第21話. 新たな力の兆し
二人でしばらく耳飾りを見つめていたが、セシルはやがて思い出すのを諦めるように軽くため息をつき、片方の耳飾りをポケットにしまい、持っていたサンドイッチを再び口に運び始めた。
(...おいしい――)
記憶を何一つ思い出せない悔しさを抱え、瞳に薄く浮かぶ涙を押し隠すように、視線を落とし、それを表に出すことはせず、セシルは黙々とサンドイッチを頬張った。
沈黙が続く中、不意にクロノスの静かな声がその場の空気を震わせた。
「セシル......」
「...?」
不意に名前を呼ばれたセシルは、少し戸惑いながら顔を上げる。その瞬間、クロノスの手がふっと伸び、彼女の髪を軽くかき分けながら右耳に触れた。
「っ...!」
セシルは驚きで体が一瞬強張ったが、クロノスの手から伝わる温もりがじんわりと彼女の心に染み込んでいく。次の瞬間、クロノスは手を離し、静かな言葉を残した。
「良いな...」
言われた意味が分からず、セシルは思わず自分の耳に手をやると、そこには、先程までクロノスが手にしていた耳飾りがそっと収まっていた。
「......これ」
指先で耳飾りを確かめると、触れるたび、胸の奥がざわめき、何かが繋がり始めるような微かに温もりの感覚が静かに心を揺らしていた。
「持っているだけでは勿体ない気がしてな。よく似合うぞ」
クロノスの穏やかな声とともに浮かぶ微笑みを見て、セシルは彼の優しさを確かに感じ、胸の奥にほんのりとした温かさが灯る。
「...ありがとう、ございます」
思わずぽつりと呟いたセシルは、嬉しそうに耳飾りを指で弄びながら、その感触を確かめていた。
しばらく沈黙が続いたが、その静けさは重苦しいものではなく、どこか穏やかで優しい空気が二人を包んでいた――。
すると、耳飾りを軽く弄りながら、どこか照れ臭そうにセシルはぽつりと口を開いた。
「...クロノスさんって、優しいですね」
セシルの素直な言葉に、クロノスはまるでその評価に戸惑っているように一瞬驚いたように目を見開き、すぐに視線を伏せていた。
「優しい...? そう、思うか?」
「そうですよ!色々と気遣ってくれますし...その、この耳飾りも、ありがとうございます」
セシルの声には素直な感謝が込められていた。しかし、クロノスはその言葉を聞きながら、心の奥底に小さな違和感を覚えたのか、ふと遠くを見るように視線をそらした。
「昔の俺では考えられないことだな......」
低く呟くようなその声に、セシルは驚いて顔を上げると、瞳に映ったクロノスの横顔は、どこか困惑したような、複雑な表情を浮かべていた。
「そう、なんですか?」
「あぁ。ただ契約を結び、願いを叶え、その代償を受け取る。それだけの繰り返しだった。他人に対しての感情なんて、まるで持ち合わせていなかったさ」
クロノスは苦笑しながら空を見つめ、その瞳には微かな寂しさが浮かんでいた。その冷静な声がどこか痛々しく響くのを聞いて、セシルは胸がざわつくのを感じた。
「でも、今のクロノスさんは......優しくて思いやりのある感情を持っているように見えますよ?」
セシルの無邪気ともいえる問いかけに、クロノスは一瞬言葉を失った。そして視線を伏せ、考え込むように沈黙する。やがて、答えを出せないまま彼の肩がわずかに沈むのが見えた。
「...あれ、じゃあアキラさんと契約を結んだ時も何も感じなかったということかな?でも、アキラさん今のクロノスさんは感情があるのが当たり前みたいに接しているよね。もしその感情が後から生まれたとしたら...うーん...?」
その言葉セシルの口から出た瞬間、クロノスの表情が凍りついたように固まり、わずかに目を見開き、鋭い空気が漂う。まるで予想外の痛点を突かれたかのようだった。
「......」
セシルはその空気をすぐに察知し、自分がなにか余計なことを口にしてしまったのではないかと瞬時に感じながら、口を押えながら不安になり、口を閉じたまま視線をそらした。しかし、クロノスが静かに息を吐くのを感じて、そのまま耳を傾けた。
「その時......確かに何かを思って契約を結んだはずだ。でも、今となっては何も思い出せない。なぜその時に感情が芽生えたのかさえもな」
苦々しげなその声には、自分自身への苛立ちが混じっていた。記憶の欠落という目に見えない鎖が、彼を縛り続けているかのようだった。
セシルは言葉を返せず、ただ、クロノスの横顔をじっと見つめ、彼が抱えるものの重さに胸が締めつけられるような感覚を覚えていた。
そんな重苦しい沈黙が流れる中、セシルは少しでも空気を変えようと、勢いよく声を上げた。
「ぁ、あーー!!そ、そういえば!!」
声を弾ませるように言いながら、セシルは思い切りよく話題を変えるように話し出した。
「クロノスさん、契約悪魔って他にもいるんですか?わたし、他の存在とか聞いたことないなーなんて」
