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記憶喪失のわたしが契約悪魔と精霊を追う理由  作者: 黒月セリカ
第一部. 契約悪魔と精霊の交差点:忘却の契約と廻る歯車
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第2話. 崩れる日常



森を抜けてしばらく走った二人は、ようやく村の集落から少し離れた場所に建つ、一軒だけのぽつんとした家へと辿り着いた。


“村に住んでいる”とはいえ、この家は実際には人通りの少ない辺鄙な場所にあり、周囲を豊かな森に囲まれてひっそりと佇んでいる。


家の外観は全体が温もりある木材で造られており、自然の中に静かに溶け込むような、どこか絵本のような美しさをたたえていた。


そんな家に先に走っていたエルナは、両手に籠を抱えながら木製の扉に体重をかけ、勢いよく扉を押し開けた。


「お父さーん! お母さーん! たっだいまーっ!」


元気いっぱいな声が家の中に響く中、エルナが息を整えながら扉を通ろうとしたその瞬間、背後から少し呆れたような声が飛んできた。


「お姉ちゃん......扉、壊れちゃうよ......」


「えっ、はやっ! もう追いついたの!?」


エルナは思わず振り返り、すぐ後ろに現れたセシルの姿に驚いたように目を見開いた。


先に走り出したはずなのに、セシルが息ひとつ乱さずに追いつかれていたことに驚いた様子だ。


しかし、セシルはそんなエルナの反応に特に興味を示すこともなく、腕に抱えていた果物をひょいとエルナの籠へ戻すように入れただけだった。


そして、そのまま二人は扉を閉めて家の中に入ると、奥のキッチン付近から馴染みある声が聞こえてきた。


「おかえりなさい、二人とも」


「おぉ、なんだ、走って帰ってきたのか? 元気だなあ、ガッハハ!」


声の方へ視線を向けると、キッチンでは父と母が夕食の準備をしていた。二人は手を止め、笑顔を浮かべながら迎えに来てくれた。


セシルは、そんな両親の温かな出迎えに、胸の奥がじんわりと温まるのを感じると、腰に下げていた剣をそっと外し、居間の隅にある武器棚へ静かに仕舞いに向かった。


「んもぉ、お姉ちゃんったら、果物ぼとぼと落としながら走るんだもん...ほんと大変だった...」


小さくぼやきながらも、どこか楽しげな苦笑を浮かべつつ剣を棚へ戻すセシル。一方のエルナはというと、誇らしげな顔で果物の入った籠を高く掲げながら、両親の前に差し出していた。


「じゃーん! 今日ね、クロノスからこんなに立派な果物もらったんだよ! 後でみんなで食べようね!」


得意げに籠を突き出すと、その中に入った瑞々しく艶やかな果物たちに父と母は驚き、思わず顔を見合わせた。


「おぉ......これはまた見事な果物だな」


「ええ、本当に立派ね......。今度、クロノスさんにお礼を言いに行かないといけませんね」


二人は籠の中の果物を手に取り、まじまじと眺めながら感嘆の声を漏らしていた。


そして母はそれらをそっと籠に戻すと、やわらかい笑みを浮かべながら人差し指を立て、にこやかにエルナへと提案を持ちかけた。


「それなら、この果物を使って、あとでパイでも作りましょうか?」


「えっ、パイ作り!? はいはい、はいっ!! 一緒に作りますっ! 一緒に食べますっ!」


「うわっ、びっくりした...」


セシルは母の提案を耳にした瞬間、どこにいたのかと思うほどの素早さでエルナの隣に現れ、勢いよく手を挙げていた。


その突発的なテンションに驚いたエルナは、一歩後ろへ下がりながら苦笑いを浮かべており、セシルの表情は、まるで美味しいものを目の前にした子どものように、純粋な喜びに満ちていた。


「がっはっは! 元気だなあ、セシル」


「えへへっ」


そんな様子を見た父は、笑いながらセシルの頭を大きな手でわしゃわしゃと撫で、セシルも照れくさそうにしながらも笑顔を崩さなかった。その光景に、母は口元にそっと手を当てて優しく微笑み、エルナは「ほんと、セシルは...」といった表情で肩をすくめていた。


「もう、セシルは料理のことになると、いつもこうなんだから...」


エルナは呆れたように言いながらも、どこか嬉しそうな雰囲気をにじませつつ、果物の籠をキッチン横の棚にそっと置いた。その背後では、まだセシルのはしゃぐ声が響いていた。


