼が羽織っていた漆黒のマントと、目の前のこの男が纏うものは、あまりにも酷似しており、無意識のうちに、セシルはじっと彼を見つめてしまっていた。
「おい、セシル!!先に行くぞ!!」
セシルが漆黒のマントを纏っている人をまじまじと見た瞬間、遠くから響いてきたクロノスの声に、セシルははっと我に返ると、彼の呼び掛けに答えるように同じように大声を出した。
「ごめんなさい!わたしもすぐに!」
セシルは慌てて支えてくれた相手に頭を下げ、お礼を述べながら距離を取った。
だがその時、突然、「待って!」という声が耳に響き、同時に手首をぐいっと掴まれ、強く引き寄せられる感覚が全身を襲った。
「ちょ...!」
驚きと戸惑いで、セシルは思わず声を漏らし、掴まれた手の先に視線を向けると、先ほどぶつかってきた漆黒のマントを纏った人物は明らかに動揺した様子で、かすれた声で口を開いた。
「せ、セシルさん...って言いましたか?」
「......え...そ、そうですけど——きゃっ!」
急に自分の名前を呼ばれたことに警戒しながらも、反射的に頷こうとすると、相手はセシルの両肩を力強く掴んできた。
顔はフードで隠れていて目元は見えないものの、その表情には何か深い躊躇いと暗い影が宿っているようだった。
「お、お願い!!アキラが、アキラが!!」
その叫びに、セシルの心臓が一瞬で止まるような感覚に襲われた。
彼の言葉に動揺し、すぐさま肩を掴まれていた腕を反射的に振り払うと、身体をじりじりと後ろへと下がらせながらも、警戒心は増していった。
「っ!...な、なぜ彼の名前を...!」
剣に手を添えると、冷や汗が背中を伝った。聞き覚えのあるよく知る人物の名前が、目の前に立っている見知らぬ者から発されたことでセシルは全身に鋭い警戒の感覚が走り、更に身構えた。すると、突然、鋭い女性の声が響いた。
「ちょっと、エンデ!!何ボサっとしてるのよ!!先に逃がしてもらってる意味がないでしょ!!」
目の前の人物と似たような漆黒のマントを纏った小柄な人物が、セシルたちの横を駆け抜けていった。
(...黒いマント同士...間違いない。この人も、さっきの人も...アキラさんと同じアストラル教団の人...!)
セシルは通り過ぎた人物を目で追いながら、再び目の前の男性へ視線を戻した。
すると、エンデと呼ばれた彼は、唇を噛みしめ、何かを迷うような仕草を見せると、やがて、意を決したようにセシルの片腕を掴み、自らのマントを捲った。
(なっ、この人。力、強っ...!全然、振りほどけないっ...!)
セシルは突然掴まれた手を振りほどこうと力を込めたが、相手の握力は驚くほど強く、簡単には解けなかった。
焦りと警戒が入り混じる中、どうにかして抜け出そうと試みるも、その腕はまるで鉄の鎖のようにびくともしなかった。
「ぐっ...!」
セシルは思わず歯を食いしばったが、次の瞬間、不意に腕を引っ張られ、半ば強引に上へと持ち上げられた。
驚きとともに反射的に身を引こうとしたが、何かが手のひらに押しつけられる感触があった。
「...ごめんね、強引で。説明する時間もなかったし。でも、せめて...これを...」
その言葉にセシルが目を見開く間もなく、相手は言葉を続けた。
「セシルさん、気をつけて。またどこかで——」
どこか悲しげな響きを帯びた声とともに、彼はセシルの手を離し、一瞬の迷いもなく駆け出した。
「あっ、待って!!」
咄嗟に手を伸ばしたが、指先は虚しく空を切った。
漆黒のマントを翻しながら、その人物は逃げ惑う人々の間を華麗に縫い、そのまま溶け込むように消えていった。
その姿が完全に見えなくなったあとも、セシルはしばらくその場に立ち尽くしていた。
「...エンデ、さん...」
先ほど誰かに呼ばれたその名前を、小さく呟くと、ふと今さっき、渡されたものの正体を確かめるために手元へ視線を落とした。
(...紙?いや、厚紙?)
手のひらには、ほんのわずかに折れ曲がった、白銀の厚紙でできた綺麗な招待状があった。その表面には、繊細な筆致で《《紫苑色》》の花が描かれてある。
「っ...この花...」
セシルには、この厚紙が何を意味するのか皆目見当もつかなかった。だが、そこに描かれた花の模様が彼女の腕に残る花びらの形とあまりにも酷似していた。
(...やっぱり、アストラル教団という存在は精霊と関係が深いんだね......)
