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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第一部. 契約悪魔と精霊の交差点:忘却の契約と廻る歯車
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第3話. 闇に飲み込まれていく



「はっ、はっ......」


三人の足音と、荒く喉を鳴らすような呼吸音だけが、深く静まり返った暗い森の中に断続的に響いていた。


息も絶え絶えの中で、それでもなお立ち止まることなく走り続ける彼女たちは、炎と悲鳴に包まれた集落とは正反対の方向へ、互いの手を決して離すことのないようにしながら、ただ無我夢中で前へ前へと進んでいた。


あれから、どれほどの距離を走ったのだろうか――そんな問いが頭に浮かびそうになるたびに、それを自分自身で打ち消すようにして、ただただ胸に焼きついた惨劇の残像から逃げるように、三人は目的地も定かでないまま足を動かし続けていた。


(お父さんは......もう......。なんで、さっきまで、みんなで笑い合っていたのに......!)


セシルの視界は涙に滲み、呼吸は次第に乱れ、胸は締めつけられるような痛みを訴えていた。


振り返るのが、怖い。もし後ろを見てしまったら、あの炎の中で断ち切られた現実が、容赦なく自分の中に流れ込み、心の奥に土足で踏み込んでくるような気がしてならなかった。


胸に湧き上がる恐怖と悔しさ、そして理解しがたい状況の渦の中で、セシルの思考はぐるぐると回り続け、思いは混乱し、やがて足元への注意が散漫になっていた――。


「きゃっ!」


突然の衝撃と共に、セシルの身体はバランスを失い、地面からふわりと浮かぶような感覚に襲われたかと思えば、視界がぐらりと揺れ、そのまま倒れ込もうとした――その瞬間。


「セシル!」


悲鳴に近い声を上げたのは母親だった。走る勢いを急に緩めると、掴んでいたセシルの腕を反射的に強く引き寄せ、その身体をしっかりと支えた。


母の素早い対応のおかげで、セシルは顔から地面に倒れ込むという最悪の事態を免れ、体勢を崩しながらもなんとかその場に踏みとどまった。


スピードを落としたことで、前を走っていたエルナも立ち止まり、母の手を離れてセシルに駆け寄ると、心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。


「だ、大丈夫......?」


その声に、セシルは申し訳なさそうに目を伏せながら、息を整えるのに必死になりつつも、なんとか答えを返した。


「あ、ありがと......ごめん......」


謝罪と感謝の入り混じった言葉を呟くセシルに、母はそれ以上気に留める様子もなく、強くその腕を引き上げると、ほとんど半ば強引に体勢を立て直させながら、切羽詰まった声で叱咤した。


「何やってるの!早く立ち上がって、走りなさい!」


その声には、母親としての必死の思いと、何よりも二人の娘を生かしたいという切実な願いがにじんでおり、怒鳴るようでいて、どこか震えが混じっていた。


その促しに応じるように、セシルはふらつく膝を押さえながら立ち上がり、再び走り出そうと顔を上げた――だが、その瞬間、目の前に広がった光景に、思わず息を呑んだ。


「え......前、が......」


「前がどうしたのよ! 早く立ち上がりなさいって――えっ......」


母親の声が不意に途切れた。エルナもまた、同じ方向を見つめたまま、目を大きく見開いていた。


三人の視線の先――そこには、いつの間にか森の終わりが訪れており、途切れた地面は大きく口を開けるかのように、鋭く切り立った断崖絶壁となって眼前に立ちはだかっていた。


その光景はまるで逃げ場を奪うような運命の悪戯であり、ただ走り続けてきた三人の心に、冷たく現実を突きつける壁となって立ち塞がった。


「嘘......道が、ない......」


思わず呟いた母親の声は、掠れていた。彼女は娘たちの腕をそっと手放し、現実を信じきれないような表情のまま、足元を確かめるように一歩、また一歩と慎重に崖の縁へと歩を進めており、その背には恐怖と疲弊が滲み、今にも崩れ落ちそうな頼りなさがあった。