そんな中、今度は母がセシルをやさしく諭すような声で語りかけた。


「パイはあとで作りましょうね。もうすぐご飯ができるから、まずはみんなで食べましょうね」


そう言うと、父は既に用意されていた料理を両手に抱えてテーブルへ運び始め、一皿一皿、丁寧に並べていった。


「あら、あなた......ありがとうね」


母親はそう言って、夫の手伝いに心から感謝の言葉をかけると、エプロンの裾を軽く持ち上げるようにしながら、小走りでキッチンの方へ向かった。


セシルはその背を見送ると同時に、室内には温かい湯気とともに、家族団らんのための食卓の準備が、少しずつ、けれど確かに整えられていった。



◇◇◇



やがて、家の中には和やかな空気が満ち、家族全員がテーブルのまわりに揃って座ると、それぞれが手を合わせて一斉に祈りの言葉を口にした。穏やかな声が重なり合い、その瞬間、食事が正式に始まった。


「うーん、お母さんの味付け、最高!」


セシルが思わず身体を少し乗り出すようにして、大げさなほどの声で賛辞を送ると、それを受けたエルナもすぐさま満面の笑みで、さらに会話に花を添えるように応じた。


「お父さんの切り方も、ほんとに相変わらず綺麗だよね。ねえ見て、ほらこの野菜、星の形~!」


まるで夜空に瞬く星々を模したかのように、丁寧に整えられた星形の野菜を指差しながら、姉妹は互いの発見に小さな驚きと喜びを交わし合った。


それを向かいから見ていた両親は、微笑ましそうに目を細めながら、まるで宝物を見るようなまなざしで、そんなやり取りを静かに見守っていた。


会話は自然と弾み、食卓には時折笑い声が交じりながら、温かい空気が緩やかに広がっていた。誰もが互いを気遣い、ちょっとした努力や工夫を認め合う——そんな時間こそが、何よりもかけがえのない幸せであり、この家族にとっての“日常”そのものだった。


しかし、その静かな幸福の流れを、不意に破るような音が響いた。


「くしゅん!」


突然の大きなくしゃみに、和やかな笑い声がぴたりと止まり、全員の視線が一斉に音のした方へ向けられた。そこには、口元にそっと手を当て、少し恥ずかしそうに、けれど申し訳なさそうな笑顔を浮かべる母親の姿があった。


「あら、やだ、失礼」


少し照れを含んだその言葉に、エルナが心配そうな眼差しで身を乗り出した。


「お母さん、大丈夫?風邪?」


だが、母はすぐに慌てたように手を振り、気にしないでとばかりに明るく笑い返した。


「平気よ。ちょっと鼻がむずむずしただけで、至って元気だよ」


そうは言うものの、どこか考え込むような表情を浮かべながら、母親は自分の両手をすり合わせるようにして、寒さを紛らわせるような仕草を見せていた。


その様子に気づいたセシルは、持っていたフォークを静かに皿の脇へ置くと、椅子を引いてすっと立ち上がろうとした。


(もしかして、部屋が寒いのかな......よしっ、だったら、上着を持ってきてあげようかな!)


そう思って立ち上がろうとしたその瞬間、セシルの向かいに座っていた父親が同時に椅子を押し引きしながら立ち上がった。


「みんなはそのまま食事を続けててくれ。セシル、君は座ってなさい」


そう言いながら、父親は穏やかな笑顔でセシルの頭を軽く撫でるように押し、再び椅子に座らせた。


「お母さんの上着、どこにあるかわかるの?」とセシルが少し不思議そうに問いかけると、父は愉快そうに笑って首を横に振った。


「ガッハハ、違う違う。きっと、薪が足りなくなってきてるんだ。冷え込みが強くなってきたからな。ちょっと集落まで行って、分けてもらってくるさ」


「そっか、春になってきたとはいえ、まだまだ夜は冷えるもんね......」


セシルは、少しだけ恥ずかしそうに笑いながら、父の優しさに素直に頷いて、再びおとなしく椅子に腰を下ろした。


そんな娘の様子を確認すると、父はテーブルの周囲をぐるりと見回して、皆に向かって軽く手をひらひらと振った。


「それじゃあ、行ってくるな。セシル!俺の分の夕飯、食べるんじゃないぞー?」


「えっ!食べないってば!」


セシルが元気よく返すと、その声に反応するように、家族全員の笑い声が食卓に再び広がった。父はその笑顔を背に、軽やかな足取りで玄関へと向かい、ドアの向こうへと姿を消していった。



◇◇◇



あれから少し時間が経ち、父が薪を取りに行ってからも戻ってくる気配はなく、その間にセシルとエルナは食事を終えてしまっていた。


セシルは少し早めに食べ終え、エルナがその後に最後の一口を口に運び終えた頃、二人はまるで示し合わせたかのように空になった皿を手に取り、椅子を引いて立ち上がった。そのタイミングも、互いの動きも自然で、まるで毎日の繰り返しがそうさせているようだった。