わざとらしくも明るく振る舞うセシルの様子に、クロノスは一瞬驚いたような表情を浮かべたが、だが、すぐに彼女の気遣いを感じ取ったのか、わずかに口元を緩めながら、ゆっくりと話し出した。
「そうだな...俺が把握しきれないほどの数は存在するだろう。ただ、多くの契約悪魔は、いわゆる浮遊する魂のような“概念的な存在”だ」
「概念的な存在?」
セシルは興味深げに身を乗り出し、首を傾げながら不思議そうな表情でクロノスを見つめて尋ねた。その仕草を見たクロノスは軽く頷き、言葉を続けた。
「俺みたいな人型をとる契約悪魔は珍しいのさ。実際、俺自身、もう一人しか知らない」
その言葉に、セシルは驚きつつも興味をそそられ、さらに問いかけた。
「その人に、いつか会ってみることができるんですか?同じ契約悪魔として力を持っている方なら、もしかしたら、記憶を取り戻すきっかけに繋がるのかな、なんて」
セシルの素直な反応に、クロノスは少し考え込むように視線を落とし、静かに頷いていた。
「...ここから数日飛行船で移動した場所を拠点にしているやつだ。会いに行くことは容易だ。ただ――」
言いかけたところで、クロノスは言葉を切った。一瞬のためらいが表情に滲む。
「...いや、詳しいことは言えないが。彼は、――今の俺たちをそう簡単に受け入れてくれない気がするんだ」
唐突な言葉に、セシルの胸には「何かがあるのだろう」と一抹の不安が過ぎった。しかし、クロノスの様子からそれ以上深く問い詰めることはできず、自然と会話が途切れ、再び耳には街の楽しげな音が届いてきた。
◇◇◇
「んー、美味しかった。ごちそうさまでした」
セシルは満足そうにサンドイッチを食べ終えると、嬉しそうに手を軽く合わせていた。
「さて、次はどこか気になる場所はあるか?」
クロノスは軽く座りなおしながらセシルの方を見て、次に何をしたいのかと、軽く首を傾げ、尋ねた。
「うーん、そうですね...では――」
セシルが何かを言いかけた瞬間、突然近くから悲鳴が響いてきた。
「まって!ぼくのお金、かえして!!」
悲鳴を聞いた二人は驚いて顔をあげると、帽子を深くかぶった男が「どきやがれ!」と怒鳴りながら、麻袋を脇に抱え、人々を押しのけて走り去っていくところだった。
「うそっ。あの人、人の物を!」
セシルはすぐに男を追いかけようと素早く立ち上がったが、一瞬でクロノスが腕を軽く引き、静かに制した。
「待て。俺に任せろ」
落ち着いた声でクロノスはそう告げると、鋭い視線を男に向け、素早くその動きを捕捉した。
一方、セシルは男に袋を盗まれた拍子に転んでしまったであろう男の子の元へ慌てて駆け寄り、体を立たせながら怪我がないか確かめていた。
その間に、クロノスの鎖は影の中を疾風のように伸び、一瞬で泥棒の足元を絡め取った。
「――っ!」
鎖に捕らえられた泥棒はバランスを崩し、転倒すると、その隙を逃さず、クロノスは目にも止まらぬ速さで接近し、無言の威圧感をまといながら目の前に立ちはだかった。
「さて、大人しく盗んだものを返してもらおうか」
片手を差し出したクロノスは薄く笑みを浮かべながらも、その瞳は冷たく泥棒を見下ろしていた。
怒りに燃えた表情で勢いよく顔を上げた泥棒は、一瞬クロノスの迫力に怯むも、歯を食いしばり、虚勢を張るように声を荒らげた。
「て、てめぇ!なんだよ、その格好は......貴族か?だが、なんだその化け物じみた殺気は!!」
「......」
「偽善な金持ちごときが良い子ぶりやがって!くそが、どけ!」
そう言うや否や、男はポケットからアーミーナイフを取り出し、立ち上がる勢いでクロノスに突進してきた。
シュッ!
クロノスは冷静に素早く身を横にかわすと、男の動きを冷静に捉えながら、踵を返し、体を反転させ――
ドカッ!
「ぐはっ...!」
クロノスの鋭い回し蹴りが泥棒の脇腹に見事に直撃した。バランスを崩した泥棒は地面に膝をつき、一瞬もがいたが、その一撃で大ダメージを受けたのか、苦しげに呻きながらそのまま崩れ落ちていた。
「不愉快だな」
男が動かなくなったのを確認したクロノスは、そう低く呟くと、男を蹴り倒した衝撃で地面に滑り落ちていたアーミーナイフを拾い上げ、手首を軽くひねって宙に放り投げた。
ナイフは綺麗な弧を描いて落下し、クロノスの手のひらで正確に掴まれると、赤黒い力が微かに集まり――「パリン」と小さな音を立てて粉々に砕け、空気に溶け込むように消えた。
「さてと、遠慮なく返してもらうぞ」
クロノスは無造作に地面に横たわる男の体を軽く蹴り転がし、男が持っていた麻袋を拾い上げた。
気がつくと、周囲では騒ぎを見かけた人々が驚きの声を上げ始めていた。
「衛兵を呼んでくる!」「なんだ、喧嘩か!?」「ひったくり犯だってよ!」
ざわめきが広がる中、クロノスはその声を無視するように、どこか苛立ちを滲ませた表情でセシルの元へ戻り始めた。
(くそ、服装だけで決めつけやがって...)