母親が恐る恐る崖下を覗き込むと、そこには無数の鋭利な岩が不規則に突き出し、その隙間から覗く暗黒の谷底は、まるで底なしの奈落のように静かに口を開けていた。


続いて後ろから近づいたエルナもその深さに言葉を失いかけたが、場の空気を和らげようと、意識的に明るい口調を作ってみせた。


「あっぶな......あのまま無我夢中で走ってたら、崖に真っ逆さまだったかもね......」


セシルも息を詰まらせたまま、震える声でその言葉に続いた。


「......あ、危なかった......」


恐怖で足に力が入らなくなったのか、母親はその場にしゃがみ込み、肩を小刻みに震わせていた。


彼女の手は明らかに震え、額には冷や汗が滲み、まるで張り詰めた糸がいまにも切れそうなほどの緊張感に満ちていた。


それでも彼女はなんとか顔を上げ、セシルとエルナの方へと視線を移すと、精一杯の微笑みを浮かべて、かすかに震える声で口を開いた。


「転んだのが、逆に良かったのかもしれないわね。セシル、助かったわ......」


「うぅん。むしろ、支えてくれてありがとう......」


そう言ってセシルはそっと母の傍にしゃがみこみ、彼女の目線の高さに合わせてその頭に手を添えた。


だがその瞬間、母の中で張り詰めていた糸がついに切れたのだろう――彼女はまるで堰を切ったかのように嗚咽を漏らし、肩を大きく震わせながら、声にならない言葉を繰り返し、泣き崩れてしまった。


「ごめんね......エルナ、セシル......お母さん、何もできなくて......どうして、どうしてこんなことに......!」


「ちょ、ちょっと!お母さん、泣かないで!お母さんのせいじゃないよ!」


エルナは必死に背中をさすり、涙を堪えながら声をかけたが、母の涙は止まらず、その胸の奥から込み上げる悲しみが、ただ静かに、けれど確実に三人を包み込んでいく。


(本当......なんで、こんなことに......)


セシルもまた、言葉を失いながら震える手で母の手を握りしめ、そのぬくもりを確かめるように、ただじっとそのそばに寄り添っていた。


だが、崖の底から吹き上がる冷たい風は容赦なく三人の体温を奪い、ほんの少しだけ残っていた幸せの名残さえも、無情にさらっていくのだった。



◇◇◇



――崖の縁で身を寄せ合い、静かに時間が過ぎていく中、森の奥から微かに何かが地面を踏みしめる音が聞こえてきた。


ザッ......ザッ......


それは風の音とは違う、確かな足音――明らかに“何か”が近づいてくる気配だった。


(......っ! 何か、来る!)


いち早く音に気づいたセシルは反射的に立ち上がり、まるで本能に突き動かされるように、両腕を広げて母と姉の前に立ちはだかった。


その瞳は恐怖に揺れていたが、それ以上に、二人を守ろうとする強い意志が込められていた。だが、そんな彼女にエルナは不思議そうに視線を上げ、不安そうに話しかけた。


「......セシル? 急にどうしたの?」


エルナが母を支えながら、不安そうにセシルの背を見つめていたがセシルは耳を貸す余裕もなく、頭の中で最悪の想定を巡らせていた。


(もし......もし、魔獣だったらどうしよう......せめて、剣さえあれば......!)


焦りと恐怖が心を支配し、最悪の状況を想定し、後ろの二人に声を掛けようと、振り返ろうとしたその瞬間、後ろにいたエルナが突然立ち上がり、森の奥へ向かって叫んだ。


「ク......クロノス!!」


「えっ......?」


セシルは驚きに目を見開き、思わず目元をこすってから視線を戻し、先に目を凝らした。


すると、深い森の奥から現れたのは、どこか見覚えのある、気品漂う貴族風の衣装に身を包んだ一人の男だった。そこにいたのはまごうごとなき、クロノス本人だった。


(えっ......クロノス様? 本、物......?)