教団と精霊が深く関わっているであろうという現実を、まざまざと突きつけられた気がして、胸の奥に生まれ、得体の知れない寒気で思わず息を詰めた。
「...っ」
しばらくその場で立ちすくんでいたが、やがてセシルは大きく首を横に振ると、渡された招待状を大事に耳飾りの入ったポケットへとしまいこむと、気を引き締めるように両頬を軽く叩いた。
「よし、考えちゃダメ!!今は行かなきゃダメだよ、わたし!!」
そう自分を鼓舞するように言うと、クロノスが向かったであろう炎の上がる方角へと迷うことなく駆け出した。
✿✿✿
「クロノスさん、お待たせしました!!」
荒れ果てた街の一角。かつて馬車を降り立ったであろう、やや開けた広場に辿り着いたセシルは、大きく息を吸い込みながら声を張った。
そこにはクロノスは炎に照らされる地面をじっと見つめ、顎に手を当てたまま何か考え込んでいるようだった。
また、セシルの呼びかけも耳に入っていないのか、視線を上げることすらしなかった。
辺りを見渡すと石畳が敷き詰められた地面の上にはポツポツと小さな炎が燃え続けており、すぐ奥に見える建物はかろうじて骨格部分だけが残っているが、今にも崩れ落ちそうなほど激しく燃え上がっていた。
ふと腕に継続的に続く痛みを感じていたが、それ以上に周囲の破滅的な風景の中で一つだけ“違和感”を覚え、足を止め、そのまま足元で燃え続ける存在に視線を移した。
至る所に、藤色と濃い紫色の釣鐘のような形をした可憐な花が咲き誇っていたのだ。
茎の先端にいくつも連なるその花は、炎に包まれているにも関わらず、まるで火を拒むかのように一切燃えることなく、不気味なほど綺麗に咲いていた。
「何なの...この花...」
セシルは思わずそう呟き、しゃがみ込んでその花をじっと見つめた。
どこかで見たことがある気がするが、どうしても名前が思い出せない、そんなありふれた花。
しかし、そんな花を見つめるうちに、無性に手を伸ばしたくなる衝動が込み上げてきて、何かに惹かれるように、無意識のまま指先を伸ばしていた。
「馬鹿野郎!!何をしてる!!」
火に指先が触れそうになった瞬間、怒声とともに強い衝撃を受け、体ごと後ろへ引き戻され直後、ごちんと頭に鈍い衝撃が頭に走った
「いっっっつぁ〜~~......!!!」
目の前がチカチカする中、セシルは頭を両手で抑えながら思わず頭を押さえ、不満げに振り返ると、そこにはどこか焦ったようなそして同時に困惑した表情を浮かべたクロノスが、彼女の脇を通すように両手で体を掴み上げていた。
「っ、お前!何をしているんだ!なぜ、火に触ろうとしているんだ!」
クロノスの声は、怒りと焦りが入り混じっていた。セシルはその叱り声に、軽くポカンとした表情を浮かべていた。
先程まで前方にいたはずのクロノスがいつの間にか背後で自分を支えていることに驚いた。それと同時に、自分が火に触れようとしていたことにも驚きを隠せなかった。
「...あれ、わたし、なんで触ろうと思ったんだろう...?」
「はぁぁ?」
セシルはぽつりと呟いたが、その問いにクロノスが答えが出るはずもない。
クロノスはその言葉に呆れたように大きくため息をつきながら、セシルを地面に下ろし、目の前の炎をじっと見つめた。
「近づくなよ。建物を燃やしている火は普通のものだ。ただ——この花を燃やしている火は、普通じゃない」
「普通じゃない...?」
セシルはクロノスの言葉を反芻するように呟いた。その「普通じゃない火」って一体何なのか、頭に浮かぶ疑問を浮かばせて火に目を落とすが、全く検討もつかなかった。
すると、クロノスは何も言わずに掌から小さな鎖を召喚させると、それらを投げ入れるように炎の中に突っ込ませた。
その瞬間、炎はまるで鎖を貪るかのように激しく吹き上がり、一瞬で鎖を包み込んだ。
セシルはその光景に目を見張ったが、よく見ると、鎖の一部がじわじわと溶け始めているのが見えた。
「ひぇっ!クロノスさんの鎖が...っ!」
セシルは思わず体を後ろに引き、あり得ないものを見たように目を大きく見開いた。ふと視線を上げると、クロノスが興味深そうに手を口に当て、口角をあげていた。
「この威力...やはり、そうだ。狐によるものだ。まさか、こんな場所でお目にかかるとはな」
「狐《ルナ―ル》、ですか?初めて聞きました」
セシルは驚きながらもその言葉を返すが、クロノスは表情を戻すように軽く咳払いをし、腕を組んでじっと燃え上がる炎を眺めていた。
「まぁ、そうだな。世の中に獣人族という存在があると思うが、その中でも上位で魔力を蓄えている存在と言えばいいだろうな。そんな中でも、これは格上の魔力だ」
クロノスの言葉は、セシルにとっても初めて耳にするものだった。彼の冷静な声には、何か尋常ではない事が起きていることを感じさせるものがあった。
セシルがその言葉に驚いていると、クロノスはふと目を細め、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「よかったな、セシル。もし俺が止めなかったら、一瞬でステーキが完成して、焦げた匂いが立ち込める頃には、もうただの灰になってたところだぞ」
「うぇぇ...本当にそうなりかけたとはいえ、そんな事言わないでくださいよ...」
セシルは自分が炎を触った拍子で燃え上がっている様子を想像してしまったのか、顔を真っ青にし、思わず目を伏せていた。
その時、彼女の視線の先で、最も燃え上がっている建物の麓に、大量の藤色と濃い紫色の花が燃えることもなくただ集中するように咲き乱れているのが見えた。
「...あれって...?」
不思議に思ったセシルは、その花に指を指しながらクロノスを見上げると、彼もまた、その異様な光景にすぐに気づいたようで、軽く目配せをした。
二人は慎重に辺りの炎に気をつけながら、その満開に咲き誇っている花々に向かって歩を進めた。