立ち上がりながら、セシルはふと玄関の方へ視線を向け、小さく、しかしぽつりと気になる一言を漏らした。


「お父さん、薪を貰いに行ってるだけなのに、遅いね......。ほんとに、お父さんの分、食べちゃおうかなぁ......」


少し拗ねたような調子だったが、どこか心配の色も滲んでいた。それを聞いたエルナは、くすっと笑いながらも、どこか冗談めかして返した。


「ふふ、それはやめておきなさいよ。帰ってきたら、またあの大げさな泣きマネで『俺の晩ごはーん!』って盛大に騒がれちゃうよ」


姉妹のそんな他愛ない会話が流れる中、エルナは空になった皿を洗うためにキッチンへ向かい、蛇口へ手を伸ばした。そして、何の疑いもなくひねったその瞬間――。


ボタ、ボタボタッ


「――ぎゃぁっ!!」


その声は、普段は冷静なエルナから発せられたとは思えない、鋭く高い悲鳴だった。蛇口から流れ出たのは、水ではなかった。


赤黒く、どろりとした液体が、まるで血と油を混ぜたような重たさで滴り落ちていた。それは水とは比べものにならないほど粘性が高く、鋼の蛇口の下に異様な色を広げていっていった。


驚愕と嫌悪が一気に胸を突き上げ、思わずエルナは手にしていた皿を取り落とし、ガチャン、と甲高く鋭い音がキッチンの静けさを破り、割れた陶器の破片が床に飛び散った。


その異様すぎる光景に、エルナは蛇口に手をかけたまま硬直し、動けなくなっていた。一方で、セシルもその場に釘付けとなり、呆然としながらも蛇口から流れ続ける赤黒い液体に目を奪われていた。


「な......なに、これ......?」


セシルの震えるような声が漏れた、その直後、割れた皿の音を聞きつけたのか、背後から、掃除用のホウキを両手に持った母親が、足音も荒くキッチンへと駆け込んでき、心配そうに目を丸くしながら、娘たちの様子を確認しようと急ぎ足で近づいてきた。


「やだぁ......虫でも出たの?大丈夫?二人とも割れたお皿には触っちゃ――」


そう言いながら、母は反射的に割れた皿をホウキでキッチンの隅へと掃き寄せ、娘たちに怪我がないか確認しようと顔を上げたその瞬間、母の視線も、あの蛇口に向かう。次の瞬間、彼女の表情が、凍りついた。


蛇口から今も流れ続ける赤黒い液体。それを見た母は、まるで誰かに背後から体を押さえつけられたかのように動きを止め、全身から一瞬で血の気が引いたように青ざめていた。


「お母さん...?」


セシルが戸惑いながら母親の顔を見上げると、そこにはまるで何か取り返しのつかないものを目にしたかのように、顔を青ざめさせ、唇をわずかに震わせて立ち尽くす母の姿があり、そして、母はゆっくりと震える唇を開き、かすれた声で言った。


「蛇口の水は......集落の川から来ているのよ......」


その言葉は、凍てつく風のようにセシルとエルナの背筋を一瞬で貫いた。


この村では、遥か上流にある聖域のような場所から流れてくる清らかな川の水を、命の源として、大切に大切に使ってきた。


誰もがその水を誇りに思い、感謝しながら日々の暮らしを支えていた。けれど、今この瞬間、蛇口から滴っているのは、その清水とは程遠い、どす黒く赤みを帯びた――まるで血のような液体だった。


視線の先にある異様な光景が、現実であると理解するには、あまりにも時間がかかりすぎた。そんな中でも、エルナは恐る恐る唇を震わせながら、声を絞り出した。


「ま、まさか......」


「そ、そんなこと......」


二人の言葉はどこか空中に溶けていきそうなほど弱々しく、疑念と恐怖に満ちていた。だが、その確信を否定する術もなく、母は突如、鬼気迫る表情に変わり、手に持っていた箒を床に叩きつけるように投げ捨てると、戸惑う間もなく娘たちの手を強く掴んだ。