疑念と安堵がせめぎ合う感情が胸の内を満たし、セシルはただ、目の前に現れたその姿を凝視することしかできなかった。


構えていた身体からは、自然とわずかに力が抜けていたが、眼差しの奥に宿る困惑と警戒の色は未だに消えず、見知ったはずのクロノスの姿さえ、まるで幻であるかのように思えた。


どれほどその存在を信じたくとも、あまりにも突如として現れたクロノスの登場は、まるで物語の幕間のような不自然さを孕んでおり、セシルの心に残る疑念は容易く晴れるものではなかった。


そんな時、セシルの視界の端を、まるで何かに引き寄せられるかのような勢いで、エルナがすり抜けて駆けていった。そのまま一直線にクロノスの胸元へと飛び込み、溢れ出す感情のままに、その名を叫んだ。


「クロノス!」


エルナの細い腕がクロノスの身体にしがみついた瞬間、彼もまた、ごく自然な動作で彼女をそっと抱き留め、まるでその存在を確かめるかのように、優しく問いかけていた。


「ッエルナ......怪我はないか」


その声には、最悪の結末を恐れる慎重さと、目の前の無事に胸を撫で下ろす安堵の響きが同居しており、かすかに震えを含んだその音色は、長い間その名を呼ぶことさえ叶わなかった苦しみを滲ませていた。


「怪我なんてないよ! でも......うぅ、村の人たちが......!」


言葉の続きを紡ごうとしたエルナの唇は震え、そのまま言葉にならぬ想いが堰を切ったように溢れ出し、彼女はクロノスの胸に顔を押し付けたまま、肩を震わせて泣き崩れようとしていた。


そんな感動的な再会の光景に包まれながらも、セシルの胸の奥には奇妙なざわめきが生まれていた。それは困惑でもなければ怒りでもない、言葉にできない感情の影だった。


(......なんだろう、この違和感は)


喉の奥に小さな棘が引っかかっているような不快感が、じわじわと広がりながら胸の内を蝕みはじめており、ただエルナの泣き顔を見ているだけなのに、心の奥底で何かが静かに軋んでいた。


すると、その思考を破るように、背後から、どこか戸惑いを含んだ母親の声が届いた。


「クロノスさん、どうしてここにいらっしゃるのですか?」


その問いは、まさにセシルが心の奥で繰り返し抱いていた疑問を代弁するものであり、その言葉が引き金となり、セシルは一歩前に出ると、クロノスとエルナの間にぴたりと割って入り、じりじりと詰め寄るように彼を睨みつけた。


「そうよ、どうしてクロノス様がこんな場所に? こんなタイミングで現れて、偶然なんて言うつもりじゃないわよね?」


声の端々に滲むのは、不安とも怒りともつかぬ複雑な情動。まるでエルナを彼から引き離すかのように間に立ったセシルは、その鋭い視線でクロノスの瞳を射抜こうとした。


「ちょ、ちょっと......セシル......」


困惑の色を浮かべながらエルナがセシルの肩にそっと手を置き、引き留めるように声をかけるが、セシルの瞳はクロノスを一度も逸らさずに見据えたままだった。


そんな緊迫した空気の中で、クロノスは視線をわずかにそらし、ほんの一瞬だけ表情を曇らせると、深く息を吐き出し、淡々とした声で口を開いた。


「......エルナに渡した果物の香りを辿ってきた。それだけだ」


「は...?」


セシルの口から、あまりにも予想外すぎるその理由に、思わず気の抜けたような声が漏れる。彼女の顔には、露骨なまでの疑念と呆れの表情が浮かんでいた。


「果物の匂いで......ここまで来た?そんな、馬鹿な......」


信じられないという気持ちが込み上げてきたセシルに対し、クロノスは苦笑ともつかない表情を浮かべながらも、真剣な声音で補足を加え始めた。


「信じがたいとは思うが、村からこの方角に向かおうとしていた魔獣と戦いながら進んでいた時、あの果物の濃密な香りが風に乗って流れてきた。あまりにも強く、そして不自然なほどはっきりとした匂いだった......それで、導かれるように歩いていたら、気づけばここにいた、というわけだ」