クロノスは心の中で吐き捨てるようにそんなことを思ったが、頭をかきながらすぐに表情を平静に戻すと、セシルの近くで怯えた表情を浮かべる男の子のもとへ歩み寄り、拾い上げた袋を静かに手渡した。
「ほら、もう取られるんじゃないぞ」
「あ...それ! あ、ありがとう、お兄ちゃん!」
袋を受け取った男の子は最初こそ不安げだったものの、麻袋を渡されると満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに袋を抱きしめてお礼を言った。
「まぁ、無事に取り戻せてよかった」
クロノスは笑みを浮かべながら、軽く男の子の頭を撫でた。その仕草はどこかぎこちなくもあったが、男の子の無邪気な笑顔を見て、わずかに安堵した様子だった。
一方、セシルは先ほどのクロノスの鮮やかな蹴り技にハワハワしながら、片手で口を押さえ、もう片方の手で崩れ落ちた男を指さしていた。
「ク、クロノスさん。あの人、死んじゃってないですよね? 物凄く綺麗な蹴りが...!」
その問いに、クロノスはわずかに目を細め、肩をすくめて淡々と答えた。
「馬鹿言え。こう見えても人間相手にはちゃんと手加減してる。それに、今の俺に本来の力なんて――」
「お兄ちゃん!」
クロノスが何かを言いかけた時、不意に足元から声が響き、声の方に視線を向けると、先ほど助けた男の子が、クロノスをキラキラした尊敬の眼差しで見上げながら話しかけていた。
「二人はたび人さん...だよね?」
クロノスは男の子を怯えさせないよう、視線を合わせるためゆっくりとしゃがみ込み、口を開いた。
「ああ、そうだ。よくわかったな。怪我はしてないか?」
すると、男の子は元気よく首を振りながら、ニパッと笑顔を浮かべて答えた。
「だいじょうぶだよ!そこにいるお姉ちゃんがケガをなおしてくれたから、全ぜんいたくないよ! ほら!」
そう言いながら、男の子は長袖を捲り、自分の肘をクロノスに見せつけた。その肌は綺麗で、かすり傷一つも残っていなかった。
(治してもらった...?)
その事実を目の当たりにしたクロノスは困惑した顔でまじまじと見つめると、何かに気が付いたように顔だけを後ろに立っていたセシルの方へ向け、思わず彼女を見やった。
「あっ、それ。なぜか治せちゃったんですよ。不思議ですよね~」
彼の視線に気が付いたセシルは無邪気に手を合わせ、笑いながら淡々と答えていた。
(治癒魔法を使えた? 馬鹿な。そんな兆候は今まで一度もなかったはずだ)
クロノスは困惑しながら、過去の出来事を思い返し思考を巡らせていると――
「そこの者たち! この男を気絶させたのはそなたたちか!」
「っ!」
クロノスとセシルは声の主に驚いて振り向くと、そこには槍を片手に簡易な鎧を纏った二人の衛兵が、こちらに向かって歩いてきていた。どうやら街中の騒ぎを聞きつけて駆けつけたらしい。
「...面倒なことになったな」
クロノスは静かにため息をつきながら周囲を見回した。人々の視線が囲むように集まり、ざわざわとした空気が広がっていた。
(この場で事情を説明するのは簡単だが、目立ちすぎたせいで余計な問題を招きかねない。それに、拘束されればセシルが楽しむ暇もなくなる...)
そう考えたクロノスは何かを決断するように、迷いなく目の前にいた男の子をひょいと抱え上げ、立ち上がるとセシルの手を掴んだ。
「えっ!な、 なんですか!」
手を掴まれたと同時にぐいっと引っ張られる感覚に襲われたセシルは驚いたが、クロノスは軽く引っ張りながら走り出した。
「いいから、走るぞ!」
「おい、待て! 話を聞かせてもらおう!」
逃げようとする二人を捉えようと、衛兵たちは焦りの声を上げた。
「クロノスさん――説明したらすぐ終わるんじゃ...?」
セシルが困惑して尋ねると、クロノスは少しいたずらっぽく笑ってみせた。
「構わないさ! とにかく、捕まらないように走るぞ!」
「いきなり逃げるなんて大胆すぎますよー!ちょっと!クロノスさん!」
クロノスは迷いなく人混みを掻き分け、路地裏へと向かって走り出した。セシルも戸惑いつつもすぐに彼の歩幅に合わせ、一生懸命走っていた。
一方、クロノスに抱えられた男の子は、最初こそ驚いた表情を浮かべていたが、次第に楽しそうな笑みを浮かべ始めていた。
(妙な感じだ...なぜか、こういう状況を前にも経験した気がする)
後ろでは衛兵の怒声と周囲のざわつきが遠ざかっていく一方、クロノスは講義し続けるセシルの抗議に軽く笑みを浮かべたまま、迷いなく走り続けた。