「なに突っ立ってるのよ! 二人とも!!」


「わっ、ちょっ...!」


母親の手は尋常ではない力強さで、セシルとエルナの腕を引き寄せると、そのまま無理やり玄関に向かって走り出した。


何が起こっているのか、まだ全てを把握しきれないまま、セシルたちは母に引きずられるようにして家の外へと飛び出した。


そして、外に出た瞬間、彼女たちの目に飛び込んできた光景は、言葉すら失わせるには十分すぎる地獄絵図だった。


「......うそ......なに、あれ......」


村のあちこちから悲鳴や怒号が響き渡り、その合間を縫うように魔獣たちの唸り声が遠くから聞こえてきた。


そして、空には煙が立ち込め、遠くの集落からは紅蓮の炎が夜空を赤黒く染め上げ、火の粉がまるで無数の虫のように舞っていた。


「ぅっ......匂い、が......」


空気には血の匂いが混じり、鼻腔を突くような強烈な臭気が漂っていた。かつて魔獣と戦った経験があり、ある程度の耐性があるエルナでさえ、その匂いに顔を歪め、手で鼻を覆っていた。


セシルはあまりの惨状に言葉を失いながらも、母の顔をもう一度見上げた。だが、家から勢いよく飛び出してきた母も、その現実を前にして完全に動きを止めており、彼女は娘たちの手を掴んだまま、目を見開き、震える足を止めてしまっていた。


「お母さん...お母さん...!」


セシルの震える声が母の耳に届いた瞬間、彼女ははっと目を見開き、心の奥底から湧き上がる恐怖を押し殺すように、再び娘たちの手を強く握りしめた。


「いい?二人とも......ここから、逃げるわよ......」


「えっ、でも、お父さんが...!」


「何言ってるのよ!!こんな状況で、探しに行くなんて――」


母は何かを言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。そして、ギュッと唇を噛み、ほんの一瞬だけ目を閉じると、重く沈んだ表情で俯いた。


そんな母の姿を見て、エルナは何かを悟ったように、セシルに向き直って優しく言葉をかけた。


「ッ......セシル、ここはお母さんの言うことを聞こう。ね?」


セシルは小さく頷き、目の奥に浮かぶ涙を懸命にこらえながら、母とエルナと共に森の方向へと走り出し、炎と悲鳴に包まれた集落を背に、三人は互いの手を固く握りしめ、絶対に離れまいと必死に前へと進んでいった。


背後では魔獣たちの咆哮と、木々が燃える音が絶え間なく続いていた。空気は熱気を帯び、吐く息すら焼けるように感じるほどだった。


「お父さんは......無事だよね......?」


セシルが走りながら呟いたその言葉に、母もエルナも答えなかった。ただ、その手に込められた力だけが、何よりも多くを語っていた。


――そのぬくもりが、いつか失われるものでないように、と願いながら。



◇◇◇



「あそこか。こんな人目から離れた場所で生活していたとはな......」


セシルたちが村とは反対方向に逃げてから数分後、二人の男が彼女たちの家の前に現れ、周囲を観察するようにゆっくりと歩き回っていた。


一人は、まるでこの惨状を喜ぶかのように鼻歌を歌いながら、無邪気な様子で空中を仰ぎ見ており、彼の背中からは、音符でも浮かび上がりそうな軽快な雰囲気が漂っていたが、その表情には明らかに常軌を逸した狂気が宿っていた。


もう一人はというと、村を焼き尽くす炎と、人々の断末魔の叫びをただ黙って見つめ、無言のまま暗い表情を浮かべており、その視線は、隣で楽しげにしている男をどこか冷めた目で見据えていた。


やがて、鼻歌をやめた男は突然、顔をしかめて不機嫌そうに唸ると、低く押し殺した声で吐き捨てるように言った。


「ちっ......やっぱり逃げやがったか。せっかくの器候補が、道中で魔獣にやられでもしたら計画が台無しだろうが......」


苛立ちを隠そうともせずに呟いた男は、黙り込んだまま動かないもう一人の男へと鋭い視線を向け、その鋭さには、命令にも似た強制力が込められていた。


「おい、いつまで黙ってんだ。お前も、この後どう動くべきか、もう分かってるよな? なぁ、クロノス?」


そう呼び掛けた彼はクロノスの顔を下から覗き込み、足元を軽く蹴って注意を促していた。すると、クロノスはゆっくりと顔を上げ、低い声で答えた。


「......ああ、わかっている。すぐにあの二人を......」


だが、その声音には、どこか迷いやためらい、重たく沈んだ感情が滲んでおり、それを聞いた男は、クロノスの曖昧な態度にも気を留める様子を見せないまま、ふっと軽く片手を振り、面倒事を払い落とすかのように背を向けて言い放った。


「はいはい、わかってるなら結構。早く行けよ」


男はそのまま再び炎に包まれた村へと視線を向け、燃え盛る光景をじっと見つめながら、まるで何かを思い出しているかのように一瞬だけ表情に陰りを落とした。


しかし、すぐに小さく首を振り、未練を断ち切るように無理やり口角を引き上げ、作り物めいた笑みを浮かべた。


「さて、今から楽しみだな。あの二人の――器候補による、精霊様実験」

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