いかにも信じ難い話ではあったが、その語り口に虚言の気配はなく、隣で聞いていたエルナは、ふと肩の力が抜けたように笑みを浮かべると、くすりと楽しげに言葉を零した。


「ふふっ、なんだか......わんちゃんみたいだね」


「......うるさいぞ」


彼らの何気ないやりとりに、ようやく張り詰めていた空気がわずかに緩んでいくのを感じたセシルだったが、それでも胸の奥に残るもやは晴れきらず、口を閉ざしてしまう。


それでも、エルナの笑顔を見るうちに、今はそれ以上問い詰めるのは得策ではないと思い、言葉を呑み込んだ。そして次の瞬間、エルナはまっすぐクロノスを見つめ、静かに言った。


「来てくれて、ありがとう。クロノス」


その一言は、温かく、それでいて切実だった。セシルの背後から届いたその声に、クロノスはふと目を伏せ、わずかにその表情を和らげた。


セシルは、まだ疑念を完全に拭い去れぬまま二人のやり取りを見つめていたが、それでも確かに、クロノスが来てくれたという事実が、この場所にかすかな救いをもたらしていることだけは否定できなかった。


しかしその安堵の時間は、あまりにも短く、クロノスはふと表情を引き締め、セシルとエルナ、そしてその後ろに立つ母親へと視線を向け、低く、重く響く声で告げた。


「......村について、話さなければならないことがある」


その張り詰めた声が発せられた瞬間、空気はまるで凍りついたかのように緊迫し、セシルもエルナも、息を呑んで動きを止めた。


胸を締めつけるような予感が迫る中、二人は自然と彼の言葉に耳を傾けようとした――その瞬間だった。


ゴゴゴゴゴゴゴッ!


大地が低く唸り声をあげ、地面が生き物のようにうねりながら揺れ始めた。


「きゃっ、地震......!?」


エルナが短く悲鳴をあげ、目を見開いたままセシルの背中にしがみついた。急激な揺れに足元を掬われそうになったセシルは、咄嗟にクロノスの腕を掴み、どうにか体勢を立て直しながら、周囲の状況を即座に確認しようと目を走らせた。


「セシル! エルナ!」


遠くから母の声が聞こえた。その声は、轟く地鳴りと地面の揺れの中でもはっきりと彼女の耳に届き、セシルは声の方へと視線を向けると、そこには、崖の縁にほど近い危険な位置で、なんとか座り込んでいる母の姿があった。


「お母さん......!」


その瞬間、セシルの心臓は強く跳ね上がった。あの場所で再び揺れが激しくなれば、転落は避けられない。もはや思考よりも先に、彼女の身体は反射的に駆け出していた。


「セシル!」


エルナの叫びも振り切り、彼女の手を払いのけるようにして、セシルはただ一心に母のもとへと向かって走った。


崩れそうな地面に何度も足を取られそうになりながら、それでも彼女の瞳は、危険に晒される母の姿だけを捉えて離さなかった。


「エルナ、ここにいてくれ!」


クロノスが咄嗟にエルナの身体を支え、倒れそうな彼女をその場にとどめると、セシルの背を追って、すぐさま駆け出した。



◇◇◇



「セシル! 危ないから来ちゃダメよ! 私は大丈夫だから!」


母の声が地鳴りの中にかき消されそうになりながらも、必死な叫びとしてセシルの耳に届いた。


その声に応じるように、セシルは揺れる大地を踏みしめながら、崖の縁に向かって身を縮めるように走っていた。


だが、足元は泥のように柔らかく、不安定で、一歩踏み出すたびにバランスを失いそうになっており、必死に手を伸ばしても、目の前の母親との距離はなぜかどこまでも遠く感じられた。


(なんで......なんで届かないの......!? こんなに近いのに、すぐ、そこなのに......!)


焦りが胸を灼き、呼吸が荒くなっていく中で、彼女は何度も母の名を心の中で叫びながら手を伸ばし続けると、ようやく母のすぐ手前まで辿り着こうとした瞬間――揺れが、ぴたりと止まった。


(......止まった......今なら、まだ間に合う......!)


希望が芽生えた刹那、セシルは大きく踏み出そうと足を動かしたが、その次の瞬間だった。


「セシル! 危ない!!」


クロノスの叫びが、鋭く背中を貫いた直後。空間全体が震えるような轟音が耳をつんざき、彼女の視界を激しく揺さぶると、目の前の崖が、まるで悪夢のような音を立てて、唐突に崩れ始めた。


ガラガラッ......!


「ッお母さん!!」


土砂の間から、母の姿が一瞬だけ見えており、その顔は、悲しみに満ち、恐怖に凍りついてき、セシルが手を差し伸べる間もなく、母親の身体は崩れ落ちる大地と共に闇の底へと呑み込まれていった。


「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」


セシルの絶叫は、世界そのものを引き裂くような痛みに満ちていた。手が届きそうだった。あと少しで、きっと助けられたはずなのに。


「嘘......嫌だ......お母さん!」


気がつけば、足元の地面はもう揺れていないが、セシルの身体はふらつき、心は空っぽになったように沈んでおり、舞い上がる砂塵の向こう側を、彼女は崩れた崖に向かって身を乗り出すように乗り出そうとしていたが、次の瞬間、背後からクロノスが飛び込み、彼女の身体を力強く抱き上げた。


「おい、危ないぞ!」


「お願い、離して! お母さんが......お母さんがまだ......!」


「......」


セシルは暴れ、叫び、涙を流しながら抵抗するが、クロノスの腕は揺るがず、ただ沈痛な表情だけが彼の顔に浮かんでいたが、彼は何も言わず、セシルをしっかりと抱えたまま、エルナの元へと向かって歩き出していた。


「嘘だよね? これ、夢だよね......」


エルナは青ざめた顔で、信じられないというように呟いた。彼女の足もふらつき、今にも崩れ落ちそうな表情でセシルも、崖を見つめたまま、沈んだ声で呟いた。


「助けに、行かなきゃ......お願い、放してよ......!」


「やめろ、セシル......あの高さなら、ただの人間である彼女はもう......」


クロノスは一瞬、深い悲しみを湛えた瞳でセシルを見つめると、重く静かな声で現実を突きつけたがその言葉に反応するように、崖の奥から、再び地鳴りのような不気味な音が響き始めた。


「まだ......お母さんが......」


セシルの掠れた呟きが風に飲まれていく中で、崖の縁に亀裂が走り、そこから連鎖的に崩壊が始まり、先程までセシルが立っていた場所が音を立てて崩れ、さらなる土砂が断続的に地の底へと落ちていった。


ガラガラガラガラ


「......ここも危ない。もう少し離れるぞ」


クロノスの声は鋭く、抑えられた焦りを滲ませながらも冷静だった。その言葉に導かれ、セシルとエルナは崖から後退し、無意識のうちにクロノスの腕にすがるように足を動かしてていった。


振り返った先には、かつて母がいた崖の一帯が、完全に崩れ、もう何もかもが飲み込まれてしまっていた。


(嫌だ......嫌だよ、お願いだから嘘だって言ってよ......)


セシルの胸には、崩れ落ちた崖と同じくらい深く、冷たく、決して埋められない絶望が、静かに、しかし確実に広がっていた。

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